弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2020年2月12日

ギブミー・チョコレート


(霧山昴)
著者 飯島 敏宏 、 出版  角川書店

「少国民」と呼ばれていた東京は下町の子どもたちの毎日が書きつづられています。まさしく悪ガキたちなのですが、決して憎めません。
そして、学校教育の恐ろしさを読者は追体験していくことになります。
1941年(昭和16年)4月、尋常小学校が国民学校という名称に変わった。そして、文部省制定の国民学校指導要領は、「皇国の道にのっとりて・・・国民の基礎的錬成をなすを以て目的とす」になった。それまでは「皇国の道」ののっとってというのではなく、あくまで「児童の身体の発達に留意して」国民教育の基礎と生活に必要な知識技術を授くることを目的としていたのが一変したのです。
全国の公立国民学校で使われる教科書は文部省が制定したものに一本化された。
日本中の子どもたち全部を皇国に尽くす国民として育てられることになった。
小学校3年生の著者たちの新しい担任は中国で戦闘行為も体験してきた元兵士の教員で、拳骨、総員びんた、木刀の峰打ち、など徹底して軍隊式で鍛え上げられていった。そして、子どもたちはたちまち順応して兵士に憧れ、海軍兵学校(海兵)に志願するのです。
日本軍が敗退していくなかで、初めて東京はB29による空襲を受けます。
1944年3月10日夜。初めて、アメリカ軍の超大型爆撃機B29という怪物を見た。超低空で、ゆっくりと翼があらわれると、もう街を覆い尽くすほどの大怪鳥だった。
この巨大な金属製の大鷲みたいな爆撃機は、人間の気配をまったく感じさせない。遠い空には、提灯行列のように、小さな、無数の光が、害もなく流れていくのが見える。のどがからからに干上がるのもかまさず、口をあけたまま凝視していた。
3月10日、アメリカ軍のB29が300機で東京を空襲した。わずか2時間半の爆撃で大日本帝国の帝都・東京の23万戸、12万人を焼却処理した。
ところが、8月15日に戦争が終わったとたん、日本中が、それこそ一億一心、食べ物探しに出歩いた。そして、町でアメリカ兵に出会い、板チョコをもらって喜ぶのでした。15歳のことです。
著者の大の親友だったチュウがクラスのなかでただ一人、空襲で亡くなったのでした。それは文部省思想局による少国民教育の成果として、早期消火活動に取り組んでいたので焼死したのです。にもかかわらず、生き残った教師は、それを「逃げ遅れた」などと言ってのけた。冗談じゃない・・・。
戦時下の「少国民」教育の恐ろしさを今になってしみじみ振り返った本です。でも、振り返ることのできなかった大勢の若者たちがいたことを忘れてはいけない。改めて、そう強く思ったことでした。
正月休みの昼食をはさんで読みふけりました。トランプ大統領がイランの軍事司令官の暗殺を命じたニュースに身体がゾクゾクする思いでした。戦争はこうやって始まるのですよね。
「ウルトラマン」の監督による、かぎりなく事実に近いフィクションとして読み通した本です。
(2019年8月刊。1800円+税)

2020年1月30日

昭和とわたし


(霧山昴)
著者 澤地 久枝 、 出版  文春新書

「九条を守れ」のプラカードを手にして毎週、国会前に立つ著者は1930年(昭和5年)秋、東京青山で生まれました。そして、戦前・戦中を旧満州で軍国少女として生きていたことを知りました。
戦後、なんとか日本に帰国して夜間学生として5年、編集者生活の9年、助手生活10年。
そして1927年に『妻たちの二・二六事件』で作家としてデビューしたのです。
私が著者の本を読んだのは、竹橋事件を扱った『火はわが胸中にあり』が最初でした。西南戦争に従軍した近衛砲兵たちが翌明治11年8月に処遇不満から叛乱を起こし、皇居に向かって決起した事件です。53人もの兵士たちが銃殺刑に処せられた大事件で、明治民権運動の影響があったことまで堀り下げられていて、私の心を強く打ちました。
著者は、かの有名なミッドウェー海戦における日米の戦死者数を4回もアメリカに行って確認しています。日本側は3057人であるのに対し、アメリカ側は1桁すくない362人でした。
満州国に少女時代に行って過ごし、植民地の実態を体験します。「五族協和」とか「王道楽土」とかいっても、日本人には米と砂糖の配給が確実にあっても、中国人には砂糖の配給はなかった。そして、住む場所と建物に一目瞭然の違い(差別)があった。
人間狩りで連行されてきた中国人労働者は「特殊工人」と呼ばれ、人間以下の消耗品として扱われた。
徴兵されたら、残された一家にとって、もっとも肝心な働き手が無条件で連れ去られていくことになる。著者は終戦(敗戦)のとき、14歳そして15歳。マンドリン銃をもったソ連兵が自宅に押しかけてきて危い目にもあった。
「君が代」の歌を聞くと、「聖戦完遂」を信じた14歳までの自分の姿がみじめに思い出される。どんなに無知で、大勢迎合のおろかな人間だったか・・・。
満州にいた敗戦国の日本の人々の連行を日本政府がいささかも顧慮した形跡はまったくない。満蒙開拓団の多くの死は、当然予想されるべきであったのに・・・。ところが、日本では、むしろ「在外居留民はなるべく残留すべし」だと政府は考えていた。見捨てようとしたのだ。そして、日本に帰ってきたとき言われたのは・・・。
「満州くんだりから引き揚げて来やがって、おまえたち、人間の皮を着たけだものだ・・・」
もちろん著者は鉄砲一発うっているわけではないが、あの戦争の時代にまったく無関係とはいえない。そのことの責任を死ぬまで背負うつもりでいる。
そして、騎手であったただ一人の人物は、昭和天皇だ。その責任を問わなくては、戦争責任に総体を問うことはできない。苛酷な戦争体験に発する、これらの言葉の重みに私も圧倒される思いです。
自分史を書くなら、きちんと裏付けをとって書くべきだと著者は強調しています。全く同感です。思い出すままに流されるように書き、文章に歌わせて読ませる自分史は、長いいのちを持たない。初歩的な確認作業すらやらずに書いたものは背骨が軟弱で、残念ながら証言性に乏しい。
井上ひさしのすごいところは、調べに調べ、人の心に響く作品を書き続けたこと。あとに続く者のあるのを信じて走れ、と言った。
全人生とひきかえにしてもいいような男女関係など、ほんとうは存在しないのではないか。こわれるものはこわれ、分かれるべき状況がやってきたときには避けることができない。その程度の頼りない絆で結ばれているのが、男と女なのではないか・・・。これは弁護士生活46年目に入った私の実感にぴったりする言葉です。
澤地久枝とはいかなる人間、そして女性なのかを駆け足で知ることのできる貴重な新書です。
(2019年9月刊。800円+税)

2020年1月28日

原爆を見た少年(上)


(霧山昴)
著者 後藤 勝彌 、 出版  講談社

原爆を見た少年というタイトルですから、広島か長崎に生きる少年の話かと思うと、そうでもなく、キリスト教に殉教した江戸初期の26聖人の一人(トマス小崎)が登場したり、雲仙・島原そして原城、ローマへの遣欧少年使節団の話になったり、時空を超越して話は展開していきます。さらに、脳神経外科の専門医である著者の得意とする脳卒中専門病院における手術の模様までも詳細に紹介されます。異色の小説だと思いながら読みすすめていきました。
出だしは脳血管内治療の場面です。
主役の一人は火男(ひおとこ)。「ひょっとこ」ではありません。火男は脳血管手術をしてヒカルを助けた命の恩人の医師。
もう一人の主役はヒカル。脳出血を起こして瀕死の状態になったとき、光輝く存在を見たことから、ヒカルというあだなをつけられたのです。この二人の問答、そして道中(旅行)として物語は展開します。
京都でとらえられ、長崎で処刑された26人のキリシタンのなかには、11歳から14歳の3人の少年がいた。そのひとりがトマス小崎。彼らは見せしめのため耳を削(そ)がれて、大坂の町を引きまわされたあと、長崎まで1000キロの冬の道を裸足(はだし)で歩かされた。
そのトマス小崎は母親に宛てて別れの手紙を書いたが、一緒に磔(はりつけ)にされた父親の着物の襟に縫いつけられていた。
原爆の起爆装置が起動してからの10秒間に何が起きたか・・・。
炸裂(さくれつ)するまでの100万分の1秒のあいだに発生した膨大な中性子は、次の核分裂を引き起こしただけでなく、あらゆるものを突き抜け、あらゆる物質の原子核にぶつかって、新たな放射線を生み出していった。
爆心地にいた人々の被曝線量は中性子とガンマ線をあわせると60グレイと推定されている。この放射線の破壊力は、仮に50グレイの放射線を手のひらにあてられたら穴が開くという、とてつもないものだ。このような中性子やガンマ線による被曝が1週間も続いた。
被爆者の死亡の20~30%は、つづいて出現した火球の熱による「閃光(せんこう)やけど」によるもの。2キロ以内の野外にいたら生き残れる可能性はなかった。火球によって加熱された空気が膨張するとき、まわりの空気がいっきに押し出され、すさまじい衝撃波が生じる。そのスピードは音速より速い。この衝撃波は地面に衝突して、さらに圧力を倍加させる。さらに、火災が発生した地域に向かって市の周辺から吹きこんでくる風によって、20分後に火事嵐が生じた。この強風にあおられて町は燃え尽きた。
どうでしょうか、この状況では核シェルターで身を守ることなんて出来るはずがありません。30年以上も前にアメリカに行ったとき、家庭用核シェルターがつくられ、売られていました。
核戦争になったら地球は破滅します。核が抑止力なんて、とんでもなく間違った考えです。地球上で人類が生存するには、核兵器の全廃こそ必要なのです。核兵器禁止条約に背を向けたままの安倍政権は私たちの生存を脅かす存在だというほかありません。
上巻の最後は原城跡です。私も先日、行きました。ここで3万人もの人々が籠城して戦っていたというのが信じられないほど、のどかでおだやかな地です。そんな平和を守り続けたいものです。このコーナーを愛読しているという著者から本を贈呈していただきました。ありがとうございました。
(2019年8月刊。1900円+税)

2020年1月21日

天皇と軍隊の近代史


(霧山昴)
著者 加藤 陽子 、 出版  勁草書房

鋭い指摘があちこちにあって、はっとする思いにかられながら読みすすめていきました。
過去を忘れないことや、前兆に気づくことによってだけでは、戦争の本質をつかまえるのは難しいのはないか・・・。
うーん、そうなのでしょうか。だったら何が必要なのでしょうか。
痛苦や惨禍を十分に予想したとしても、「割にあわない賭け事」に自ら国民が飛び込んでいくこともある。
ふむふむ、なるほど、戦前の日本はそうだったのでは・・・。いや、今も世界各国で、同じことが起きているのではないでしょうか・・・。
1873年(明治6年)10月の征韓論争の肝は、朝鮮側の非を問う動きとは別に、その裏面で鹿児島の西郷隆盛、高知の板垣退助、これに佐賀が加わって、士族中心の兵制樹立構想が進められていた点にある。つまり、徴兵制に依拠する陸軍省にではなく、正院に兵力集中を図ろうとする構想があった。鹿児島、佐賀、高知の三県の士族が同時挙兵すれば、天下土崩の危機となる。そこで、鹿児島士族の不満を外征に向けるべく、台湾出兵が閣議決定された(結局、政府は中止を命じたものの、西郷従道が出兵を強行した)。
政治と軍事、二つの領域をカバーしたカリスマ的な指導者だった西郷隆盛に対抗しうる明治天皇像を山縣有朋は確立しようとした。軍事指導者としての資質が明治初年にはゼロだった明治天皇の権威を人為的、促成的に創出し、徴兵制軍隊を天皇に直隷させて特別な親密さでつなぐことを狙った。
五・一五事件(1932年)の前年、元老・西園寺公望は、共産党と軍隊の関係姓を疑っていた。
「陸軍のなかにアカが入ってはいないか・・・」
まさか、そんなこと考えられないのでは、と思っていますと、五・一五事件の弁護人が、全農県連委員長が作成した農村の哀れ過ぎる悲惨な実情を報告した書面を引用して弁論した事実があるのでした。
1932年というと、2月9日に前蔵相の井上準之助が暗殺され、翌3月5日に三井合名の団琢磨理事長が暗殺されている。そして、5月15日に五・一五事件が勃発した。
1932年5月、天皇の弟である秩父宮は、天皇親政を天皇に要求し、天皇を困惑させた。秩父宮は内大臣に就任し、天皇親政の名のもとで昭和天皇を無力化してしまうのではないか・・・。昭和天皇はそれを恐れた。
安倍首相が戦死者をとりあげるとき、特攻隊をイメージさせるようなことを言っていますが、実は特攻による死者は4000人であるのに対して、戦死した日本兵が230万人いるうちの6割の140万人が戦病死者であり、そのほとんどは餓死による死だった。したがって、もし「英霊たちの最期」という2時間もののドキュメンタリー映画をとるとしたら、73分までは餓死に至るシーンであり、特攻隊のシーンはわずか12.5秒でしかない。ええっ、それが戦争の真実なのですか、ほんとうに哀れですよね・・・。
日清戦争とは何だったのか・・・。
朝鮮の改革は朝鮮にまかせよ、日中は撤兵すべきだとした清国の理性ある回答を拒絶し、撤兵に応ぜず、単独で朝鮮の内政改革に着手し、ロシアやイギリスの調停も断り、戦争に突きすすんだのが日本だった。したがって、朝鮮の進歩を邪魔する清国を倒し、日本が朝鮮を独立に導いたという神話は、まったく事実に反している。
日露戦争の直前まで、日本国民のかなりの部分と支配層の一部は、むしろ厭戦的だった。ロシアのニコライ皇帝は、日本の韓国占領を容認するという最終回答をしたが、それが日本側に届く前に、日本の先制攻撃によって戦争が始まった。
朝鮮半島を自らの安全保障上の懸念から排他的に支配しようとした日本と、それを認めようとしなかったロシアとの間で戦われたのが日露戦争である。ロシアにおいて、日本と本当に戦争すべきだと考えていた政治勢力は存在しなかった。ただ、ロシアは日本の財政力を過小評価し、日本は開戦に踏み切れないと楽観していた。だから、交渉において強硬姿勢を崩すことがなかった。
日本海海戦にしても、主力艦がバルチック艦隊を攻撃したあと、水雷艇隊と駆遂隊の電撃によって、ようやく勝敗が決せられた。ところが、大艦巨砲主義の「物語」を広め、誤まったイメージを定着させた。
いやあ、知らないこと、また考えさせられる指摘に出会って、ドキドキさせられました。
(2019年10月刊。2200円+税)

2020年1月19日

歴史と戦争


(霧山昴)
著者 半藤 一利 、 出版  幻冬舎新書

朝日新聞社の70年史に、戦前、「新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた」と書かれているとのこと。しかし、著者は、それは違うと断言します。
沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走った。そうなんです。戦争をあおりたてて読者の歓心を買い、部数を伸ばしてもうけ優先に走ったのでした。
今のマスコミだって、売れるから叩く、売れるから持ち上げる。戦前と同じことをしている。まったく、そのとおりです。安倍首相の夕食懇親会にマスコミのトップだけでなく、現場の主任などの記者まで嬉々として参加しているというのです。呆れてしまいます。
「桜」について、まともな説明もせず、必要な資料も隠してしまうような無責任体制を支えているのがマスコミだと言わざるをえません。残念ですし、悲しいです。
著者の父は、開戦の日に、「この戦争は負けるぞ、おまえの人生も短かったなあ」と言ったそうです。驚くほど先見の明がある父親でしたね・・・。
日本現代史の第一人者が歴史を振りかえった新書です。さっと読めます。
(2018年9月刊。780円+税)

2019年12月24日

徴用工問題とは何か?


(霧山昴)
著者 戸塚 悦朗 、 出版  明石書店

安部首相は徴用工問題について、日本は何も悪くない、完全解決ずみのことを蒸しかえしている韓国が悪いと高言し、日本のマスコミのほとんどはその尻馬に乗って大合唱しています。そのおかげで日韓双方に悪感情が生まれ、観光客は大激減して、日本経済は観光地だけでなく大打撃を受けています。しかし、日本は悪くない、悪いのは韓国だというのは本当なのでしょうか・・・。
韓国大法院(日本の最高裁に相当します)は、「原告らの損害賠償請求権は、日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権」であるとしています。
戦時の徴用工の被害実態は、非人道的な処遇でした。これが現代に生きる私たちが認めたくない現実なのです。現在の外国人技能実習生の置かれている処遇とは比べものにならないほど劣悪だったことは間違いありません。
そのうえで、韓国大法院は、日韓請求権協定では強制動員による慰謝料請求権は放棄されていないとしました。これは、実は日本政府も繰り返し認めているところなのです。
つまり、日韓請求権協定では強制動員被害者の問題は解決していない。また、請求権協定が解決の妨げになるものでもない。被害者の人権回復、日本による植民地支配の反省から解決を目ざすべきだ。
著者はこのように述べていますが、まことにもっともな指摘です。
安部首相の頭のなかには、日本は韓国を植民地支配をしたが、それは韓国の近代化に大いに貢献した、むしろ感謝されて当然という考えがあるようです。この論理は、奴隷の所有者が奴隷に向かって毎日、飢えることもなく安心して過ごせるのはオレ様のおかげなんだ、ありがたく思えというのとまったく変わりません。
加害者は自分のしたことをすぐに忘れるし、忘れるのは簡単です。しかし、被害者は被害にあったことを簡単に忘れるものではありません。それは二代、三代と世代が変わっても記憶されるものです。
著者は国際人権法の専門家ですので、大変勉強になりました。
(2019年10月刊。2200円+税)

2019年12月17日

ノモンハン、責任なき戦い


(霧山昴)
著者 田中 雄一 、 出版  講談社現代新書

1939年5月に起きたノモンハン事件は、「事件」というより戦争そのものでした。
日本軍は歩兵を中心として1万5000の軍を投入し、ソ連軍は5万の兵員と、最新型の快速戦車や装甲車を大量投入し、物量と火力で日本の歩兵部隊を圧倒した。4ヶ月間で、日本側は2万人、ソ連側は2万5000人という膨大な死傷者を出した。ソ連でのジェーコフ将軍は人命軽視で督励していたようです。日本軍は主力の第23師団の8割が死傷するという壊滅的な打撃を受けて、主戦場となった国境エリアから締め出された。しかし、日本の国内ではこの敗北は一切隠され、国民は知ることがなかった。
関東軍の若き作戦参謀が事件を起こした。関東軍作戦主任の服部卓四郎中佐(当時38歳)、作戦参謀の辻正信少佐(当時36歳)が事件を引っぱっていった張本人だ。
辻参謀は少佐でしかないのに過激な言動によって関東軍内部で強い影響力をもち、陸軍中央まで引きずり回した。辻がいなければノモンハン事件は起きなかった。辻はノモンハン事件のあと責任をとらされ、ほんのしばらく鳴りを潜めていただけで、まもなく復活した。そして戦後は国会議員になり、タイの密林で消息を絶った。
辻ら若手参謀は、参謀本部に何ら知らせることもなく、モンゴル領内のソ連軍空軍基地の爆撃を決行した。これについては、昭和天皇も怒った。
ソ連軍はスターリンが42歳のジューコフ将軍を現地に派遣して態勢を立て直した。5万人をこえる兵員、時速40キロをこえるBTという快速戦車などを最前線に投入する。日本軍も満州全土から虎の子の戦車70両をノモンハン現地に終結させた。
ところが、日本の歩兵部隊を300両をこえるソ連軍の戦車部隊が襲った。日本軍のまったく予期しない事態だった。ただし、ソ連軍は、戦車50両、装甲車40両を喪うという大損害を蒙った。
日本の戦車は、ソ連軍の仕掛けたピアノ線にキャタピラがからまり身動きがとれなくなり、そこをソ連軍が砲撃して70両の戦車の半数が破壊・消耗した。
ノモンハン事件全体を通じて、日本側のうった砲弾は6万6千発、ソ連側は43万発。圧倒的な物量差が勝敗を決めた。
ソ連軍は日本側の甘い予測をはるかに上回る兵站(へいたん)線を構築していた。9000台をこえる貨物運搬自動車を終結させ、前線部隊を強力に下支えした。
死傷者数ではソ連軍の被害のほうが甚大だが、作戦目的を達したのはソ連だった。
日本軍が回収した日本兵の遺体は4386体にのぼった。そして、戦後、日本軍は現場の中下級指揮官にすべての責任を押し付け、自決(自殺)を強要し、免官、停職し、汚名を被せた。その反面、軍トップは辻参謀たちをふくめて温存、非を問われることはなかった。
今に通じる日本軍の無責任体質について、呆れるというより怒りすら覚えます。
(2019年9月刊。900円+税)

2019年11月14日

中国戦線従軍記


(霧山昴)
著者 藤原 彰 、 出版  岩波現代文庫

著者は日本軍事史を専門とする歴史家ですが、実際に戦争を体験した元将校でもありました。陸軍士官学校を卒業して、少尉に任官し、中国大陸で中隊長として最前線で実戦を指揮していたのです。そして、本土決戦に備えて本土に呼び戻されて、大隊長として出動しようとしているところで敗戦を迎えました。このとき、まだ、22歳の若さでしたから東京大学に入り、文学部史学科を卒業して一橋大学の教員になります。そこでは大学紛争の渦中にいて、大学当局側として学生と対峙しました。
著者は、第二次世界大戦における日本軍人の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく戦病死であり、その大部分が補給途絶による栄養失調症が原因の餓死であることを厳しく指弾しています。
著者は中国戦線に従軍していた4年間についてメモを残していて、それにもとづいて最前線の実情を詳しく紹介しています。
中国大陸の最前線に行ってみると、信じていた「聖戦」とはあまりにかけ離れた現実があった。部落を焼き払ったり、住民を捕えて拷問にかけたりしていて、まるで民衆の愛護とか解放という言葉とはどうしても結びつかないことを日本軍はしていると思わざるをえなかった。
著者たち陸士55期生は、下級指揮官として損耗率が高かった。2400人の同期生のうち陸上と航空あわせて戦没は973人、4割をこえている。
中国大陸での三光(さんこう)作戦として無人地帯化政策は、中国民衆の離反を決定的にし、治安状況は最悪となった。
1942年12月18日、浅葉隊(48人)が全員、中国・八路軍の待ち伏せ攻撃にあって戦死・全滅した。
無理な強行軍が日本軍の特質だった。日本陸軍は、馬と人間の脚と基本的な移動手段としていた。 行軍による兵の消耗は、直接、戦力に影響する。日中は炎熱で、そのため日射病が出るほどなのに、夜の豪雨とぬかるみのなか凍死者は166人にのぼった。
中国大陸での日本軍の最大の欠陥は、制空権を奪われていることだった。在中国のアメリカ空軍は1943年初めに戦闘機と爆撃機の合計300機だったが、次第に増強していった。日本軍のほうは、これにまったく対抗できない状況だった。
そして、日本軍は、肉体的疲労と栄養不足に悩まされていた。著者が中隊長として一番気をつかっていたのは、兵の体力を温存し、むだな消耗を避けることだった。そのため、食糧の確保に努力した。
中国軍は、士気が旺盛であり、火力装備もすぐれていて、精強な軍隊になっていた。
大陸打通作戦(一号作戦)は、50万の日本軍が中国大陸を縦断しながら、掠奪を重ねていったものだった。しかし、食糧の確保は難しく、栄養失調のため日本軍兵士は体力を低下させていった。
大陸打通作戦の実態は、補給の途絶から給養が悪化して多数の戦争栄養失調症を発生させ、戦病死者すなわち広義の餓死者を出していた。
最大の課題は食糧の確保で、栄養失調との戦いが中隊長としての最大の関心事だった。主食はともかく、副食、とくに動物性タンパクが不足していた。全員が栄養失調に陥り、マラリア、脚気、栄養失調症による戦病死が激増した。
本土決戦に備えるといっても、人の動員だけは一枚の招集令状でできるが、兵器・弾薬・資材などの膨大な軍需動員をするためには、それを可能とする工業力を中心とする国力が必要になる。しかし、それは、すべて間に合わなかった。それでも、人を集める部隊の編成だけは先行していた。
刻明に最前線の悲惨な実情が明らかにされていて、日本軍の実体がよく分かって、つくづく嫌になります。これが「輝ける皇軍」の実際なのですよね・・・。そんな軍隊を率いた軍人に偉い顔をしてほしくはありません。
2002年に発刊されたものを別の論文も取り入れて復刊したものです。大変勉強になりました。
(2019年7月刊。1080円+税)

2019年10月 9日

農学と戦争


(霧山昴)
著者 藤原 辰史・小塩 海平・足達 太郎 、 出版  岩波書店

戦争末期、満州へ東京農業大学の学生たちが派遣され、悲惨な状況をたどったことを明らかにした貴重な本です。
満州への移民は、日本政府(農村省)にとって、日本の農村の「過剰人口」を整理する絶好のチャンスだった。日本から100万戸の農家を送り出し、日本国内の農家の経営面積を広げて生活を安定させ、人口密度の少ない満州国に日本人の人口を増やし、あわせてソ連との国境を防衛する任務を有する、それが満州移民だった。
実際に満州に行ってみると、日本人だけで経営するにはあまりにも土地が広かったし、日本の農法はしっくりこなかった。日本で学者が語っていた「指導」なるものは、事実上不可能だった。
このころ東京農大にとって、借りものではない自前の農場を満州にもつのは悲願だった。
1944年5月、東京農大農業拓殖科の2,3年生を主体とする30人の学生が満州東部に到着した。「先遣隊」だった。
1945年6月、第三次隊が東京を出発して満州に向かった。このころ、日本内地は空襲にあっていたので、満州のほうがかなり安全だと考えられていた。
それにしても、1945年6月に日本から満州に行くというのは、無謀だとしか言いようがありませんよね。
満蒙開拓移民政策は、無人地帯に日本人を入植させたのではない。湿地だった湖北農場は例外的で、多くは、関東軍の武力にものをいわせてもともと現地にすんでいた農民から土地をとりあげた。
ソ連軍部が進攻してきたあと、満州各地でおこった日本人に対する襲撃や虐殺事件の背景には、こうした現地の人々への差別的待遇や感情的対立があった。
ソ連軍の進攻からのがれてきた日本人避難民のほとんどは、日本軍のもとへ行けば助かると考えていた。しかし、それは大きな間違いだった。当時の日本軍には、自国民を保護するという発想(考え)はなかった。むしろ、作戦の都合によって一般人を殺傷することさえいとわなかった。
 敗戦後、東京農大三次隊の学生・教職員100人のうち、半数以上が死亡した。死因は主として栄養失調による衰弱死と発疹チフスだった。すなわち、1945年度に満州へ渡航した学生87人のうち、53人が死亡または行方不明となった。実習参加学生の死亡率は61%に達した。
東京農大のトップは、この責任をまったくとらなかったし、自覚すらしなかった。彼らは戦時中の自らの責任を自覚することなく、戦前の認識を戦後にもちこしたまま、その後も要職をつとめていった。
東京農大の現役の教授たちが過去の悲惨な事実を掘りおこし、先輩たちを厳しく批判しています。これは、すごいことだと思います。ぜひ、今の在学生にしっかり受けとめられてほしいものです。
(2019年4月刊。2500円+税)

2019年10月 4日

中国戦線900日、424通の手紙


(霧山昴)
著者 五味 民啓 、 出版  本の泉社

山梨県出身の著者が応召し、中国大陸の武漢三鎮攻略作戦に従軍していたとき、内地にいる妻や家族にあてた手紙424通のうちの半分ほどを紹介した貴重な本です。
中国大陸で従軍したのは1937年9月から翌1940年3月までで、著者は当時23歳から25歳でした。
著者は決して左翼思想の持ち主ではなかったのですが、軍部から疑われたため、思想教育として憲兵になるための教育を受けました。結果としては、それが幸いして上海では補助憲兵の仕事をしています。そのため生命が助かり、また内地への手紙もたくさん書けたようです。
戦場では仲間が次々に戦病死していきました。そして、戦場で負傷して入院生活を送ったあと、再び戦場に戻るのでした。
航空便を利用して内地と手紙を往復しているのには驚かされます。
ついに故郷に帰ってからは、村の若者を戦場へ送る兵事係をつとめます。どんなに苦しかったことでしょう。戦後は赤紙を配った家だと陰口(かげぐち)を立てられたとのこと。それでも、新生日本で推されて村長になったのでした。
村長になってから、戦前の戦場での悲惨な生活は家族にも話さなかったようです。
この大量の手紙は、著者の死後、ずいぶんたって発見されたものです。
出発前の手紙(1937年9月17日)。「必ずや天皇陛下の股肱(ここう)としての本分をまっとうしてまいります。戦友より一人でも余計敵をやっつけたいと願っています」
11月16日。「付近の土民を使って野菜などあつめて炊事します。土民は、たいていおとなしい者ですが、まだ、危険性もあります。毎日、2,3人で付近の部落の偵察を行い、怪しいものは銃殺や刺殺に処しています。土民は油断なりません。戦地に来て思うことは生命の尊さです。金をのこすとか名をのこすとかは第二の問題です。この世に生きているということが、どんなにありがたいことがわかりません」
10月11日。「中隊員は、わずか50人。残る140人は、戦死あるいは負傷、病気で倒れた。大隊の兵員は4分の1となった」
12月10日。「支那の大きな地から比べると、占領したのはわずかな場所。大敵の重要地を占領したにすぎない。現在、生命があるということが、一番の手柄であり、ありがたいこと。
新聞に『一番乗り』とか『決死隊』とあるのは、たいてい新聞記者のついて来る、勝味のある場所。新聞で伝えるのは、ほんの一部分であると思えば間違いない。私も決死隊に選ばれて三たび死線をこえた。みな戦死したなか、ただひとり生還したこともあった」
7月26日。「9月に一緒に出征した者で、病気や負傷で入院やら内地に帰るやらして、今は中隊の半数もいません」
9月15日。「200メートルの田圃を山の麓まで隊長にしたがって無我夢中で突進しているとき、もう少しで麓にたどりつくと思った瞬間、敵のチェッコ機関銃がバリバリ頭上にそそぎはじめ、『いけない』と思った瞬間、たちまち左足がヂーンといった感じで、そこから6尺ほどの崖下に落ちてしまい、左足がきかなくなった。そこへ戦友の青木衛生伍長がかけて来てホータイしてくれた。戦友は貫通だと喜んでくれた。弾丸が身体の中に入ったままだと治りにくく、ときには生命の危険すらあるからだ」
12月3日。「野菜がないので、兵隊は、たいてい脚気(かっけ)になっている」
1月21日。「慰安所と呼ぶ、一種内地の遊郭の少し程度の悪いくらいのものが開設された。戦友などは休日にワンサと出かけて一瞬の快楽に浮かれてくる。この女どもは、たいてい朝鮮人だ」
戦前の日本人青年のおかれていた厳しい軍隊生活のナマの姿の一端を知ることのできる貴重な本です。よくぞ公開していただきました。手紙の原本は山梨平和ミュージアムでみることができるとのことです。
(2019年5月刊。1800円+税)

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