弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2023年1月27日

満蒙開拓青少年義勇軍


(霧山昴)
著者 上 笙一郎 、 出版 中公新書

 私にとって、まさしく衝撃そのものの本でした。うひゃあ、そ、そうだったのか...。ついつい叫んでしまいました。
 新たに獲得した治安不良の植民地へ少年だけを武装入植させた例は、満蒙開拓少年義勇軍だけ。ほかに例がない。あのヒトラー・ナチスもそんなことはしていない。13世紀の少年十字軍という悲惨な前例があるだけ。
 この少年義勇軍をリードした二人の大人(日本人)がいます。その一人、東宮鉄男は軍人で、張作霖爆殺の実行犯でもあったが、1937年11月に戦死した。もう一人の加藤完治は戦後まで反省することもなく、生き永らえている。
 驚きの第一は、青少年義勇軍は日本での呼び方であって、満州では使われなかったということ。「軍」とすると、中国人が本物の軍隊だと誤解するに違いないので、満州では「隊」としたというのです。日本人にとっては、軍隊としての実体がなくても、勇ましいものという意味で「軍」と使うことがあるわけです(「強行軍」とか...)し、現にいくらか武装していたのですが、軍隊と呼ぶにはほど遠いので、「軍隊」とは思われないよう、「隊」としたというのです。
 驚きの第二は、屯懇病には二つあるということです。ホームシックにかかった青少年は、自閉型だけでなく、攻撃型もある(あった)とのこと。自閉型は自殺などに至りますが、攻撃型は、後輩いじめ、中国人虐待などをひき起こします。後輩いじめは、集団抗争事件に発展してしまったのでした。
 「昌図事件」の詳細が紹介されています。1939(昭和14)年5月上旬に四平街に近い訓練所で発生した武装抗争事件で、死者3人、負傷者5人を出し、37人の青少年が裁判にかけられ有罪(執行猶予つき)となっています。外部から攻撃を受けたのではなく、新旧の義勇軍が抗争したのです。
 第1中隊170人が小銃や短刀をもって突撃ラッパを吹き鳴らして第22中隊の宿舎を包囲して銃撃し、石とレンガを窓ガラスに投げかけた。もちろん第22中隊も直ちに反撃して銃撃戦となり、結局3人が死亡し、多くの負傷者を出した。
 この事件について、著者は劣悪な社会環境におかれた青少年のハケ口が、新旧訓練隊の衝突につながったとみています。まさしく悲惨そのものの「大事件」です。
 驚きの第三は、青少年義勇軍開拓団は昭和16年の第一次から昭和20年の第五次まで、総計251団あり、内地訓練所が送り出した青少年2万2千人のうち4千人以上、つまり5人に1人、20%も脱落したということ。しかも、すべての訓練所と開拓団がソ連との国境線にそって散在していたということは、関東軍の盾(たて)になれということです。もちろん見殺しの対象です。ひどいものです。
 驚きの第四は、義勇軍開拓団の青年たちの結婚相手に中国人を考えることはなく、日本から「花嫁」を送り出したこと。そして、その「花嫁」たちは、貧困に加えて、孤児・片親・私生児など、日本にいたら「うしろ指」を差されるような若い女性であったこと。なるほど、満州の新天地なら、個人的な事情は消え去るわけです。
 そして、驚きの第五は、義勇軍開拓団も「根こそぎ召集」の対象となったということ。その召集が、あっけにとられるほど、ひどいのです。まさしく「根こそぎ」。「清渓開拓団」は200人の団員のうち190人、「阿武隈開拓団」は181人の団員全員が召集された。開拓団員は皆、若いので、兵隊にぴったりなのです。残されたのはそれこそ老人と女性、子ども。それで8月9日のソ連進攻にあうのですから、ひとたまりもありません。まさしく悲惨です。そして、そのとき、土地を取りあげられた中国人農民の積年の怨嗟・反感が日本人開拓団襲撃につながるのです。
 いやあ、とても深い洞察です。声も出ないほどのショックを受けてしまいました。
(1973年72月刊。古本)

2023年1月 5日

通州事件

(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版 高文研

 心が震える感動的な本でした。中国軍による日本人居留民虐殺事件として最近、右翼がよく話題にする通州事件について、著者は前半で事件の背景を深く掘り下げています。この点、本当に勉強になりました。さすがです。そして、後半は、この通州事件の被害者遺族の姉妹が生存していて、しかも、憎しみの連鎖を断つ必要があると訴えています。ここは読んでいて、本当に心が揺さぶられる思いがしました。
 まず前半の第Ⅰ部です。通州とは、北平(今の北京)と天津の中間にある町です。日本人を攻撃・虐殺したのは国民党政府軍ではなく、日本軍に従属していたカイライ軍の保安隊が起こしたもの。
1937年7月29日、盧溝橋事件が起きた7月7日から22日後、日本軍のカイライ政権であった冀東(きとう)防共自治政府の保安隊4000人が反乱を起こし、日本軍の守備隊20人、日本人居留民225人(日本人114人、朝鮮人111人)を殺害した。日本人と朝鮮人は、通州で大々的な密輸入(塩)を扱っていた。これは、国民党政府の収入源に打撃を与えた。そして、アヘンを日本人・朝鮮人は扱った。日本人は中国語ができないものが多かったので、朝鮮人が中国語の会話能力を生かして、中国人たちと交渉にあたった。中国人は、日本軍の通訳を朝鮮人たちがつとめていたことから、朝鮮人に対して、憎しみ、憤り、反発を強く抱いていた。要するに、朝鮮人は日本軍の手先として憎まれたということ。
国民党政府はアヘン禍撲滅を目ざして取り組み、麻薬を扱う業者を次々に公開処刑した。
通州事件が発生したのは北支事変(7月28日)の翌日のこと。通州保安隊の反乱は周到に準備された。通州にあった日本人と朝鮮人の住宅が襲撃されたが、それは反乱軍から事前に調査してマークしていたから。襲撃された日本軍守備隊は堅固な建物と強力な火力によって9時間にわたる激戦に耐えて(戦死者26人)、反乱した保安隊の突入を阻止することに成功した。通州事件当時、日本人と朝鮮人380人の居留民のうち、180人が保護され、残り200人が犠牲者となった。
 そして後半の第Ⅱ部。姉(久子。現在90歳)は、事件当時、小学校に通うため両親と別れて、母の実家のある群馬県水上町の小学校に通学していて、無事だった。そして、妹(節子)は、事件当時、中国人の看護婦(何鳳岐。21歳)が、反乱軍に対して自分の娘だと言って守り通した。この姉妹は、通州事件とは何だったのかをじっくり勉強して、人類が共生していかなければ共に滅びるしかないことを教えてくれた事件であること、戦争は憎しみの感情をかきたて利用して起こること、中国人は通州でひどいことをしたけど、妹を助けたのも中国人だから、中国人に恨みはない、日本軍は中国でもっとひどいことをしたのだから・・・と考えているのです。
 この姉妹は、両親と妹を通州事件で中国人反乱軍に虐殺されたものの、「憎しみの連鎖を断つ」生き方をしています。すごいです。こんな本に出会うと、やっぱりたくさんの本を読んで(読めて)良かったなと、つくづく思います。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2022年9月刊。税込3300円)

2023年1月 2日

戦争小説・集成

(霧山昴)
著者 安岡 章太郎 、 出版 中公文庫

 戦前の帝国陸軍の理不尽きわまりない兵隊生活が、読んでいて嫌になるほど活写されています。イジメそのものの訓練が続き、兵隊は頭がバカになってしまいます。
 ともかく、黙って言われたとおりに行動して、潔く死んでこいというのが陸軍当局のホンネでした。自分たちは安全な後方にいて、美酒・美食にふけっているのに、最前線の兵士は食うや食わずという過酷な生活を余儀なくされます。
 起床、点呼、間稽古(けいこ)、朝食、演習整列・・・。朝起きてからの2時間のうち、これだけの日課がつまっている。
 食器を洗って片付け、部屋を掃除し、背嚢(はいのう)に天幕や円匙(えんぴ)などを入れる。巻脚袢(まききゃはん)を両方の脚にしっかり巻きつける。それだけでも1分間は要する。
 軍隊内では、官給品の員数を失うことは、どんなに細かいことでも、重大な過失となる。なので、誰もが員数を見失うまいと、絶えず必死で気を配っている。
 小銃、帯剣、弾薬などの兵器をはじめ、軍衣、軍袴(ぐんこ)、襦袢(じゅばん)、袴下(こした)、ボタン穴の一つ一つまで、兵隊の身体を取りまいているものはすべて、一定の数にしたがって配置されたものであり、その数量はどんなことがあっても保持されなくてはならない。それは軍人の護るべき鉄則であり、最高無比の教義である。
 まったくバカバカしい偏向した論理です。
 兵隊は、歯を見せたといって殴られ笑ったといって殴られ、こわばっているといって殴られ、ぐんにゃりしているといって殴られた。
帝国陸軍の学習要領は倦(う)むことを知らなかった。
 陰惨、苛烈、下劣をきわめているが、戦争をしないときの兵隊は遊ぶ人。手はこんでいるけれど、軍隊は一種の幼稚園であり、兵隊は変形した子どもである。
 軍隊は、正直に日本の社会を反映している。日本の軍隊で一番優秀だったのは下士官。
 新兵のイジメ「セミ」。部屋の奥に一本の太い柱がある。これをペーチカとして女に見立てて、腕いっぱい抱擁する。「ペーチカさん、ペーチカさん。私の愛し方が足りなくて、こんなにあなたを冷たく、カゼをお引かせ申しました。今後は二度と、こんなことはいたしません」、というのを繰り返し言わせられる芸当。
 いやあ、ホント、ひどいものです。ひどすぎますよね。これが勇壮無比の帝国陸軍の実際でした。そんな軍人が支配する世の中には絶対に戻りたくありません。
(2018年6月刊。税込1100円)

2022年12月30日

撤退戦

(霧山昴)
著者 斎藤 達志 、 出版 中央公論新社

 防衛大学校から陸上自衛隊に入り、現在は防衛省防衛研究所で戦史を研究する著者による古今東西の撤退戦を分析し、検討した労作です。
 ヒトラーのダンケルク撤退戦のときの停止命令とスターリングラードの包囲からの脱出拒否命令の対比は興味深いものがあります。ダンケルクのほうは、なぜかドイツ軍先鋒の戦車部隊が突然に進撃をやめ2日間も停止してしまいました。そのおかげで、イギリス軍のほとんどとフランス軍の多くが海峡を渡ってイギリスに逃げきることができました。イギリスは大小の船をかき集めて海峡を渡って35万人もの将兵を救いだしたのです。
 なぜヒトラーが突然の停止命令を出したのか、その理由があれこれ推測されていますが、私は、ヒトラーが個人的なやっかみから、ドイツ軍の将軍たちにあまりに勝ち過ぎてヒトラー以上に名声をかちとったらまずいと思ったからではないかという説が一番ありうることではないかと考えています。
 そして、スターリングラードのほうは、ヒトラーが1942年11月の時点で、「理性的」な軍事的判断が出来なかったから、パウルス大将の脱出許可を求める要請を無下に却下してしまったのではないかと考えています。もちろん、ゲーリング国家元帥が、空軍による補給は出来るなどと安請合したということも要因の一つだったとは思いますが...。ともかく、パウルス大将にしても参謀長にしても、ヒトラーを最後まで信じようとして、結局は破滅したというのが事実経過です。
 パウルスはソ連に抑留されたあと、1944年8月、ドイツ本国向けラジオ放送で、ヒトラー打倒の国民運動を起こすよう呼びかけたとのこと。やはり、よほど悔しかったのでしょうね。ともかく、スターリングラードでは将校2500人を含む9万1000人のドイツ軍兵士がソ連軍の捕虜となりました。そのうち、どれだけの人が生きてドイツに戻れたのでしょうか...。
 朝鮮戦争のときのマッカーサー将軍も実は事実を直視する力に欠けていました。CIAなどが、中国軍が大々的に参入してきているという情報をあげ、また中国人捕虜も中国軍の内情を詳細に話しているのに、マッカーサーは、中国軍の本格的参入はないと、かたくなに否定しとおしたのです。信じられません。
 朝鮮戦争に介入した中国軍は名称こそ義勇軍でしたが、実際には完全な正規軍。ただし、アメリカ空軍によって制空権をうばわれていたことから夜間だけ進軍した、それも山岳・森林地帯で浸透し、南下していったのでした。
 この本には、中国軍の総司令官を「林彪将軍」としていますが、もちろん間違いです。彭徳懐将軍です。林彪は朝鮮への出兵に消極的で、病気を口実に総司令を断っています。単なる誤植とは思えないところが残念です。
 ビルマのインパール作戦はあまりにも無残な結果を参加した日本軍将兵の身にもたらしたわけですが、初めから合理性のない無謀な作戦でした。
 沖縄戦について、この本では、牛島司令官が撤退せずに首里にとどまっていたら、5月までに抵抗終了したか、降伏して終了したのではないか、それで戦死傷者もうち止めになった可能性があるとしています。なるほど、そうなのでしょうね、きっと。
 アメリカ側の研究者からは、沖縄にこだわらず、早く本土へ王手をかけるべきだった、そうしたら、もっと早く戦争が終わって、戦死傷者は日米双方とも少なくてすんだのではないかという意見も出ています。これまた、私も納得できるところです。皆さん、どう思いますか?
(2022年8月刊。税込2970円)

2022年12月11日

満州分村移民と部落差別


(霧山昴)
著者 エイミー・ツジモト 、 出版 えにし書房

 熊本県山鹿市来民(くたみ)町から満州に移民した「開拓団」が日本敗戦後、関東軍から見捨てられ、現地農民から成る「暴徒」3千人に取り囲まれるなか、276人全員(1人だけ命じられて脱出)が自決に追い込まれた。その半数以上は子どもたちだった。
 「満州は日本の生命線」とかの大々的な宣伝、そして満州農業移民100万戸移住計画という国策に乗せられ、多くの日本人が幻想をもって満州へ渡った。ところが、満州の農地とは関東軍の武力を背景として、安く買いたたいて、現地農民を追い出したあとに入植したものだった。
 だから、現地の匪賊(ひぞく)と戦うべく鉄砲を持たされる。いわば屯田兵。これが政府の当初からの狙いだった。ソ連との国境地帯の多数の開拓団が配置された。しかし、現地の開拓団の農民は、そのような自覚に乏しく、関東軍が自分たちを守ってくれると考えていた。
 来民開拓団は、新京(長春)より北、ハルビンより南に位置し、すぐ近くには長野県から移民してきた黒川開拓団があった。黒川開拓団のほうは、日本敗戦後、進駐してきたソ連軍に守られ(その代償は独身女性による性接待)、その大多数が日本内地に帰還した。
 日本敗戦の直前に開拓団の青年男子が召集され、開拓団の大半は老人と女性そして子どもたちだけとなっていた。そこへ、日頃の恨みから現地農民が押し寄せてきたということ。このとき、現地警察が来民開拓団から武器を取り上げるのに一役買っていて、しかも襲撃勢の先頭に立っていた。
 満州の開拓団の典型的な悲劇が掘り起こされている貴重な労作です。
(2022年8月刊。税込2200円)

2022年12月 2日

731免責の系譜


(霧山昴)
著者 太田 昌克 、 出版 日本評論社

 満州で3000人もの人々を生体実験の材料とし、その全員を殺害してしまった日本陸軍の七三一部隊について、その関係者に取材した貴重な記録です。
 日本敗戦の直前、8月9日深夜からソ連軍が満州へ進攻を開始した。それを知った東京の大本営は現地に特使を派遣した。徹底した証拠隠滅を指示するため。
 「永久に、この地球上から一切の証拠物件を隠滅すること」
 それを聞いた石井四郎は命令どおりにすと答えながらも、こう言った。
 「いっさいがっさい証拠を消してしまえというが、世界に誇るべき貴重な学問上の資料を地球上から消すのはまったく惜しい」
 実際、石井四郎は人体(生体)実験で得られた医学データの大半を日本に堂々と持ち帰ったのです。そして、それをアメリカに差し出すことによって、自分たち七三一部隊関係者全員が戦犯として追及されるのを免れたのでした。
 このときの大本営特使をつとめた朝枝繁春中佐(1912年生まれ)は、関東軍の参謀だったころに七三一部隊を担当していたので、マルタと称する人々を使った人体実験を承知していた。朝枝は戦後の手記に次のように書いた。
 「七三一部隊がソ連の手中に陥れば、その実態が世界に暴露されて、やがては『天皇戦犯』の大問題がおこり、皇室の根底にもかかわりかねないと判断した」
 七三一部隊は8月9日から破壊・焼却が始まり、8月12日の正午に終わった。
 石井四郎は奉天へ出張中だったので、総指揮をとったのは総務部長兼第四部長の太田澄軍医大佐。
 「マルタ404本の焼却処置が終了しました」
 溝渕俊美伍長(1922年生まれ)の同僚の伍長が業務報告した。報告を受けた太田大佐は、焼却・破壊作業の労をねぎらい、次のように言った。
 「ほぼ処理の目的が達成された。これで天皇は縛り首にならずにすむ。ありがとう」
 七三一部隊のやったことは、まさしく残虐そのものの戦争犯罪として、最高責任者である天皇は死刑にされて当然という認識が七三一部隊の幹部には共有されていたわけです。
 七三一部隊の存在、そしてその実態は何人もの皇族が現地も視察していたことから、天皇も知り得た、知っていたと思います。
 ところで、マルタ(簡単に「丸太」と決めつけられていますが、もちろん人間です)を実験材料にした七三一部隊は表だって多額の予算を組めなかったとのこと。あまりにも額が大きすぎるから、大蔵省のチェックは入らざるをえない。そこで、七三一部隊の予算は、陸軍省軍務局軍事課の予算に付け替えていた。こんなごまかし、インチキまでして国民の目を欺こうとしたのです。
 世の中、ホント、知らないことだらけ、ですね。歴史の真実から目をそらしてはいけないと思います。私たちはこんな加害者たちの子孫であることを自覚する必要もあるのだと、つくづく思います。これは自虐史観では決してありません。
(1999年7月刊。税込1980円)

2022年12月 1日

満州天理村「生琉里」の記憶


(霧山昴)
著者 エイミー・ツジモト 、 出版 えにし書房

 満州開拓に天理教が教団として進出していたというのを初めて知りました。国策に協力して、布教と組織の拡大を図ったのです。それは、その前に教団が当局から厳しい弾圧を受けたからです。弾圧をかわし、生きのびる方策として、当時の国策だった満州開拓に乗っていったわけです。
 そして行った先は、もちろん関東軍が指定したところであり、自由に選んだというわけではありません、七三一部隊のあるハルビン郊外に近いところでした。
 なんと、満州に天理村を建設した天理教団は、七三一部隊の建設そして運営の一部に協力していたのです。いやあ、これには驚きました。
 もちろん、七三一部隊に関わった人々は厳重な箝口令(かんこうれい)を敷かれ、戦後はしっかり口を閉ざしました。でも、やはり、いくらかは良心にとがめて自らの行為の罪深さから事実の一端を告白したのです。それは、恐るべき目撃談です。
 「ある日、薪(まき)運びを命じられた。壕の中に何百という死体(マルタと呼ばれていた人間の遺体)が放り込まれていた。そこに藁を並べて、重油をまく。その上にトタンをかぶせて、火をつけた。ものすごい煙で周囲は真っ黒になった」
 満州に天理教団がつくった開拓団は「生琉里(ふるさと)」と名づけられた。天理村の周囲は、鉄条網がはり巡らされていた。村の東西には頑強な城塞なみの大門が建設され、警備員が常駐した。満州人が自由に出入りできる環境ではなかった。
 関東軍の依頼によって、村の警備を満州人にあたらせていた。しかし、満州人たちは、いつ寝返りをうつか分からない。満州人たちの怒りに満ちた目を忘れることはできなかった。そして、自分たちが追い出した満州人を日本人は小作人のように使った。
 天理村への移民は1934年11月に始まり、最後は1945年5月の第12次移民まで総勢2000人近い。
 満州天理村の実情を丹念に掘り起こした貴重な労作です。
(2018年5月刊。税込2200円)

2022年11月15日

民衆とともに歩んだ山本宣治


(霧山昴)
著者 宇治山宣会 、 出版 かもがわ出版

 この10月半ばに宇治にある山宣(やません)のお墓と、山宣の子孫の営む「花やしき」に行ってきました。前から、ぜひ行ってみたいと思っていたのです。宇治の有名な平等院のすぐそばでした。今度は平等院のほうにも行ってみたいと思います。
 山本宣治(やません)は、1989年に生まれました。両親は京都の心境極で「ワンプライスショップ」の屋号で輸入品にアクセサリーや化粧品を売っていました。店は繁盛していたようです。幼いころから身体の弱かった宣治の健康を案じて、環境の良い宇治に600坪の土地を買って別荘を建て、宣治をそこに住まわせました。広い庭に四季折々の花が咲くので、近所の人から「花やしき」と呼ばれるまでになったのです。そして、宣治少年は元気になり、日本を抜け出してカナダに留学したのでした。
 カナダで、山宣は必死に勉強しましたが、そのなかに、社会主義の本も入っています。
 日本に帰国して、東京帝大の動物学科に入学。そして、大学を卒業したあとは、民衆のための産児制限運動にも取り組みはじめました。そして、労働者教育の運動にも関わります。
 1928(昭和3)年2月に普通選挙が実施されました(女性は参政権がありませんでした)。このとき、山宣は、無産政党(労農党)から出て1万4千票あまりを得て、当選したのです。
 山宣が国会議員として、治安維持法で検挙された人々に対する拷問を国会で具体的に示しながら、政府の責任を鋭く追及しました。国会で治安維持法の改正が審議されるころ(1928年1月ころ)、山宣は親族に次のように言いました。
 「治安維持法に反対するのは自分ひとりだから、危険だ。こんどはひょっとしたら殺されるかもしれない」
 そして、1929年3月5日、神田の「共榮館」にやって来た右翼の男に短刀で切りつけられて命を落としたのでした。
 山宣の墓には、「山宣ひとり孤里を守る。だが僕は淋しくない。背後には多数の同志がいるから」と刻まれています。しっかり見てきました。山宣が殺されたのは39歳のときで、4人の子どもがいました。本当に権力とはむごいことをするものです。でも、山宣の思いは、その後も脈々と生き続けています。私も決して忘れません。
(2010年2月刊。税込1257円)

2022年10月14日

戦争と文学(日中戦争)


(霧山昴)
著者 火野 葦平 ・ 石川 達三 ・ 五味川 純平 ほか 、 出版 集英社文庫

 戦前は、「日中戦争」とは呼ばれなかった。「支那事変」と呼ばれた。というのも、戦時国際法は、戦争を始めるとき、最後通牒の提示と、宣戦の布告を定めていたが、日中間一連の武力衝突は、それら国際法上の義務を欠いていた。なので、「戦争」ではなく、「事変」と呼んだ。
 日本は、この「事変」に35個師団と、のべ200万にのぼる大兵力を動員し、40万人以上の戦死者を出した。
 日本軍は、どんな奥地にも慰安所を設置した。これは軍そのものが管理した。民間人が勝手に設置することが許されるはずはなかった。
 兵隊たちは、奥地で設置された場所にいる中国人の女か、また別の、ちがった場所にいる朝鮮人の女たちのところへ通うようになっていた。その朝鮮娘たちも、みんな国防婦人会にはいっていて、天長節そのほかの記念日や、祭日には、洋服を着たり、和服姿で、肩に「国防婦人会○○支部」と黒く染めぬいた白いタスキをかけ、同じ服装をした芸奴たちと並んだ。
 討伐(とうばつ)という言葉は好きでない。ウサギ狩りのように、何か簡単に掃蕩(そうとう
)ができるものと思われがち。しかし、華々しくはない。討伐ほど困難で苦労の多い戦闘はない。これまでの経験では、討伐のほうが、かえって苦戦し、多くの犠牲を出している。敵は堅固な陣地を構築し、機関銃や迫撃砲を有している。討伐戦では常に壮烈な激戦が行われる。
 兵士たちは、「今度のチャンコロは馬鹿にすると、ひどい目にあうぜ」と、差別語まる出しで、恐怖心をあおりたてた。
 いやはや...。でも、今でも右翼雑誌が堂々と書いて宣伝していますよね。たとえば、国葬反対の国民世論を操作しているのは左翼弁護士だ。また、国葬反対運動のバックには共産党がいる...などです。こんなインチキに惑わされて信じ込む人がいるのも残念ながら現実です。
 戦争をあおりたて、戦争を美化して戦争の現実から国民の目をそらさせようとしていた戦前の日本社会を振り返ってみました。700頁という部厚い文庫本の大作です。
(2019年11月刊。税込1870円)

2022年10月13日

戦前の日本


(霧山昴)
著者 武田 知広 、 出版 彩図社

 教科書には載っていない、戦前の日本の現実が紹介されている興味深い文庫本です。
 現代日本の国会にもヤクザ出身ないしヤクザまがいの議員がいました(います)よね。でも、戦前は、まさしく本物のヤクザの親分が議員としていたようです。
 その一人が、「九州一の大親分」とまで言われた吉田磯吉。北九州に君臨した親分です。20年ものあいだ国会議員をつとめ、二・二六事件の起きた1936(昭和11)年に70歳で亡くなったとき、葬儀に2万人が参加したとのこと。安倍国葬をはるかに上回りますよね...。
 次は小泉純一郎元首相の祖父の小泉又次郎。こちらは横須賀の大親分で、「倶利伽羅紋々」のすごい親分だった。
 この本に登場する衝撃的な出来事の一つに、1927(昭和2)年の山形県立高等女学校の生徒200人がポルノ写真のモデルになったというものがあります。写真屋で、女生徒が全裸のほか、コスプレ写真も撮らせて、モデル料30円(今なら10万円)もらっていたとのこと。全校生徒750人のうち200人というのには、圧倒されます。こんな話、今まで聞いたことがありませんでした。本当でしょうか。いったい、なぜ、そんなことが可能だったのでしょうか。この事件の顛末(てんまつ)をまとめた本があったら、ぜひ教えてください。
 日弁連の人権擁護大会で旭川に行きましたが、旭川は戦前に有名なスタルヒン投手の育ったところで、今も「スタルヒン球場」があるそうです。スタルヒンは元ロシア貴族の出身で、中国(満州)のハルビン経由で北海道・旭川に住みついて父親はダンスホールを経営していたとのこと。
 戦前の日本はアジアの革命輸出基地になっていた。たとえば、昭和初期に中国人留学生が5000人以上、日本にいた。そのなかには、周恩来や魯迅(ろじん)もいた。
 戦前の日本には、徴兵制度がありました。韓国には今もあり、BTSが入隊するのが免除されるかどうかが、大いなる話題になっているのが徴兵制度。日本でも韓国でも、ホンネでは、みんな兵隊になんかなりたくないのです。
 250頁ほどの文庫本ですが、中味はぎっしり、ずっしりと重たいのです。一読の価値があると思います。どうぞ、ご一読してみてください。
(2016年9月刊。税込712円)

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