弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2010年2月 5日

戦国大名と一揆

著者 池 亨、 出版 吉川弘文館

 越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
 京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
 応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
 山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
 将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
 応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
 代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
 それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
 重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
 各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
 戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
 分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
 中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
 室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
 それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
 なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
 
(2009年8月刊。2600円+税)

2010年1月 7日

描かれた戦国の京都

著者 小島 道裕、 出版 吉川弘文館

 16世紀、室町時代の終わりころの京都とその周辺の景観、風俗を描いた屏風絵が残っています。『洛中洛外国屏風』と呼ばれるものです。この本は、この屏風絵を部分拡大もしながら、そこに描かれている人物を特定しつつ、その情景を解説しています。カラー図版もあり、楽しく学びながら室町・戦国期の京都風景を味わうことができます。
 学者って、本当にすごいですね。よく勉強しています。ほとほと感心します。
 屏風は2つで一双と呼ぶ。左右で1組になる。右隻(うせき)、左隻(させき)と呼ぶ。京都の東側を描くのは右隻で、西側は左隻。そして、この屏風絵は鳥瞰図(ちょうかんず)となっている。市街地を上空から眺めている。
 著者は、相国寺(しょうこくじ)の東に六角七重の巨大な塔が建っていて、その上から見た景色が描かれているとみています。この塔は、高さが109メートルあり、今の京都タワー100メートルより少し高いというのです。すごい塔がそびえ立っていたのですね。信じられません。
 屏風図には、伝統的な四季絵、月次(つきなみ)祭礼国を踏襲して、春夏秋冬がきれいに配分されていて、それが京都の東西南北の方位に合致している。いやあ、大したものです。
 室町時代の幕府、すなわち将軍の御所は、かなり転々としており、代替わりごとに新たな御所を営んでいた。花の御所を作ったのは、三代将軍足利義満である。それまで幕府はほかの場所にあった。その後も、必ずしも花の御所が使われたわけではない。応仁の乱のあと、将軍は逃亡して京都にいないことが多く、京都にいるときも寺院や武家などの屋敷に間借りすることが多かった。
 幕府の門前では、たとえ関白であろうと乗り物に乗ることは許されないという慣行があった。これは将軍の格の高さを示すものである。
 このようなことを手掛かりとして、絵に描かれている人物を特定していくのです。
 古い京都とそのころの日本人の生活の一端を視覚的に知ることのできる本として、面白く読みました。

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくご愛読ください。
 お正月は風もなく晴れ上がって気持ちの良い一日でした。午後から庭に出て球根を植えました。通りかかったお隣さんが、「いいお天気に恵まれましたね。今年はいいことがありそうですね」と声をかけてくれました。本当にそうですね。今年が日本と世界にとっていい年であることを心から願っています。
 大晦日は恒例の除夜の鐘をつきに近くの山寺に出かけました。11時45分から鐘をつき始めます。まだ若いお坊さんから、つく前に注意を受けました。つく前に、まず今年一年の反省をしてください。そして、ついた後に新年の希望を願掛けしてください。なるほど、と思いましたが、どちらもたくさんありますので、とりあえず新年は家内安全、無病息災を願いました。
 不況のせいなのか、例年になく鐘つきに並ぶ人は少なかったのですが、午前0時を過ぎたころ人が次々にやってきました。実は、我が家には韓国から娘の友人である若い女性が泊まりに来ていましたので、一緒に出かけて鐘をついてもらいました。日本は初めての人です。
 
(2009年10月刊。2200円+税)

2009年10月 8日

大飢饉、室町社会を襲う

著者 清水 克行、 出版 吉川弘文館

 室町時代の日本人として現代の私たちにもっともポピュラーなのは一休さん(一休宗純)だろう。一休は実在の人物であり、ドクロの杖を持って正月の京の町をねり歩いたり、森侍者という女性との赤裸々な情交を詩によんだり、破天荒な逸話にこと欠かない人物である。そうなんですか、そこまでは知りませんでした。トンチ話だけかと思っていました。
 一休が大きく悟ったのは応永27年(1420年)のこと。このとき応永の大飢饉が起きていた。室町幕府は4代将軍足利義持の時代である。
 応永の大飢饉は、日本中世史において希有な相対的安定期にいた人々を一気に恐怖のドン底に陥れた衝撃的な大災害だった。餓死者が相次ぎ、田畠は荒廃し、都は難民であふれかえって、行き倒れた人々の死臭が市街に充満していた。
 このころ、「風姿花伝」を書いた世阿弥元清(ぜあみもときよ)も活躍した。
 ムクリコクリ。私も子どものころ聞いた○きす。蒙古(ムクリ)と高句麗(コクリ)のことを指す言葉です。得体の知れない恐ろしいもの、という意味で古くから伝わっていました。鎌倉時代の蒙古襲来の恐ろしさは、室町時代になっても人々の記憶に生々しく生きていました。現に、対馬の倭寇を退治するため朝鮮半島から侵攻があったのでした。
 室町時代、京都の米商人たちは、米価を意図的につり上げるため、道路を封鎖し、お米が京都に入らないようにしていた。そのことを、察知した室町幕府は米商人を逮捕し、その主犯格6人を斬首した。
 いつの世の中にも我が身のことしか考えない悪徳商人というのは存在するものなのですね。
 祈雨奉幣(きうほうへい)、止雨奉幣(しうほうへい)。雨乞い、また、晴天祈願のこと。室町時代の70年間、雨乞いの祈雨奉幣は10件、晴天を祈願する止雨奉幣は11件。
 首陽に赴く、とは餓死すること。京都に向かうという意味ではない。中国の首陽山の故事に由来する言葉である。これも知らないものです。いやはや、世の中には知らないことだらけですね。だからこそ、本を読む楽しみがあります。
 中世の人々は、春に多く死んでいた。秋の稲穂を十分に得られなかった中世の人々は、その後、蓄えを食いつぶしながら何とか翌年まで生き続けるものの、初夏の麦の収穫を待ちきれないで、春になると次々に死んでいった。中世は慢性的飢餓状態にあった。うへーっ、そ、そういうことだったのですか…。
 応永という元号は延々35年にも及んだ。それは、改元する権限を握っていたはずの天皇の地位がかつてないほどまでに低下し、かわりに室町殿が朝廷の政務にテコ入れをするという事態になっていた。そして、どこからも改元が提案されないまま、応永の元号が放置されていた。むむむ、なーるほど、ですね。
 室町幕府は、守護や国人(こくじん)、地元の有力武士といった武家の前では何らの利益の代弁者の顔をしながら、同時に公家や寺社の前では天皇にかわって何らの利益の擁護者として振る舞わなければならないという二面性を持っていた。このジレンマは室町幕府がずっと抱えていた矛盾である。
 室町時代の本質的問題がよく分かる本でした。

  (2008年7月刊。700円+税)

2009年8月24日

知将・毛利元就

著者 池 享、 出版 新日本出版社

 中世の日本社会は自力救済の社会だった。
 この指摘には改めて眼を開かせられる思いでした。なるほど、現代社会と違って、全国に通用する裁判所とか国家警察はなかったわけです。
 中世の社会には、人々の権利を守り、安全を保障する国家=公権力は存在しなかった。国家の大切な役割の一つに、裁判などを通じた紛争の解決があるが、中世は紛争を私的実力により解決する自力救済の社会だった。
 私人間の紛争の場合、民事訴訟で判決が下されても、裁許状と呼ばれる判決文が出されるだけで、その執行は当事者に任されていた。ただ、これは鎌倉時代の話で、南北朝室町時代になると、使節遵行(じゅんぎょう)といって、守護などが判決の執行にあたった。そこで、私戦と呼ばれる実力行使が盛んに行われていた。
 室町幕府は、私戦を取り締まるために「故戦防戦法」という法律を定めた。「故戦」とは、私戦を仕掛けること。「防戦」とは、それに応じることを意味する。
 「喧嘩両成敗」というのは、紛争の解決において私的実力を行使した者は、理由の如何に関わらず死刑に処すというもの。こうやって私戦を禁止し、紛争解決は大名の裁判に委ねさせようとした。こうやって喧嘩両成敗法は社会に受け入れられて、天下の大法として定着していった。
 秀吉は、「惣無事」を打ちだした。「惣無事」とは全面的平和という意味である。秀吉は、「惣無事」の名のもとに大名間の領土紛争に介入し、秀吉の裁定に従うよう命じた。これに応じない者は「征伐」の対象となった。これによって薩摩の島津氏は降伏を余儀なくされ、小田原の北条氏は滅亡に追い込まれた。
中世の一揆の特徴は、参加者が主従のような上下関係ではなく、対等な関係にあること。カラカサ連判状の意味は、そこにもあったのですね……。
 毛利元就は筆マメで、100通以上の自筆書状が残っている。これらの手紙からは、その被害者意識の強さ、執念深さが浮かび上がってくる。他人を信用しない猜疑心の強さが示されている。
 家督の決定が家老たちの合議で決まるというのは、当時、珍しいことではなかった。家臣の意向は無視できなかった。家老たちが家督後継者を決めるときに最大の判断基準としたのは、器量だった。器量とは、才能のこと。それは、地域の平和と秩序を維持する能力だった。
 守護と国人領主との間は、ゆるやかな双務的契約関係だった。だから、状況によって寝返るのは、それほど悪いこととは考えられていなかった。交渉のとき、「現形」(げんぎょう)という、今で言うと裏切りに近い意味の言葉が平気でつかわれていた。
 家来(けらい)と家臣とは少し違う。家臣は従者一般の意味だが、そのなかに家人と家来という区別があった。家人は、主人の家に従属し、主人と命運を共にする存在である。家来は、将軍の御家人のように独自の「家」をもつ自律的存在をさす言葉である。
 元就は、家中統制を目ざし、自律的家臣であった井上衆を誅罰した。時代の流れが、従来の方式での秩序維持を困難にしていたからである。
 このころ、押し買いの禁止というのがあった。押し買いとは、価格交渉の途中で、買い手の側が勝手に安値で買い取ろうとする行為のこと。新聞の「押し紙」を思い出しました。
 戦闘者としての武士身分にとって、合戦の持つ意味は、手柄を立てて恩賞、とりわけ領地を獲得すること。これがないと戦闘意欲が出てこない。この「ごほうび」があるべきところ、上様が怠ったときには、年寄中が上申した。
 毛利元就は、大名領国を作り出した。大名領国を統合することによって(複合国家)、全国統一政権支配が確立した。
 毛利元就が中国地方でのし上がっていく過程を実証的に知ることのできる面白い本でした。
 
(2009年2月刊。2000円+税)

2009年7月15日

真田氏三代

著者 笹本 正治、 出版 ミネルヴァ書房

 戦国時代の武将の中で真田氏は人気ランキング1位になったりするほど、特別な人気がある。
 確かに私も、子どものころに読んだマンガ『真田十勇士』などに影響されてか、真田幸村(ゆきむら)には、とても愛着があります。徳川家康と互角で戦った戦国武将というイメージです。
 この本は、戦国合戦を生き抜いた武将というより、戦国時代を統治者として生き延びた真田氏三代を明らかにしています。
 真田氏は、出自が明らかではない。真田家が飛躍するのは、武田信玄に仕えた真田幸隆の代から。武田信玄と上杉謙信とのあいだの川中島決戦に、真田幸隆は武田軍の重要な武将として参加している。
 武田信玄は父を追放して当主となったが、その嫡男・義信を自刃させた。これって、戦国時代の非情さを示す象徴ですよね。
 武田勝頼にとって真田一族は、もっとも信用に足る家臣であった。武田信玄にとって真田幸隆は使い捨ての駒だったが、使ってみると思ってもみなかった戦功をあげてくれたので、そのまま対上杉謙信戦の最前線に置いた。そして、その都度、幸隆が手柄を立てたので、次第に重用していった。武田信玄は、真田幸隆の子、昌幸そして信昌を人質にとった。
 真田幸隆が亡くなると、その跡を継いだのは嫡男の信綱であったが、信綱は織田信長との長篠の戦いで討死してしまった。このとき、信綱の弟・昌輝も戦死したため、三男の昌幸が家督を継いだ。真田氏三代のうちでもっともよく知られるのが、この昌幸である。
 真田昌幸は使えていた武田家が滅亡するや、主家を滅ぼした織田信長に臣従した。ところが、その後、2か月もたたぬうちに信長は明智光秀に襲われて死亡した。これ以降、真田昌幸は、自分の領地を守ろうとして、周囲にいる北条氏直、徳川家康、上杉景勝、豊臣秀吉という大勢力の中を泳ぎ渡らねばならなくなった。
 やがて、真田信幸は豊臣家譜代として位置づけられた。
 秀吉の死後、関ヶ原合戦に際して、真田昌幸と次男の信繫が石田三成の西軍につき、嫡男の信幸が東軍について、一家で道を分けた。その直前、この父子三人は石田三成の密使を前に去就を話し合い、このように決めた。というのも、真田氏は、家が絶えることの悲惨さを身近に感じていたからである。
 真田昌幸は、宇多氏を媒介として石田三成と深くつながっていた。嫡男の信幸は、家康重臣の本多忠勝の娘を妻としており、家康そして秀忠と密接な関係にあった。
 当時の人々は、家の存続を第一義としていた。その背後に、家と家とのつながり、それを実体化していた女性の役割が大きかった。
 この本で不満が残るのは、関ヶ原の戦いについて、当然に家康の東軍が勝つべくして勝ったと見ており、秀忠軍が真田昌幸を攻略できずに遅れたことは影響を与えなかったとしていること、また、大坂夏の陣のとき、真田信繁が家康の本陣へ突撃して一時は家康を窮地に追い込んだ状況が詳しく描かれていないことなどにあります。とりわけ関ヶ原の戦いについては、家康も内心、秀吉子飼いの武将を信用し切れなかったのではないかという最近の有力説は説得力があると思いますが、この本はその点についてまったく触れるところがありません。残念です。
 大坂夏の陣の戦いについて、薩摩藩の武士が、真田こそ日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と書いたそうです。
真田氏三代の実相をよく知ることのできる本です。
先日受けた仏検(1級)の結果が届きました。ガーン。なんと39点です。ショックです。120点満点で3割しかとれていません。いやはや、どうにもなりません。脳の老化現象のせいでしょうか、単語がポロポロと忘却の彼方へ飛び去っていきます。まあ、でも、なんとか、めげずに、こりずに、これからも毎日毎朝フランス語を聞き続きます。
(2009年5月刊。3000円+税)

2009年4月17日

利休にたずねよ

著者 山本 兼一、 出版 PHP研究所

 さすが直木賞を受賞した作品というだけのことはあります。利休の心の動きが、ことこまかに憎らしいほど描写されています。作家の想像力のすごさに圧倒される思いを抱きながら(実のところ、私のイマジネーションの貧弱さを嘆きつつ)読み進めていったのでした。
 次は、利休の言葉です。
 わしが額(ぬか)づくのは、美しいものだけだ。
 いやはや、この文章を根底において、山あり谷あり、起伏のあるストーリーに仕立て上げる腕前はおみごとというほかありません。
 おのれの美学だけで天下人・秀吉と対峙した男・千利休の鮮烈なる恋、そして死。
これは帯にあるコトバです。
 千利休が秀吉の側に長く使えていたこと、そして、秀吉が死を命じられたことは歴史的な事実です。それを秀吉の心理描写とあわせて、緊張感あふれる場面が次々に繰り広げられていきます。
 そして、茶道の奥深さも実感できるのです。たまにはこんな本を読むのも忙しさを忘れていいものだと思います。
 小説にしては珍しく、巻末に参考文献が明記されています。
 春の庭は色とりどりです。見てるだけで心が浮きうきしてきます。いま咲き始めたのはジャーマンアイリスです。手入れをしてはいけない丈夫な花です。ぬれ縁の先に気品ある薄紫色の花を次々に咲かせます。深い青紫色のアヤメの花も咲いています。こちらは胸をときめかす高貴な花です。妖しげな魅力があり目を惹きつけます。
 庭のフェンスにからまっているのは朱色のクレマチスです。そのうち純白の花も咲いてくれるはずです。
 車庫のそばの地面は鮮やかな朱色の芝桜が覆っています。そして最後に、終わりかけていますがチューリップもまだ健在です。今、黒いチューリップが咲き、フリンジがあったり、変わりチューリップがまだいるよと誇り高く叫んでいます。
 みんな私のブログに写真をアップしているので、見てください。
(2009年3月刊。1800円+税)

2009年2月28日

桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった

著者 藤本 正行、 出版 洋泉社新書y

 桶狭間(おけはざま)というと、谷底のような低地というイメージがあります。しかし、実際には、桶狭間山という丘陵地帯に今川義元は陣を置いていた。そして、信長は、堂々たる正面攻撃で今川軍を打ち破った。
 信長は、遺棄された義元の塗輿を見て、「旗本はこれだぞ、これを攻撃せよ」と命じた。ここまでは最初の攻撃で破った今川軍を追撃するのに夢中で、義元を捕捉できるとは考えてもみなかったはずだ。
 決戦は雨上がりに始まった。信長は空が晴れるのを見て、鑓(やり)を取り、大音声(だいおんじょう)をあげ、「かかれ、かかれ」と命じた。信長の軍勢が黒煙を立ててかかってくるのを見た今川軍は、後ろにどっと崩れた。
 今川軍は、初めは3百騎ばかりが真丸になって義元を囲み、退却を始めたが、信長軍の追撃を受けて、二度三度、四度五度と踏みとどまって戦ったものの、次第しだいに人数を減らし、ついには五十騎ばかりになった。そこで、信長軍の若者(服部小平太)が義元に切りかかり、毛利新介が義元の首をとった。
 以上は『信長公記』による。今川義元の出動は、京都に上洛して天下に号令するためという説があるが、本当は、信長との領国拡張競争で境目の城の取り合いをして衝突したということである。当時の史料で「天下」という言葉は、日本全国ではなく、京都を中心とした畿内近国を意味している。
 著者は、「奇襲」説は明治32年に参謀本部が刊行した『日本戦史・桶狭間役』に、信長の奇襲が大成功したとあることによるものだが、それは、資料にもとづかない創作だとしています。この本は、信長の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』(しんちょうこうき)を良質の史料として、それに全面的に依拠していますが、なるほどと思わせるものがあります。
 豪雨のなか、信長がわずかな手勢で義元の本陣に突入して義元の首を挙げたという通説のイメージは確固たるものがありますが、どうやら戦前の参謀本部に騙されているだけのようです。
(2008年12月刊。760円+税)

2008年7月25日

のぼうの城

著者:和田 竜、出版社:小学館
 非常にユニークな時代小説とオビにかかれています。なるほど、そうでしょうね。戦国時代のお城の攻防戦を描いているのですが、とてもユニークな物語です。そして、それが史実をふまえているというから、余計に面白いわけです。
 ときは戦国時代末期。秀吉の小田原攻めの最中に起きました。信長が本能寺の変で倒れる前、秀吉は毛利軍と戦っている最中でした。そのときとられた作戦は有名な備中高松城の水攻めです。
 秀吉がつくった人工堤は、下底が12間(22メートル)、上底が6間(11メートル)の幅があるという、途方もない分厚さがあるものを、3里半(14キロメートル)という気の遠くなるような長大さをもっていた。
 いやあ、これはすごいですね。北条攻めに動いた秀吉軍は総勢16万騎。そして、石田三成を総大将とする2万の大軍が忍城に向かった。忍城は関東7名城のひとつに数えられていた。忍城にいた成田長親は、周辺の百姓を城に呼びこみ、迎え入れた。
 三成は、籠城は内より崩れることを知っていたので、それを止めなかった。無駄な数の籠城兵は、兵糧を喰い散らす。兵糧が減るにしたがって裏切りの噂が噴出して城内は疑心暗鬼となり、裏切り者とされた者はどんどん粛清されてしまう。やがて籠城方の大将は、この状態では開城やむなし、と城を明け渡す。すなわち、城内に人が多いと、ほころびも増すことになる。
 やがて、忍城には3740人の籠城兵が充満した。ところが、城内には戦闘心旺盛で、士気は衰えなかったのです。
 三成は緒戦で忍城の計略によって負けたので、水攻めに切りかえた。7里(28キロ)の堤をつくることにしたのだ。秀吉の堤の倍である。のべ10万人を5日間、昼夜兼業で働かせる。人夫に対し昼は永楽銭60文、夜は100文。それぞれ米一升をつける。夜だけでも夫婦2人が5日間働くと、家族4人が1年食べられる米が買える。なーるほど。
 三成が人工堤の建設に着手したのは天正18年6月7日。数十万人が人夫として集まった。人工堤は、断面の台形の下底を11間 (20メートル)、上底を4間(7メートル)という厚さとし、高さを5間(9メートル)とした。秀吉のつくった備中高松の人工堤とほぼ同じ大きさ。三成は秀吉をはるかに上まわる長大な人工堤防を短期間のうちに完成させ、あわや忍城は落城寸前。ところが、アリの一穴が始まったのです。
 本を面白さがなくなりますので、これ以上は紹介しませんが、奇策によって忍城は助かってしまうのです。これだけ面白く読ませるのですから、たいしたものです。さすがに大絶賛を浴びた本だけのことはあります。
 三成は意外や意外、敗軍の将となってしまったのでした。
 最後に、「のぼうの城」というのは、「でくのぼう」の「でく」をとった呼び名からきています。「でくのぼう」でありながら、民衆の心をつかんでいた殿様だったというわけです。
(2007年12月刊。1500円+税)

2008年7月 4日

負け組の戦国史

著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
 戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
 著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
 応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
 著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
 足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
 義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
 織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
 信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
 結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
 秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
 戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
 秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
 信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
 この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
 著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
 歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)

2008年3月28日

名将・中山鹿之助

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 私は中山鹿之助を絶対に忘れることができません。というのも、私が大学受験勉強をしているとき、中山鹿之助の言葉を私の机の前に大きく書き出して、それを自分への励みにしていたからです。当時、私は東京へ出たくてしかたがありませんでした。田舎の九州にいて、東京に出たら、きっときっといいことがある。自由の天地があると夢見ていました。ところが、東京は実際に行って住んでみると、まさに人、人、人、人の海なのです。人の波におぼれて沈みこんでしまいそうです。つかみどころのない超巨大な大都会でした。わずかに下町の商店街で安らぎを感じたものです。そして、東京は地震が多くて、いつ大震災に見舞われるかもしれません。丸々10年間、私は東京に住んで、福岡へUターンしてきました。自然を身近に感じ、四季の移り変わりを花や木とともに体感できる生活こそ自分の性にあっていると今では思っています。でも、それは私が年齢(とし)をとったということでもあります。
 江戸時代の豪商として名高い鴻池(こうのいけ)の先祖が山中鹿之助だというのを、この本を読んで初めて知りました。
 戦国の世に無類の英雄・豪傑として名を知られた山中鹿之助幸盛こそ鴻池一門の先祖なのである。その鴻池は毛利家の依頼によって大名貸しをするようになった。
 毛利家こそ、山中鹿之助の主家である尼子(あまこ)の宿敵だった。尼子が毛利家にほろぼされてから、鹿之助は強大な仇敵を相手に生涯、再興戦をいどみ続けたが、ついにむなしく敗れ去った。しかし、その長い復讐戦を通じて、鹿之助の不撓不屈、剛勇無双ぶりはあまねく人々に知れわたった。
 もともと、毛利元就(もとなり)は尼子の武将の一人であった。尼子は周防(すおう)の大内氏と長いあいだ戦っていたが、毛利元就はいつも尼子家の先鋒として奮戦し、功績があった。尼子経久は元就の器量を高く買い、大身の豪族なみに処遇してきたが、経久のあとを継いだ晴久が毛利を侮って強圧的な態度に出た。そこへ大内氏が好条件で元就を誘ったので毛利は寝返った。晴久は憤って毛利征伐に出たが、逆にさんざんな敗北を喫した。これが尼子と毛利の長い戦いのきっかけとなった。毛利は大内氏に代わって強大な勢力として急速に成長し、ついに昔の主家である尼子を脅かす存在となった。
 山中鹿之助は天文14年(1545年)に生まれた。山中家は出雲尼子家の弟の子孫である。願わくは、われに七難八苦を与えたまえ。よくこれを克服して武士として大成すべし。鹿之助はこのように念じた。
 尼子家の再興を願って、僧侶になっていた尼子勝久を捜し出し、還俗させて毛利に戦いを何度も挑む鹿之助です。 
 陣頭に立って指揮する大将は赤糸威(あかいとおどし)の鎧(よろい)、三日月の前立(まえだて)に鹿の角の脇立(わきだて)の兜(かぶと)をかぶった大男。それならば、まごうかたなく山陰山陽に隠れなき、山中鹿之助。
 山中鹿之助に長男が誕生し、遠くの親戚に預けて育ててもらいます。その子が鴻池家をつくり出すことになるわけです。
 何回となく尼子家の再興を目ざし、京都へのぼって織田信長を頼りにします。木下藤吉郎を頼りにし、秀吉が毛利征伐に乗り出すことによって、ようやくその先人として尼子軍は勝機をつかもうとします。ところが、秀吉軍は二正面作戦を余儀なくされ、あえなく尼子軍は見捨てられるのです。
 さすがの山中鹿之助も、ついに降参し、毛利のもとへ連行されます。ところが、その途中、甲部川で背後から切り殺されてしまうのです。
 強大な毛利家を相手に何度も執念深く尼子家の再興を図り、ついに無念のうちに倒れた山中鹿之助の一生を描いた本です。読みごたえがありました。
(2007年11月刊。1800円+税)

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