弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2015年10月11日

下山事件

(霧山昴)
著者  柴田哲孝 、 出版  祥伝社

 1949年(昭和24年)7月5日、初代国鉄総裁である下山定則は出勤前に日本橋の三越本店に立ち寄ったあと、そのまま消息を絶った。これが下山事件の始まりである。
 そして、翌7月6日未明、足立区五反野の常磐線の線路付近で遺体となって発見された。
 この本は、下山殺害の犯人をアメリカ軍の下にいた謀略部隊として話を展開しています。
 下山定則は、国鉄総裁を辞めたあとは、国政選挙に出て代議士になるつもりだった。つまり、自殺するような動機はまったくなかった。
 下山を三越本店に呼びつけたのは、計画的に拉致する目的からなされたこと。ただし、拉致したあと、殺害するしかないと考えていたグループと、下山の考えを改めさせればよいと考えていたグループの二つに分かれていた。
 GHQのなかにも、国鉄の利権で甘い汁を吸っているグループと、それほどでもないグループがいた。利権派は、下山を役人としてクリーンすぎる、コミュニストに寛容だし、国鉄の電化に反対しているとして嫌っていた。
GSのケーディス大佐を失脚させたのは、吉田政権であり、旧内務官僚と日本の警察関係者だった。スキャンダル(女性問題)を騒ぎたてたのだ。
 下山は、アメリカ軍(GHQ)了解の下で、日本の特殊機関の連中から血を抜かれて死亡し、現場に運ばれて列車からひかれた。だから、血が少なかったし、身につけていたはずのものが、いくつも見つからなかった。
 これらは自殺だったら、ありえないこと。ところが、法医学教室の鑑定も結論が「まちまち」だった。強引な「自殺」説に符丁をあせた「鑑定」書が出されたのだ。
 戦後まもなく日本では謀略がまかり通っていたのですね・・・。
 中国大陸で何人も人を殺してきた体験者が下山殺害の実行犯だったようです。
 小説(フィクション)だからこそいろいろ書けたようで、勉強になりました。


(2015年6月刊。2000円+税)

2015年5月 9日

中尉

                                 (霧山昴)
著者  古処 誠二 、 出版  角川書店

 戦後生まれ、いま40代半ばの著者がビルマ戦線の日本兵を描いています。
 白骨街道とも呼ばれるほど無惨に敗退した日本軍の敗残兵の様子を、その生き残りの一人が体験談を書いたと思える迫真の描写に、思わず引き込まれてしまいます。
 戦争の愚かさを、しみじみと実感させてくれる本です。
いま、日本では好戦的な安倍首相の下で、「挙国一致」体制をつくって、戦前のように「戦争する国・ニッポン」へ逆戻りさせようという動きが強まっています。とんでもないことです。
戦前のような美しい国・ニッポンを取り戻せという人がいます。しかし、現実には、美しいどころではなく、戦前には汚らしい、腐敗した日本があったのです。軍部独裁。暴虐の限りを尽くした知恵のない軍部によって、東南アジアへ侵略していき、大勢の罪なき人々を殺傷し、あげく日本列島は焦土と化しました。そんな状況に逆戻りさせられてはたまりません。
日本の若者が意味もなく殺され、路端やジャングルの中で白骨化していくなんて、それが「美しい」なんて絶対に言ってほしくありません。
 戦争は最大の人権侵害です。弁護士会はいま、全国で、安倍内閣が戦争する国に変えようとするのに反対し、安倍内閣のもとでの道徳教育の押しつけなど、戦争推進体制づくりに抗して立ちあがっています。
 それにしても、作家の想像力のスゴさには脱帽です。モノカキ志向の私にとって、もうひとまわり精進しなくてはいけないと思わせる戦争小説でした。
(2014年11月刊。1800円+税)

2015年4月30日

皇后考

                               (霧山昴)
著者  原 武史 、 出版  講談社

 日本は万世一系の天皇制だという人がいますが、実は、神武天皇とか神功皇后の扱い、さらには南北朝をどうみるのか、ずっとずっと定まっていなかったのです。
 神功皇后は、戦前には教科書にのっていて、学校では実在の人物とされていた。自ら海を渡って朝鮮半島まで行って外国と戦いに勝ったという天皇はほかにいない。
 神功皇后を天皇にカウントしないと、仲哀天皇と応神天皇との間に70年近くの空位の期間が出てきて、まずいことになる。
 皇后は、ずっといたわけではない。二人の皇后がいたこともある。歴代天皇の配偶者が、ずっと皇后と呼ばれていたのでもなく、中宮と呼ばれていたこともある。明治天皇(睦仁・むつひと)の配偶者、美子(はるこ)は、中宮を経て、皇后になった。
 皇后に統一されたのは、皇室典範の発布された1889年のこと。
神武天皇が第一代の天皇として確定したのは、大日本帝国憲法発布の2年後の明治24年(1891年)のこと。それまで確定していなかった。
 神功皇后を天皇に加えるべきか否かも、明治維新のときから問題になっていた。
 江戸時代には、二人の女性天皇がいた。明正(めいしょう)天皇と後桜町(ごさくらまち)天皇である。
 江戸時代までに、8人、10代の女性天皇が存在している。大正天皇(嘉仁)の生母は権典侍(ごんてんじ)、つまり明治天皇の側室の一人で二位局と呼ばれた柳原愛子(なるこ)だった。ところが、嘉仁は、満8歳のとき、皇后美子の実子と定められた。
 明治天皇は、日清戦争も日露戦争も、開戦に消極的だった。ところが、皇后(美子)は対照的に積極的だった。
 大正天皇(嘉仁)は、明治33年(1900年)に、15歳の節子と結婚したとき満20歳だった。節子は、黒姫さまと呼ばれるほど色黒だった。健康にまったく問題がないというのが、結婚が実現した理由だった。
 ところが、その容姿が問題となった。美人でなければ、外交上のマイナスがあるからだ・・・。大正天皇(嘉仁)は、自らの欲求を抑えることのできない性格だった。
 要するに、大正天皇の女性遍歴はかなりのものがあったと言うことです。
 そして、皇后(節子)に、三人息子への愛情に濃淡が生まれた。長男の裕仁(ひろひと)よりも、二男の雍仁に対して熱かった。皇后(節子)は二男の雍仁を偏愛していた。
 大正天皇と皇后とのあいだでは10年以上も子どもが生まれなかった。三笠宮(崇人・たかひと)が生まれたのは1915年のこと。
 大正天皇の病気はアルツハイマー病ではないと著者は断言しています。
天皇になった嘉仁の精神的なストレスは、複数の女性と性関係をもっていた父親の睦仁と同じく、若くて美しい女官を必要としていたのかも知れない。
 大正天皇の皇后・節子は、極度の近眼だった。「あの近目さん」と言う人もいた。昭和天皇の妃選びの家庭で大きな発言力をもっていたのは、皇后・節子(ながこ)だった。
 皇后(節子)は、裕仁よりも雍仁に愛情を注ぎ、裕仁と良子との結婚について快く思っていなかった。皇太后が死んで、ようやく自分の時代が来たと思った皇后(節子)が、自分をとびこえて、皇太子妃となる若い女性にばかり注目が集まったことに、不快の念を抱いたのは想像に難くない。おそらく、皇太子妃の美智子をもっとも憎んでいたのは、お見合いをしたこともあるという、三島由紀夫であったろう。
 現在の天皇、明仁の家族重視は逃避主義ではない。砦としての必要性のためにも、家庭を築いて維持することに血のにじむ努力をしてきた。
 私は、今の天皇夫妻がペリュリュー島で慰霊の旅をしたことについて、心から敬意を表したいと思います。小さな島で、1万人以上の前途ある日本人の若者たちが戦死、しかもその大半が飢え死にしていったのです。これは東京の軍部当局の間違った作戦の犠牲でしかありません。靖国神社に英霊としてまつっているから我慢せよなんて、誰が言えるものでしょうか・・・。
天皇、そして皇后について、戦後の関わりをはじめ誰でもなるほどと納得できる内容になっています。ぜひ、あなたも手にとって、お読みください。
(2015年2月刊。3000円+税)
無敵の「ゼロ戦」の実際について、ゼロ戦搭乗員だった本田稔(92歳)氏は、次のように語りました。
「ゼロ戦は全くの無防備。パイロットや燃料タンクの防弾壁もありません。ちょうど着流しの侍が鎧兜の侍と戦うのと同じ。こちらは相手の13ミリ機銃1発で墜とされます。向こうはこちらの7.7ミリ機銃の1発や2発では墜ちない。こういうハンディをもって戦いを続けていました。だから常に特攻でした。もう少し人の命を大切にしてほしかった」
「ソロモンではゼロ戦を軽くして、いくらかでも長く跳ぶために落下傘を外させられました。無線機も取り外した。そんな状態で戦争を続けました」(2003年8月10日の講演)。
ゼロ戦については、格闘機能と航続力に優れていたが、最大の欠点は弾丸タンクや操縦席に防弾鋼板がないことだった。ゼロ戦の場合は、海軍の設計要求項目に防弾タンクの要求も操縦席の防弾鋼板の要求もなく、議論にもならなかった。
 アメリカ軍はゼロ戦対策を練りあげました。
ゼロ戦1機が燃料タンクに被弾し、無人島への不時着に失敗して、米海軍の捜索隊によってほとんど原型のままのゼロ戦が捕獲され、徹底解剖された。その結果、急降下速度制限が低く、防弾装置をまったく施さず、航空性能の不足など、ゼロ戦の力の限界が明らかになった。以後、米軍はゼロ戦の弱点を突く空戦を取り入れ、2機が一体となってゼロ戦に攻撃を加える戦法に切り換え、また一撃離脱という新しい戦法も考え出した。
 ゼロ戦を持ち上げすぎるのは、考えものなのです。

2015年2月13日

私記・白鳥事件


著者  大石 進 、 出版  日本評論社

 白鳥事件と言えば、弁護士にとって再審の門を大きく開いた最高裁判決として有名です。というか、再審についてすこしでも関心をもつ人なら知らないはずがありません。私にとっては、白鳥事件とは網走刑務所に入れられて無罪を訴えていた村上国治氏であり、松川事件と並ぶ日本の冤罪事件でした。 
 村上国治氏は、その生前、私も元気な姿を何回も遠くから見たことがあります。出獄後は日本国民救援会の副会長として活躍していました。人の良さそうなおじいちゃんでした。
 白鳥事件が起きたのは、1952年1月21日の夜7時40分ころ。札幌市中央区南六条西16丁目の路上で、自転車に乗って走行中の白鳥一雄警部(札幌市警の警備課長)が、同じく自転車に乗った男によって射殺された。
この白鳥警部を射殺した犯人は、日本共産党の中核自衛隊員であり、それを命じたのは、日本共産党札幌市委員会の責任者である村上国治だった。このとき、村上国治は若冠28歳である。
 白鳥事件は、権力のデッチアゲではない。冤罪事件ではないのである。日本共産党は、白鳥事件の主犯格の3人と、幇助犯をふくめて事件を深く知る周辺の7人の合計10人を中国に密出国させた。
 7人のほうは、197年から順次、日本に帰国してきた。主犯格の3人は中国にとどまったままだった。
実は、この本の著者も日本共産党の中核自衛隊に誘われて、入隊していたのでした。1954年の初夏のころです。群馬県の山村で巡回映画を上映してまわったというのです。
16ミリ映写機と映画フィルムをもって妙義山中に点在する部落をまわって毎夜、上映会を開き、子どもたちに喜ばれた。1955年、六全協のあと、晩夏に武器を廃棄した。
 このように中核自衛隊にかかわっていた著者が、白鳥事件に関心をもつようなったのは必然のことですね・・・。
 「白鳥事件を、三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。この事件を冤罪と思っている人は北大には一人もいない」。これは1955年の北大生の言葉だった。
 岡林辰雄弁護士の言葉。「村上国治の無罪、共謀共同正犯の不成立は主張できるかもしれないが、彼の部下の誰かが白鳥を射殺したという事実は消えない。村上には組織の責任者として思い政治的責任がある。もし、実行犯が逮捕されて、重刑を課され、村上が無罪とされたら、村上は生きていない」
 岡林は、村上を英雄としてではなく、罪人として認識していた。岡林は、「幌美峠で発見されたという銃弾は、まぎれもなく偽造証拠だが、あの場所で彼(白鳥)の指示のもと、党員による射撃演習が行われたことは疑いのない事実だ」、そう語った。
 このように、弁護士は、いつの時代でも、表と裏との、合法と非合法の接点にいることを運命づけられる。
 著者は、射殺の実行犯は佐藤博だと断定しています。そして、佐藤博も村上国治も軍隊経験者なのです。人を殺すことを使命とする組織にいて、その訓練を受けてきた人間でした。
 この時期にとられた軍事方針は、日本革命のためというより、外圧によるものだった。日本共産党の「武闘」は、ソ連と中国共産党、すなわち事実上のコシンテルンに対する「見せかけ」、ないしアリバイづくりに過ぎなかった。派手なだけで、朝鮮半島の戦局に対する影響皆無の火炎瓶投擲でお茶を濁していた。
おそらく、学生・失業者・民族組織に根をもたない朝鮮人、元国際分派などが消耗品として軍事に投入されたのだろう。
「手記」と銘うってあるように、著者の実体験をふまえて白鳥事件の真相に迫った本です。
 いかなる組織も自らの誤りを率直に認めることは至難のことです。しかも、自分がやったわけではない先輩たちの誤りを自己批判するなんて、考えただけでも気が遠くなります。
 それでも、歴史の闇は明らかにしなければならないのではないか。この本を読みながら、そのように私は思いました。いかがでしょうか・・・・。
 (2014年11月刊。2000円+税)

2014年12月 4日

浮浪児1945~


著者  石井 光太 、 出版  新潮社

 終戦直後、12万人以上の戦災孤児が生まれた日本。その中心、焼け跡の東京に生きたら子どもたちは、どこへ「消えた」のか。
 これが、この本のオビのフレーズです。戦災孤児となった子どもたちのその後を追跡しています。
戦災孤児となり、生きていくのが辛くて、自殺してしまった子どもたちもたくさんいました。
 女の子はやはり男の子以上に大変だったようです。それでも、たくましく生きのびた子どもがいたことを知り、いくらかの救いも感じました。
 子どもたちにあたたかい救いの手を差しのべた人もいたようです。
 1945年10月。上野駅では2日に1人の行き倒れを処理していた。11月になると、浮浪者の餓死体は、多い日には6人もいて、一日2.5人が平均だった。1ヵ月にして、餓死者が7~80人も出た。浮浪児のなかでは、か弱い子どもが真っ先に命を落としていた。
上野の地下道に大勢の浮浪児が集中した。働き先は二つ。上野のヤミ市と浅草の商店。
 ヤミ米の担ぎ屋を一部で担う浮浪児もいた。
 浮浪児たちは、靴みがきと並んで新聞売りに従事した。新聞を1部10銭で仕入れて、通行人に1部20銭で売る。1日に50部から100部売れたら食べていくことができた。
 地下道暮らしでも、仕事をしている限りは三食を十分に食べていけた。
孤児院に収容されると十分に食べられず、施設の職員に殴られる。だから、浮浪児たちは孤児院に収容されることを嫌がり、警察に保護されても、脱走して路上に戻ろうとした。
浮浪児にはお金を貯めるという発想がなく、あまった分は地下道の友人や知人におごったりして使い果たしてしまうのが常だった。
 浮浪児たちは傷痍軍人たちと仲良くしていた。
 浮浪児は一日の仕事が終わると、ホンモノの傷痍軍人のところに行って食べ物をあげた。そのお礼に読み書きや英語を教えてくれた。戦争に駆り出されて傷害を負う前は普通の社会人だったから、頭の良い人もたくさんいた。だから、子どもたちに勉強を教えてやっていた。
 戦後になって地方から上野にやってきたワルたちは、家出組が大半だった。「ノガミ」(上野のこと)へ行って「一旗あげよう」と上野へやって来た。
ヤクザは不良少年を利用して、ショバ屋、ブーバイ、ダフ屋を営んだ。ブーバイとは、上野発の乗車券を買い占めて、高値で売る商売のこと。
 犯罪性が高く、人気があったのが集団スリ。スリの学校まであった。
 1946年から、警察は上野の浄化作戦にとり組んだ。1回の狩り込みで、冬だと4千人、春でも2千人ほどの浮浪者が検挙された。警察は、浮浪者を、大人、子ども、病人と分け、行き先別にトラックの荷台に載せて連行した。
この本を読んで、もっとも感銘を受けたのは、次の指摘です。これだけでも、この本を読んで良かったと思いました。
 戦災孤児は、空襲で両親が死ぬまでは普通の家庭で育っていた。親に愛され、兄妹と仲良く遊び、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛いがられた。だから、人間としての根っこがしっかりしている。たとえ戦争のせいで何年か上野で浮浪生活をしたとしても、施設に住まわせて、ちゃんとした環境さえ与えれば、それなりにがんばって生きていける。
家庭の愛情でなくたっていい。友人や見知らぬ大人からでもいいから、子ども時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大切。そういう経験があるからこそ、浮浪児だった子どもたちは、学がないのに社長になって社員に愛情を注ぎながら引っぱることができていたし、収入も乏しいのに結婚して努力に努力をつみ重ねて、子どもをきちんと育てることができた。
 ところが、現代の虐待を受けた子どもたちは、どこかで心が折れ、何もかも投げ出してしまっているので、最後までやり遂げることができない。
 子どもは家族から愛され、周りの人に恵まれることによって初めてしっかりとした自我が生まれる。人を愛し、自分を制御し、生きるということに向かって進んでいくことができる。
このことが実証されている本として一読に価すると思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)
イチョウについての本を読みながら上京したところ、日比谷公園の大銀杏は見事に黄変していました。黄金色というのか、山吹色というのでしょうか、壮観でした。
 憲法改正を許さない取り組みをすすめていくための会議に参加したのですが、総選挙の投票率が低くなることをみんなで心配していました。小選挙区制というマジックもありますが、選挙で信任を受けたとして集団的自衛権を認めるための法改正は許せません。
 国の根本のあり方が問われている選挙でもあります。投票所に足を運びましょうね。

2014年11月28日

原爆を背負って


著者  久 知邦 、 出版  西日本新聞社

 16歳のとき、郵便配達員として働いていたとき、長崎で原爆に被曝した谷口稜曄(すみてる)氏から聞き書きした本です。
 大変分かりやすい平易な文章で谷口氏の苦難の人生が淡々と語られていて、涙なくしては読ませませんでした。谷口さんの背中全体が真っ赤になっている有名な写真は、残酷すぎるとして、あちこちで(先日も日弁連会館で)掲示が断られてしまいます。でも、谷口さんは、戦争とりわけ原爆被害の残虐さを目からそらさないでほしいと訴えています。目を背けてしまえば被害がなくなるというものではないからです。
 それにしても、よくぞ今日まで長生きされたものです。たくましい生命力とあわせて、全世界に向かって被爆の実情を訴えることに人生の意義を見出したことも、谷口さんの元気を支えてきたのではないかと思いました。
 1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。郵便配達中に熱戦で焼き尽くされた背中は通常の皮膚ではない。汗腺も皮脂もなく、背中を覆っているのは、瘢痕という薄い膜。汗もかけない背中には、徐々に石炭質が沈着し、大きくなるとそれが瘢痕を突き破って出てくる。
 背中の痛みは、一日に何度も変化する。殴られているようにずきずきしたり、針を刺されているようにちくちくしたり。布団に寝ていても、背中の下に硬い石ころを敷いているようで、あおむけでは眠れない。
 体温調節も難しい、夏は熱が体にこもって焼けるように熱く、冬は何枚上着を着ても震えるほど冷える。
 太ると、背中の膜が引っ張られて裂ける。酒を飲むと、血管が膨脹して背中が痛む。
被爆して1年9ヶ月間、ずっとうつぶせで過ごしたため、胸の肉は床ずれで腐って落ち、肋骨のあいだから心臓の動きが見える。思い切り息を吸うと胸も背中も痛み、大きい声が出せない。
 生きることは、苦しみに耐えることにほかならない。
被爆したあとの入院中、背中や胸の肉は腐ってどぶどぶと流れ落ち、体の下に敷いたぼろ布にたまった。
夏になると、左肘にうじがわいた。次々に卵がかえり、氏は骨と骨の間に食いこんでいき、ぎりぎりと痛む。大きくなったうじが見えても、動けない身ではどうしようもない。
 ところが、こうやって寝ているときに、身長は30センチも伸びていった。
これは驚くべきことです。よほど、看護体制が良かったのでしょうね。
 著者には、配達中の災害だったので、入院中も給与がずっと支払われていて、それが家族の生活を支えた。
 3年半の入院費用は全く負担しないですんだ。不思議だった。
おかしいと思うことは声をあげる。これは、戦争を止められなかった大人たちへの怒りの裏返しでもあった。
 結婚することができ、子どもが生まれた。原爆の影響を心配したが、二人の子は大きな病気をすることなく育った。今では、4人の孫と2人のひ孫がいる。
 被曝者として訴えるとき、怒りだけでは相手に伝わらない。この苦しみは私たちだけで十分だと辛抱強く訴えてこそ、相手の胸に響く。
 著者は、原水禁運動が分裂し、被爆者団体まで分裂したことを残念がっています。本当にそうですね。一刻も早く大同団結して、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキの叫びをさらに強く、核兵器の全廃を急ぐべきです。
 日本がアメリカの核の傘に守られているなんて、嘘ですし、幻想です。
 その原点を思い起こさせる、いい本です。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2014年8月刊。1500円+税)

2014年10月26日

もう10年もすれば・・・

著者  中国引き揚げ漫画家の会 、 出版  今人舎

 敗戦時、中国にいた大勢の日本人が命からがら日本に引き揚げてきました。
 たとえば、中国の大連には敗戦のとき、20万人もの日本人がいたのです。そして、旅順から退去させられた人や奥地からの難民6万人が、これに加わりました。
 大連からの引き揚げは、敗戦した翌年の昭和21年12月3日から始まりました。
 赤塚不二夫は母親を先頭に奉天駅まで歩いて行った。母のリュックに不二夫がしっかりつかまり、その不二夫に妹の寿満子がつかまって、綾子を背負った寿満子に弟の宣洋がつかまって歩いた。マンガに描かれた子どもたちの必死の顔つきは見事です。
 ちばてつやもまた歩いていった。お腹がすいてたまらず、思いきりバンドでお腹を締め付けて、お腹のすいたのをまぎらして歩いた。
 日本へ帰る引揚船を見たとき、そのでっかさに圧倒された。
 さすがに漫画家たちの描いた絵ですので、迫力があります。真に迫っています。
 赤塚不二夫、ちばてつやのほか、森田拳次、北見けんいち、古谷三敏、山内ジョージなどたくさんの有名な漫画家がいます。
 中国(満州)は日本の生命線だと政府にだまされて渡っていった大勢の日本人がいました。そして、敗戦のとき、日本軍は日本人を見捨て、高級幹部は一目散に日本へ逃げ帰ったのです。
 軍隊は国民を守るためにあるというのは、昔も今も、真っ赤な嘘なのです。
 2002年に発行された本の復刻版です。一見、一読の価値があります。
(2014年6月刊。1800円+税)

2014年7月29日

検証・法治国家崩壊


著者  吉田敏浩・新原昭治・未浪靖司 、 出版  創元社

 タイトルからは何が論じられているのか不明ですが、砂川事件の最高裁判決、つまり田中耕太郎長官がアメリカとの共同謀議で在日米軍を合憲とした司法の汚点が今なお尾を引きずっていることを、その歴史的位置づけを明らかにしつつ暴いた本です。
 アメリカのいいところは、30年たったら秘密文書が公開されるところです。著者たちは、アメリカの公文書館で公開資料を読みあさって、「宝の山」を掘りあてたのでした。
 それにしても、おぞましい最高裁の汚点です。吐き気すら催してしまいます。
 そして、これが55年前の古証文の汚点を暴いたというのに留まらず、現代日本においても、その桎梏が私たちを苦しめているところが問題です。
 まずは、田中耕太郎の犯罪的役割を確認しておきましょう。
 1959年12月16日、日本の最高裁が砂川事件で出した判決は、アメリカ軍の治外法権を認めた。そして、この裁判所は、実は、その最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日大使のシナリオどおりに進行していた。
 田中耕太郎長官は、アメリカからの内政干渉を受け、唯々諾々とアメリカの意向に沿って行動した。日本の最高裁は、憲法の定める司法権独立が侵された大きな歴史の汚点を背負っている。
 米軍駐留は憲法違反だと明快に断じた伊達判決はアメリカにとって大打撃だった。マッカーサー大使は、表向きの記者会見では、「コメントするのは不適切だ」としつつ、裏では素早く日本政府に介入した。
 最高裁への跳躍上告をすすめたのもアメリカだった。
 1959年から1960年にかけて安保条約改定の秘密交渉と砂川事件裁判への政治的工作が、こっそり同時併行で進められていった。それは、日比谷公園に面した帝国ホテルが会場とされた。
 1959年4月、今の天皇が結婚パレードをするころ、田中耕太郎は、マッカーサー大使に最高裁の合議の秘密を全部バラしていた。判決時期、最高裁の内部事情など、裁判の一方当事者と言えるアメリカ政府を代表とするアメリカ大使にすべてを教えていた。
 いやはや、とんだ男が長官でした。呆れはてて、声を失います。
 1959年11月、安保改正の秘密交渉が大詰めを迎えていたころ、マッカーサー大使は、田中耕太郎と再び密談した。その場所までは書かれていないが、アメリカ政府あての報告書に内容が紹介されている。
 「田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間はなしあった。長官は、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと言った。田中耕太郎長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に、それはくつがえされるだろうが、重要なのは、15人のうちの出来るだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。
 田中長官は、こうした憲法問題に伊達判事が判決するのはまったくの誤りだと述べた」
 マッカーサー大使は、田中の話を聞いて、さぞかし満足し、安心したことだろう。
 同時に、心の中では田中耕太郎を軽蔑したのではないでしょうか・・・。まことに、田中耕太郎とは唾棄すべき存在です。
 憲法の番人と言われる最高裁。その長官で、全国の裁判所・裁判官のトップに立ち、率先して裁判所法そして、評議の秘密を、なにより法律全般を守らなければならない人物、日本の司法の最高責任者ともいうべき人間が、評議の秘密をもらしていた。これこそ「法治国家崩壊」と呼ぶべき大事件ではないのか・・・。私もまことにそのとおりだと思います。
ところが、田中耕太郎は、裁判所内部の訓示では、「裁判の威信を守れ」などと言っていたのでした。典型的な二枚舌です。
 最高裁判決には、きわめて大きな矛盾がある。東京地裁の伊達判決について、「米軍駐留は違憲だ」としたのを、裁判所の司法審査の範囲の逸脱だと非難している。しかし同時に、最高裁みずから「米軍駐留は事実上合憲だ」と判断した。これこそ典型的な矛盾であって、両立しえないところである。
 田中耕太郎は判決後、記者に取り囲まれ、次のように述べた。
 「裁判所は、いかなる意味でも、政治的意図に動かされてのものではない」
 本当に、そらぞらしい嘘を平気で口にしています。聞いているほうが恥ずかしくなります。
砂川事件最高裁判決と日米密約交渉は、戦後日本の進路を対米従属のレールに固定化する役割を果たしたと言える。「安保法体系」という日本の主権を制限する法体系に優越性をももたせ、密約と情報隠蔽の構造で米軍優位の不平等な日米関係を容認したのだ。
 米軍機の騒音公害問題、米軍基地の強制収容の問題など、1959年の最高裁判決が半世紀以上にわたって厚い壁となって住民や地方自治体の前に立ちはだかっている。
 本年(2014年)6月、砂川事件最高判決を失効させるため、東京地裁に免訴を求めて再審請求した。この再審請求を認めてこそ、日本の裁判所には救いがあることになります。却下するようだったら、日本の司法は暗黒そのものに陥ってしまうでしょうね、残念ながら・・・。
 著者の一人である末浪靖司氏より贈呈されましたので、ここにあつく御礼を申しあげます。
 再審が認められ、田中耕太郎という人物を日本人、とりわけ司法関係者は恥ずかしくてその名を口にも出来ないという事態を早く迎えたいものです。
(2014年7月刊。1500円+税)

2014年7月26日

ラスト・バタリオン


著者  野嶋 剛 、 出版  講談社

 旧日本軍の上級将校が蒋介石の下で大陸反攻作戦に関わっていた事実を丹念に掘り起こした労作です。
台湾において、蒋介石の指示のもと、中国を取り戻すための「大陸反攻計画」の策定に深くかかわり、1968年に「白団」が解散するまで台湾にとどまっていた。
数百人に及ぶ帝国陸海軍の軍人が台湾渡航の打診を受け、100人が正式に応じたが、実際に台湾に渡ったのは83人だった。
蒋介石は、中国大陸を中国共産党軍に奪われ、台湾海峡をいつ人民解放軍が押し寄せてくるか分からないなかで、日本軍人によって国民党軍を立て直すというプランに望みをつないでいた。日本軍人の力を借りて、共産党に対抗する。これが蒋介石の秘策だった。
 白団のメンバーに加入すれば、出発手当として、団長は20万円、団員は8万円が支給される。さらに、留守宅手当として1ヵ月につき3万円が支給され、契約満了時には、離任手当として5万円が支給される。このころ(昭和25年)の大卒初任給は3千円だった。そして、勤務による病気・負傷のときは台湾側が治療し、日本への移送にも責任をもつこととされた。
台湾に撤退したとき、国民党政府の軍は悲惨な状態にあった。ところが、蒋介石にとって、この台湾撤退は、それまで頭を悩ませてきた陸軍の派閥と腐敗という問題を解決するための絶好の機会となった。「白団」によって中央集権的な軍事教育を企図したのだ。
 「白団」は、あとでアメリカ軍の警戒の目から逃れるために「覆面」の地下組織となったが、当初は公的な組織だった。最初は「訓練班」という名称だったが、すぐに「訓練団」と改名し、団長には蒋介石みずからが就任した。
 1951年には、「白団」の日本人教官は76人が在籍していた。これが最大人数。
 蒋介石は1915年、28歳のときに日記を書きはじめ、85歳になった1972年まで、57年間にわたって日記をつけた。その日記のなかに「白団」関係は、しばしば登場している。
 蒋介石は、台湾に渡るとき、故宮の貴重な文物を運び、また、黄金を持ち出した。運ばれた金塊は2500億円以上の価値があった。
 台湾の戦後政治の変遷のなかで「白団」はどう位置づけられるのかなど、歴史的な掘り下げの点で、いささか突っ込み不足ではないか、少し物足りないところも感じました。それでも、よく調べていることは間違いありません。戦後日本史の貴重な一断面です。
(2014年4月刊。2500円+税)

2014年7月 4日

失郷民


著者  中田 哲三 、 出版  作品社

 1948年に起きた済州島四・三事件の目撃者であり、その後、日本に密航してきて、大阪で「在日」として、身を起こした趙南富の生涯を描いた本です。
 著者は趙南富の娘の夫になります。フランスで料理人として修行し、日本に戻ってレストランを経営していたという経歴には驚かされます。モノカキに転身したということでしょうか・・・。私も父親の伝記に挑戦し、なんとか、小冊子にまとめてみましたが、400頁ある本書には負けてしまいました。戦後の朝鮮半島、そして韓国現代史が大変詳細に調べてあり、読みものとしても大変よくまとまっています。
 済州という名は、1214年に高麗王朝の属国なったときにつけられたもので、「海の向こうの大きな都」を意味する。かつては、耽羅(たんら)という王国が464年間にわたって済州島を支配していた。一時期、20年間ほど、元の直轄地としてモンゴルの軍用馬の一大生産地とされていたこともある。今も、済州馬が飼育されている。朝鮮王朝時代は、政治犯の流刑地でもあった。
南富の母は、済州島の女性らしく、12歳ころから、一人前の海女(あま)として海にもぐって働いていた。
 南富は、戦前、国民学校で日本語教育を受けた。そこでは朝鮮語は禁止されていた。
 1945年8月5日、日本統治が終わり、日本人教師は島を去った。
 独立を得てから、朝鮮半島に住む人々は怒濤の日々にもまれていきます。
 戦前、日本に渡っていた人々が済州島に続々戻ってきて、島民人口は倍の30万人にまでふくれあがった。そして、1948年4月3日、「四・三蜂起」が始まった。
 蜂起した武装隊と、鎮圧する側の討伐隊の双方が島民を殺す事態が続いていきます。済州島の悲劇の始まりです。
討伐隊の容赦ない粛清を恐れ、村の青年たちが大挙して武装隊に加わったり、山奥や海辺の洞窟に身を隠した。
 ごく普通の人々のごく普通の生活が、ある日突然、戦場のただ中に追いやられたというのが、1948年冬の済州島の姿だった。
 1950年6月25日、朝鮮動乱(朝鮮戦争)が始まった。
 南富の兄・南湖が在籍していた花郎部隊は激戦のなかで壊滅した。
そして、1953年、南富は親から日本へ密航することを命じられた。南富17歳のとき。
済州島から釜山に行き、オンボロ漁船で日本へ渡った。下関に着いたところ、駅構内で全員が検挙され、大村収容所へ入れられることになった。ところが、増改築工事中のため、平戸に入れられた。
 そして、収容所の便所から脱出して、海に飛びこんだ。平戸でキリスト教の信者に助けられ、ついに神戸までたどり着いた。
このあたりは嘘のような展開です。よほど運のいい人だったのでしょうね。
 密航者の身なので、公然とは働けない苦しさ。また、日本の大学で勉強したいのに簡単にはいかなかった苦労が紹介されています。結局、大学に入ったものの、中退したのでした。
 1959年、北朝鮮への帰還運動が大々的に始まります。このとき、民団の青年決死隊500人が北送阻止闘争までしていたことを初めて知りました。
 南富の親しい友人が北朝鮮に渡っていきました。反対しても止めることが出来ません。なぜなら、その友人は、朝鮮学校で北送を子どもたちにすすめていたのです。責任上、自分も行かないわけにはいかなかったというのです。そして、その友人は何十年もして日本にやって来ました。その前、ソウルでも再会しています。大変くらい表情だったようです。そんな映画が最近、上映されましたね。
暗殺された朴大統領との交流もありました。南富は、民団のなかでリーダーになっていったのでした。
 いつも希望を失わずに、在日のプライドをもって誇り高く生き抜いた人生だったと思います。とても読ませる、いい本でした。著者に、ありがとうございました、とお礼を申しあげます。
(2014年5月刊。2000円+税)

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