弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年4月18日

流れる星は生きている

日本史(戦後)


(霧山昴)
著者 藤原 てい 、 出版 中公文庫

 1945(昭和20)年8月、日本敗戦後の満州から生命からがら日本に逃げ帰ってくる涙ぐましい体験記です。漫画家のちばてつや、ゴジラ俳優の宝田明も同じような体験をしています。著者のこの本は戦後、空前の大ベストセラーとなり、映画化もされたそうですが、残念ながら見ていません。この本の初出は1949年5月で、1971年5月に発刊され、早くも1976年に文庫本になっています。私は改版25刷という2022年7月刊のものを読みました。
ともかくすさまじい内容で筆舌に尽くしがたいとは、このことでしょう。著者の夫は有名な作家の新田次郎で、二男は数学者の藤原正彦。
満州国は日本が植民地支配の道具としてつくっただけの国ですから、日本の敗戦と同時に瓦解し、それまで日本支配下で苦しめられていた現地の中国人、そして朝鮮人が、日本人避難民に一般的に親切なはずがありません(いえ、なかには親切な人もたくさんいました)。
日本人はグループをつくって、リーダーの統率下に行動します。基本的に武器を持たず、お金も少ししかない。食料も着るものも十分でないなかです。しらみと発疹チフスで次々に日本人が死んでいきます。抵抗力のない(弱い)老人と子どもたちがまっ先にやられます。ところが、著者は7歳の長男を頭(かしら)に3人の子どもを連れて、それこそ何度も死にかけて、ついに日本に4人全員が帰り着いたのです。すごいです。
二男(正彦)は4歳。1日2回のお粥(かゆ)ではお腹が満足するはずもない。「お母ちゃん、もっと食べたいよう」と泣く。
日本人会が出来ているが、日本人はみな露骨な利己主義を主張している。誰が何でもよい。ただ自分だけが一刻も早く逃げ出して救われたい。他人(ひと)のものを奪ってでも逃げ出そうとする醜い状況がすぐそこで見られた。
著者の一団とは別なグループが、すぐ近くを歩いていく。ときには牛車に乗っていく。著者は怒りのあまり、その一団のリーダーである「かっぱおやじ」に向かって怒鳴った。
「私をだましたね」
「なにい、生意気いうな。何をしようと勝手だ」
「自分ばかり良ければいいんだろ」
「なにをいう、この乞食(こじき)女め」
「かっぱおやじの馬鹿」
こんな激しい応酬をするのです。そのときの二人の必死の形相が想像できます。そして、別の人に向かって著者はこんな呪いの言葉も投げかけるのです。500円の借金申し込みを断った女性に対して、です。
「子どもたちが死んだら、一生あなたのせいにして、あなたを呪ってやるわ。私が死んだら、きっと幽霊になって、あなたをいじめ殺してやるわ」
その女性は、この脅しに屈して、500円を貸してくれたのでした。
4歳の二男の足はひどく傷ついていた。足の裏に血と砂と泥がこびりついたまま、はれあがっている。この足で山を越させなければいけない。可哀想というより、そうまでして生きている自分が憎らしくなった。「痛い、痛い」と泣く子を、蹴とばし、突きとばし、ひっぱたき、狂気のように山の上を目ざして登っていった。生まれて1年にならない赤ん坊には、大豆のかんだのを口移しで飲み込ませ、生味噌を水に溶かして飲ませた。乳が出ないから仕方がない。どんなに悪いことかは分かりきっていたが、それよりほかに方法がなかった。
38度線をこえ、最後に汽車に乗って釜山に行くまで、一家4人は4日間をリンゴ12個で生きのびた。下の二人は全身おできだらけ。栄養失調の症状の一つだ。大きなかさぶたが出来て、夜になって静かにしていると、たまらなくかゆくなる。子どもが泣くと、周囲の大人が叫ぶ。
「うるさい。なぜ子どもを泣かすんだ。そんな子どもの口は縫ってしまえ」
著者が対抗心をもっていた「かっぱおやじ」は40人の一団を見事まとめて日本に無事に連れ帰っているのを発見し、「完全な敗北」を認めざるをえなかったのです。
いやはや、まことに壮絶な生還体験記でした。植民地支配の末路の悲惨さをよくよく味わうことができました。いままた、軍事大国になって戦争へ近づこうとしている日本です。「戦前」にならないよう、今、ここで声を大にして、いくら軍事を増強しても平和は守れないと叫びたいものです。
(2022年7月刊。686円+税)

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