弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(古代)
2022年1月15日
土偶を読む
(霧山昴)
著者 竹倉 史人 、 出版 晶文社
日本全国に何万点と出土している土偶について、著者は食用植物と貝類をかたどっているものという仮説を提唱し、本書でそれを裏付けています。なるほどね、そうだろうなと思いました。
縄文時代は1万4000年間も続いている。これは実に長い期間ですよね。
そして、縄文中期に土偶はデザインが多様化するだけでなく、大型化、立体化した。さらには出土点数が爆発的に増加した。そして、縄文時代晩期にピークを迎えると、弥生時代に入って、突如として衰退・消滅してしまった。
縄文時代中期に人口が増加した最大の要因は、食料となったトチノミのアク抜き技術が成立して炭水化物がとれるようになったことにある。
著者は、土偶は当時の縄文人が食べていた食物をかたどったフィギアであるという仮説に思い至った。
ハート形土偶が集中的に出土している会津地方は、日本有数のオニグルミの里だった。
合掌土偶と中空土偶を使用していた人は日常的にクリを資源として利用していた。
椎塚土偶はハマグリをかたどった土偶。
みみずく土偶は、イタボガキ(貝)をかたどったフィギア。
星形土偶の頭頂部はオオツタノハ(貝)の形状に近似している。そして星形土偶が出土した貝塚から、実際にオオツタノハ製貝輪が発見されている。
カモメライン土偶の顔はマムシの顔だった。ヘビのなかで、猫の目のように瞳孔が縦に細くなるのはマムシだけの特徴。
結髪(けっぱつ)土偶はイネをかたどった土偶。
刺突文土偶はヒエをかたどったフィギア。
遮光器土偶は、サトイモの精霊像であり、その紡錘形に膨らんだ四肢はサトイモをかたどっている。
著者は考古学者ではなく、あくまで人類学者です。なので、学会でどのように評価されているのか知りませんが、面白い提起で、説得力はあると思いました。その後、この本について、トンデモ本に近いもので、科学的な裏付けに乏しいと酷評されているのを知りました。
(2021年5月刊。税込1780円)
2021年12月25日
うん古典
(霧山昴)
著者 大塚 ひかり 、 出版 新潮社
子どもたちの大好きな『うんこ漢字ドリル』が大ヒットするなかで、実は日本人は昔から大人も「うんこ」の話が大好きだったという、うんちくをこれでもかと傾けた本です。まさしく「うんこ」ワールドの世界が大爆発します。
王朝文学は、神話に劣らぬほどの「うんこ話」の宝庫。もっとも汚れた者こそが、もっとも神聖な境地に達するという物語のパターンがあった。
侍(さむらい)にとってトイレの付き添いや介添え、これが風呂の用意や掃除とともに、主な仕事になっていた。
鎌倉前期、禅宗の一つ、曹洞宗をおこした道元は、トイレのマナーを具体的かつ詳細な論述していた。
トイレは仏の説法の場でもあったので、そこでのマナーは、仏教的にも非常に大切なものだった。
『正法眼蔵』のトイレマナーは、身を清浄に保ち、トイレを正しく使うことで、心が安定、自分も他者も幸せになる。
これってコンマリ「近藤真理恵」本で、おすすめのことですよね...。
排泄の場であるトイレは、古代は乙女を犯そうと神が現れたり、江戸時代には人の尿をなめたり、尻子玉を抜こうとする河童が出てくるので、鬼神と出会いやすいというパラドックスがあった。つまり、トイレは、この世ならぬ異界への出入口だ。
現代では、便は健康状態をはかるバロメーターだ。健康第一を唱える人なら誰だって、その日の便の状態はよくよく視認しているのです。
いやあ、勉強になりました。
(2021年4月刊。税込1705円)
2021年11月21日
アクセサリーの考古学
(霧山昴)
著者 高田 貫太 、 出版 吉川弘文館
新羅(しらぎ)は、ほかと比べて貴金属のアクセサリーがひろく流行した社会だ。膨大な数の金製の耳飾りが出土している。百済(くだら)の耳飾りは、新羅に比べると、資料数が少ない。
新羅の冠には、帯冠、冠帽、冠飾りが確認でき、その材質は、金、銀、金銅。百済では、帯冠の資料は、ごくわずか。
新羅と百済の王や王族などの墳墓には、飾り履(くつ)が副葬されることがある。冠といっしょに出土することが多く、着装などは有力な人びとに限定されていた。
新羅では、王陵や有力者の墳墓から指輪が出土することが多い。しかし、指輪は百済や大加耶では、あまり知られていない。古代の「質」(むかわり)は、単に「人質」ということだけではなく、交渉相手の社会に派遣され、そこで自らが属する社会の交渉目的を代弁するようなこと。
古代朝鮮において、もっとも基本となるアクセサリ―は、耳飾り。倭も同じ。
洛東江の下流域の東側に位置する釜山は、その対岸の金官加耶の中心、金海とはちがって、新羅によって早い段階に統合された。
5世紀ころには、釜山地域は、新羅王権とのつながりを深めた。
5世紀の後半になると、長鎖の耳飾りが、倭各地の有力者のあいだでトレンドとなった。
5世紀の後半、倭の外交の一翼を担うなか、百済や加耶系のアクセサリーを取りそろえた地域有力者がいる。それが熊本県の江田船山古墳に伝わったと考えられる。6世紀前半、江田船山古墳から出土した百済の飾り履がある。江田船山古墳の耳飾りは、新羅系とみるのが自然。
磐井(いわい)の乱が起きたのは、1527年のこと。これは、新羅の加耶進攻を契機とし、そこに北部九州と新羅のつながり、倭王権による外交権の一元化の動きがからみあって、勃発(ぼっぱつ)した。これに勝利することで、倭王権は北部九州の主体的な対朝鮮半島交渉を大きく制限することに成功した。
出土したアクセサリーの日韓出土の相違点をことこまかく調べあげ、博物館のデータと根気よく比較していくという地道な作業が学者には求められています。大変な苦労ですね。ただ、そのとき、あれ、これはどこかで見たことがあるぞ、という記憶力も必要のようです。
アクセサリーを通じて、古代日本と朝鮮の王朝との結びつき、対立抗争を想定していくという面白い本でした。写真でアクセサリーを眺めるだけでも昔をしのんで楽しくなります。
(2021年5月刊。税込1980円)
2021年10月29日
酸素同位体比年輪年代法
(霧山昴)
著者 中塚 武 、 出版 同成社
酸素同位体比年輪年代法とは、年輪編の代わりに年輪の主成分であるセルロースにふくまれる酸素同位体比という科学的指標を測定して、その酸素同位体比の変動パターンを年代が既知の資料と未知の資料のあいだで比較するという手の込んだ方法。この方法は、パターン照合で年代を決定する作業において成功する確率が高く、あらゆる種類の年輪に等しく応用できる。そして、夏の気候の年々の変動にも精度よく復元できるというメリットがある。
この方法は2011年から日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、急速に発展してきて、日本は、この分野で一人勝ちの状況になった。
今では、日本には過去3000年分のスギとヒノキの年輪幅のマスタークロノロジー(標準年輪曲線)ができあがっている。これは、世界でも抜きんでた研究の成果だ。
この方法は低コストで誤差なく年代が決定できる。この方法によると、年単位での年代決定が可能。
なぜ酸素なのか...。酸素の同位体比は、過去の気候変動を記録しやすい。水は気候変動の主役であること、酸素は必ずふくまれていることによる。
セルロースは、いったんなくなったら、二度と周囲の物質と交換しない。
ヒノキやスギ、マツなどは針葉樹。紀元前にさかのぼると、日本でも広葉樹が繁茂していた。シイ、カシ、クスノキ、クヌギ、クリ、ケヤキ、サクラなど...。針葉樹は、深い山の奥にはえていて、古代の人々には、切り倒して低地まで運び出すのが困難だった。広葉樹のほうは、低地の集落の周辺に生えていたので、利用するのに都合がよかった。
この方法による年代判定の結果が、文献史学や考古学的な推定と整合的であったことから、大きなスポットライトがあたった。分析コストも、非常に安いというメリットがある。
年輪によって建造年を安定しているというのは前から知っていましたが、今はもっと進んでいることを知ることができました。軍事方面でない、こちらの人類の発展史における学問の技術・向上には刮目(かつもく)されます。
(2021年6月刊。税込2970円)
2021年9月10日
「陵墓」と世界遺産
(霧山昴)
著者 陵墓公開記念シンポジウム委員会 、 出版 新泉社
上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)や大山古墳(仁徳陵古墳)の海側からみた鳥瞰図(ちょうかんず)があります。地形を巧みに利用して段丘の縁辺部にできるだけ寄せ、海のほうからよく見えるようにつくっていることが分かる。なるほど古代の昔は、海が真近だったのですね。
前方後円墳、大型古墳群の移動、陵墓のあり方から考えると、『日本書紀』などの記載をもとに、日本の天皇制が古代から確固たる男系継承がおこなわれてきたというのは、学術的にはとても無理な話であって、そんなことがまかりとおっていることに、考古学者はもっと怒るべきだ。ここ10年、いや20年来の考古学の学界は、なにか非常に危険だ。ひどすぎる。
これは、陵墓をもっと大々的に公開し、学術的な研究をすすめるべきだということだと思います。まったく賛成です。それこそ30年計画をたてて、順次、陵墓を学術的に発掘し、その成果を公開していくべきではないでしょうか。そうすれば日本の考古学はさらに活性化するし、天皇制についての国民の議論も発展すると思います。
継体大王が登場するのは6世紀(527年)ですが、その前の5世紀にも、天皇(大王)の系列が違っていたようです。
允恭(いんぎょう)天皇は、即位すると履中(りちゅう)系と関係の深かった葛城(かつらぎ)玉田宿禰(たまだすくね)を倒した。また、允恭の子の雄略天皇は、葛城円大臣(かぶらのおおおみ)を焼き殺し、履中の子である市辺押磐(おしほ)皇子を惨殺して即位する。
つまり、履中、反正という履中系に対して、允恭以降の系統とは対立関係にあったと考えられる。
『宋書』倭国伝に現れる倭の五王は、2系統に分かれるという見方がある。つまり、倭の五王のうち、「言賛・珍」は兄弟、「済・興・武」は済が父親で、興と武はその子だが、珍と済の続柄が記載されていない。なので、この両者は異系ではないか、ということ。すなわち、この二つは王族としては異系で、履中そして反正と続いた王統に対し、異系の允恭が即位することで主導権が交替した、ということ。
このように古代日本の天皇(大王)の交替劇をとらえると、日本は古来より男系による万世一系なんていうのは、まったく事実に反する夢物語だということです。一刻も早く、陵墓の学術的発掘調査に踏みきってほしいと私は思います。
(2021年5月刊。税込2750円)
2021年8月 3日
女帝の古代王権史
(霧山昴)
著者 義江 明子 、 出版 ちくま新書
古代の大王(天皇)の即位年齢の高さには驚かされます。
継体58歳、用明46歳、天智43歳と、ほぼ40歳以上。女帝のほうも推古39歳、皇極49歳、持統46歳。
7世紀の末に、祖母である持統の強力な後見のもとで、文武(もんむ)天皇が15歳で即位するまで、6~7世紀の日本では、熟年男女による統治が続いた。というのも、このころ、日本は、中国・朝鮮諸国との対立・緊張関係のもとで、倭国が古代国家としての体制を確立していく激動期だったから、支配機構が未熟ななかで、大王には群臣を心服させるだけの統率力・個人的資質が必要だった。なので「幼年」の王はありえなかった。
欽明が31歳で大王に即位しようとしたとき、31歳では「幼年」なので、国政を担うには未熟とみられたと『日本書紀』に書かれている。斉明は即位したとき62歳、皇子の中大兄は30歳。
群臣が統率力のある大王を選ぶとき、男女がという性差は問題にならなかった。
卑弥呼が「共立」された3世紀から、連合政権の盟主が倭王となる4~5世紀を通じて、血統による王位継承は原則となっていなかった。王は、連合を構成する首長(有力豪族)たち(群臣)が選ぶものだった。
平城京の発掘がすすむなかで、内裏(だいり)のなかにキサキたちの居住空間、後宮殿舎に相当する建物は存在しないことが明らかになった。奈良時代の皇后・キサキたちは、内裏の外に独自の宮(宅・ヤケ)を営んでいた。そして、キサキたちは、それぞれ自分の宮で、自分の生んだ御子(みこ)を育てていた。
古代は、男女の合意による性関係が、すなわち婚姻だった。女性の合意がなければ、姧とされた。
古代の婚姻の基本は、妻問婚(つまどいこん)といわれる別居訪問婚。
8世紀ころまで、男女の結びつきはゆるやかで、簡単に離合を繰り返した。男が複数の女のもとに通う一方で、女も複数の男を通わせることのできる社会だった。
奈良時代の貴族男女は夫婦別墓を原則とした。それは、男女別々の公的「家」の維持をはかる国家の方針でもあった。
7世紀半ばまでの王宮は、新しい大王が即位するごとに新たな宮にうつった。これを歴代遷宮といった。大王ごとに政治基盤となる勢力が変動し、その本拠地が異なっていたからだ。
7世紀から8世紀初めにかけて、倭で推古、皇極(斉明)、持統、新羅で善徳、真徳、唐では則天武后と、女性の統治者が輩出した。しかし、その後は途絶えた。
7世紀と同じく、8世紀も男帝と女帝が、ほぼ交互に即位した。このとき、女はこれまでどおり熟年で即位し、男は年少でも即位した。熟年で即位し、経験を積んだ「女帝」が退位後も未熟で年少の「男帝」を補佐し共治するという形態は、持統が創始した。
女帝は決して、中継ぎの臨時的なものではなく、したがって名目的な大王ではなかったということが明快に解説されています。古代日本を知りたい人、「万世一系」の天皇制に疑問をもつ人には必読の新書だと思います。
(2021年3月刊。税込924円)
2021年7月27日
古代日本の官僚
(霧山昴)
著者 虎尾 達哉 、 出版 中公新書
こういう本を読まないと歴史の真相というか実態は分からないものだと、痛感しました。
古代日本の朝廷は、厳粛な規律が守られ、よく統制のとれたものとばかり思い込んでいましたが、実際には、平気で遅刻し、無断欠勤が横行していて、しかもそれを上は黙認というか、放任していたというのです。ええーっ、そ、そんなバカな...、という驚きの事実がオンパレードなのです。
古代日本の官僚機構では、実は官人たち、とくに下級官人たちによる怠業、無断欠勤、無断欠席が横行していた。古代の日本では、律令官人は、規律正しくもなく、勤勉でもなかった。
下級の律令官人は、官僚編成に手こずった、かつての伴造(とものみやつこ)たち、つまり中下級豪族層の末裔(まつえい)だ。冠位十二階は、施行して40年以上たってもなお、中央の上級豪族層と一部の中下級豪族の冠位にとどまった。
聖徳太子の憲法17条は、法ではなく、「官僚の心構え」を説く訓令。
大化の改新のころ、中下級豪族層の官僚化は、はかばかしくすすんではいなかった。
壬申(じんしん)の乱(672年)というクーデターによって誕生した天武天皇(本当は大王。まだ天皇とは呼んでいなかった)のとき、律令官人が大量に生まれた。
天武天皇は、クーデターで挙兵したとき周囲にいた20人ほどの手勢を大舎人(とねり)を天皇の身近に仕えさせ、忠良なる官人に育て、能力に応じた官職につけた。そのころ、下級官人は、冠位(位階)を、あまりありがたがらない、そういう人々だった。
それでも、下級官人は、一般庶民とは違い特権があった。調、庸、雑徭(ぞうよう)が免除された。犯罪でも、救済措置があった。
上級官人は150人前後で、位階が昇進していくと、物理的にも天皇に近づいていく。これに対して、六位以下は儀式に参加することもなく、天皇を見ることもない。そして、下級官人は、儀式に無断欠席するものが多かった。ところが、欠席しても「代返」(だいへん)によって出席したと扱われた。この状況に対して、政府の対応は寛容だった。
8、9世紀の律令時代を返して、六位以下の官人たちは、不断に無断欠席を繰り返していた。そもそも、六位以下は、儀式に出席することを期待されず、また強制されない人々だった。なので、彼らは、したたかに、堂々とサボタージュした。
儀式があるときには、遅刻して参列し、天皇からの下賜品だけはちゃっかりもらうという厚かましさがあった。
「不仕料」(ふしりょう)。これは、各官庁で員数分を請求して得た人件費を精勤者に手当として支出したあと、残った不支給分のこと。官人たちが、怠業・怠慢によって欠勤すると、その分の人件費が浮き、官庁の運営経費が多少とも潤うという仕組みになっていた。
このように古代日本の律令国家は、官人の怠業・怠慢をある程度は織り込みながら、無駄なく効率的なランニングコストで官僚機構を動かしていこうという、合理性を重んじる現実的で、したたかな、専制君主国家だった。
いやはや、なんということでしょう。古代の官僚の世界の実態に大きく目を開かされました。
(2021年3月刊。税込924円)
2021年7月13日
推古天皇
(霧山昴)
著者 義江 明子 、 出版 ミネルヴァ書房
古代日本では、倭王は天皇と呼ばれず、大王であった。6~7世紀の大王たちは40歳以上で即位するものが多い。推古39歳、天武43歳、持統46歳。奈良時代の人々の死亡平均年齢は40歳。40歳まで生きのびた人間は「老(おとな)」であり、長寿の祝いの対象となった。馬子78歳、推古75歳、斉明68歳。みんな長生きしたというわけです。
大王は世襲されたが、継承順位は明確に定まっておらず、群臣(有力豪族)の支持を得た者が倭王になった。
推古は蘇我馬子(そがのうまこ)と叔父-姪の関係。といっても、二人は年齢的にはごく近い。馬子が76歳で亡くなった3年後に推古も死んだ。二人は同世代の政治的同志だったと考えられる。
推古の父は欽明、母は蘇我稲目(いなめ)の娘・堅塩(きたし)。
推古にとって、王権の強化と蘇我氏の繁栄は何ら矛盾するものではなかった。
推古は額田部(ぬかたべ)王。豊御食炊屋(とよみかしきや)姫ともいう。推古というのは、のちの奈良時代になってつけられた漢風の諡号(しごう)である。ということは、当時の呼び名ではなかったというのです。36年間にわたって馬子とともに国政を担ってきたわけで、お飾りなんかでは決してありません。
古代(5~7世紀)の王権は、群臣が治天下大王を選出し、大王は群臣の地位を任命・確認するという相互補完システムだった。
5世紀末までの倭王は、血縁による継承が自明の原則とはなっていなかった。首長連合の盟主たる地位で実力で勝ち得た者が、他の有力首長たちに王として認められ、王を出すことのできる複数の地域勢力が並立する状況にあった。連合の盟主となったものは中国に遣使し、中国の皇帝から「倭王」の称号を得て王としての地位を確かなものにした。継体大王の選出も、このような従来のシステムにそってなされた。しかし、継体以降は、子孫による血縁継承が続いて、世襲王権が形成されていく。
欽明のあとは、母の異なる4人の男女子、つまり敏達、用明、崇峻そして推古が次々に即位した。欽明につづく男女子4人の即位という事実の積み重ねによって、結果的に世襲王権は、成立した。
弥生後期から古墳時代前期まで、地域の盟主たる大首長もふくめて、男女の首長がほぼ半々の割合で存在した。
欽明は即位したとき31歳だったが、まだ「幼年」で、国政を担うには未熟だとみなされていた。
世襲王権は、蘇我氏の強力な支えのもと、欽明と稲目の子孫よりなる王権として成立した。
額田部(推古)は、18歳で異母兄・敏達の妃となった。異母兄との婚姻は、当時において珍しいことではなかった。6~7世紀の大王と周辺の王族は、極端な近親婚を何世代にもわたって繰り返した。そうやって自分たちの権力を守ろうとしたのでしょうね。
崇峻は蘇我馬子と離反したことから、馬子の配下によって殺され、群臣の支持を得て額田部(推古)が即位した。崇峻殺しは、単に馬子の横暴ではなく、足かけ5年の治世をみてきた群臣が、王を見放したことにもとづく。つまり、王としての資質に欠ける崇峻が馬子によって暴力的に排除され、そのあと安定した政治を回復し、統率力ある執政者として額田部を群臣は切望した。額田部は、まさしく蘇我氏と一体の大王として、蘇我氏の本拠地で即位した。
聖徳太子として有名な厩戸(うまやど)は、32歳ころから20年間、推古の下で働いていた。聖徳太子の実像が、この本でもあまり紹介されていません。誰か、古代の歴史のなかでの、推古と厩戸の関係をふくめて具体的に教えてください。
(2020年12月刊。税込3300円)
庭にブルーベリーが実っています。孫たちと一緒に実を採ります。わが家のブルーベリーは少し酸っぱくて、孫たちはパクパク食べますが、家人には人気がありません。
実は隣の人からも同じようにブルーベリーをたくさんもらったのですが、そちらは少し大きくて甘味があるのです。品種が違うのでしょうか...。
2021年2月20日
律令国家と隋唐文明
(霧山昴)
著者 大津 透 、 出版 岩波新書
日本とは、太陽の昇るところ。でも、日本国内にいわば、日が昇るのは、さらに東であり、日本列島から日が昇ることはない。
そうなんですよね...。私も、前から、なんとなく疑問を抱いていました。
日本の国土は世界の東の端だと中国の人々は見ていた。つまり、日本とは、中国を軸として、中国から見た国号だ。日本というのは、本来は、東方、極東を意味する一般名詞だった。なーるほど、ですね。
「旧唐書」には、倭国伝と日本伝と二つが別々にあり、この二つは別の国家だと認識されている。遣唐使のころ、「日本」という意味は唐から見た「日辺」(にっぺん)である。唐のころは、日本、日域、日東が日本に限定されず、新羅を指して使われていた。つまり、「日本」とは、中国から見て日の出るところ、極東を指していた。
隋の皇帝が怒ったのは、倭が日が昇り、隋が日が沈む、つまり我が先だとしたからだというのは俗説で、間違っている。日出すると日没するとは、東と西の方界を示しているだけ。倭が「天子」と名のったことに皇帝は許せなかった。倭が「天子」と名乗るという、隋と対等だなんて、とんでもないことだ...。
初めのころ、天皇の服装について、中国の皇帝にあるような規定はなかった。そして、天皇の行列についても、日本古来の習俗にしたがった神祭りの行列だったので、明文で規定することはできなかった。
日本の古代政府は、中国との違いをよく認識していて、まったく同じような規定を置くことはできなかったのです...。
現在の天皇・皇后は、先代もそうでしたが、皇居内で「お田植え」やご養蚕を行うが、これは明治に始められたもの。日本の天皇は、中国の皇帝とちがって、みずから農耕をするような存在ではなかった...。
古代日本の社会生活がどんなものだったのか、かなり具体的イメージがつかめる新書でした。
(2020年4月刊。840円+税)
2021年1月15日
考古学から見た邪馬台国大和説
(霧山昴)
著者 関川 尚功 、 出版 梓書院
邪馬台国は九州にあった、しかも福岡県南部の山門郡が有力。となると、私はうれしい限りです。奈良県の大和説が圧倒的優勢だなんて聞くと、悲しくなります。
この本では、大和にいる著者が古墳の発掘・調査の体験もふまえて、大和説は成り立たないことを論証しています。九州説の私にとって勇気百倍の本です。
奈良盆地の内部において、首長墓とみられる大型の弥生時代の墳墓はみられない。そして、大和地域の弥生遺跡からは鉄製品の出土が少ない。大陸産の青銅器の出土も少ない。大陸系の遺物、とくに中国製の銅鏡、銭貨は奈良県内ではごく少数しか出土していない。
纏向(まきむく)遺跡は、環濠をめぐらせるものでなく、開放的な立地形態。
大和地域は、銅鐸(どうたく)文化圏とされる近畿地方のなかで、銅鐸の出土数や生産において、その中心地とは認められない。
大和弥生時代に、中国鏡の出土がないことは、邪馬台国の卑弥呼が得た「銅鏡百枚」の影はうかがえない。
弥生時代の大和地域が北部九州と交流していたとは認められない。
唐古(からこ)、鍵遺跡にみる大和弥生遺跡の内容と、纏向遺跡の実態から、邪馬台国の存在を想定することはできない。
箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墓とすることに、戦後の考古学界は否定的だった。
古墳時代の基本(中期)は5世紀。そして箸墓古墳は4世紀につくられたと考えるべきで、3世紀にさかのぼるとは認められない。
考古学的にみると、大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤は認めがたく、この事実は邪馬台国大和説の成立を否定するものである。
ところが、北部九州には、有力な弥生首長墓がいくつもある。有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁といえる、この時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するというのは考え難い。
ふむふむ、そのとおりだ、よっし、やっぱり九州説が一番だ...。
(2020年9月刊。1800円+税)