弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2021年8月21日

戦国佐竹氏研究の最前線


(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社

江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか...。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

2021年6月13日

図解・武器と甲冑


(霧山昴)
著者 樋口 隆晴 、 渡辺 信吾  、 出版 ワン・パブリッシング

この本を読んで、前から疑問だったことの一つが解き明かされました。馬のことです。
日本古来の馬(在来馬)はポニーくらいの小さな馬なので、戦闘用の乗馬に適さないとされてきた。今の競馬場で走るサラブレッドのように馬高が高くないからだ。しかし、今では、それは否定されている。日本在来馬は、疾走時の速力こそ低いが、持久力に富み、その環境にあわせて山地踏破性に優れていた。
そして、日本には蹄鉄(ていてつ)の技術がないため、長距離を走れない、去勢しないので、密集して行動できないとされてきた。しかし、日本在来馬は、蹄(ひづめ)が固いのが特徴で、アジア・ヨーロッパよりも戦場の空間が狭く、長距離を疾走する必要がない。むしろ、どのタイミングで馬に全力疾走させるのかが武士に求められる技量だった。
武士たちは扱いに困難を覚えても、戦闘のために気性の激しい、去勢していない牡馬(オスウマ)を好んでいた。そして敵も味方も、日本の馬しか知らないので、日本の馬が劣っているとは考えていなかった。
日本在来馬は、大陸から輸入した大型馬との交配によって日本馬の体格は向上していた。当時の日本馬は、西洋馬と比較すると頭が大きく、胴長・短足を特徴とした。現代の目からすると小型に思えるが、アジアの草原地帯の馬としては平均的な体格。
成人男性が大鎧(よろい)と武具一式を身につけると、およそ90キログラムにもなる。馬は、それに耐えなければならない。と同時に軍馬として、気性の激しさが求められていた。そうすると、去勢術を知らなかったのではなくて、気性の激しさを求めて去勢しなかったということなんですね...。
この本は、日本古来の戦いから戦国時代までの戦闘場面が図解され、また戦闘服と武器も図示されているので、大変よくイメージがつかめます。
武田(信玄)家には、部隊指揮官として、「一手役人」と呼ばれる役職が存在した。手にもつ武器は長刀(なぎなた)。隊列のうしろで目を光らせ、敵前逃亡者を処罰するのが役目。逃亡者は長刀で切り捨てる。
独ソ戦のとき、スターリンが最前線の軍隊のうしろに、このような部隊を配置していたことは有名です。兵士は前方の敵と戦いつつ、うしろから撃たれないようにもする必要がありました。
日本で使用された火縄銃は、ヨーロッパでは狩猟用、または船載用だった。このため、地上で使用される軍用銃より軽量で、狩猟用なので、命中率に優れていた。そして、この火縄銃には黒色火薬が使われていて、射撃すると、銃口と火辺の双方から大量の白煙が噴き出した。
大変わかりやすく、イラストたっぷりで、とても勉強になる本でした。
(2020年9月刊。税込2420円)

2021年5月31日

城郭考古学の冒険


(霧山昴)
著者 千田 嘉博 、 出版 幻冬舎新書

かつて日本列島には3万もの城があった。北海道にはアイヌの人々が築いたチャシがあり、沖縄には琉球王国のグスクがあった。江戸時代に、城は集約され300城ほどとなり、巨大化した。京都府だけでも1200もの城があった。
「天守閣」というのは近代以降の呼び方であって、正しくは「天守」あるいは「天主」である。「閣」はつけない。
江戸時代に建てた本物の天守が残るのは全国に12だけ。熊本の天守も残念ながら違いますよね...。
織田信長の安土城跡には2回行きました。山城です。天守跡に立ち、なんだか信長になったかのような気分をほんの少しだけ味わうことができました。なるほど、いかにも信長が君臨するにふさわしい城郭構造になっています。
著者は吉野ケ里遺跡の柵と塀の復元は完全に間違っていると厳しく指摘しています。「すき間のない板塀」はありえないというのです。なるほど、と思いました。
姫路城は天守や櫓(やぐら)を白漆喰(しっくい)で覆っているが、これは当時の最高の防災対策だった。
肥前名護屋城跡にも私は2回行きました。すぐ近くに立派な博物館もあり、秀吉の朝鮮出兵の無謀さを実感することもできます。近くに呼子(よぶこ)の美味しいイカ料理店もあり、ぜひまた行きたいところです。
信長の岐阜城にも行ったことがありますが、ここは典型的な山城です。ふもとにも信長の御殿があり、宣教師のルイズ・フロイスはふもとの御殿で信長と面会したあと、翌日、山城の御殿でも信長と面会したと書いています。
山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心とし、人格的な関係を醸成した会所的建物を持っている。
安土城内に天正8年まで信忠や信雄の屋敷がなかったことは、安土城は信長と、信長に仕えた家臣たちの城であって、織田政権全体をまとめる城として、もともと意図していなかったろう...。
安土城は、あくまで信長の城であり、信忠は岐阜城、信雄の田丸城といって、織田政権にとっての要(かなめ)の城だった。
安土城の内覧は、圧倒的な上位者としての権威を見せつける意図があった。
豊臣政権の本拠は、実は大城城ではなく、聚楽第または伏見城だった。大城城は豊臣家の「私」の城だった。
日本の城についての詳しい知見を深めることができました。
(2021年3月刊。税込1034円)

2021年1月17日

戦国のコミュニケーション


(霧山昴)
著者 山田 邦明 、 出版 吉川弘文館

戦国時代の武将たちは、どうやって確かな情報をすばやく伝達していたのかを残された書面から探った本です。
本能寺の変で信長の死を知った秀吉は直ちに「大返し」に取りかかったが、同時に敵方への情報遮断にも成功した。
戦国時代、人の噂の伝わる早さは今考える以上のものがあった。でも、確かな情報を伝える手紙はなかなか届かなかった。そして、手紙には、使者が口頭で詳しく述べると書かれていることも多かった。すると、誰も使者としては派遣するかが重要になる。
ただ、飛脚を使うこともありました。どんな使い分けがされていたのでしょうか...。
自分の出した情報が、いったい相手に通じているのかという不安は、当時はきわめて深刻なものだった。使者が帰るまでに1ヶ月はかかり、飛脚だと、着いたかどうかが確かめられないことも多かった。
戦国時代の文書は、書き手の心情や願望が生き生きと書かれているものが多い。なので、読みとるのは難しいが、内容が理解できたら、なかなか面白い、
戦国時代には、使者や飛脚が敵方に押さえられ、密書が奪いとられることが本当に起きていた。
「申す」というのは、下から上に向かって何かを主張するときが多く、上から下への意思伝達は「仰(おお)す」と表現された。
毛利元就(もとなり)は、三人の息子、隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景に手紙を書いて送った。ところが、送った手紙(書状)原本は元就に返すことになっていたというのです。これには驚きました。
「読んだら早く返せ」と元就は書状に明記していました。それは、他人には決して見せられないようなことも書かれていたからです。つまり、家臣たちの評価も書いてあったようなのです。
書状には日付がないので、内容から書かれた時期を推測するしかありません。
長男隆元が41歳で急死したあと、吉川元春と小早川隆景は若い当主輝元(隆元の子)を支えて毛利両国の保持と拡大につとめた。元就は75歳で亡くなった。
有能な死者は二つのパターンがあった。その一は、足の速い者。その二は、理解力や交渉能力のある者。この両者が使い分けられていた。いずれにしろ、使者をつとめるのは、本人にとってきわめて危険にみちた仕事だった。
信頼できる情報を得ること、もたらされた情報を信じることは、戦国時代にはきわめて困難だった。それは、よく分かります。ところが、ネットの発達した今日では、フェイクニュースとかなりすまし情報に惑わされないことが求められています。情報の入手とその評価が、とても難しいのがよく伝わってくる本でした。
(2020年1月刊。2300円+税)

2021年1月 9日

戦国の図書館


(霧山昴)
著者 新藤 透 、 出版 東京堂出版

日本人は「戦国時代」が大好き。この本に、こう書かれていますが、まったくそのとおりです。映画「七人の侍」も戦国時代の話ですよね。織田信長とか豊臣秀吉、たくさんの武将たちが次々に登場してきますので、大いにロマンがかきたてられます。
ところで、「戦国時代」という言葉が一般に普及したのは明治に入ってからで、「戦国大名」という用語が誕生したのは戦後だというのに驚いてしまいました。江戸時代には「戦国」という言葉は使われておらず、一般的な言い方ではなかった。むひゃあ、そ、そうだったのですか...、恐れ入りました。
足利義政・義尚は、書籍収集をしていて、足利将軍家は蔵書家でもあった。
この本は足利(あしかが)学校について詳しく紹介しています。
足利学校は、室町時代の中期に、関東管領の上杉憲実によって再興された。鎌倉・円覚寺の禅僧が校長となり、生徒には琉球出身の学生もいた。すごいですね。沖縄から、はるばる本土、それも足利まで、噂を聞いてやってきたのでしょうか...。
足利学校では儒学を中心として『易経』に力を入れていた。当時、易学と兵法を学んだ足利学校の卒業生は戦国大名にひっぱりだこだった。易学は、戦国時代の「実学」だった。
足利学校は、自学・自習が中心で、修学年限も決められていなかった。まさしく大学ですね。なので、単なる図書館ではなかったということです。
このころの連歌師は、プロの間者(かんじゃ)ではなかったとしても、それに近いことをしていた。ふむふむ、なるほどですね...。全国を渡り歩いていて、各地の情報をつかんでいたことからのことです。
もともと寺院は僧侶のための教育機関だったが、武士の子弟も受け入れるようになり、室町時代に入ると、民衆の子どもたちの一部も「入学」が許可された。「大学」の受け入れ枠が広がっていったのでした。
戦国時代は、世の中が乱れた時代だったが、それまで京都で独占していた文化が一挙に地方に波及し、そこで独自に進化した画期的な時代だった。
というわけで、戦国時代の実情の一端を知ることのできる本です。
(2020年9月刊。2500円+税)

2021年1月 4日

戦国大名の経済学


(霧山昴)
著者 川戸 貴史 、 出版 講談社現代新書

日本史のなかでも戦国時代というのは、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が出てきますし、その前には武田信玄、上杉謙信、さらには真田幸村などいかにも魅力的な武将たちのオンパレードです。
でも、この手の末尾に、戦国時代と現代との決定的な違いは、当時の人々には戦争がごく身近だったとされています。うひゃあ、そ、そうなんだよね...。だったら、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーで戦国時代に顔を出したくはありません。映画『七人の侍』の世界なんて、まっぴらごめんです。
当時の日本の人口は1500万人ほど。戦国一国あたりの人口は20万人から30万人。
戦争すると、戦闘員が数千人、兵站(へいたん)に関わる非戦闘員を加えると2万人。兵糧を支給すると、1人1日6合の兵糧として、戦闘員2000人として、1日あたり12石の米を要する。1ヶ月だと米360石。現代の価値として1500万円。このほか、鉄砲などの武具を用意しなければならない。昔の戦争だってお金がかかるのですね、当然ですが...。
鉄砲は1挺あたり50~60万円の価値があった。鉄砲使用に必須となる火薬の原料として欠かせない「硝石」を日本は中国から輸入することに成功した。
信長の安土城は、現代の価値として100億円はかけただろう。
戦場では「乱取(らんど)り」があっていた。勝者が人を拉致して売りとばすのだ。売られてしまった人たちは、主人に隷属的な下僕として従属する。下人(げにん。奴隷)だった。
乱取りを上杉謙信自身が容認していた。乱取りは、兵士たちへの報酬だった...。
ワイロは当然というのが、この時代の人々の共通認識だった。当時の人々の認識では、まったく恥ずべき行為などではなく、それどころか見返りをもっとも期待できるものだった。
日本の中世社会は、贈答儀礼がきわめて盛んな時代であり、有力者同士の交流に贈答は欠かせなかった。
やはりいつの時代も、お金、つまり経済抜きの行動はありえないというわけです。
(2020年8月刊。1000円+税)

2020年12月31日

「関ヶ原」の決算書


(霧山昴)
著者 山本 博文 、 出版 新潮新書

この本の結論をまず紹介します。
「関ヶ原」で負けたことで、秀頼は年収1286億円だったのが、一挙にわずかその1割ほどの185億円になってしまった。秀頼の領地としては摂河家74万石のみとなった。そして、全国にあった豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を全部失った。
これに対して、家康のほうは573万石を支配するようになったが、これは日本全土1850万石の3割に相当する。そして、金銀山からの運上金が年に397億円。なので、あわせると毎年1205億円の収入を生む領地と金銀山を家康は得た。
この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが「関ヶ原」の15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年も続いた江戸幕府の重要な経済基盤となった。
まことに経済基盤こそ社会のおおもとを動かす原動力なのですね...。
「関ヶ原」で決戦した東西両軍の戦費も計算されています。
徳川家康としたがった大名の兵力は5万5800人。この軍勢が3ヶ月、90日のあいだ行軍し、戦った。1日5合の割合で計算すると、20億円あまり。これに秀忠軍をあわせると30億円近くになる。西軍のほうは9万3700人なので、そして61日間とすると、23億円弱となる。つまり、わずか3ヶ月間で53億円もの兵糧米が消費されたということ。
島津家が「関ヶ原」でなぜ敵中突破に成功したのか、なぜ薩摩藩を守り抜くことができたのか、かなり詳しく紹介され、分析されています。
関ヶ原のとき、島津義弘は65歳、徳川家康は58歳、そして石田光成は40歳だった。
義弘の率いる軍勢は、わずか1000人足らずでしかなかった。それでも島津の軍勢は「関ヶ原」の敗戦のなかで敵陣の中央突破を図って、なんとか切り抜けることに成功した。それには福島正則の軍隊が島津軍を見逃してくれたことも大きかった。朝鮮出兵のとき、福島正則は島津軍とともに戦った関係にあった。
義弘主従は、最終的に50人ほどになっていた。ただし、別に300人ほどの部隊が京都にたどり着いている。また、島津軍には商人も同行していたという。そして、島津氏の内部では、「関ヶ原」の戦後も強硬派と融和派があって、深刻な対立があった。
結局のところ、家康は島津家との軍事衝突より全国の平和を優先させたということのようです。大変勉強になりました。著者は、惜しくも先日亡くなられました。残念です。
(2020年6月刊。800円+税)

2020年10月21日

撰銭とビタ一文の戦国史


(霧山昴)
著者 高木 久史 、 出版 平凡社

日本史に登場する銭(ぜに)の素材は、金・銀・銅・鉛と、さまざまなものがあった。
朝廷は鉛でできた銭を発行し、中世の民間は純銅の銭をつくり、秀吉政権は金または銀で銭をつくり、江戸幕府は鉄または黄銅(銅と亜鉛の合金)でも銭をつくった。
15世紀の日本では文字やデザインのない無文銭がつくられた。これは、錫が少なく、銅の多い銭は文字がはっきり出にくいことによる。無文銭をつくっていた地域の代表が堺。
足利義満は、20~30万貫文の銭を輸入した。義満が明との勘合貿易に積極的だったのは、内裏(だいり)や義満の邸宅である北山殿(今の金閣)を建設するための財源を調達するためだった。
室町時代を全体としてみると、輸入した銭の量は貨幣に対する人々の需要をみたすほどのものではなかった。
銭が不足したことへの人々の対応策の一つが省陌(せいはく)。これは100枚未満しかない銭を100文の価値があるとみなすこと。このために銭をひもで通してまとめたものを緡銭(さしぜに)という。ただし、これは、中国やベトナムにもあって、日本独自の慣行ではない。
撰銭(えりぜに)とは、人々が特定の銭を受けとることを拒んだり、排除してしまうこと。たとえば、明銭のなかの永楽通宝は品質もそこそこ良いのに人々から嫌われた。
人々は旧銭を好み、新銭は「悪」とみなした。つまり、使い古された貨幣のほうが安心して使えるので、好まれた。
九州の人々は明銭のうち、洪武通宝を好んだが、本州の人々はこれを嫌った。
16世紀には銭そのものを売買する市場が成立し、これを悪銭売買と呼んだ。
銀は、15世紀以前の日本では対馬国を除いてはとれず、中国や朝鮮半島からの輸入に頼った。16世紀に入ると、石見(いわみ)銀山など全国各地に銀山が開発された。信長政権の時代には、銭が不足気味だった。
「ビタ一文も負けない」というときの「ビタ」は、銭のカテゴリーの一つ。やがて、人々はビタを基準銭に使うようになった。「ビタ一文」と言うとき、貨幣の額面が小さいうえ、少額なことを人々がややさげすむ意味をふくんでいる。
秀吉は関東の北条一門を屈服させると、永楽通宝1をビタ3、金1両をビタ2000文とする比価を定めた。秀吉政権は高額貨幣の発行を優先させ、銭政策に消極的だった。秀吉は全国の金山を直轄すると宣言し、国内の銀山で採れた銀で銀貨をつくって大陸出兵の軍費にあてたり、そのことで再びもめた。
碓氷(うすい)峠あたりを境として、西側はビタを、東側は永楽通宝を基準銭とする地域に分かれていた。
寛永通宝はビタのなれの果てだった。
日本中の銭のさまざまなつかい方の一端を知ることができる本です。
(2018年12月刊。1800円+税)

2020年10月 4日

殿、それでは戦国武将のお話をいたしましょう


(霧山昴)
著者 山崎 光夫 、 出版 中央公論新社

戦国時代の武将について貝原益軒が福岡藩第三代藩主の黒田光之に語ってきかせたという体裁で、いろんな武将が紹介されています。
貝原益軒って『養生訓』で有名ですよね。85歳まで長生きした体験にもとづく健康法ですから、現代でも重宝されています。この貝原益軒には、98部247巻に及ぶ膨大な著作集があるといいます。恐れいりますね。江戸時代随一の博識家と評価されているとのこと。
貝原益軒は、和漢の古典を読破し、儒学者として黒田藩に地位を確保して、『黒田家譜』を書き上げるのでした。1年で草稿を書きあげ、7年かけて12巻にまとめ、17年目に17巻本として完成させた。そして、全15巻の『朝野雑載』として、戦国時代の逸話をまとめた。
この本は、この『朝野雑載』をもとに短い読みものとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そのほか戦国時代の名だたる武将が次々登場してきて、読ませます。
そうか、戦国武将を主人公とした小説を書くのなら、この『朝野雑載』は有力な手がかりになるんだな、と思ったことでした。私も知っているような有名なエピソードが大半ではありますが、なかには、えっと驚くものもありました。
福島正則は、関ヶ原の戦いの前に、いち早く家康に味方することを高言して、家康を勝利に導いた。ただし、家康は本当に福島正則が自分のために戦ってくれるのか疑うところがあって、じっと様子をみていた。
関ヶ原の戦いのあと、大坂冬の陣のときには、福島正則は江戸城に留め置かれた。正則の変心を家康が恐れたから。
信長の家臣のうち、とくに優れた四将が俗謡に歌われた。
「木綿・藤吉(とうきち)、米・五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」
木綿は、普段着としてなくてはならないもの。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、信長になくてはならない側近だった。五郎左は丹羽長秀。柴田勝家は、戦闘時に先陣を切ってかかっていく強者(つわもの)。「のき佐久間」は、佐久間信盛。退却戦が上手だった。柴田勝家が秀吉に敗れたのは、本能寺の変を天下取りの好機ととらえる発想がなかったし、軍師もいなかった。
「井伊の赤備(あかぞな)え」というのは有名ですが、それは、武田二十四将の一人である山県昌景の部隊を引き継いだというのを知りました。武田の「赤備え」が「井伊の赤備え」になったのです。
そして、家康の家臣だった石川数正が秀吉の家臣になったのは、実は、家康を裏切ったのではなく、それは表向きのことで、本当は間者(かんじゃ。スパイ)となって大坂方に潜入したという説がある、とのこと。
ええっ、これって本当でしょうか...。私がこれまで読んだ本には、間者説はまったくありませんでした。まあ、世の中には、いろんなことがありますので、その説もあながち間違いだと決められません。
戦国時代の武将をとりまくエピソード満載の本でした。
(2020年5月刊。1700円+税)

2020年9月27日

長篠の戦い


(霧山昴)
著者  金子 拓 、 出版  戎光祥出版

 関ヶ原の戦いは1600年。その25年前の1575年(天正3年)5月に起きた長篠(ながしの)の戦いの実相に迫った本です。
 武田勝頼は戦(いくさ)を知らないバカ殿さまではありませんでした。しかし、織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ、大敗したこと自体は歴史的な事実です。
 鉄砲隊が3千挺の火縄銃を三列に編成し、三交替で射撃(三段撃ち)したから織田・徳川の連合軍が大勝したというのが通説だったわけですが、どうやらそういうことではないようです。ただし、「三段撃ち」が完全に否定されているとは思えません。
 また、武田軍は、騎馬軍団が無謀な突撃を繰り返したというのも史実に反するのではないか...、と指摘されています。ここらあたりの謎解きが、歴史物を読む面白さですよね。
 織田信長は、本願寺攻めを1ヶ月前までしていたし、このあともするつもりだったので、自軍の損害を最小限におさえたいと考えていた。
長篠城は、武田の大軍に包囲されながらも、2週間以上も耐えていた。そして、武田軍が前進したのを見て、織田信長は即座に奇襲作戦を実行した。
長篠の戦いは、日の出から午後2時ころまで続いた。織田・徳川連合軍は、足軽たちを武田軍に向けて前進させ、適当なところで引いて追撃してくるところを鉄砲で撃った。武田軍はぬかるんだ湿地帯だったため、馬による機動性が著しく損なわれていた。つまり、馬で移動しての攻撃に不向きな湿地帯だった。
織田・徳川連合軍による馬防柵も、鉄砲をつかった戦い方も、奇襲作戦も、ことごとく信長の防禦的姿勢によるものだった。そして、この防禦的姿勢に流し、それを前提とした状況判断が織田信長に勝利をもたらした。なーるほど、と思いました。
たくさんの写真や図版があり、視覚的イメージがつかめる100頁あまりの歴史小冊子です。
(2020年1月刊。1500円+税)

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