弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2016年12月 2日

元老

(霧山昴)
著者 伊藤 之雄 、 出版  中公新書

元老というコトバは、現代日本では死後同然ですが、なんとなく意味するものが今の私たちにも想像できます。
元老とは、紀元前9世紀から前7世紀の中国の古典にみられる年齢・名望・官位の高い長老といった一般的用語が、近代に入って特別な制度をあらわすのに使われるようになったコトバ。その由来や制度形成の過程は曖昧である。
桂太郎を元老とするのは誤りである。元老は元勲とは異なる。
1989年(明治31年)の1年間で、元老は名実ともに確立し、一般にも認識されるようになった。
明治天皇は、21歳になった1874年でも、表の政治に影響力を及ぼすことはできなかった。明治天皇は30歳代前半になっても表の政治に影響力を振るうことを許されなかった。
西南戦争は、大久保体制の下で戦われた。その大久保は、1878年(明治11年)5月14日、47歳で暗殺されてしまった。そのあとを継いだのが伊藤博文で、36歳だった。
伊藤博文は、人に好かれる気さくで飾らない人柄だった。藩閥にこだわらず、長期的なヴィジョンをもって日本の立憲国家の形成を目指して、現実的に問題を処理する能力があると他のリーダーたちに認められた。
伊藤は足軽出身だったが右大臣になった。破格の待遇だった。藩閥中枢8人のなかで、伊藤が飛び抜けて地位が高く、山県、黒田と続き、かなり離れて井上、そして松方という序列だった。これは、明治天皇がこの5人の屋敷に行奉した順番や時期から分かる。
1887年(明治20年)に、伊藤に対する批判が強まっても、天皇は信頼する伊藤の辞任を許さなかった。天皇と皇后は、新しくできる憲法のなかでの自分の役割を理解し、かつ伊藤への揺るぎない信頼をもつようになった。憲法のなかでの自分の役割を確信した明治天皇は、大久保利通のあとを継いで伊藤が国政の根幹をつくり、さらに帝国主義や皇室典範を制定したことを高く評価した。そこで、臣下に与える勲章そして、それまでの旭日大綬章という勲章を制定して伊藤のみに与えた。
伊藤のバランスのとれた知識と判断力を信頼し、明治天皇は日清戦争の終了までの間、文官の伊藤に対し、非軍事・軍事にかかわらず、重要問題の下問をしばしば行った。
大津事件が起きたとき、大国ロシアと戦争になるのではないかという恐怖が日本国中に走った。この大津事件に際して、明治天皇への助言者としての主導権は、松方首相以下の閣僚にはなく、断然、伊藤にあった。
初期の議会において、政党にどのように対応するかをめぐり、藩閥内が大きく亀裂したため、元老が形成された。
1903年(明治36年)ころまでには、元老は、後継首相の推薦に関わる慣例的なポストという意味と、特定の分野の最高権力者・実力者の意味で使われるようになった。
日清戦争後、伊藤が政党に接近するのに反発した藩閥官僚たちは、反政党の姿勢を明確にし、陸軍への影響力を保持していた山県に接近していき、山県が台頭していった。
伊藤が政友会を創設したことは、山県らには許しがたいことだった。
元老の一人である西郷従道は、度胸があって決断力のある人柄で、海外体験と外国語能力に裏打ちされた幅広い視野をもった人物である。ところが、兄隆盛と対決して死なせてしまったことを負い目とし、海相以上の晴れがましい地位には、決して就こうとしなかった。
日露戦争後に元老は権力を衰退させていったが、伊藤はそのなかで明治天皇の信任を背景として、もっとも高い地位にあり続けた。天皇は、伊藤を山県より上であると公然と位置づけた。天皇は、伊藤が韓国統監を引退した日に勅語を与え、10万円(今の14億円)を下賜した。伊藤が暗殺されたときの国葬も天皇の意思で決められた。
桂太郎は、元老たちから元老として扱われず、まもなく政治的に失脚して死去した。桂は元老になることができなかった。
大正天皇の時代、山県ら元老たちの行動に公共性がなく、権力の正当性がないと国民がみるようになったことで、元老の高齢化に伴い、政治的実力は低下し、政党が台頭するなかで、法的根拠のない元老の正当性が問われるようになった。
日本の元老制度の実態がよく分かる本です。
(2016年6月刊。880円+税)

2016年11月29日

戦場の天使

(霧山昴)
著者 浜畑 賢吉 、 出版  角川春樹事務所

戦争中、動物園にいた動物たちの多くが殺されてしまいました。毒入りのエサを警戒して食べない動物は餓死させられたそうです。人間だってろくに食べられない状況では、飼っている動物にやるエサがない。空襲にあってオリが壊されて猛獣が市街地に出ていったら大変。そんな人間の身勝手が罪のない動物たちを次々に殺していったのです。
この本は、上野動物園に飼われていたヒョウが高知市にある科学図書館におさめられたヒョウのはく製になった由来を紹介しています。このヒョモもまた、戦争の犠牲者なのです。
「戦場の天使」とはヒョウのこと。なんでヒョウが「天使」なのか・・・。
高知県出身者から成る日本軍の部隊が、中国の揚上江中流域にある湖北省陽新県に派遣され、駐屯していた。
ある日、「敵兵見ゆ」の情報で山中に出動すると、「敵兵」の正体は、なんとヒョウ。
ヒョウは、人間の赤ん坊を襲っていた。そこで、ヒョウ退治に出かけた日本軍の兵士が、なんとヒョウの赤ちゃんを2頭も救出してしまった。さあ、大変。ヒョウの赤ちゃんを助けるのか、助かるのか・・・。
生肉を与えると、ヒョウの赤ちゃんは元気を取り戻して生きのびた。
部隊では愛犬ならぬ愛ヒョウとして、兵士みんなに可愛がられる人気者となった。
ヒョウは「ハチ」と名づけられ、愛情一杯で育てられて大きくなった。決して人間は襲わない。しかし、ヒョウの本能を失ったわけでもない。部隊の斤候の役割も果たした。
ヒョウも兵隊も楽しい時期は過ぎていき、部隊は転進することになった。
人間に飼われていたヒョウは、自分のことを人間と思っているので、自然の中へは返せない。かといって、見知らぬ人間社会に野放しするわけにはいかない。そこで考えついたのが、日本の動物園へ送って預けること。
そうやって、中国のヒョウが東京は上野動物園におさまったのです。
そして、東京が空襲にあうようになり、ついに毒殺されてしまったのでした。
人間だって、次々に殺されていったのが当時の世の中です。ヒョウが毒殺されたのはやむをえなかったでしょう。やっぱり戦争が良くなかったんだ。そう思いました。
この本は小学高学年から中学生に向けていますので、漢字にはすべてルビが振ってあります。そんなルビが気にならないほど、思わず惹きこまれました。大人が読んでも考えさせられる本になっています。
(2003年8月刊。1300円+税)

2016年11月10日

「南京事件」を調査せよ

(霧山昴)
著者 清水 潔、 出版  文芸春秋

「南京事件」について、今も「幻」だったとか、「日本軍が虐殺なんてするはずがない」として否定する人がいますが、信じられません。最近亡くなった三笠宮は、日本軍が南京で大虐殺したことを再三にわたって明らかにしています。
この本は、最近、日本テレビがNNNドキュメントとして放映したテレビ番組の苦労話をまとめたものです。マスメディアがこうやって勇気をもって真実を掘り起こしたことを私は高く評価したいと思います。NHKにも、ぜひ別な角度から迫った番組をつくってほしいものです。
問題は被害者の人数が20万人か30万人かではありません。南京事件は一日だけの戦闘行為ではないのです。
その現場は南京錠内や中心部だけではない。南京周辺の広範囲の地域で起きている。時期も6週間から数ヶ月という期間だ。
「当時20万人しかいなかった南京市街」などという限定はまったく意味がない。日本軍は、長崎から飛行機20機を飛ばして、連日、爆弾を投下していた。そのとき「邦人保護」という説明は無理。
この番組(本)では、南京での虐殺現場にいた福島出身の上等兵の日記を紹介しています。そして、その日記を他の兵士の日記などで裏付けているのです。
これを読んで「大虐殺が幻だった」などという人は、ただ真実をみたくないというだけです。
(1937年)12月16日 2、3日前に捕虜にした支那兵の一部5000名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺する。そのあと、銃剣にて思う存分に突刺す。自分も、このときとばかり憎き支那兵を30人も突刺したことであろう。
次は、別の少尉の陣中日記。
12月16日。捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
さらに、別の少尉の陣中日記。
12月16日。捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し、射殺する。
別の伍長の出征日誌。
12月16日。2万の捕虜のうち3分の1、7千人を今日、揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。
別の二等兵の戦闘日誌。
12月16日。捕虜三大隊で3千名、揚子江岸にて銃殺する。
別の伍長の陣中日記。
12月16日、捕いたる敵兵約7千人を銃殺す。揚子江岸壁も、一時、死人の山となる。
そして、12月16日だけではなく、翌12月17日にも捕虜虐殺は続いている。
日本軍は中国軍を捕虜にしたものの、水も食料も与えることが出来ずに困った。日本軍自身が十分な食料を持っていなかったから、困ったのは当然だった。それで、捕虜を虐殺し、その死体は揚子江に流した。死体を埋めたわけではない。
南京城内の「安全区」の人口は十数万人だったかもしれないが、南京周辺は100万人ほどの人口となっていた。
この本を読むと、今の日本では歴史の真実を語ることに大変な難しさがあること、しかし、それを私たちは乗りこえなければいけないことを痛感します。その点、マスコミ人々は、とりわけNHKで働く人々は、もっと勇気をもって行動していただくよう期待します。
私は残念ながらテレビ番組自体は見ていません。そんな人には、とりわけ一読をおすすめします。
この番組にサンケイ新聞が「幻」の立場からケチをつけているとのこと。信じられません。真実から目をそらしたジャーナリズムって、いったい何なのでしょうか・・・。
(2016年9月刊。1500円+税)

2016年11月 2日

大元師と皇族軍人

(霧山昴)
著者 小田部 雄次、 出版  吉川弘文館

昭和天皇は戦争遂行と密接に関わっていた。何も知らなかったとか軍部にだまされていたというのは事実に反する。昭和天皇は、当時もっとも多くの情報を得ていた。戦争の大きな流れも、現地の戦闘情況もおおむね報告されて知っていて、それらに指示も与えていた。
昭和天皇こそが戦争指導の指揮権を握っていたのであり、ときに軍部を叱責することがあった。とはいえ、昭和天皇は、はじめから計画的に世界征服を考える侵略主義者でもなかった。むしろ、英米と協調しながら軍縮や戦争放棄への道を目ざした時期もあった。
昭和天皇は、学習院初等学科5年生、11歳のときに陸海軍少尉となった。しかし、士官学校も海軍兵学校も経験しなかった裕仁(ひろひと)の軍事的技能は一般の職業軍人と比べて優秀であったとはいいがたい。
昭和天皇はヨーロッパに行ったとき、第一次世界大戦の激戦地の跡に立って自らの目で確かめた。まずは世界戦争の惨禍を心に焼き付けた。
 ヨーロッパ旅行から帰って以降、昭和天皇はベットにじゅうたん、イス式の生活で統一し、和服は一切着なかった。晩餐会では、軍服ではなく、モーニングか燕尾服にした。そして側室制度を廃した。子どもたちは、みな本当に皇后が産んだようです。
 昭和天皇は憲法順守と国際協調を重視し、軍の革新運動には好意的ではなかった。そのことが、かえって軍部や民間右翼に「君側(くんそく)の奸(かん)」論による側近攻撃を活性化させ、以後のテロ・クーデター事件を誘発したとも言える。
 昭和天皇の弟たちは、陸軍士官学校、海軍兵学校に入り、相応の勉学と訓練を重ねて、卒業後に少佐となり、さらに現場で勤務しながら順次、佐官、将官となっていった。
 1928年に起きた張作霖爆殺事件の処理をめぐって、昭和天皇の政治的・軍事的判断はしばしば軽視された。そのことから昭和天皇は軍部と政治への対応に苦慮した。
 また、1930年の軍縮条約のときに、軍部の艦隊派は31歳の昭和天皇を軽んじる動きをみせた。1931年の満州事変の勃発に際しても、昭和天皇の許可なく朝鮮軍が独断で出兵した。
 結局、昭和天皇は、最終的には、軍のつくった既成事実を追認してしまった。
軍は、自らの「野心」を遂げるため、昭和天皇の「寛容さ」にも利用していった。
皇族たちは参謀総長や軍令部長になり、「キングの側」に立って軍を抑えるというより、政治活性化した軍に利用されることで、それぞれ陸軍や海軍の意向を直接に天皇に上奏する立場となった。
皇族軍人たちは、政治的に台頭する軍部や右翼に担がれ、かつ皇族自身も自らの見解を政治や軍事に反映させようとするようになっていた。そのことが軍部や右翼の非合法活動をさらに増長させ、ついには二・二六事件を引き起こしたと言えなくもない。
 昭和天皇と、それを取り巻く皇族たちの動きが軍部との関係が深く分析されていて大変興味深い内容でした。
 天皇を表看板に出して、実は軍部が天皇を軽んじて独走していたこと、昭和天皇といえども、軍の暴走を止めることが出来なかった(まったく出来なかったわけではないのでしょうが・・・)ことがよく分かる本です。


(2016年7月刊。1900円+税)

2016年10月10日

古文書の語る日本史(7)

(霧山昴)
著者  林 英夫 、 出版  筑摩書房

 江戸時代の文書がよく保存されていることに驚かされます。もちろん戦災にあって焼けたのもたくさんあるとは思いますが・・・。日本人が昔から書くことを大切にしてきたこと、識字率が高かったことを反映していると思います。
先日の映画『殿、利息でござる』は仙台藩のなかでの実話にもとづいていることを紹介しました。この本にも、似たような話が出ています。
尾張国でのこと。村内の有力者を語らって金銭を集め、貧民に支給するという「民恵銭(みんけいせん)」運動が実践された。言葉だけでなく、「恵(めぐみ)」(金銭)を支給して貧民を救済することが先決であることを村内の高持(たかもち)層に説き、毎月の集金積立をもって、天明元年(1781年)10月から80人の貧者に頭(かしら)百姓16人の出金と、67人の貸主の利子捨(すて)のもとに76両1分と890文の基金からスタートして、救い方を実践した。
 また、天明2年からは、木曽川の修築事業を「自普請」と称して村々の篤志家の協力を得て、いわば「民力」による改修事業をしている。それは窮民に職を与え、なんらかに日雇賃銭を得されるために、篤志家たちを集め、貧窮する農民たちに篤志者みずから賃銭を支給して人を集め、普請場に行って改修作業に参加することだった。普請場に2千余人の人々が集まり、にぎにぎしい「御冥加普請」がなされた。そこに藩主宗睦も鷹狩に託して工事現場にやってきて、床几に腰をおろし、責任者に酒をやった。
いやはや、まるで先の映画の世界です。すごいことをしていたのですね・・・。
 一揆のときにも「扱い人」と称する仲裁・調停人が仲介して紛争を収拾したという話も紹介されています。江戸時代というのは、まことに奥の深い社会だったようです。単に暗黒時代として忘れ去るべきではありません。本棚にあった古い本を読み返しました。
(1989年10月刊。3300円+税)

2016年10月 5日

戦争まで

(霧山昴)
著者 加藤 陽子、 出版  朝日出版社

 30人ほどの中高年に向けて、大学教授が日本が対米戦争に踏み切るまでの経緯を問答形式をとり入れながら語っている面白い本です。心と頭の若くて柔らかい中高生時代をとっくに過ぎた私ですが、最後まで面白く読み通しました。
話を聴いていて、ときにある著者からの問いかけに対する中高生の答えの素晴らしさは声も出ませんでした。これって、ヤラセじゃないのと、つい頭の固いおじさんは疑いたくなるほど見事な回答なのです。
戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。
戦争は、相手国と自国とのあいだで、必ず不退転の決意で守らなければならないような原則をめぐって争われている。相手国の社会の基本を成り立たせてる基本的な秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ。
天皇は2015年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞において、戦後の日本の平和と繁栄を築いたものは、「平和の存続を切望する」国民意識と国民の努力によると語った。
この点、私もまったく同感です。安倍首相の言葉には、まったく欠落している視点です。
1931年9月の満州事変のあと、国際連盟は現地にリットン調査団を派遣した。そして、翌1932年10月にリットン報告を発表した。
日本側は、中国国内の国共対立、日本製品ボイコットの実情をリットン調査団に見せようとした。必ずしも日本の不利になるとは考えていなかった。
リットン報告書は、日本軍の軍事行為は自衛の措置とは認められない。満州国は日本のカイライ国家であり、現地の人々の支持を受けていない。日本製品ボイコットは国民党政府が組織したもの。この三つが持論だった。
リットン報告書は、十分過ぎるほど、日本側に配慮していた。そして、中国側はこの報告書に不満だった。つまり、リットン報告書は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざま工夫したものだった。
戦前の日本の外交・軍事の暗号がアメリカ軍にあって解読されていたことは、有名です。山本五十六元帥も、そのため撃墜されてしまいました。ところが、この本によると、日本側もアメリカの外交電報の9割は解読していたというのです。
アメリカほどではないにしても、かなり高い解読能力を有していた。これは、ちっとも知りませんでした。
戦争が、相手国の権力の正統性原理への攻撃であったとすれば、その攻撃の為に敗北し、憲法を書き換えられることとなった当事者である日本人として、戦争それ自体の全貌をちゃんと分かっていなければならない。しかし、沖縄を例外として、戦場が主として海外であったこと、戦争の最終盤があまりにも悲惨だったことで、日本人は戦争を正視するのが、なかなか難しかった。
飛耳長目の道。あたかも耳に翼が生え、遠くに飛んでいって聞いているように、自国にいながら他国のことを理解することであり、また、あたかも望遠鏡のように遠くを見通せる「長い目」で眺めるように、現在に生きながら昔のことを理解できること、という意味。つまり、自国にいながら他国にことを理解し、現在に生きながら昔のことを理解するのが学問であり、その極めつけが歴史なのだ。
中高生を目の前にして戦前の日本を振り返ると、話すほうにも得られるものが大きい。このように書かれています。なるほど、そのとおりだろうと、この本を読んで思いました。
巻末に参加した中高生全員の氏名が学校名とともに紹介されています。すごい子たちです。日本も、まだまだ見捨てたものではありません。
(2016年8月刊。1700円+税)

2016年10月 4日

大本営発表

(霧山昴)
著者  辻田 真佐憲 、 出版  幻冬舎新書

 いい加減な政府当局の発表を今でも大本営発表と言いますよね。安倍首相は、いくつも大本営発表しています。たとえば、オリンピックを東京に誘致するとき、原発事故は完全にコントロールしていますなんて、真っ赤な大嘘を高言しました。また、アベノミクスで国民生活が豊かになる(なっている)かのような幻想を今なお振りまいています。
 この本を読んで、堂々たる嘘を戦争中ずっと高言してきた大本営発表の本質を知ることができました。それは、一言でいうと、軍部と報道機関の一体化にある。でしたら、今の日本のマスコミも、NHKをはじめとして、権力にすり寄ってアベノミクス礼賛がほとんどですから、似たような状況にあるってことじゃないですか・・・。恐ろしいです。
 大本営発表は1941年12月8日からと一般に言われ、846回の発表がなされた。しかし、実は、その前の1937年12月の南京攻略のときにもあった。
昭和の大本営は、敗戦の年まで首相の参加を認めていなかった。その実態は陸海軍の寄合所帯にすぎなかった。参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部と名乗っていた。統合されたのは、1945年5月のこと。敗戦の3ヶ月前だった。
 当初は陸軍が熱心で、海軍将校は報道を無用なおしゃべりとみなし、チンドン屋と呼んでバカにしていた。
当初は、軍当局は新聞をよくコントロールできていなかった。それは新聞各社の部数拡大をめぐる熾烈な競争があったから。そして、報道合戦に勝ち抜くためには、軍部との協力が不可欠だった。
新聞はジャーナリズムの使命感というより、単なる時局便乗ビジネスに乗っていただけ。これは毒まんじゅうだった。軍の報道部と新聞は、いつのまにか持ちつ持たれつの関係になっていた。
 1941年12月8日からの大本営発表は戦争報道を一変させた。新聞に代わってラジオが全国に速報する役目を担った。聴く大本営発表の時代が到来した。同時に軍歌が流された。
「ソロモン海戦に関する大本営発表は実にでたらめであり、ねつぞう記事である」
これは、昭和天皇の弟である高松宮(海軍中佐)が日記にかいた文章。
日本軍は情報を軽視していた。事実を確認することなく(確認できず)、戦果を誇張して発表し、それに自ら騙され、しばられていった。
 ミッドウェーでの敗北を発表すると、国民の士気が衰えることを心配した。大本営は国民を騙しただけでなく、海軍にも正確な情報を伝えなかった。
サボ島沖海戦で手痛い敗北を受けると、作戦そのものをなかったことにしてしまった。
国民は三重に目隠しされた。日本軍の情報軽視により、戦果の誇張がおきる。そして、損害の隠蔽が起きる。さらに、ジャーナリズムの機能不全に陥る。
軍部の感覚はマヒしていた。前回もやったことだから、今回も損害を隠蔽してしまおう。これも士気高揚のためだ。いまさら嘘を覆すわけにもいかない。マスコミは自由自在に動かせるから、どうせ国民にばれることもない。
「玉砕」という言葉は、大本営から反省する機会を奪った。ただし、「玉砕」という言葉のごまかしは1年間のみ。戦局があまりに悪化したため、美辞麗句ではもうごまかせず、「全員戦死」とストレートに表現されるようになった。
 ジャーナリズムが軍部当局、ときの権力にすり寄り、一体化してしまうと大変な不幸を日本にもたらすのですね。最近、アメリカのF35戦闘機を購入するというニュース映像が流れましたが、一機いくらするのか、何のために日本がこんな戦闘機を購入するのか、欠陥があるとの指摘はまったくありませんでした。ひどいニュースは、もう始まっています。
(2016年8月刊。860円+税)

2016年7月21日

わが少年記

(霧山昴)
著者  中野 孝次 、 出版  彌生書房

 日本敗戦時に20歳。戦前に生まれ、小学校高等科を卒業したものの中学校には進学できず、父親の下で大工見習いをした。しかし、独学で勉強して、高校(熊本の五高)に入り、勉強の途中で召集令状によって兵隊にとられたという体験が小説化されています。
 ここでは、わずか4ヶ月間ではあったけれど、苛酷な軍隊生活について紹介します。
 軍隊という特殊な閉鎖社会にいた120日の体験は、ただ陰惨な奴隷の日々以外の何物でもなかった。みずからの意思も判断力もない一個の単位として、古兵たちの命じるままに動き、古兵の脚にとびついてゲートルをとらせてもらい、ひたすらその気まぐれを怖れる存在でしかなかった。そこには、一切の「私」の時間がないばかりか、「私」というものは許されなかった。
軍隊教育とは何か・・・。それは、人間の個性、個体差、感情、自主判断、思考力など、あらゆる「私」の部分を削りとって、人間を命令どおり均一に行動する戦闘動物に仕立てる教育である。そこでは、個人の尊厳などは一切認められず、いわば、人間を戦う奴隷に仕立て直す教育である。
 日本陸軍には、「しごかなければいい兵隊にならない」という奇妙な教育観が伝統的にあって、陰湿なイビリが黙認されていた。殴れば殴るほど、兵隊はよくなるという、暗黙の了解が軍隊にはあった。
 軍隊とは、兵隊の中の「私」を徹底的に摩滅せしめ、規格的な戦闘員に仕立てる組織であった。そのことを可能とする根拠として、絶対的な階級制度と命令系統とがあり、それを貫く精神的原理として「天皇の股肱」たる軍隊という考え方があった。
 敗戦後、きのうまで天皇の軍隊と称し、すべて天皇からの賜りものといっていた将兵たちが、敗戦と聞いたとたんに、軍の物資を略奪しはじめた。個にかえった兵とは、こんなにも醜いものだったのか・・・。
戦前に多感な思春期を過ごした著者の無念さ、やるせなさが惻々と伝わってくる本でした。本棚の奥にあった古い本を探し出して読んでみたのです。
(1997年3月刊。1553円+税)

2016年7月15日

昭和史のかたち

(霧山昴)
著者  保阪 正康 、 出版  岩波新書

 昭和という時代は、62年と2週間のあいだ続いた。明治は45年までですからね。
 東條英機は陸軍士学校出身の高級軍人、吉田茂は東京帝大法学部出身の外交官、
田中角栄は自らの力でのし上がっていった庶民。この三人の総理大臣の共通点は何か...。三人とも獄につながれた経験があるということ。
 東條は巣鴨プリズンに収容され、絞首刑となった。吉田は敗戦の年(1945年)4月に陸軍憲兵隊から逮捕された。目黒区の小学校の教室が牢獄代わりになっていた。田中は、戦後まもなく逮捕されたのは、一審有罪、二審無罪になったが、ロッキード事件で逮捕され、その裁判の途中で亡くなった。
なぜ特攻を、海軍兵学校や、陸軍士官学校で軍事教育を受けた軍人たちが、行わなかったのか...。
1人の軍人を育てるために、国がどれだけのお金を使うか。一般の給料が40円とか50円の時代に、軍の学校では一人1,000円とか2,000円を使っていた。そうして育てた軍人を、なんで特攻なんかで死なせることができるものか...。軍事のためにどれだけ役に立つか、それこそが戦時下における「人間の価値」であり、「値段」なのだ。つまり、軍事的な価値のない者から先に死んでいけというのが日本軍国主義の考え方なのだ。学徒兵や少年兵には、国はお金を使っていない。
軍部は天皇に対して真実を伝えないようにしていた。「統師権の独立」というのは、天皇からも「独立」していた実態がある。
 陸軍当局は、エリート意識に凝り固まって、戦争とは自分たちの面子(メンツ)を賭けた国策であるとし、そのために「天皇の名において」国民の生命と財産を恣意的に用いて戦争を続けた。戦争とは高級軍人の存在を確かめるための愚劣な政治行為でしかなかった。
 太平洋戦争が進められていた3年8ヶ月のあいだに、大本営発表は、846回あった。1941年(昭和16年)12月には、88回の発表があった。しかし、戦況が不利になっていくにつれ、虚偽、誇大、日本の被害を逆にする捏造などに、変化していき、最終的には、まったく発表せず、沈黙に逃げ込んだ。
 戦争という国策を選択したのは、議会でも国民でもなく、軍官僚とその一派だった。
 憲法上に明記されていない大本営政府連絡会議が決定し、それを御前会議が追認するという形の決定だった。
 東亜新秩序をつくるという意味は、ヒットラーや、ムッソリーニと共に世界新秩序を作る戦いであり、「東亜解放」など、露ほども目的とされていなかった。
 特攻作戦を国家のシステムとして採用した国は第二次世界大戦では日本だけ。
 天皇に戦争責任はあるか...。責任はあると考えるのは、当たり前のこと。なにより昭和天皇自身がそう考えていた。責任があるということを否定すること自体、昭和天皇に非礼なのである。
よくよく考え抜かれた新書だと思いました。
(2015年10月刊。780円+税)

2016年7月10日

父の遺言

(霧山昴)
著者  伊東 秀子 、 出版  花伝社

 北海道で現役の弁護士として活動している著者は衆議院議員を2期つとめています。孫を可愛がっていた優しい父は、1987年に85歳で亡くなりました。その遺言書には次のように書かれていたのです。
 「子どもたちよ、ありがとう。日本に帰ってからの私の人生は、本当に幸せでした。兄弟仲良く過ごしなさい。絶対に戦争を起こさないように、日中友好のために、力を尽くしなさい。父より」
 明治35年に鹿児島県に生まれ、陸軍士官学校から憲兵隊に入って、満州に渡り、憲兵隊長(憲兵中佐)として活動した。日本の敗戦後、シベリアに送られ5年間すごしたあと、中国の撫順戦犯管理所に入れられた(1950年7月)。そして、1956年7月に特別軍事法廷で、禁固12年の刑に処せられた。その犯罪事実のなかには、731部隊に中国人22名を送ったということもあげられていた。
 731部隊とは、陸軍(関東軍)の秘密部隊であり、中国人などを生体実験の「材料」とし、残虐なかたちで死に至らしめた。少なくとも3000名以上もの人々が名前を奪われ「マルタ」と呼ばれ、全員殺害された。
 著者の父親は憲兵部隊長として44名もの中国人を731部隊に送ったことを認めた。中国から帰国したあとは、家族のために一所懸命に働き、子や孫にあり余るほどの愛情を注いでいた父親が、軍人時代に、中国で凄惨な生体実験にこんなにも多くの中国人を送り込んでいたとは・・・。
「戦争は、人間を獣にし、狂気にする」
「戦局が悪くなると、ますます指揮官も兵隊も狂っていく。そして歯止めが利かない」
ごくごく普通の人間が、同じ人間なのに、虫ケラとしか思わないようになり、むごたらしく殺して平気になる。それが戦争の狂気です。そんな世の中に再び逆戻りさせようとする自民・公明のアベ政権を許しておくわけにはいきません。それを実感させてくれる本でした。
(2016年6月刊。1700円+税)

前の10件 8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー