弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2014年12月 4日

浮浪児1945~


著者  石井 光太 、 出版  新潮社

 終戦直後、12万人以上の戦災孤児が生まれた日本。その中心、焼け跡の東京に生きたら子どもたちは、どこへ「消えた」のか。
 これが、この本のオビのフレーズです。戦災孤児となった子どもたちのその後を追跡しています。
戦災孤児となり、生きていくのが辛くて、自殺してしまった子どもたちもたくさんいました。
 女の子はやはり男の子以上に大変だったようです。それでも、たくましく生きのびた子どもがいたことを知り、いくらかの救いも感じました。
 子どもたちにあたたかい救いの手を差しのべた人もいたようです。
 1945年10月。上野駅では2日に1人の行き倒れを処理していた。11月になると、浮浪者の餓死体は、多い日には6人もいて、一日2.5人が平均だった。1ヵ月にして、餓死者が7~80人も出た。浮浪児のなかでは、か弱い子どもが真っ先に命を落としていた。
上野の地下道に大勢の浮浪児が集中した。働き先は二つ。上野のヤミ市と浅草の商店。
 ヤミ米の担ぎ屋を一部で担う浮浪児もいた。
 浮浪児たちは、靴みがきと並んで新聞売りに従事した。新聞を1部10銭で仕入れて、通行人に1部20銭で売る。1日に50部から100部売れたら食べていくことができた。
 地下道暮らしでも、仕事をしている限りは三食を十分に食べていけた。
孤児院に収容されると十分に食べられず、施設の職員に殴られる。だから、浮浪児たちは孤児院に収容されることを嫌がり、警察に保護されても、脱走して路上に戻ろうとした。
浮浪児にはお金を貯めるという発想がなく、あまった分は地下道の友人や知人におごったりして使い果たしてしまうのが常だった。
 浮浪児たちは傷痍軍人たちと仲良くしていた。
 浮浪児は一日の仕事が終わると、ホンモノの傷痍軍人のところに行って食べ物をあげた。そのお礼に読み書きや英語を教えてくれた。戦争に駆り出されて傷害を負う前は普通の社会人だったから、頭の良い人もたくさんいた。だから、子どもたちに勉強を教えてやっていた。
 戦後になって地方から上野にやってきたワルたちは、家出組が大半だった。「ノガミ」(上野のこと)へ行って「一旗あげよう」と上野へやって来た。
ヤクザは不良少年を利用して、ショバ屋、ブーバイ、ダフ屋を営んだ。ブーバイとは、上野発の乗車券を買い占めて、高値で売る商売のこと。
 犯罪性が高く、人気があったのが集団スリ。スリの学校まであった。
 1946年から、警察は上野の浄化作戦にとり組んだ。1回の狩り込みで、冬だと4千人、春でも2千人ほどの浮浪者が検挙された。警察は、浮浪者を、大人、子ども、病人と分け、行き先別にトラックの荷台に載せて連行した。
この本を読んで、もっとも感銘を受けたのは、次の指摘です。これだけでも、この本を読んで良かったと思いました。
 戦災孤児は、空襲で両親が死ぬまでは普通の家庭で育っていた。親に愛され、兄妹と仲良く遊び、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛いがられた。だから、人間としての根っこがしっかりしている。たとえ戦争のせいで何年か上野で浮浪生活をしたとしても、施設に住まわせて、ちゃんとした環境さえ与えれば、それなりにがんばって生きていける。
家庭の愛情でなくたっていい。友人や見知らぬ大人からでもいいから、子ども時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大切。そういう経験があるからこそ、浮浪児だった子どもたちは、学がないのに社長になって社員に愛情を注ぎながら引っぱることができていたし、収入も乏しいのに結婚して努力に努力をつみ重ねて、子どもをきちんと育てることができた。
 ところが、現代の虐待を受けた子どもたちは、どこかで心が折れ、何もかも投げ出してしまっているので、最後までやり遂げることができない。
 子どもは家族から愛され、周りの人に恵まれることによって初めてしっかりとした自我が生まれる。人を愛し、自分を制御し、生きるということに向かって進んでいくことができる。
このことが実証されている本として一読に価すると思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)
イチョウについての本を読みながら上京したところ、日比谷公園の大銀杏は見事に黄変していました。黄金色というのか、山吹色というのでしょうか、壮観でした。
 憲法改正を許さない取り組みをすすめていくための会議に参加したのですが、総選挙の投票率が低くなることをみんなで心配していました。小選挙区制というマジックもありますが、選挙で信任を受けたとして集団的自衛権を認めるための法改正は許せません。
 国の根本のあり方が問われている選挙でもあります。投票所に足を運びましょうね。

2014年11月28日

原爆を背負って


著者  久 知邦 、 出版  西日本新聞社

 16歳のとき、郵便配達員として働いていたとき、長崎で原爆に被曝した谷口稜曄(すみてる)氏から聞き書きした本です。
 大変分かりやすい平易な文章で谷口氏の苦難の人生が淡々と語られていて、涙なくしては読ませませんでした。谷口さんの背中全体が真っ赤になっている有名な写真は、残酷すぎるとして、あちこちで(先日も日弁連会館で)掲示が断られてしまいます。でも、谷口さんは、戦争とりわけ原爆被害の残虐さを目からそらさないでほしいと訴えています。目を背けてしまえば被害がなくなるというものではないからです。
 それにしても、よくぞ今日まで長生きされたものです。たくましい生命力とあわせて、全世界に向かって被爆の実情を訴えることに人生の意義を見出したことも、谷口さんの元気を支えてきたのではないかと思いました。
 1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。郵便配達中に熱戦で焼き尽くされた背中は通常の皮膚ではない。汗腺も皮脂もなく、背中を覆っているのは、瘢痕という薄い膜。汗もかけない背中には、徐々に石炭質が沈着し、大きくなるとそれが瘢痕を突き破って出てくる。
 背中の痛みは、一日に何度も変化する。殴られているようにずきずきしたり、針を刺されているようにちくちくしたり。布団に寝ていても、背中の下に硬い石ころを敷いているようで、あおむけでは眠れない。
 体温調節も難しい、夏は熱が体にこもって焼けるように熱く、冬は何枚上着を着ても震えるほど冷える。
 太ると、背中の膜が引っ張られて裂ける。酒を飲むと、血管が膨脹して背中が痛む。
被爆して1年9ヶ月間、ずっとうつぶせで過ごしたため、胸の肉は床ずれで腐って落ち、肋骨のあいだから心臓の動きが見える。思い切り息を吸うと胸も背中も痛み、大きい声が出せない。
 生きることは、苦しみに耐えることにほかならない。
被爆したあとの入院中、背中や胸の肉は腐ってどぶどぶと流れ落ち、体の下に敷いたぼろ布にたまった。
夏になると、左肘にうじがわいた。次々に卵がかえり、氏は骨と骨の間に食いこんでいき、ぎりぎりと痛む。大きくなったうじが見えても、動けない身ではどうしようもない。
 ところが、こうやって寝ているときに、身長は30センチも伸びていった。
これは驚くべきことです。よほど、看護体制が良かったのでしょうね。
 著者には、配達中の災害だったので、入院中も給与がずっと支払われていて、それが家族の生活を支えた。
 3年半の入院費用は全く負担しないですんだ。不思議だった。
おかしいと思うことは声をあげる。これは、戦争を止められなかった大人たちへの怒りの裏返しでもあった。
 結婚することができ、子どもが生まれた。原爆の影響を心配したが、二人の子は大きな病気をすることなく育った。今では、4人の孫と2人のひ孫がいる。
 被曝者として訴えるとき、怒りだけでは相手に伝わらない。この苦しみは私たちだけで十分だと辛抱強く訴えてこそ、相手の胸に響く。
 著者は、原水禁運動が分裂し、被爆者団体まで分裂したことを残念がっています。本当にそうですね。一刻も早く大同団結して、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキの叫びをさらに強く、核兵器の全廃を急ぐべきです。
 日本がアメリカの核の傘に守られているなんて、嘘ですし、幻想です。
 その原点を思い起こさせる、いい本です。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2014年8月刊。1500円+税)

2014年10月26日

もう10年もすれば・・・

著者  中国引き揚げ漫画家の会 、 出版  今人舎

 敗戦時、中国にいた大勢の日本人が命からがら日本に引き揚げてきました。
 たとえば、中国の大連には敗戦のとき、20万人もの日本人がいたのです。そして、旅順から退去させられた人や奥地からの難民6万人が、これに加わりました。
 大連からの引き揚げは、敗戦した翌年の昭和21年12月3日から始まりました。
 赤塚不二夫は母親を先頭に奉天駅まで歩いて行った。母のリュックに不二夫がしっかりつかまり、その不二夫に妹の寿満子がつかまって、綾子を背負った寿満子に弟の宣洋がつかまって歩いた。マンガに描かれた子どもたちの必死の顔つきは見事です。
 ちばてつやもまた歩いていった。お腹がすいてたまらず、思いきりバンドでお腹を締め付けて、お腹のすいたのをまぎらして歩いた。
 日本へ帰る引揚船を見たとき、そのでっかさに圧倒された。
 さすがに漫画家たちの描いた絵ですので、迫力があります。真に迫っています。
 赤塚不二夫、ちばてつやのほか、森田拳次、北見けんいち、古谷三敏、山内ジョージなどたくさんの有名な漫画家がいます。
 中国(満州)は日本の生命線だと政府にだまされて渡っていった大勢の日本人がいました。そして、敗戦のとき、日本軍は日本人を見捨て、高級幹部は一目散に日本へ逃げ帰ったのです。
 軍隊は国民を守るためにあるというのは、昔も今も、真っ赤な嘘なのです。
 2002年に発行された本の復刻版です。一見、一読の価値があります。
(2014年6月刊。1800円+税)

2014年7月29日

検証・法治国家崩壊


著者  吉田敏浩・新原昭治・未浪靖司 、 出版  創元社

 タイトルからは何が論じられているのか不明ですが、砂川事件の最高裁判決、つまり田中耕太郎長官がアメリカとの共同謀議で在日米軍を合憲とした司法の汚点が今なお尾を引きずっていることを、その歴史的位置づけを明らかにしつつ暴いた本です。
 アメリカのいいところは、30年たったら秘密文書が公開されるところです。著者たちは、アメリカの公文書館で公開資料を読みあさって、「宝の山」を掘りあてたのでした。
 それにしても、おぞましい最高裁の汚点です。吐き気すら催してしまいます。
 そして、これが55年前の古証文の汚点を暴いたというのに留まらず、現代日本においても、その桎梏が私たちを苦しめているところが問題です。
 まずは、田中耕太郎の犯罪的役割を確認しておきましょう。
 1959年12月16日、日本の最高裁が砂川事件で出した判決は、アメリカ軍の治外法権を認めた。そして、この裁判所は、実は、その最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日大使のシナリオどおりに進行していた。
 田中耕太郎長官は、アメリカからの内政干渉を受け、唯々諾々とアメリカの意向に沿って行動した。日本の最高裁は、憲法の定める司法権独立が侵された大きな歴史の汚点を背負っている。
 米軍駐留は憲法違反だと明快に断じた伊達判決はアメリカにとって大打撃だった。マッカーサー大使は、表向きの記者会見では、「コメントするのは不適切だ」としつつ、裏では素早く日本政府に介入した。
 最高裁への跳躍上告をすすめたのもアメリカだった。
 1959年から1960年にかけて安保条約改定の秘密交渉と砂川事件裁判への政治的工作が、こっそり同時併行で進められていった。それは、日比谷公園に面した帝国ホテルが会場とされた。
 1959年4月、今の天皇が結婚パレードをするころ、田中耕太郎は、マッカーサー大使に最高裁の合議の秘密を全部バラしていた。判決時期、最高裁の内部事情など、裁判の一方当事者と言えるアメリカ政府を代表とするアメリカ大使にすべてを教えていた。
 いやはや、とんだ男が長官でした。呆れはてて、声を失います。
 1959年11月、安保改正の秘密交渉が大詰めを迎えていたころ、マッカーサー大使は、田中耕太郎と再び密談した。その場所までは書かれていないが、アメリカ政府あての報告書に内容が紹介されている。
 「田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間はなしあった。長官は、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと言った。田中耕太郎長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に、それはくつがえされるだろうが、重要なのは、15人のうちの出来るだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。
 田中長官は、こうした憲法問題に伊達判事が判決するのはまったくの誤りだと述べた」
 マッカーサー大使は、田中の話を聞いて、さぞかし満足し、安心したことだろう。
 同時に、心の中では田中耕太郎を軽蔑したのではないでしょうか・・・。まことに、田中耕太郎とは唾棄すべき存在です。
 憲法の番人と言われる最高裁。その長官で、全国の裁判所・裁判官のトップに立ち、率先して裁判所法そして、評議の秘密を、なにより法律全般を守らなければならない人物、日本の司法の最高責任者ともいうべき人間が、評議の秘密をもらしていた。これこそ「法治国家崩壊」と呼ぶべき大事件ではないのか・・・。私もまことにそのとおりだと思います。
ところが、田中耕太郎は、裁判所内部の訓示では、「裁判の威信を守れ」などと言っていたのでした。典型的な二枚舌です。
 最高裁判決には、きわめて大きな矛盾がある。東京地裁の伊達判決について、「米軍駐留は違憲だ」としたのを、裁判所の司法審査の範囲の逸脱だと非難している。しかし同時に、最高裁みずから「米軍駐留は事実上合憲だ」と判断した。これこそ典型的な矛盾であって、両立しえないところである。
 田中耕太郎は判決後、記者に取り囲まれ、次のように述べた。
 「裁判所は、いかなる意味でも、政治的意図に動かされてのものではない」
 本当に、そらぞらしい嘘を平気で口にしています。聞いているほうが恥ずかしくなります。
砂川事件最高裁判決と日米密約交渉は、戦後日本の進路を対米従属のレールに固定化する役割を果たしたと言える。「安保法体系」という日本の主権を制限する法体系に優越性をももたせ、密約と情報隠蔽の構造で米軍優位の不平等な日米関係を容認したのだ。
 米軍機の騒音公害問題、米軍基地の強制収容の問題など、1959年の最高裁判決が半世紀以上にわたって厚い壁となって住民や地方自治体の前に立ちはだかっている。
 本年(2014年)6月、砂川事件最高判決を失効させるため、東京地裁に免訴を求めて再審請求した。この再審請求を認めてこそ、日本の裁判所には救いがあることになります。却下するようだったら、日本の司法は暗黒そのものに陥ってしまうでしょうね、残念ながら・・・。
 著者の一人である末浪靖司氏より贈呈されましたので、ここにあつく御礼を申しあげます。
 再審が認められ、田中耕太郎という人物を日本人、とりわけ司法関係者は恥ずかしくてその名を口にも出来ないという事態を早く迎えたいものです。
(2014年7月刊。1500円+税)

2014年7月26日

ラスト・バタリオン


著者  野嶋 剛 、 出版  講談社

 旧日本軍の上級将校が蒋介石の下で大陸反攻作戦に関わっていた事実を丹念に掘り起こした労作です。
台湾において、蒋介石の指示のもと、中国を取り戻すための「大陸反攻計画」の策定に深くかかわり、1968年に「白団」が解散するまで台湾にとどまっていた。
数百人に及ぶ帝国陸海軍の軍人が台湾渡航の打診を受け、100人が正式に応じたが、実際に台湾に渡ったのは83人だった。
蒋介石は、中国大陸を中国共産党軍に奪われ、台湾海峡をいつ人民解放軍が押し寄せてくるか分からないなかで、日本軍人によって国民党軍を立て直すというプランに望みをつないでいた。日本軍人の力を借りて、共産党に対抗する。これが蒋介石の秘策だった。
 白団のメンバーに加入すれば、出発手当として、団長は20万円、団員は8万円が支給される。さらに、留守宅手当として1ヵ月につき3万円が支給され、契約満了時には、離任手当として5万円が支給される。このころ(昭和25年)の大卒初任給は3千円だった。そして、勤務による病気・負傷のときは台湾側が治療し、日本への移送にも責任をもつこととされた。
台湾に撤退したとき、国民党政府の軍は悲惨な状態にあった。ところが、蒋介石にとって、この台湾撤退は、それまで頭を悩ませてきた陸軍の派閥と腐敗という問題を解決するための絶好の機会となった。「白団」によって中央集権的な軍事教育を企図したのだ。
 「白団」は、あとでアメリカ軍の警戒の目から逃れるために「覆面」の地下組織となったが、当初は公的な組織だった。最初は「訓練班」という名称だったが、すぐに「訓練団」と改名し、団長には蒋介石みずからが就任した。
 1951年には、「白団」の日本人教官は76人が在籍していた。これが最大人数。
 蒋介石は1915年、28歳のときに日記を書きはじめ、85歳になった1972年まで、57年間にわたって日記をつけた。その日記のなかに「白団」関係は、しばしば登場している。
 蒋介石は、台湾に渡るとき、故宮の貴重な文物を運び、また、黄金を持ち出した。運ばれた金塊は2500億円以上の価値があった。
 台湾の戦後政治の変遷のなかで「白団」はどう位置づけられるのかなど、歴史的な掘り下げの点で、いささか突っ込み不足ではないか、少し物足りないところも感じました。それでも、よく調べていることは間違いありません。戦後日本史の貴重な一断面です。
(2014年4月刊。2500円+税)

2014年7月 4日

失郷民


著者  中田 哲三 、 出版  作品社

 1948年に起きた済州島四・三事件の目撃者であり、その後、日本に密航してきて、大阪で「在日」として、身を起こした趙南富の生涯を描いた本です。
 著者は趙南富の娘の夫になります。フランスで料理人として修行し、日本に戻ってレストランを経営していたという経歴には驚かされます。モノカキに転身したということでしょうか・・・。私も父親の伝記に挑戦し、なんとか、小冊子にまとめてみましたが、400頁ある本書には負けてしまいました。戦後の朝鮮半島、そして韓国現代史が大変詳細に調べてあり、読みものとしても大変よくまとまっています。
 済州という名は、1214年に高麗王朝の属国なったときにつけられたもので、「海の向こうの大きな都」を意味する。かつては、耽羅(たんら)という王国が464年間にわたって済州島を支配していた。一時期、20年間ほど、元の直轄地としてモンゴルの軍用馬の一大生産地とされていたこともある。今も、済州馬が飼育されている。朝鮮王朝時代は、政治犯の流刑地でもあった。
南富の母は、済州島の女性らしく、12歳ころから、一人前の海女(あま)として海にもぐって働いていた。
 南富は、戦前、国民学校で日本語教育を受けた。そこでは朝鮮語は禁止されていた。
 1945年8月5日、日本統治が終わり、日本人教師は島を去った。
 独立を得てから、朝鮮半島に住む人々は怒濤の日々にもまれていきます。
 戦前、日本に渡っていた人々が済州島に続々戻ってきて、島民人口は倍の30万人にまでふくれあがった。そして、1948年4月3日、「四・三蜂起」が始まった。
 蜂起した武装隊と、鎮圧する側の討伐隊の双方が島民を殺す事態が続いていきます。済州島の悲劇の始まりです。
討伐隊の容赦ない粛清を恐れ、村の青年たちが大挙して武装隊に加わったり、山奥や海辺の洞窟に身を隠した。
 ごく普通の人々のごく普通の生活が、ある日突然、戦場のただ中に追いやられたというのが、1948年冬の済州島の姿だった。
 1950年6月25日、朝鮮動乱(朝鮮戦争)が始まった。
 南富の兄・南湖が在籍していた花郎部隊は激戦のなかで壊滅した。
そして、1953年、南富は親から日本へ密航することを命じられた。南富17歳のとき。
済州島から釜山に行き、オンボロ漁船で日本へ渡った。下関に着いたところ、駅構内で全員が検挙され、大村収容所へ入れられることになった。ところが、増改築工事中のため、平戸に入れられた。
 そして、収容所の便所から脱出して、海に飛びこんだ。平戸でキリスト教の信者に助けられ、ついに神戸までたどり着いた。
このあたりは嘘のような展開です。よほど運のいい人だったのでしょうね。
 密航者の身なので、公然とは働けない苦しさ。また、日本の大学で勉強したいのに簡単にはいかなかった苦労が紹介されています。結局、大学に入ったものの、中退したのでした。
 1959年、北朝鮮への帰還運動が大々的に始まります。このとき、民団の青年決死隊500人が北送阻止闘争までしていたことを初めて知りました。
 南富の親しい友人が北朝鮮に渡っていきました。反対しても止めることが出来ません。なぜなら、その友人は、朝鮮学校で北送を子どもたちにすすめていたのです。責任上、自分も行かないわけにはいかなかったというのです。そして、その友人は何十年もして日本にやって来ました。その前、ソウルでも再会しています。大変くらい表情だったようです。そんな映画が最近、上映されましたね。
暗殺された朴大統領との交流もありました。南富は、民団のなかでリーダーになっていったのでした。
 いつも希望を失わずに、在日のプライドをもって誇り高く生き抜いた人生だったと思います。とても読ませる、いい本でした。著者に、ありがとうございました、とお礼を申しあげます。
(2014年5月刊。2000円+税)

2014年4月 6日

シベリア抑留者たちの戦後


著者  富田 武 、 出版  人文書院

 シベリア抑留の問題を実証的に追求した貴重な本です。
 先に紹介した『シベリア抑留全史』については、よくまとまった労作であると評価しつつ、関東軍の行動や日本の満州支配を正当化しかねない論調を首肯できないとしています。スターリン批判(断罪)のみでは、視点が一方的になるということですね。
 日本軍将兵は、自らが捕虜であるという認識をほとんど持っていなかった。というのは、戦闘もせずに、「天皇陛下の命令で武器をおいた」と思っていたから。なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
 ところが、ソ連のほうは、9月5日まで戦闘を続け、拘束した軍人、軍属はすべて捕虜扱いとした。これをアメリカもイギリスも黙認した。
捕虜とは、軍隊の所属または指揮下にあり、戦闘に直接・間接に参加した軍人・軍属で、敵国に捕らわれた者をいう。
 抑留者とは、戦闘後に拘束された非軍人・軍属である。
収容所の所長が、対独戦で苦労していたり、近親者に政治犯がいたりすると、決して表には出さないが、スターリン体制を快く思っていないときには、日本人捕虜に寛容だった。
日本人捕虜は、自分の生き残りに必死で、他人のことを思いやる余裕を失っていた。
捕虜は、肉体的状態に応じて、三級にランクづけされた。一級は、どんな重労働にも耐えられる者。二級は、中程度の労働に適した者。三級は軽労働にしか向かない者・・・。
 最初の苛酷な1945-46年の大量の死者を出した冬が終わると、出勤率は少しずつ向上しはじめた。
 ソ連は、戦後復興の進展、国際世論の動向を見ながら、小出しに抑留者を日本に送還した。
 シベリア抑留者のなかに近衛文磨の息子である近衛文隆も混じっていた。しかし、文隆は収容所で病死した。
 シベリア抑留者の戦後は、さまざまだったわけですが、本当に大変なことだったと、つくづく思います。
(2013年12月刊。3000円+税)

2014年2月27日

「東京裁判」を読む


著者  半藤 一利 ・ 保阪 正康 、 出版  日経新聞出版社

 「東京裁判」を全否定したと思われるNHK経営委員の発言がありました。その常識のなさには呆れるばかりです。なるほど、戦勝国による「東京裁判」に問題が全くなかったわけではありません。しかし、侵略国家・日本が裁かれるべき対象であったことは否定できない歴史的事実だったと思います。この本は、そのことをいろんな角度から実証的に明らかにしています。
 完全無欠の裁判でなかったのは事実だが、その不備を根拠に、そこで明らかにされた事実までも「東京裁判史観」として全否定するのは間違っている。忘れてならなのは、裁判は連合国側の一方的な断罪に終始したのではなく、日本側も大いに主張し、根拠を提出して、裁く側の問題点を突いていたことだ。
東京裁判でもっとも重要なことは、検察(連合国)側が出てくる情報を日本国民はほとんど知らなかったということ。その驚きが、当時の日本人が東京裁判を肯定した大きな理由だった。そこでは、戦争という名目で、日本の軍事指導者がかなり無茶をやった事実が明らかになった。
東京裁判は1946年5月3日に始まり、2年半に及んだ。裁判の場所は市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂を改造した。
 占領政策を円滑にするため天皇の戦争責任は問わないというアメリカの方針に従う検察側は、弁護側以上に天皇への言及に神経質になっていた。
 東京裁判では日本軍による南京大虐殺も問題とされた。
 中支那方面軍司令官の松井石根(いわね)は、尋問で日本軍による暴虐行為を「南京入城と同時に知った」と答えており、虐殺が事実であったことは否定できない。そして、殺害された人が「30万人」というのが過大であったとしても、同胞が無残に殺害された中国人の憤りに変わりはないだろう。
 まことに、そのとおりです。「30万人」が過大だとしても、虐殺された人数がゼロになるわけではないのです。こんなところで、「コトバ遊び」をしてはいけません。
 ポツダム宣言は、軍隊の降伏であって、国家の無条件降伏ではない。
 東京裁判の検察側証人として、日本紙芝居協会の会長が登場する。軍国紙芝居も、言論統制の一環だった。この証人には驚きました。井上ひさしの劇にも登場します。
 日本軍による真珠湾攻撃について、ルーズベルト謀略説というのがある。しかし、そんなことを言う人こそ自虐史観だ。それほど日本人はバカだったのか。ルーズベルトに「はめられた」というけれど、日本人はそんなにバカではない。
 広田弘毅は、大事なところで無能だった。陸軍の言いなりになった、その責任は大きい。
 一番問題なのは、2.26事件のあと、首相として陸軍の要望を全部うけいれてしまったことにある。軍部大臣現役武官制も陸軍から要求されて認めているし・・・。軍部を抑えるために出て行ったような顔をして、実際には、軍部からいいように操られた。
 昭和10年代に広田広毅が外交官を代表する形で出て行ったことは日本の最大の不幸だ。
 板垣征四郎・陸軍大臣について、昭和天皇は、「あんなバカ、見たことない」と言った。「臣下として、最低のレベル」だと・・・。
 南京大虐殺にしても、南から言った日本軍は虐殺をあまりしていない。だから南から攻めた軍人の話を聞いたら、虐殺はなかったことになる。
 弁護側は、虐殺の事実自体は否定しきれなかった。日本国民は南京虐殺事件のことを本当に知らなかったので、愕然とした。
 インドのパール判事も、南京虐殺については事実として認定している。
 東京裁判とはどういうものだったのか、それを知るときに絶好の手がかりになる本だと思いました。
(2009年8月刊。2200円+税)

2014年1月22日

シベリア抑留全史


著者  長勢 了治 、 出版  原書房

 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

2013年12月 6日

占領から独立へ

著者  楠 綾子 、 出版  吉川弘文館

1945年7月26日のポツダム宣言は、日本国政府の存在を前提とし、無条件降伏を求める相手を日本国軍隊に限定していた。
 アメリカ政府は、天皇制を明確に保障はしないけれども、否定しないことで、「国体護持」が認められるかもしれないと匂わせる方法を選んだ。そして、日本の外務省は、このアメリカ政府の意図を正確に読みとった。
 日本政府、そして軍では、だれもが「国体」だけは守らなければならないと信じていた。しかし、その意味するところまでは共有されていなかった。厳密に中身が定義されなかったが故に、「国体護持」という目標は、日本政府と軍内の合意形成に強力な磁力を発揮することができた。
突然の降伏決定にどう身を処してよいか分からない軍人たちに、ともあれ暴発させずに降伏を呑みこませるには、東久邇内閣の陸軍大将であり皇族という権威は有効だった。
 マッカーサーは、1945年8月30日、厚木基地に降り立った。サングラスにコーンパイプといういでたち、丸腰で武装解除前の敵地に降り立ったのである。これも実は、先遣隊と一足先に着陸した第八軍司令官アイケルバーガーが入念に安全を確認した上での行動である。
映像を活用して自己を演出する才能において、マッカーサーはほとんど天才的だった。
東久邇自身は意欲満々だった。1920年代のフランスに長く遊んだ東久邇は、皇族のなかでは恐らくもっとも開明的な思想の持ち主だったと思われる。東久邇は、実にさまざまなアイデアを思いつき、実行に移そうとした。婦人参政権、貴族院の廃止、言論・集会・出版・結社の自由、特高警察の廃止、さらには民主的・平和的憲法の制定も考えた。
 しかし、東久邇の発想は保守指導層の理解を得られなかった。政治に携わった経験のない東久邇首相は、自己の構想を政策という形に落としこみ、それを実行するために官僚機構を動かす術を知らず、また手段ももたなかった。
映像の活用、荘重なことばをちりばめたスピーチなど、突出した自己演出欲求はマッカーサーの特徴だった。
 マッカーサーは、ワシントン介入には拒否反応を示すのが常だった。そして、マッカーサーの独断専行をトルーマン政権は、苦々しく思っていた。
 マッカーサーの威厳ある振る舞い、もったいぶった表現や人を身近に近づけない態度は、日本人の考える支配者像にうまく合致した。マッカーサーは、日本国民の前に姿をさらすことは、滅多になく、会見する日本人は、昭和天皇と首相のほかはごく少数に限られた。そうして、日本国民の上に絶対的な支配者として君臨した。戦争に疲れ果てた日本人の前にマッカーサーは慈悲深い解放者を演じた。
 天皇と天皇制をどう扱うかは、アメリカ政府にとってはまことに悩ましい問題だった。終戦直後のアメリカでは、天皇を戦犯として起訴し、天皇制を打倒せよという声が圧倒的だった。
 天皇は揺れていた。日本の起こした戦争とその悲惨な結果について、制度上、法律上の責任はともかくとし、道義的責任は感じていたと思われる。
 9月27日の第1回の天皇とマッカーサー会見によって、天皇と日本政府はマッカーサーが天皇を重視し、敬意をもって丁重に扱うという感触を得た、マッカーサーにとっては、占領政策の協力者を得たという点で、それぞれに有益だった。それ以降、マッカーサーは、天皇擁護の方針を鮮明に打ち出していった。
 弊原や吉田茂のように、根本的・急進的な改革を嫌う保守層は、明治憲法の改正ではなく、運用の変更によって、自由主義的・民主主義的な政治・社会を実現することが適当かつ可能と考える傾向にあった。
 1946年2月3日、マッカーサーがGHQの民政局に示した原則は三つ。第一に、立憲君主としての天皇制の維持。第二に、自衛戦争をふくむ完全な戦争放棄。第三として、封建制度の廃止。
 戦後放棄条項は、天皇制の存置と日本の軍事大国化の阻止という二つの要請を同時にみたす、当時においてはほとんど唯一の方法であった。
 吉田茂は、権力闘争をたたかう武器として公職追放を利用した。
マッカーサーと天皇の会見は11回に及んだ。それは毎回、天皇がアメリカ大使公邸にマッカーサーを訪問する形式で行われた。マッカーサーは最後まで宮中に行うことはなかった。マッカーサーは天皇を敬愛し、その協力を求めつつも、天皇をふくむ統治機構の上にマッカーサーが君臨していることを象徴的に示すスタイルを最後まで変えようとはしなかった。
 終戦後の日本政治を詳しく、かつ多面的に分析した本として、興味深く読みとおしました。
(2013年9月刊。2600円+税)

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