弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2022年5月21日

信長家臣・明智光秀


(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 平凡社新書

明智光秀がなぜ突如として信長を本能寺に攻め滅ぼしたのか...。いろんな説があります。この本の著者は、信長の四国政策の転換、そして信長による光秀の殴打などを原因としています。いずれも別に目新しいものではありません。
四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏の処遇は、たしかに光秀にとって大問題だったと思います。長宗我部は光秀の媒介によって、四国全体を制圧しようとしていた。ところが、信長は急に阿波の南半分の土佐のみに限定すると言いだした。これでは、光秀の面目は丸つぶれ。
光秀が信長から殴打されたというのは、いつ、どこで、何か原因だったか、いろいろあるのです。著者は、諸大名(有力武将)の面前での殴打だったので、光秀の心が大いに傷ついて、それが叛逆に走らせたことはありうるとしています。まあ、たしかにありうることですよね。
本能寺で信長が死んで、その遺体(遺骨)が見つかっていないことはよく知られていますが、この本は、信長の「死に方」を次のように紹介しています。
畳2帖を山形に立てて、その中にもぐって、「さい」という女房がもっていた「蝋燭」(ろうそく)を取りあげて火をつけて焼け死んだというのです。
畳2枚によって完全燃焼したため光秀たちは信長の遺骨を探し出せなかったということになります。これまた、ありうるかな、と思いました。
熊本藩の支藩である宇土藩の初代藩主・細川行孝の命令で、その生前に成立していたとみられる「宇土家譜」に書かれている説です。細川家は、光秀の娘(玉・ガラシャ)が嫁入りした先ですので、光秀について詳しく語られて不思議はないのです。
日本史のミステリーに一歩近づいた気になりました。
(2019年10月刊。税込924円)

2022年1月22日

駆ける


(霧山昴)
著者 稲田 幸久 、 出版 角川春樹事務所

これが新人作家のデビュー作とは...、とても信じられません。ぐいぐい読ませます。
少年騎馬遊撃隊というのがサブタイトルです。舞台は戦国時代。毛利軍と尼子軍との合戦(かっせん)が見事に活写されています。
少年騎馬遊撃隊というから、全員が少年から成るかというと、そうでもありません。馬を扱う能力に長(た)けている少年が毛利軍に引きとられ、そのなかで活躍し、騎馬隊が活躍し、ついに尼子軍を背後の山中から駆け降りて攻撃して打ち倒すというストーリーなのです(すみません、ネタバレでした...)。
毛利軍の大将は毛利輝元。そして、前線では吉川(きっかわ)元春と元長が戦う。そして、尼子軍には山中幸盛と横道政光。山中幸盛とは、かの有名な山中鹿之助のことです。
私は大学受験するとき、机に山中鹿之助の言葉を書き出して、自分への励みにしていました。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉です。ある意味で、山中鹿之助に助けられて今の私があるとさえ思っているほど、感謝しています。
吉川元春の嫡男(ちゃくなん)が吉川元長(23歳)。馬を扱う少年とは小六(ころく)のこと。百姓の子どもで、まだ14歳だ。
永禄9年の月山(がっさん)富田城攻めで、毛利は尼子を降伏させた。出雲は、中国11国を支配した名門尼子家の本拠地。いま、月山富田城には毛利方の兵がたてこもっている。そこを尼子軍が取り囲み、毛利軍を四方八方から攻め入る作戦だ。尼子軍は近くの布部(ふべ)に陣を敷き、毛利軍をおびき寄せて圧勝するつもりでいた。
出雲は尼子の地。三代前の尼子経久の時代から、民と共に出雲を築きあげてきた。
月山富山城に行くためには、まず、布部山を頂上まで登り、尾根伝いに行かねばならない。いわば月山富田城にいる仲間を見殺しにしないために必死だった。
馬と少年の意思疎通、そして戦場での兵士同士、また兵士たちとの約束をたがえるわけにはいかない。その思いがかなうのか...。すごい新人デビュー作でした。
(2021年11月刊。税込1980円)

2021年10月30日

信長徹底解読


(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信

信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか...。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね...。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません...。
(2020年7月刊。税込2970円)

2021年8月21日

戦国佐竹氏研究の最前線


(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社

江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか...。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

2021年6月13日

図解・武器と甲冑


(霧山昴)
著者 樋口 隆晴 、 渡辺 信吾  、 出版 ワン・パブリッシング

この本を読んで、前から疑問だったことの一つが解き明かされました。馬のことです。
日本古来の馬(在来馬)はポニーくらいの小さな馬なので、戦闘用の乗馬に適さないとされてきた。今の競馬場で走るサラブレッドのように馬高が高くないからだ。しかし、今では、それは否定されている。日本在来馬は、疾走時の速力こそ低いが、持久力に富み、その環境にあわせて山地踏破性に優れていた。
そして、日本には蹄鉄(ていてつ)の技術がないため、長距離を走れない、去勢しないので、密集して行動できないとされてきた。しかし、日本在来馬は、蹄(ひづめ)が固いのが特徴で、アジア・ヨーロッパよりも戦場の空間が狭く、長距離を疾走する必要がない。むしろ、どのタイミングで馬に全力疾走させるのかが武士に求められる技量だった。
武士たちは扱いに困難を覚えても、戦闘のために気性の激しい、去勢していない牡馬(オスウマ)を好んでいた。そして敵も味方も、日本の馬しか知らないので、日本の馬が劣っているとは考えていなかった。
日本在来馬は、大陸から輸入した大型馬との交配によって日本馬の体格は向上していた。当時の日本馬は、西洋馬と比較すると頭が大きく、胴長・短足を特徴とした。現代の目からすると小型に思えるが、アジアの草原地帯の馬としては平均的な体格。
成人男性が大鎧(よろい)と武具一式を身につけると、およそ90キログラムにもなる。馬は、それに耐えなければならない。と同時に軍馬として、気性の激しさが求められていた。そうすると、去勢術を知らなかったのではなくて、気性の激しさを求めて去勢しなかったということなんですね...。
この本は、日本古来の戦いから戦国時代までの戦闘場面が図解され、また戦闘服と武器も図示されているので、大変よくイメージがつかめます。
武田(信玄)家には、部隊指揮官として、「一手役人」と呼ばれる役職が存在した。手にもつ武器は長刀(なぎなた)。隊列のうしろで目を光らせ、敵前逃亡者を処罰するのが役目。逃亡者は長刀で切り捨てる。
独ソ戦のとき、スターリンが最前線の軍隊のうしろに、このような部隊を配置していたことは有名です。兵士は前方の敵と戦いつつ、うしろから撃たれないようにもする必要がありました。
日本で使用された火縄銃は、ヨーロッパでは狩猟用、または船載用だった。このため、地上で使用される軍用銃より軽量で、狩猟用なので、命中率に優れていた。そして、この火縄銃には黒色火薬が使われていて、射撃すると、銃口と火辺の双方から大量の白煙が噴き出した。
大変わかりやすく、イラストたっぷりで、とても勉強になる本でした。
(2020年9月刊。税込2420円)

2021年5月31日

城郭考古学の冒険


(霧山昴)
著者 千田 嘉博 、 出版 幻冬舎新書

かつて日本列島には3万もの城があった。北海道にはアイヌの人々が築いたチャシがあり、沖縄には琉球王国のグスクがあった。江戸時代に、城は集約され300城ほどとなり、巨大化した。京都府だけでも1200もの城があった。
「天守閣」というのは近代以降の呼び方であって、正しくは「天守」あるいは「天主」である。「閣」はつけない。
江戸時代に建てた本物の天守が残るのは全国に12だけ。熊本の天守も残念ながら違いますよね...。
織田信長の安土城跡には2回行きました。山城です。天守跡に立ち、なんだか信長になったかのような気分をほんの少しだけ味わうことができました。なるほど、いかにも信長が君臨するにふさわしい城郭構造になっています。
著者は吉野ケ里遺跡の柵と塀の復元は完全に間違っていると厳しく指摘しています。「すき間のない板塀」はありえないというのです。なるほど、と思いました。
姫路城は天守や櫓(やぐら)を白漆喰(しっくい)で覆っているが、これは当時の最高の防災対策だった。
肥前名護屋城跡にも私は2回行きました。すぐ近くに立派な博物館もあり、秀吉の朝鮮出兵の無謀さを実感することもできます。近くに呼子(よぶこ)の美味しいイカ料理店もあり、ぜひまた行きたいところです。
信長の岐阜城にも行ったことがありますが、ここは典型的な山城です。ふもとにも信長の御殿があり、宣教師のルイズ・フロイスはふもとの御殿で信長と面会したあと、翌日、山城の御殿でも信長と面会したと書いています。
山城の御殿は、信長と家族が日常的に居住した常御殿としての機能を中心とし、人格的な関係を醸成した会所的建物を持っている。
安土城内に天正8年まで信忠や信雄の屋敷がなかったことは、安土城は信長と、信長に仕えた家臣たちの城であって、織田政権全体をまとめる城として、もともと意図していなかったろう...。
安土城は、あくまで信長の城であり、信忠は岐阜城、信雄の田丸城といって、織田政権にとっての要(かなめ)の城だった。
安土城の内覧は、圧倒的な上位者としての権威を見せつける意図があった。
豊臣政権の本拠は、実は大城城ではなく、聚楽第または伏見城だった。大城城は豊臣家の「私」の城だった。
日本の城についての詳しい知見を深めることができました。
(2021年3月刊。税込1034円)

2021年1月17日

戦国のコミュニケーション


(霧山昴)
著者 山田 邦明 、 出版 吉川弘文館

戦国時代の武将たちは、どうやって確かな情報をすばやく伝達していたのかを残された書面から探った本です。
本能寺の変で信長の死を知った秀吉は直ちに「大返し」に取りかかったが、同時に敵方への情報遮断にも成功した。
戦国時代、人の噂の伝わる早さは今考える以上のものがあった。でも、確かな情報を伝える手紙はなかなか届かなかった。そして、手紙には、使者が口頭で詳しく述べると書かれていることも多かった。すると、誰も使者としては派遣するかが重要になる。
ただ、飛脚を使うこともありました。どんな使い分けがされていたのでしょうか...。
自分の出した情報が、いったい相手に通じているのかという不安は、当時はきわめて深刻なものだった。使者が帰るまでに1ヶ月はかかり、飛脚だと、着いたかどうかが確かめられないことも多かった。
戦国時代の文書は、書き手の心情や願望が生き生きと書かれているものが多い。なので、読みとるのは難しいが、内容が理解できたら、なかなか面白い、
戦国時代には、使者や飛脚が敵方に押さえられ、密書が奪いとられることが本当に起きていた。
「申す」というのは、下から上に向かって何かを主張するときが多く、上から下への意思伝達は「仰(おお)す」と表現された。
毛利元就(もとなり)は、三人の息子、隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景に手紙を書いて送った。ところが、送った手紙(書状)原本は元就に返すことになっていたというのです。これには驚きました。
「読んだら早く返せ」と元就は書状に明記していました。それは、他人には決して見せられないようなことも書かれていたからです。つまり、家臣たちの評価も書いてあったようなのです。
書状には日付がないので、内容から書かれた時期を推測するしかありません。
長男隆元が41歳で急死したあと、吉川元春と小早川隆景は若い当主輝元(隆元の子)を支えて毛利両国の保持と拡大につとめた。元就は75歳で亡くなった。
有能な死者は二つのパターンがあった。その一は、足の速い者。その二は、理解力や交渉能力のある者。この両者が使い分けられていた。いずれにしろ、使者をつとめるのは、本人にとってきわめて危険にみちた仕事だった。
信頼できる情報を得ること、もたらされた情報を信じることは、戦国時代にはきわめて困難だった。それは、よく分かります。ところが、ネットの発達した今日では、フェイクニュースとかなりすまし情報に惑わされないことが求められています。情報の入手とその評価が、とても難しいのがよく伝わってくる本でした。
(2020年1月刊。2300円+税)

2021年1月 9日

戦国の図書館


(霧山昴)
著者 新藤 透 、 出版 東京堂出版

日本人は「戦国時代」が大好き。この本に、こう書かれていますが、まったくそのとおりです。映画「七人の侍」も戦国時代の話ですよね。織田信長とか豊臣秀吉、たくさんの武将たちが次々に登場してきますので、大いにロマンがかきたてられます。
ところで、「戦国時代」という言葉が一般に普及したのは明治に入ってからで、「戦国大名」という用語が誕生したのは戦後だというのに驚いてしまいました。江戸時代には「戦国」という言葉は使われておらず、一般的な言い方ではなかった。むひゃあ、そ、そうだったのですか...、恐れ入りました。
足利義政・義尚は、書籍収集をしていて、足利将軍家は蔵書家でもあった。
この本は足利(あしかが)学校について詳しく紹介しています。
足利学校は、室町時代の中期に、関東管領の上杉憲実によって再興された。鎌倉・円覚寺の禅僧が校長となり、生徒には琉球出身の学生もいた。すごいですね。沖縄から、はるばる本土、それも足利まで、噂を聞いてやってきたのでしょうか...。
足利学校では儒学を中心として『易経』に力を入れていた。当時、易学と兵法を学んだ足利学校の卒業生は戦国大名にひっぱりだこだった。易学は、戦国時代の「実学」だった。
足利学校は、自学・自習が中心で、修学年限も決められていなかった。まさしく大学ですね。なので、単なる図書館ではなかったということです。
このころの連歌師は、プロの間者(かんじゃ)ではなかったとしても、それに近いことをしていた。ふむふむ、なるほどですね...。全国を渡り歩いていて、各地の情報をつかんでいたことからのことです。
もともと寺院は僧侶のための教育機関だったが、武士の子弟も受け入れるようになり、室町時代に入ると、民衆の子どもたちの一部も「入学」が許可された。「大学」の受け入れ枠が広がっていったのでした。
戦国時代は、世の中が乱れた時代だったが、それまで京都で独占していた文化が一挙に地方に波及し、そこで独自に進化した画期的な時代だった。
というわけで、戦国時代の実情の一端を知ることのできる本です。
(2020年9月刊。2500円+税)

2021年1月 4日

戦国大名の経済学


(霧山昴)
著者 川戸 貴史 、 出版 講談社現代新書

日本史のなかでも戦国時代というのは、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が出てきますし、その前には武田信玄、上杉謙信、さらには真田幸村などいかにも魅力的な武将たちのオンパレードです。
でも、この手の末尾に、戦国時代と現代との決定的な違いは、当時の人々には戦争がごく身近だったとされています。うひゃあ、そ、そうなんだよね...。だったら、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーで戦国時代に顔を出したくはありません。映画『七人の侍』の世界なんて、まっぴらごめんです。
当時の日本の人口は1500万人ほど。戦国一国あたりの人口は20万人から30万人。
戦争すると、戦闘員が数千人、兵站(へいたん)に関わる非戦闘員を加えると2万人。兵糧を支給すると、1人1日6合の兵糧として、戦闘員2000人として、1日あたり12石の米を要する。1ヶ月だと米360石。現代の価値として1500万円。このほか、鉄砲などの武具を用意しなければならない。昔の戦争だってお金がかかるのですね、当然ですが...。
鉄砲は1挺あたり50~60万円の価値があった。鉄砲使用に必須となる火薬の原料として欠かせない「硝石」を日本は中国から輸入することに成功した。
信長の安土城は、現代の価値として100億円はかけただろう。
戦場では「乱取(らんど)り」があっていた。勝者が人を拉致して売りとばすのだ。売られてしまった人たちは、主人に隷属的な下僕として従属する。下人(げにん。奴隷)だった。
乱取りを上杉謙信自身が容認していた。乱取りは、兵士たちへの報酬だった...。
ワイロは当然というのが、この時代の人々の共通認識だった。当時の人々の認識では、まったく恥ずべき行為などではなく、それどころか見返りをもっとも期待できるものだった。
日本の中世社会は、贈答儀礼がきわめて盛んな時代であり、有力者同士の交流に贈答は欠かせなかった。
やはりいつの時代も、お金、つまり経済抜きの行動はありえないというわけです。
(2020年8月刊。1000円+税)

2020年12月31日

「関ヶ原」の決算書


(霧山昴)
著者 山本 博文 、 出版 新潮新書

この本の結論をまず紹介します。
「関ヶ原」で負けたことで、秀頼は年収1286億円だったのが、一挙にわずかその1割ほどの185億円になってしまった。秀頼の領地としては摂河家74万石のみとなった。そして、全国にあった豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を全部失った。
これに対して、家康のほうは573万石を支配するようになったが、これは日本全土1850万石の3割に相当する。そして、金銀山からの運上金が年に397億円。なので、あわせると毎年1205億円の収入を生む領地と金銀山を家康は得た。
この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが「関ヶ原」の15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年も続いた江戸幕府の重要な経済基盤となった。
まことに経済基盤こそ社会のおおもとを動かす原動力なのですね...。
「関ヶ原」で決戦した東西両軍の戦費も計算されています。
徳川家康としたがった大名の兵力は5万5800人。この軍勢が3ヶ月、90日のあいだ行軍し、戦った。1日5合の割合で計算すると、20億円あまり。これに秀忠軍をあわせると30億円近くになる。西軍のほうは9万3700人なので、そして61日間とすると、23億円弱となる。つまり、わずか3ヶ月間で53億円もの兵糧米が消費されたということ。
島津家が「関ヶ原」でなぜ敵中突破に成功したのか、なぜ薩摩藩を守り抜くことができたのか、かなり詳しく紹介され、分析されています。
関ヶ原のとき、島津義弘は65歳、徳川家康は58歳、そして石田光成は40歳だった。
義弘の率いる軍勢は、わずか1000人足らずでしかなかった。それでも島津の軍勢は「関ヶ原」の敗戦のなかで敵陣の中央突破を図って、なんとか切り抜けることに成功した。それには福島正則の軍隊が島津軍を見逃してくれたことも大きかった。朝鮮出兵のとき、福島正則は島津軍とともに戦った関係にあった。
義弘主従は、最終的に50人ほどになっていた。ただし、別に300人ほどの部隊が京都にたどり着いている。また、島津軍には商人も同行していたという。そして、島津氏の内部では、「関ヶ原」の戦後も強硬派と融和派があって、深刻な対立があった。
結局のところ、家康は島津家との軍事衝突より全国の平和を優先させたということのようです。大変勉強になりました。著者は、惜しくも先日亡くなられました。残念です。
(2020年6月刊。800円+税)

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