弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2022年9月30日

満映秘史


(霧山昴)
著者 石井 妙子 ・ 岸 富美子 、 出版 角川新書

 このところ、ずっと満洲のことを調べています。応召して中国・満州に渡った叔父が日本敗戦後、8年間も八路軍に技術員として協力していた事実を裏付けようとしているのです。なので、満州で日本と日本軍が何をしたのか、大いに関心があります。
 満映は、かの悪名高い甘粕正彦が理事長をつとめていたことで有名です。「満州国」の首都の長春(新京)郊外に東洋一の大撮影所を構えていました。 岸富美子は、この満映で兄たちとともに映画製作の現場で働いたのです。
 甘粕理事長は、社員に出社時刻を守らせようとした。そして、ルーズだった金銭面をきちんと管理し、給与も大きく改められた。 社員の交流のため、春の運動会が大々的に行われ、社員同士のクラブ活動が奨励された。 甘粕理事長は満映社員の知的レベルを上げ、団結力を強めて、組織力を高めることを狙ったのだろう。
 満映の設立は、1937(昭和12)年8月のこと。盧溝橋事件の直後である。満映の資本金は500万円で、満州国と満鉄が半額ずつ出資した。つまり、日本軍部の影響を強く受けた国策会社だった。満映のつくる映画は、抗日ではなく、親日を訴えるもの、それによって中国人を宣撫(せんぶ)、感化しようとした。
 甘粕正彦は、元陸軍憲兵大尉。1923(大正12)年に関東大震災が起きたとき、混乱に乗じて、無政府主義者(アナーキスト)の大杉栄と、その妻・伊藤野枝そして、大杉の甥(おい)の3人が憲兵隊によって虐殺されたときの首謀者。懲役10年の判決を受けたが、3年後には恩赦で出獄してフランスに渡り、満州にやってきた。
 1939(昭和14)年に満映理事長となり、日本敗戦直後に青酸カリで服毒自殺した。
新京駅前のヤマトホテルで暮らした。この同じホテルに、日本人でありながら中国人女優として売り出した李香蘭も生活していた。甘粕は家族を大連に置いて、新京には単身赴任していた。そして、宴席では、異様な乱れぶりで、周囲を困惑させた。
 満映の社員は千人ほどで、日本人と中国人の割合は6対4。ただし、子会社まで入れると社員総数は2千人にもなった。
満映のつくる映画は満州で暮らす現地の人々に見せるものなので、俳優は李香蘭を除いて、全員が中国人。しかし、監督やカメラマンなどは全員が内地からやってきた日本人。しかし、それでは中国人の心に響く映画にならないので、中国人の監督・脚本家・技術者の養成も満映は積極的にすすめていた。
満映には、大塚有章のような元共産主義者や左翼的傾向をもつ人間が多数いた。
日本敗戦前から、ソ連軍が進攻してきた。そして、満映もソ連軍が支配するようになった。
満映の社員には日本敗戦の時点で、全員に会社から5千円の退職金が支給されていた。いやあ、さすが国策会社ですね。これは、現地の貨幣ではなく、内地の日本円でしょう。
ソ連軍が1946年4月に撤退すると、すぐに八路軍がやってきた。このとき、撮影機械(アイモ)が30台近くも残っていて、延安から来た中国共産党の幹部は心底から驚き、快哉を叫んだ。満映にあったアイモは50台。ソ連軍が20台を持ち去ったが、日本人技術者が隠したので、30台近く残っていた。
このあと、八路軍とともに映画製作で苦労する話が続きます。そして、中国共産党が中国全土を支配したあとにつくられた映画『白毛女』の編集に従事した。当時は中国人の名前で、そして、その後は日本人の名前(岸富美子)で、記されている。それは知りませんでした。すごいことですね。なにしろ、『白毛女』は国民的映画として、10年間で1億5千万人以上の中国人がみたのです。
岸富美子は、2019年5月、98歳で亡くなっています。
(2022年7月刊。税込1320円)

2022年9月21日

太平洋の試練(下)


(霧山昴)
著者 イアン・トール 、 出版 文芸春秋

 レイテ島の戦いから終戦までをたどっています。
 終戦(日本にとっては敗戦)のとき、天皇とその周辺は、アメリカが天皇制の存続を暗に認めたので、安心して終戦を受け入れることにしたという記述は、やはり新鮮な驚きでした。アメリカ国民の多くは日本の天皇に戦争責任をとらせることを望んでいました。当然です。ドイツのヒトラーは自殺し、イタリアのムッソリーニは処刑されて吊るされたのですから、アメリカ人として、ひとり日本の天皇だけが安泰というのは納得いかなかったでしょう。
 日本の軍部のなかにもクーデターを企画し、行動に移そうとした若手将校たちがいました。そこで、天皇は8月17日、軍に対してもうひとつの勅語を発し、「臣民たるもの、ひとり残らず背くことのないように」と命じた。いやあ、これは知りませんでした。
 マッカーサーとともに上陸したアメリカ軍の将校のなかにも、日本軍の降伏はインチキで、日本軍は裏切り攻撃を意図しているに違いないと疑っている人々がいました。マッカーサーたちが横浜のホテル・ニューグランドで食事をしたとき、副官たちは毒を盛られるのを心配していた。もちろん、このとき何事も起きず、ただステーキが品切れとなって、次の人には魚が供されたとのこと。
 日本に上陸したアメリカ軍の将校たちは、日本軍の将兵が天皇の降伏の詔勅に従うかどうか、心配していたのです。冷静に考えたら、当然の心配ですよね。その寸前までアメリカ軍に勝てると叫んでいたのに、一転して、日本はアメリカに負けました、アメリカ軍に降伏しましょうと言っても、果たして日本人の全員が従うものか、心配になるのは当然ですよね...。
 でも、日本人は、みな、心の底ではもう戦争なんか止めてほしいと考えていたようで、天皇による終戦の呼びかけに、ごく少数の例外を除いて、たちまち受け入れたのです。ここらあたりが日本人の変わり身の早さとして、長所でもあり、非難されるところでもあるのでしょうね。
 日本人は上陸してきたアメリカ兵の生(ナマ)の姿を見て、「鬼蓄米英」、頭に角(ツノ)の生えている人間なんて真っ赤な嘘だと知り、いかに自分たちが騙されてきたのかを知り、これまでの日本軍の指導部を徹底的に軽蔑するようになった。
 アメリカ軍の原爆投下目標は4都市にしぼられた。東京と京都は戦後の交渉相手を確保するために除外された。それで、残ったのは広島、長崎、小倉、新潟だった。広島の次の主目標は小倉だった。ところが、小倉上空はコールタールを燃やして視界を悪くするような民間防衛策がとられていた。小倉上空を1時間もウロウロしたあげく、20分先の長崎に向かった。原爆(ファットマン)を投下したあと、B-29は燃料不足のためテニマン島には帰れないので、沖縄にやっとの思いでたどり着いた。
 沖縄沖の特攻任務で死んだ東京帝大生の佐々木八郎は、24歳だった。
 「日本が資本主義によってどうしようもなく腐敗していて、差し迫った敗戦は革命にとって代わられるだろう、と信じた。
 私は、これを知って、人々の苦悩を自分の金もうけに平気で転じる竹中平蔵をついつい連想してしまいました。
 そして、日本に大空襲をかけて、そのことを前提として日本政府から授勲された例のカーチス・ルメイ将軍について、この本では「生まれつきの自己宣伝屋」だと厳しく評しています。罪なき日本人を一晩で10万人も死に追いやったカーチス・ルメイに対して日本政府は戦後、勲章(勲一等)を授与したのですよね。日本人として、決して忘れてはいけないことです。
 540頁の下巻を何日もかけて重い重い気分で読みすすめました。正直言って、辛(つら)い読書でした。でも、ロシアのウクライナへの侵略戦争が2月末に始まり、もう半年になろうとするのに、今なお、終息の目途はまったくたっていません。日本も核武装したほうがいいなんて、とんでもない意見も飛び出している今日、第二次大戦からの教訓を生かすことは本当に大切だと思わざるをえません。
(2022年3月刊。税込2970円)

2022年8月30日

七三一部隊と大学


(霧山昴)
著者 吉中 丈志 、 出版 京都大学学術出版会

 七三一部隊を支えていたのは京大そして東大医学部の教授たち。彼らのほとんどは戦争犯罪人となることもなく、アウシュヴィッツの医師メンゲレのように身を隠すこともなく、それどころか戦後日本の医学界や製薬会社のトップを占めています。そして、彼らは、「戦争だったから仕方がないこと」だとウソぶいて反省することもなく、真実を明らかにしようともしなかったのです。それは医学界の大きなタブーとなっていました。それを打破したのは『悪魔の飽食』(森村誠一)でした。
この本は、中国・ハルビン市にある「七三一罪障陳列館」の副館長(楊彦君)の著書の翻訳を前編とし、後編は日本の研究者の論文集から成っている、550頁もの大著。お盆休みに早朝から読みはじめ、午後になんとか読了しました。
 七三一部隊とはどういう組織だったのか、総合的にとらえることができます。
 それにしても3000人もの犠牲者を生体実験して、堂々と医学文献に発表するなんて、並みの神経ではありません。犠牲者たちが面前で死んでいき、その遺体が焼却されていくのを知っていたのですから...。
 犠牲者は15歳から74歳までで、女性もいます。中国人、朝鮮人そして白系ロシア人。なぜか病気になった七三一部隊員まで被験者になっています。
 白系ロシア人が看守をだまして反乱を起こしたものの、すぐに鎮圧されたこともありました。なにしろ七三一部隊の実験棟は、外に3メートルもの深い溝があるうえ、その内側に2、5メートルの高い塀があるから、脱出なんて不可能なのです。
 そして、「マルタ」と呼ばれた被験者は憲兵隊がどんどん連れてきます。それは抗日分子だったり、ソ連のスパイだったりします。日本軍に友抗的な人はいくらでもいたでしょう。そして、そんな「反日」の人間は匪賊として、即決射殺してよいという法律が満州国にはありました。面倒な裁判を経ることなく、憲兵隊は即決処刑できたのです。そして、殺すより「人体実験」で役に立たせようと考え、七三一部隊に送り込んだのでした。
 七三一部隊の悪業が世間に知られなかったのは、アメリカ軍が七三一部隊のトップに君臨していた石井四郎軍医中将たちから医学的データの提供を受けるのと交換に免責したからです。取引が成立したのです。石井四郎は、部下たちには墓場まで秘密を持って行けと命じておきながら、自らはアメリカ軍の尋問にペラペラとしゃべり、データを提供したのでした。
 本格的な学術研究書です。大変勉強になりました。
(2022年4月刊。税込3960円)

2022年8月16日

八路軍の日本兵たち


(霧山昴)
著者 香川 孝志 ・ 前田 光繁 、 出版 サイマル出版会

 八路軍(戦前の中国共産党の軍隊)による百団大戦で負傷して捕虜となった日本兵たちのなかに八路軍に共鳴して、その兵士として活動するようになった日本人がいました。
 1940年8月、陸軍伍長だった日本兵(25歳)が戦闘で負傷して昏倒したまま八路軍の捕虜として、八路軍の前線司令部に連行されたのです。八路軍は捕虜を殺さないというのは知っていたけれど、日本軍は中国で聖戦を遂行していると思い込んでいたので、八路軍を容易に使用できなかったのでした。
 戦前の日本軍兵士にとって、生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けるなと叩き込まれていたので、日本軍に戻ることは危険だった。
 そこが米英軍の兵士との大きな違いですよね。彼らは捕虜となって助かる道を選ぶのは当然のこととされていました。ところが、日本軍は自ら捕虜にならないというだけでなく、敵の兵士を捕虜としたとき、簡単に殺害していました。手間がかかるうえに、食糧確保の問題もあったからです。
やがて八路軍の言っていることのほうが正しいことが分かると、延安で日本労農学校を設立し、そこで学習を重ねるのでした。この状況を、アメリカ軍代表部からも視察に来ていました。このアメリカ軍将校は、アメリカ本国への報告のとき、蔣介石の軍隊より八路軍の方が断然良いとしたら、左遷されてしまったようです。
 八路軍の幹部兵士には、日本に留学して日本語ペラペラの人が何人もいて、捕虜となった元日本兵と親密な交流をしました。
 陸軍伍長としては死亡し、別の名前の人間として八路軍の兵士に生まれ変わったのです。八路軍の兵士となった元日本兵たちは、日本軍との最前線に出かけていって、日本兵に投降を呼びかけています。最前線にマイクなんてありませんから、メガホンを使った肉声です。50メートル先は敵(日本軍)の陣地。実際、元日本兵2人が戦闘中に死亡しています。
 7年間に捕虜となった日本兵は2407人、自発的に投降してきた日本兵は115人いた。
このなかから、のべ300人が延安の労農学校に入って教育を受けた。
 反戦兵士が日本軍の部隊に慰問袋(石けん、タオル、日記帳、下着類)を送ると、返礼として、みそやコンブが送られてきた。そこで、さらに酒やニワトリを送ったこともあるという。日本兵から慰問袋のお礼状が3通届いたとのこと。中国の戦場の最前線で、そんな交流があっていただなんて・・・、信じられませんね。第一次大戦中、最前線のドイツ軍とフランス軍の兵士がクリスマス停戦して、交歓していたのは映画にもなりました。
 日本敗戦後、野坂参三は随行員3人を連れて長春(新京)に入り、ソ連軍中佐と少佐の肩章をつけたソ連軍将校の軍袋を着用したので、ソ連軍からそれなりに処遇された。
 そして、野坂参三ともどもシベリア鉄道でソ連に行き、モスクワに1週間ほど滞在した。その後、朝鮮経由で日本に帰国した。博多港に入港したのは、1946年1月12日だった。
 貴重な体験記だと思いました。
(1984年6月刊。税込1320円)

2022年7月21日

満洲国グランドホテル


(霧山昴)
著者 平山 周吉 、 出版 芸術新聞社

満洲のことを今、調べています。叔父(父の弟)が25歳で応召して満洲に渡り、工兵(2等兵)としてトンネル掘りなどしていました。日本敗戦後はソ連軍の下で使われたあと、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の求めに応じて技術員となり、紡績工場で働き、ついでに新工場をたちあげ、指導員として8年ほど働いていたのでした。今、それはどういう状況だったのかを調べているのです。知らないことだらけなので、古い写真もあり、調べれば調べるほど、ワクワクしてきます。
1931(昭和6)年9月に始まった満洲事変のとき、日本人が満州に23万人いた。日本敗戦時には、その7倍近い155万人の日本人がいた。開拓団や青少年義勇団が増えていたのです。「王道楽土」を夢見て内地を出て満州にたどり着いたとたん、開拓団員たちはとんでもない悲惨な現実に直面させられるのでした。
満洲では、日本人が米、朝鮮人が米と高梁(コーリャン)、中国人は高梁が主食として配給されていた。まさしく、目に見えた差別が公然と横行していたのです。これで「五族協和」だと、笑わせます。
錦州は張学良の本拠地だった。石原莞彌が空から爆撃した。
岸信介は、満州国に入って、40歳で実業部の次長となって、実業部の実権を握った。
河本大作・大佐と甘粕正彦大尉の二人は、「一ヒコ一サク」として、ペアを組み、組まされた。河本大作は、日本敗戦後の1953(昭和18)年に拘置所で死去した(71歳)。
満洲には、日露戦争の「成果」としての満鉄付属地があった。ここは、治外法権の地で、日本軍の介入を許さなかった。この満鉄付属地の存在は、日露戦争の勝利によって日本が得た重要な権益だった。したがって、軍部と財務省の協議は難航した。
日本軍は、匪族と良民の分離工作をしたが、これは完全な失敗だった。
日本支配下の満州の各都市には多くの「密吸煙館」があった。そこでは公然とアヘンの吸飲を許した。アヘンについては、専売制を敷いたことから、「専売益金」を担保として借金し、満州国を国営した。
昭和天皇は、将軍に対して、「満州事変は、関東軍の謀略だったとの噂を聞いたが、どうなのか」と質問した。その模範回答は、謀略の存在をはっきり認めつつ、関東軍の所為ではないとするものだった。昭和天皇は、それにうまうま乗せられた。いや、真相を知っていて、「乗せられた」ふりをしただけなのかもしれない。
関東軍は莫大な機密費をもっていた。お金をもっていたのは、陸軍と満鉄。それぞれ3000万円ほど持っていた。
四平街は奉天と新京の中間にある。この四平街には満鉄の図書館もあった。四平街には戦車学校があった。
1935(昭和25)年の秋、満鉄育成学校に入ったが、ここは完全自治の寄宿舎だった。
満洲国立大学ハルピン学院に転院した。少数精鋭なので、1学年100人(うち日本人60人)だった。
ノモンハン事件の前、天皇は国境の不明確なものを、無理することはない、としていた。
知らないこと、オンパレードの本でした。
(2022年4月刊。税込3850円)

2022年7月20日

太平洋の試練(上)―レイテから終戦まで


(霧山昴)
著者 イアン・トール 、 出版 文芸春秋

日米の太平洋戦争を詳細に明らかにしている戦史です。マッカーサー将軍が、いかに自分のことしか考えない、嘘つき放題の人物であったか、いやになるほど暴露されています。
そして、それは、台湾を攻めるのか、フィリピンを攻めるのか、その二者択一の選択に関わっていました。
続いて、地獄のペリリュー攻防戦が詳しく紹介されます。平成天皇がわざわざ足を運んで一躍有名となった小島です。よく出来たマンガ本もシリーズで出版されました。
フィリピンではレイテ島をめぐる攻防戦、例の栗田艦隊の謎のUターンも迫ります。どれもこれも見逃せない戦史です。ところで、私は、この600頁ほどもある部厚い戦史・上巻の巻末の記述に目を奪われてしまいました。紹介します。
日米両軍がレイテ島で死闘を繰り広げたあとの1944年12月。アメリカの艦隊のあらゆる艦内では毎晩、新しい映画が上映された。映画交換艦に指定された駆逐艦には何百本という映画、何千巻というフィルムのライブラリーを管理し、発表された予定表にしたがって艦隊内を巡回した。そして、米軍慰問協会のミュージカル・レビューが艦から艦へとまわり、芸能人は1日に4回から5回も同じ出し物を演じた。
風光明媚な島モグモグには、ピクニック場、テニスコート、バレーボールコート、ボクシングリング、野球場、バーベキュー場、ビアガーデンがあった。そして、水兵たちには、ひとり2缶のビールが配給された。賄賂をつかうと、もっと強い酒も手に入れることができた。毎晩1万から1万5千の下士官兵と、5百から1千の士官で大いににぎわっていた。
いやあ、これって、わが日本帝国陸海軍の兵士さんには考えられないことですよね。せいぜい、軍公認の慰安婦施設があるだけでしたから...(今でも自民党は認めたがりませんが、争いようのない歴史的事実です)。
マッカーサー将軍は、ひたすらアメリカ本国で人気を得て、アメリカの大統領選挙に出ることしか念頭になかった。マッカーサーの配下の下士官兵には、自分さえよければいいというマッカーサー将軍はまったく不人気だった。
マッカーサー将軍は、フィリピンから脱出するときも、レイテ島に再上陸するときも、決して「我々」とは言わず、必ず「私」という一人称をつかった。いやあ、これは、ひどい、ひどすぎますよね...。
この本は、マッカーサー将軍について、「連続作話魔」だと決めつけています。しかし、この本を読むと、それは誇張でもなんでもないことが分かります。日本にマッカーサー将軍とともにやって来たホイットニーは、「作り話とでっちあげた会話だらけの聖人マッカーサー伝」を出版したとしています。その本の内容は、嘘つきが、別の嘘つきから聞いた話を焼き直したものだとしているのです。
いやはや、マッカーサーもホイットニーも、とんだくわせ者だったんですね...。
そして、8月9日のソ連の満州進攻にアメリカが期待していた事実も明らかにされます。つまり、東京にいる現人神(あらひとがみ)である天皇が降伏して停戦命令を出したとしても、満州にいる100万の日本軍は従わないかもしれない、そんな日本軍をソ連軍が撃滅してくれることをアメリカは期待していたというのです。
なーるほど、ですね。中国にいる100万以上の日本軍が天皇の1回の放送でたちまち武器を使わなくなるなんて、アメリカ政府と軍には信じられなかったのです。たしかに、ごく一部でしたが、終戦後も戦おうとして日本軍将兵がいましたからね...。でも、日本兵の大勢は停戦命令を喜んで受け入れたのでした。
ペリリュー島の日本軍兵士は、バンザイ突撃方式で向こう見ずに押し寄せてくるのではなく、物陰から物陰へと横切った、抜け目なく戦い、立場が逆なら、アメリカ海兵隊員たちがそうしたのとまったく同じやり方で攻撃した。
なので、せいぜい4日から5日かで終わるはずの戦闘が、なんとも続いた。
兵力1万1千の日本軍守備隊は、満州にいた関東軍の精鋭第14師団から選抜されていた。
アメリカ海兵連隊は、ペリリュー島の戦闘の最初の8日間で1749人の損害を蒙った。攻撃部隊は56%の死傷者を出し、第一大隊は71%もの驚異的な損害を蒙った。第1海兵師団は67786人の損害を蒙り、そのうち1300人以上が戦死した。多くの生存者もPTSDに悩まされた。
1949年9月15日の上陸から2ヶ月後の11月24日、日本軍のトップ・中川大佐の最期まで戦いは続き、さらに、1947年3月、33人もの日本軍元兵士が投降してきた。
ペリリュー島で戦った2万8千人のアメリカ海兵隊員と陸軍将兵のうち、死傷者は40%、うち戦死者1800人、負傷者は8千人。これに対し、日本軍守備隊1万1千人のほぼ全員が死亡。
レイテ沖海戦において日本艦隊は決定的に敗北した。このとき、栗田は疲れ切っていた。3日前から、一睡もしてしなかった。しかも、旗艦を撃沈され、55歳の海軍中将は海中を命がけで泳がざるをえなかった。
日本軍将兵は軍艦は軍艦と戦うものだと訓練されていたから、上陸中のアメリカ艦船を襲撃するという発想はなかった。
約束された航空支援は影も形もなかった。連合艦隊司令部の愚かさと硬直性について現場には憤満やるかたなかった。栗田は臆病からではなく、司令部への不満、部下の志気の低下によって行動しただけ...。
この本では、アメリカのイルガー提督の美名も、その実像をあばいています。要するに、マッカーサーと同じ虚像だったということです。
私は、前に、沖縄の熾烈な攻防戦について、アメリカの戦史研究家が、アメリカ軍は沖縄で日本軍と死闘をくり広げる必要なんてなかったのだという指摘を読んだことがあります。それよりむしろ、防備のうすい九州、いや本土を直接に攻撃したほうが、終戦は早まったはずだというのです。なーるほど、これも一理あるかなと思います。いかがでしょうか...。
人間ドックで泊ったホテルで一心に読みふけりました。
(2022年3月刊。税込2970円)

2022年7月14日

ボマーマフィアと東京大空襲


(霧山昴)
著者 マルコム・グラッドウェル 、 出版 光文社

アメリカ軍による大空襲によって、東京では一夜にして10万人以上の罪なき市民が殺されました。B29が、大量の焼夷弾を投下したからです。
アメリカは、東京への無差別爆撃を世界で初めて敢行したのは日本。中国の重慶へ無差別爆撃を繰り返したのです。
大都市への無差別爆撃を敢行する前に、日本家屋をアメリカで再現して、ナパーム爆弾の効果を検証していたのです。本書を読んで、初めて知りました。
日本家屋は2戸ずつの棟が12棟、計24戸建設された。仕切りの障子、日本式の雨戸まで完璧に再現された。日本家屋に特徴的な厚さ5センチのわらの敷物(畳のこと)が重要。爆弾が階下に貫通するときの主な抵抗になるから。ナパーム弾を使うと、6分以内に制御不能になる等級Aの火災を日本家屋に68%の成功率でひきおこす。試算すると、ロンドン市内の可燃率が15%なのに対して、大阪中心部では80%、これは都市のほぼ全域。ナパーム弾は、燃えさかる粘着性ゲルの大きな塊をまき散らす爆弾。
粘着性のあるものを使うと、効果がずっと高い。何にでも付着して、輻射(ふくしゃ)熱を直接伝えるから。ナパーム弾は非常に威力が高い。カーチス・ルメイは、B29に最大限のナパームを搭載するため、防御手段は尾部機銃のみとし、余分な装備をすべて撤去した。要するに、日本人を効率よく殺戮することを最優先にしたのです。
3時間の攻撃のなかで1665トンものナパーム弾が投下され、41平方キロにわたって、すべてが焼き尽くされ、10万人をこえる人々が亡くなった。
作戦を遂行したB29の乗員は、基地に帰還したとき、ひどく動揺していた。地獄の入り口をのぞきこんでいる気がしたからだ。
この東京大空襲を敢行したカーチス・ルメイに対して、日本政府は1964年に勲一等旭日大緩章を授与した。よくぞ大量の「不要」な日本人を殺してくれました...というに等しい勲章の授与ではありませんか...。自民党政府が、ここまでアメリカに従属し、奴隷根性そのものであることに怒りとともに涙が抑えきれません。
この本は、精密爆撃が無差別爆撃かという論争が、アメリカとイギリス軍部であったことを明らかにしています。
精密爆撃は口でいうほど簡単なことではない。なにしろ、最大時速800キロで飛んでいて、高度9000メートルの飛行機から、爆弾を投下する。地上に落ちるまで30秒ほどかかる。これは大変な計算を必要とする。そこで、ノルデン爆撃照準器が開発された。
ナチス・ドイツのボールベアリング産業(工場)を連合軍の飛行機が爆撃した。ボールベアリンクは軍需産業の基礎をなしている。ところが、作戦に参加した乗員の4人に1人が帰らぬ人となった。あまりに高率が悪いとして中止された。ところが、ナチス・ドイツ側では、もし連合軍がボールベアリング工場への爆撃を続けていたら、まもなく、息の根が止まっただろうとみていた。いやあ、歴史では、そんなことも起こるのですね。
そこで市民の戦争意欲をくじくために都市への無差別爆撃が敢行された。しかし、攻撃が市民の士気をくじくことはなかった。かえって戦意を高めた。しかし、イギリスはそれを知っても、なお、ドイツは違うはずだと、ドイツの大都市への無差別爆撃を敢行した。
戦争というのが、いかに非人間的であり、非論理的なものであるが、今のロシアによるウクライナ侵略戦争のリアルな映像を見ても、つくづくそう思います。
(2022年5月刊。税込1870円)

2022年4月19日

731部隊全史


(霧山昴)
著者 常石 敬一 、 出版 高文研

南京大虐殺なんてなかったという嘘を信じたい人は、戦前の日本軍が虐殺なんかするはずがないと思い込んでもいます。でも、七三一部隊が満州(中国の東北部)で大勢の罪なき人々を人体実験の材料としつつ、殺害していったのは歴史的事実です。そして、この本を読むと、この七三一部隊の所業が戦後日本の現在に至るまで受け継がれていることがよく分かります。
その一つが、結核ワクチンである乾燥BCG。陸軍の石井機関が乾燥BCGを研究・開発したことを隠し、BCGを結核予防法の中心にすえ、日本は結核対策に取り組んだ。しかし、それは失敗だった。
現在、日本は結核の中まん延国になっている。2019年、日本の結核患者数は10万人あたり11.5人。これはフランスが8.7人、イギリスが8.0人に比べて、明らかに高い。にもかかわらず日本の結核対策は成功したという誤解・幻想が今なおはびこっている。うむむ、これは知りませんでした。
その二は、医学界です。東大そして京大教授が石井機関の嘱託となって、石井の求めに応じて弟子たちを七三一部隊に送りこんだ。そして、そのことを戦後は口をつぐみ、反省していない。嘱託をつとめた研究者は自分の手を汚すことなく、七三一部隊での研究は弟子たちの責任だとした。そして、戦後に発足した予防衛生研究所の初代、次いで二代目所長に就任した。この二人、慶大教授の小林六造と東大教授の小島三郎の名前を冠した医学賞が今に続いている。
七三一部隊がやったことの主要な問題点は、人体実験を実施したこと、そして細菌戦の試行。日本の敗戦直前の8月9日にソ連が攻め込んできたとき、日本陸軍は七三一部隊の即時全面撤退を決め、本部にいた4千人の部隊員のほぼ全員が8月末までに家族ともども日本に帰り着いた。そして、帰国する前、4日間かけて建物を爆破し、収容していた数百人を殺害した。
石井機関の予算は、7年間で1262万円。1931年の5.2万円、1935年の108.8万円。そして1937年の911万円と、ずば抜けて高額だった。
軍医にとって、七三一部隊は名誉、それに死なずにすむというメリットがあった。軍医にとって、戦場に出る危険性が少ない部隊で研究ができ、論文が書け、学位を得るのは大変好都合なことだった。
七三一部隊では人体実験の対象となった人々を「マルタ」と呼んだ。人と見ていない、まさに使い捨ての材料としか考えていなかった。被験者を生きた状態で解剖し、臓器を取り出していた(もちろん、その人は死に至る)。人体実験をふまえた論文のなかでは、被験者を「サル」としているが、それが虚偽であることは、サルが「頭痛を訴えた」とも書いていることから明らかだ。たしかに、「サルが頭痛を訴える」なんて、考えられません。
石井部隊が細菌戦を中国現地で敢行したとき(1942年の淅贛(ズイガン)作戦)、日本軍は七三一部隊の細菌爆弾によって、1万人がコレラにかかり、1700人もの死者を出した。このことは、七三一部隊による細菌戦は決してうまくいかないことを実地で疑う余地なく証明した。
戦前の七三一部隊の亡霊が現代日本でものさぼっていることを知ると、背中に冷や水が流れます。
(2022年4月刊。税込3850円)

 日曜日の午後、フジバカマ4株を植えつけました。前に1株すでに植えていますので、これで5株です。秋に花が咲いてアサギマダラがやってくることを願っています。
 いま、庭にはまだチューリップが咲いています。3月半ばからですから1ヶ月間はチューリップに癒されました。最後は純白の花でしめてくれます。オレンジ色の小さな花を咲かせるヒオウギ、紫色の矢車菊、うす紫色のシラー、そしてアイリスです。ジャーマンアイリスも、つぼみがふくらんできました。5月に入る前に花が咲きそうです。
 春は三寒四温といいますが、春の気配から、ときに初夏を思わせることもあります。
 ロシアの無法な戦争が2ヶ月近くも続いています。長期化しそうな気配もあり、本当に心配です。一日も早くロシアによる戦争をやめさせなければいけません。核兵器なんて、とんでもないことです。

2022年4月16日

「経済戦士」の父との対話


(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 浪速社

1942(昭和17)年5月、広島の宇品港を出航して3日後、大洋丸は鹿児島の男女群島沖でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈された。犠牲者は著者の父をふくむ800人余。亡父の遺体は遠く韓国の済州島に打ち上げられた。亡父は、今の武田薬品の社員15人の1人として、インドネシアへマラリヤの予防薬キニーネの原料であるキナ皮の確保に行こうとしていた。
大洋丸には、陸軍が選んだ百社のエリート社員・技術者千人が乗船していた。彼らは戦場でたたかう戦士と区別して、経済戦士、企業戦士あるいは産業戦士と呼ばれていた。
大洋丸は敵潜水艦に対する十分な備えのない、まるはだかの状態で進んでいた。
陸軍本部は想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が広く明らかになったのは戦後のこと。
亡父死亡のとき、著者は1歳2ヶ月。当然のことながら、亡父の記憶は何もない。母は当時27歳で、その死は86歳のとき。亡父は、1年間の志願兵をつとめたあと武田製薬に入社した。亡父は武田製薬に会社員として勤めながら、俳人として活動するようになった。いわば二つの顔をもっていた。
亡父が俳句をはじめたのは18歳のとき、新宮中学校に在学中のころ。
亡父は大阪薬専に入ると、松瀬青々の主宰する俳句誌『倦島』に出稿しはじめた。
松瀬青々は、俳句にリアリズムを求め、俳句を「自然界の妙に触れるとともに、人間生活の浄化をはかるにある」という「自然讃仰」の立場をとっていて、亡父はこれに共鳴した。青々の門下である西村白雲郷が句誌『鳥雲』を創刊すると、22歳の亡父は、その同人となった。
亡父は軍務として、1941(昭和16)年5月、中国大陸の上海や南京に行っています。南京大虐殺のことは知らされていなかったようですが、紫金山麓の野中に日本と中国の戦没者の墓標が並んでいるのを見て一句を読んでいます。
墓標二つ 怨讐とほく 風薫る 
怨讐とは、恨んで仇とすることです。
亡父の会社員のときの写真が紹介されています。著者に似ているというより、はるかに精悍な印象です。会社員として、かなり出来る人だったのではないでしょうか...。
亡父の日記を紹介し、著者は次のように亡父を評価しています。
「父は、自分を客観的にみつめ、きちんと自己評価しようと心がけた人だったようだ。自己を過大評価したり、自信過剰に陥ることを恐れていたようにも思われる」
さらに、亡父について、著者はこう評しています。
「父が為政者、マスコミにいささかも疑問をもたなかったのは残念であり、その意味で父は普通の人だったと思う」
反戦、反権力の弁護士として活躍し、大阪で生きてきた著者は、亡父の俳句や日記を整理するなかで、自分とよく似た性格、感性、心情などを見出し、喜び、親子の絆を強く感じたとのこと。同時に、この作業は、父の思想に疑問を投げかける無言の「対話」でもあったという。
そして、最後に、著者は亡父をしのびつつ、感性豊かで詩情にあふれ、文才のある人が、早々に生を終えざるをえなかったことを無念に思い、あらためて許しがたい戦争であり、為政者だったと結んでいる。
著者から贈呈していただきました。貴重な労作です。ありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1650円)

2022年4月 1日

奄美・喜界島の沖縄戦


(霧山昴)
著者 大倉 忠夫 、 出版 高文研

著者は横須賀で活動してきた弁護士ですが、父親が喜界島からの出稼ぎ労働者で、戦前(1939年7月)、父とともに喜界島に渡り、8歳から戦後(1949年3月)17歳まで喜界島で生活していました。
沖縄戦がたたかわれたときには、喜界島にいて危ない目にもあっています。その自分の体験をふまえて喜界島と沖縄におけるアメリカ軍との戦闘を刻明に調査し、再現しています。580頁もある大作ですが、著者の執念深い調査によって本当に詳しく沖縄戦の実情を追体験することができます。
喜界島ではアメリカ軍の飛行機が墜落し、逮捕・連行された2人のアメリカ兵を日本軍が斬首してしまうという事件も起きています。戦後、そのことが明るみに出て、2人の日本兵がアメリカの軍事法廷で死刑判決を受け、1人は処刑されています。もう1人はなぜか減軽されて、やがて釈放されました。
戦前の喜界島の人口は1万5千人。小学校(国民学校)は6校あった。
喜界島に日本兵が3千人もいて、島民は軍の対空砲火は集落を守るためにも使われると信じていた。しかし、日本軍が島民を守ってくれるというのは、アメリカ軍の空爆が始まるとたちまち幻想でしかなかったことが明らかになった。
アメリカ軍による空爆が激しくなって、著者たちはムヤ(喪屋)に潜り込んだ。これは先祖が掘った古い横穴式の風葬跡である。
宇垣まとい将軍は敗戦が決まったあと、部下22人(11機)を自らの自殺につきあわせた。これは本当にひどい話です。うち3機は途中で不時着していますので、結局16人が無理心中のようにして亡くなったのでした。
喜界島の全戸数4千戸のうち半分近くが空爆のため焼失してしまった。
8月15日のあとも沖縄の兵士は戦闘を続けたようです。9月5日に日本軍は降伏式にのぞみ、ようやく戦争が終わりました。
喜界島のアメリカ兵捕虜斬殺事件では、一番の責任者である伊藤三郎大尉が戦後いち早く行方をくらましてしまい、アメリカ軍は裁判にかけることができなかった。そこで、裁判のストーリーには、伊藤大尉は出てこないように検察官は苦労した。
この横浜で開かれた軍事法廷は、ともかく十分な弁護権が行使できなかったようです。
91歳にもなる著者が長年の調査・研究の成果を1冊の本にまとめたことに心より敬意を表します。私が45年前に横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)に所属していたとき、著者と面識がありました。お元気であること、かつ、大著をまとめあげられたことに驚いてもいます。喜界島から見た沖縄戦、とくに日本軍の特攻作戦の実際がよく分かる本です。
(2021年11月刊。税込3300円)

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