弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2013年12月 5日

フィリピンBC級戦犯裁判


著者  永井 均 、 出版  講談社

日本軍って、戦中のフィリピンで実にひどいことをしたのですね。そして、戦後、それにもかかわらずフィリピンは国としてまことに寛大なる処遇をしたのでした。
 たとえば、1945年2月のマニラ地区のセント・ポール大学周辺で日本軍はフィリピン住民を500人近く大虐殺した。ほかにも、1000人以上の住民を殺害した事件など、300件以上が調査されている。
フィリピンに動員された日本兵は61万人。その8割の50万人が命を落とした.死者の大多数、8割は餓死者であった。フィリピンは、日本軍将兵にとって、文字通り絶望の戦場だった。
 戦後、フィリピン人は、日本人と見るや激しい怒りをぶつけた。日本軍に対する「恨みの炎」はフィリピン全土で燃えさかった。
 1945年10月から1947年4月まで、マニラで日本軍将兵に対する戦犯裁判が続いた。そこでは215名の戦犯が裁かれた。これは米軍当局の手によるもの。
 フィリピンが米軍から裁判権を引き継ぎ、日本軍将兵に対する戦犯裁判を始めたのは1947年8月。この裁判は1949年12月まで2年半のあいだ続いた。
 フィリピンが戦犯裁判を担うようになったのは、マッカーサー元師の意向だった。それは、アメリカ国内で、マニラ駐留の米軍に戦犯裁判の管轄権力があるのかという疑問が出ていたことにもよる。
フィリピンのロハス大統領は、国際法にのっとって公平かつ道理に則した迅速な裁判の機会を与えると公言した。
 ロハス大統領は、復讐や報復ではなく、裁判は国際法の原則にもとづく正義の追求にあると宣言した。ロハス大統領は、弁護士だった。
 そして、戦犯法廷の弁護人として日本人弁護士を日本から呼び寄せた。ところが、日本人弁護士は言葉の壁に直面したようです。そこで、フィリピン人弁護士が登場するのですが、彼らは誠実に弁護したとのことです。
 フィリピン人弁護士の公平な弁護態度は日本人関係者から高く評価された。
 フィリピンの戦犯裁判においては、極刑宣告の比率が高いという特徴があった。79人の被告に死刑が言い渡された。これは、起訴された151人の半数以上(58%)を占める。この151人は、軍司令官から1等兵まで、そして民間人も含んでいる。
裁判が終わって、刑務所に収容された有期・終身刑は「紅組」と呼ばれたが、赤い囚人服を着ていたから、戦犯死刑囚は「青組」と呼ばれた。
刑務所長刑者を人間として処遇した。所内を丸腰で歩き、受刑者と会話し、独房も訪問した。
 フィリピン当局は、独立国家の威信にかけて、日本人は戦犯の処遇に慎重を期した。そして、日本人戦犯は刑務所の規則を守り、規律正しく、協力的で、刑務当局から信頼を得ていた。日本人は脱走や自殺を図ることもなかった。
 1951年1月、日本人戦犯の死刑囚14人が処刑された。14人は絞首刑となった。
 フィリピン当局は、刑に処せられた日本人を最後まで丁重に扱った。処刑に立ち会ったフィリピン人関係者には、従容と死地に赴く14人の姿が強く印象に残った。
 この執行から10日あまりたった2月1日に日本で処刑のことが報道され、日本国民のあいだに助命運動がわき上がった。
 反日一辺倒でなかったとはいえ、キリノ大統領は、フィリピン国民の厳しい対日感情に配慮せざるをえず、日本人戦犯に厳格な姿勢でのぞむ姿勢があった。大統領選で再選を目ざしていたキリノにとって、日本人戦犯の恩赦、本土送還は危険な橋であった。
 キリノは戦争中に、日本軍によって愛する家族を殺されていた。苦しみの日々を過ごしてきたキリノ家の傷は深かった。キリノは憎しみ続けることをやめる人生を生きよう、子どもたちに諭した。
 キリノ大統領が恩赦したとき、そのことにフィリピン世論は比較的冷静だった。
戦犯死刑囚79人のうち、実際に処刑されたのは17人のみ。執行率は2割にとどまったが、これはほかの地での8割と比べると低い。
 1953年7月、フィリピンから日本人戦犯111人が日本に戻った。
「モンテンルパの夜はふけて」という渡辺はま子の歌は知っていますし、モンテンルパ刑務所も現地で外側だけ見たことがあります。このようなドラマがあったことを初めて知りました.ほんとに世の中は知らないことだらけですね。大変な労作だと思いました。
(2013年4月刊。1800円+税)

2013年11月26日

戦後史の汚点、レッド・パージ

著者  明神 勲 、 出版  大月書店

レッド・パージとは何だったのか、誰が何のためにやったのか、くっきり明らかにした画期的な労作です。
 GHQの指示という「神話」を検証する。こんなサブ・タイトルがついていますが、そんな「神話」が事実に反していることが鮮やかに論証されていくのです。小気味よさすら感じます。
 日弁連は、レッド・パージについて、今から60年も前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が解消されたわけではない。現在も形を変えて類似の被害が繰り返されている。職場における思想・良心の自由、法の下の平等が保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である、と指摘した。
まことに、そのとおりですよね。
 最高裁に対するGHQの「解釈指示」なるものは、政治的虚構であり、その存在は認められないこと。1950年のレッド・パージがGHQの指示によるものとする従来の通説は誤りである。
 GHQ文書を読めば、レッド・パージにおいて日本政府と最高裁、企業経営者が果たした役割は、単なる「指示」の実行者、加担者という控え目なものではなく、積極的なものであり、ときにはマッカーサーやGHQの動きを上回るものであった。彼らはGHQとの「共同正犯」と呼ぶべきである。
レッド・パージに対して抵抗すべき労働組合のほとんどが、これを黙認し、事実上の「共犯者」となった。なかには、電産のように、これに積極的に荷担する「共犯者」の役割を果たした恥ずべきケースもあった。
 1949年から51年にかけてのレッド・パージによって追放された人は3~4万名と推定される。レッド・パージされた人の多くは、青年であった。彼らは二度と帰らぬ青春をレッド・パージによって奪われた。
 1949年1月の総選挙で日本共産党は10%近い得票率で35議席を得た。しかし、レッド・パージ後の1952年10月には2.5%に落ち、議席はゼロとなった。
 1949年7月、吉田茂首相の政府は閣議で、公務員のレッド・パージ方針を決定した。
田中耕太郎・最高裁長官は、マッカーサー書簡によってだけではレッド・パージを遂行するための法的根拠が与えられていないことを認識していた。
 GHQ(ホイットニー)は、指示を出さなかった。それは、あくまで田中最高裁長官の「助言」の求めに応じたホイットニーの「助言」に過ぎなかった。田中長官は、マッカーサー書簡とGHQの権力にもとづきレッド・パージを実施したいと要請したが、ホイットニーは、これに同意せず、GHQの権力に頼らず日本側から自ら工夫して有効な策を考えるべきだと応じた。
 田中耕太郎長官は、裁判の秘密をかなぐり捨てて、駐日アメリカ大使に最高裁判所の内情をぶちまけていたのです。なんて破廉恥な裁判官でしょうか。当然、厳しく弾刻して罷免すべきものです。今からでも、決して遅くはありません。日本の最高裁の恥を隠してはいけません。
 GHQがレッド・パージの指示を出さなかったのは、なぜか?
 それは、レッド・パージが、憲法違反・違法な措置を指示した責任者という非難」を受けるのを回避したかったことにある。自らが必要とする違憲・違法の非難を受ける可能性のある政策を、示唆や勧告によって日本側に実施させ、その責任を転嫁するというのは、GHQの常奪手段であった。それは、責任を回避しつつ、目的を達成するという狡猾な奸計だった。
 そして、日本側は、レッド・パージの単なる被害者、犠牲者というのでもなかった。政府も司法当局も、ともに違憲・違法を十分に認識したうえで、GHQの示唆を「占領軍の指示」とか「絶対的至上命令」として利用し、責任をGHQに転嫁しつつ、あらゆる抵抗を無力化させて年来の念願を果たした。
 このように、責任を相互に転嫁しあい、相互に相手を利用しつつ、両者の密接に連携した共同作業という形でレッド・パージの実施は強行された。
 なるほど、そうだったのか、よく分かりました。戦後史を語るうえでは欠かせない本だと思います。
(2013年10月刊。3200円+税)

2013年7月26日

讀賣新聞争議

著者  田丸 信堯 、 出版  機関紙出版

なんだか難しい旧漢字の新聞ですよね。ええ、もちろん、今のヨミウリ新聞のことです。戦後まもなく、GHQのもとで経営権と編集権をめぐって大争議が起きたのでした。それに経営者側が勝利して、今の右寄り、権力の代弁者のような新聞になったようです。
 そこで、オビには、読売新聞争議を知らずして現代は語れない、戦後史の原点を問いただそうという呼びかけが書かれています。
 今から16年も前に発刊された本です。昨今の新聞・テレビのあまりに権力べったりの報道姿勢に首を傾けていましたので、その原点を知るべく手にとって読んでみました。
 テレビ・ドキュメンタリー風に(映像的復元のように)話が展開していきますので、とてもリアリティーがあり、分かりやすい本になっています。
 戦前、そして戦中、日本の新聞は庶民側ではなく、戦争に駆り出す側に立っていた。戦争から自分を守る判断・手段の一切を奪われていた庶民をうえから見下ろしていた。
 正力松太郎がヨミウリの社長として君臨していました。正力は、戦前は特高警察官でもあります。
 「共産党が、オレをどれだけ憎んでおるか。やつらの十八番(おはこ)は人民裁判だ。処刑されてたまるか」
 戦前の日本で弾圧されていた鈴木東民が編集局長となったヨミウリ新聞は、社説で人民戦線内閣をつくれなど、激しい論旨を展開した。これに対して、共産党の主張に肩入れしすぎるという反発が内外に湧き起こった。世間では、ヨミウリ新聞は共産党の機関紙になったとかいう「デマ」が飛んでいた。
 1946年4月の戦後はじめての総選挙では、女性も参政権を得ることができた。
 自民党1350万票、進歩党(政府与党)1035万票、社会党986万票、共産党214万票だった。
 逆流が起き、ヨミウリ新聞は率先して天皇制の擁護と反共産主義を打ち出した。そして、それを吉田茂を通じてマッカーサーに約束した。
ところが、鈴木編集局長のもとで激しい紙面となり、販売部数が激減し、販売店が押しかけてきた。
 「アカの新聞で、おまんまを食べては正力さんに申し訳ない」
 「共産主義は、わが日本の読者には受け入れられない。それが正力の信念だ。天皇のことを、いつまでもしつこく書くな。共産党の証拠だ」
 ヨミウリからアカを追放せよというのは、GHQからの至上命令だった。
アメリカは、アカが大っ嫌いだ。今に必ず全国規模のアカ狩りをやるだろう。
弾圧に抗するたたかいは全国的な支援も受けて盛りあがった。しかし、結局のところ敗北した。鈴木東民は後に共産党を離党して、故郷に戻り、釜石市長に当選した。
 知っていていい読売新聞の歴史だと思いました。
 権力の代弁者の新聞なら、はっきりそう自己表明すべきですよね・・・。
(1997年8月刊。1500円+税)

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