弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代)

2021年1月 7日

森浩一 古代学をつなぐ


(霧山昴)
著者 前園 実知雄、今尾 文昭 、 出版 新泉社

古墳時代とは、古墳が墓ではなかった時代のこと。古墳は墓ではあったが、墓以上の機能をもっていた。つまり、非常に政治的なものを墓に話していた。それは、権力なり権威の象徴であって、その力を示すものとして、規模や形が、政治をふくめた世の中の仕組みのなかで大事な機能をもっていた。その必要がなくなったとき、前方後円墳の古墳時代は終わった。前方後円墳をつくる意味がなくなったのは6世紀の終わり。
大きな古墳は広い土地を占めている。この広大な土地を権力者が所有している。しかし、土地の公有化がすすんでいった。土地の私有化が認められなくなったのが古墳がつくられなくなった最大の理由。そして、人々の死生観も変わったことにもよる。一つの石室に7体も8体も入れるようになった。
壬申の乱(672年)は、大海人皇子がクーデターを起こして大友皇子を殺し、天武天皇となった。この大友皇子は即位していた可能性があり、明治以降に弘文天皇という名前がついている。そして、この天武天皇のときに「日本」という国号ができた。それまでは「倭の国」と呼ばれていた。
仏教の興ったインドでは、死者は火葬する。しかし、中国は火葬せず、遺体は残す。日本で最初に火葬した(700年)のは、道昭という僧侶。次に持統天皇。朝鮮半島でも王様は火葬。日本では、持統天皇のあと、文武、元明、元正天皇まで火葬で、その後は土葬。遺体を火葬すると、大きな墓を作らなくてよいという利点があった。
高松塚古墳、キトラ古墳、マルコ山古墳に葬られた人は、最高級の位にある人とは考えられない。
森浩一は、邪馬台国は九州かヤマトかと二分はしない。卑弥呼のときまでは九州で、台与(とよ)のときはヤマト。つまり、東遷説をとった。九州説として、具体的には筑後国山門郡に強いこだわりを示した。
三角線神獣鏡は日本各地に550両以上も出土しているが、中国からの確実な出土例は、今に至るまで1両もない。
日本国内で、これまでに知られている、もっとも古い製鉄遺跡は吉備(岡山県)にある。
6世紀に日本国内で鉄づくりをするようになったので、朝鮮半島南部から鉄を輸入する必要がなくなった。日本国内で製鉄が始まったのは、倭政権と鉄を通じて、密接な関係にあった伽耶諸国が滅亡したことによる。これによって、国内で、鉄づくりを始めざるをえなくなったのだ。
朝鮮半島西南部地域に「仁那日本府」なるものは存在しなかった。そもそも、5世紀にはまだ「日本国」はなく「倭国」であったし、倭国の人々が朝鮮島の一角を領土として納めていたかどうか、はなはだ疑わしい。
森浩一は、考古資料をもって、「仁那日本府」の存在を証明することはできないとした。
朝鮮半島からの渡来人がもたらした技術や文化が、日本列島の古墳文化を変質させた。
森浩一は7年前の2013年8月に85歳で亡くなったが、生前に200冊以上の本を刊行している。歴史学(古代史)の第一人者だった森浩一を語り尽くしている感がある本です。
(2020年8月刊。3500円+税)

2020年10月16日

日本の古墳はなぜ巨大なのか


(霧山昴)
著者 松木 武彦、福永 伸哉ほか 、 出版 吉川弘文館

3世紀中ころすぎ、大和盆地東南部に全長280メートルの箸墓(はしはか)古墳が誕生した。古墳時代のはじまりだ。弥生時代には各地でそれぞれ独立した勢力が存在しつつ地域ごとにまとまりをみせていたが、古墳時代にいたって、少なくとも西日本一帯の勢力をまとめる政体が成立したと理解されている。
箸墓古墳については、「日(ひる)は人作り、夜は神作る」という神秘的な仏承が『日本書紀』に記されている。
6世紀に入ると、継体大王陵とされる今城塚(いましろづか)古墳を経て、墳丘長が300メートルをこえるような巨大な古墳がつくられる。大規模な墳丘を築造するためには、大きな権力が必要なことは自明のこと。
王墓が3回も巨大化したが、これは、いずれも複数の王統間における争いが激しくなるときに進行した。逆に言うと、世襲的王権が確立されたら、自らの正統性を巨大な墳墓で表示する必要度は下がることになる。
なーるほど、ですね...。
日本列島では、3世紀の半ばから7世紀の前半にかけて、16万基もの墳丘墓がつくられた。この400年間につくられた墳丘墓を日本考古学では「古墳」と呼び、この時代を「古墳時代」と名づけている。
弥生時代の墳丘墓(ホケノ山)は、体積1万立方メートルで、労働量は4.5万人。これに対して箸墓古墳は30万立方メートルで、135万人を必要とする。桁違いの差異がある。
箸墓古墳が巨大化したのは、倭人社会で初めての統一王の葬送にふさわしいとみることができる。
墳丘長280メートルの箸墓古墳で出発した倭国王陵は、5世紀初頭のミサンザイ古墳で365メートルに達した。そして、さらに5世紀初・中期には400から500メートルという超巨大な規模の古墳となった。倭国王陵の巨大化は、ヤマト政権の国内向け戦略の産物であった。
既存の大和盆地の王陵をはるかに凌(しの)ぐ規模の前方後円墳の築造によって、新勢力の「実力」を列島内に広くアピールする狙いがある。
日本の古墳には、古墳時代を通じて、基本的に4種がある。前方後円墳、前円後方墳、円墳、方墳の種類がある。この4種もの併存は、エジプトなどには認められず、きわめて珍しい。規模も500メートルから10メートルのものまで、大小の変化にとんでいる。
古墳時代は、中央政権たるヤマト政権を中心に、推定で300万人をこえる人々が、緩やかながらも政治的統合を果たした初期国家の社会である。
文字は、ほとんど普及していない段階ではあるが、エリート層の葬送儀礼の場である古墳が墳丘の巨大性に比べて、エリート層の居館や砦集落の発達が不十分であることも、古墳時代の大きな特徴だ。
人類史上の大型墳丘墓築造には、エリートたちが互いに勢力の大きさを誇るために築いた「競いあいの墳丘墓」と、圧倒的な大きさと顕著な多様によって、王を頂点とした社会の秩序を示した「統治のための墳丘墓」という二者があり、日本の古墳はもちろん後者だ。
日本の巨大古墳と比較するため、エジプト、ユーラシア草原の国家、アンデス、南米そしてアメリカと全世界のそれが詳しく紹介されていて、それらと対比して理解することのできる貴重な本です。
(2020年3月刊。3800円+税)

2020年7月 5日

木簡、古代からの便り


(霧山昴)
著者 奈良文化財研究所 、 出版 岩波書店

木簡のことがよく分かる楽しい本です。
全国で見つかった木簡は50万点。その7割は奈良など、古代の都の周辺で見つかっている。630年代くらいが最古。
奈良研には6000個もの容器に入れた木簡を保有している。
木簡が残るのは、溝やゴミ捨て穴、井戸のように当時の地面を人為的に掘りくぼめた深い遺構の中。
地表に出ない場所で、日光と空気から遮断された状態で、地下水に守られながら腐蝕の速度が抑えられて初めて、木簡は1300年も残る。たっぷりの水と泥とで日光と空気が遮断され、バクテリアの活動が抑制された環境のなかで、かろうじて残っているのが実情。
そのため、木簡は科学的な保存処理を施すまでは、水に漬けて保管しなければならない。
奈良研では、毎年8月、「水替え」と呼ばれる水漬け木簡の総点検をしている。
奈良研では、室温20度、湿度60%に保たれた専用の処蔵庫で処理ずみ木簡を保管している。
木簡はもともとゴミなので、一つひとつの持つ情報は決して多くない。日常業務や生活に密着した事柄が多い。
古代に人々は、木と紙の双方の特性を熟知し、この二つを使い分けていた。
木簡は、表面を刀子(とうす。小刀)で削り取ると、厚みの許すかぎり何度でも書き直せる。たとえが、人事テータの管理には、加齢や異動などによる書き換えが前提となるので、紙より木簡のほうが適している。
木簡の用途や種類は多彩。くじ引き札。巻物の軸であり、背表紙のようなもの。手紙や帳簿。荷札・ラベル。文書の練習・落書。
奈良研で保管している30数万点の木簡のうち、80%以上は「削屑」(けずりくず)。
長屋王家木簡と呼ばれる木筒3万5000点が発見されたのは1988年(昭和63年)のこと。
(2020年2月刊。1800円+税)

2020年6月14日

神話と天皇


(霧山昴)
著者 大山 誠 、 出版 平凡社

著者は、「聖徳太子」は虚構の存在であると20年以上も前から主張していて、今日では、すでに常識となっているとしています。本当でしょうか...。
そして、藤原不比等(ふひと)をきわめて重視しています。不比等は『日本書紀』編纂の中心人物です。
壬申(じんしん)の乱のあと天武天皇が専制権力を確立し、中央集権的な改革を断行したというのが普通の教科書的な理解だが、本当はまったく違い、天武天皇には政治力はなく、その政権はまともに機能していなかった。すべては藤原不比等が政治をとりしきっていた。これが著者の考えです。
出雲大社も伊勢神宮も、祭られた神は「よそ者」だった。なぜ、「よそ者」だったのか...。この謎を著者は解明していきます。
アマテラスとスサノヲは、もともと伊勢や出雲で祭られていた神ではない。記紀の神話の物語のなかで生まれた、いわば架空の神だ。また、大国主の呼称をもって出雲大社に祭られたオホナムチも本来は大和の葛城(かつらぎ)の神だった。ということは、伊勢と出雲の地からみたとき、これらの神々は、みな「よそ者」だったことになる。この「よそ者」の神を国家の都合で、上から祭ったのが伊勢の内宮と出雲大社だった。なので、厳密には神社ではなく、政治的モニュメントというべきものだった。
奈良時代の天皇制には三つの特徴がある。その一は、国家意思決定の場から排除されていること。国政の中心にあるのは、日本では天皇ではなく、太政官だった。天皇には、国有の人的、軍事的、経済的な、つまり権力的な基盤がなかった。天皇は至高の存在でありながら、国家意思の決定システムから明確かつ巧妙に排除されていた。天皇は常に現実の政治の場から疎外されていた。
第二は、天皇の存在的な権限を天皇の外戚となった藤原氏が利用して権力を掌握した。つまり、天皇制は、天皇のためのものではなく、藤原氏のために存在した。代々、藤原氏の娘に子どもを産ませ、その子が次の天皇になる。権力の実体として君臨しているのは藤原氏である。ということは、天皇は藤原氏の婿にすぎない。
第三に、記紀神話による天皇の神格化。天皇は高天原に光り輝く太陽、つまりアマテラスの血を引く子孫であり、藤原氏の娘が代々、その神の子を産みつづけるということになれば、藤原氏自身も神格化されることになる。
結局、このようにみてくると、天皇制の目的は、藤原氏の覇権だった。すなわち、天皇制は、藤原不比等によってつくられたのだ。
著者の主張は、このようにきわめて明快です。では、いったいなぜ、どうやって藤原不比等は、そんな力を身につけたのでしょうか...。
神話は、権力をもたない天皇にとって唯一の存在の根拠だった。
藤原不比等の父・中臣鎌足という人物の実像はほとんど不明。不比等が12歳のとき鎌足は亡くなっている。
不比等の本名は「史」。これは摂津に本拠地を有する百済系渡来人である田辺史大隅によって養われたことからきている。
政治権力をもたない天皇が権力秩序の中心にいる。こんな不思議な政治システムが天皇制なのだ。
『隋書』倭国伝や飛鳥の考古学の遺跡から判断して、推古・厩戸王(聖徳太子)が天皇皇子だったというのは事実ではなく、7世紀初頭の本当の大王は蘇我馬子だったというのが著者の考え。そして馬子の王位は、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)へと継承された。ところはが、乙巳(いつし)の変によって、曽我王家から息長(おきなが)王家へ王朝は交代した。これは、かなり大胆な王朝交代説です。
大和王権は、5世紀までは三輪山山麓の纏向から始まった王家の延長上にあった。
6世紀初頭に近江出身の継体新王朝が成立する。これは大和の葛城出身の蘇我氏の協力によるものだった。6世紀後半、王権は曽我氏に移り、645年の乙巳の変によってふたたび近江出身の息長王家が成立した。
いずれにせよ、天皇には実権はなく、太政官が代行するシステムだった。そして、天皇の外戚となることによって太政官を掌握したのが藤原不比等だった。
長屋王と藤原不比等とのあいだには確執があった。そのため、皇位争いは速走した。
長屋王の変が起きたのは729年のこと。首謀者は光明皇后だった。
天皇と貴族との関係がはっきりと見えてくる明快な本でした。
(2017年10月刊。1900円+税)

2020年6月 3日

内戦の日本古代史


(霧山昴)
著者  倉本 一宏 、 出版  講談社現代新書

 古代日本は対外戦争の経験がきわめて少なかった。古代に海外で実際に戦争したのは、4世紀末から5世紀にかけての対高句麗(こうくり)戦と、7世紀後半の白村江(はくそんこう)の戦の2回のみ。その後も、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮半島侵攻だけ。そして、内戦のほうも少なく、かつ、その規模は小さかった。
壬申(じんしん)の乱は、『日本書紀』のいうほど大規模であったとは考えられない。保元の乱で平清盛が動かした兵は300人ほど。川中島の戦いも、実際の戦闘があったのは2回だけ。関ヶ原の戦いは、数時間で決着がついている。日本は昔から、なんと平和な国だったろう...。
日本では、王権そのものに対して戦闘をしかけた例はほとんどない。
邪馬台国とは、中国の三国のうちの魏(ぎ)王朝と外交関係をもった、およそ「30国」から成る連合体の盟主として中国の資料に残されている一つの「国」にすぎない。邪馬台国が日本列島における最有力の、ましてや唯一の権力であったというのではない。
著者は、邪馬台国を筑後平野の南部に存在していたと考えています。オッシ、オッシ、これはいい。邪馬台国は八女か瀬高にあったといいうことなのでしょうね。すばらしい!
邪馬台(やまと)国連合の時代以来、北部九州の勢力と倭(わ)王権とは対峙(たいじ)しつづけていた。九州勢力の自立性は、その後も、在地において保持されていた。
八女を基盤とする磐井(いわい)の勢力範囲は九州北部のすべてに及んでいた。筑後川や有明海の支配とともに、東は周防灘(すおうなだ)や豊予海峡の瀬戸内海への、北は福岡平野から玄界灘に達する陸上交通の要衝(ようしょう)をおさえる、まさしく筑紫の大首長だった。対抗勢力を殲滅せずに温存するという、あいまいな決着方式が日本の歴史を見るうえでの特色だった。
東北地方で「38年戦争」が始まったのは宝亀5年(774年)のこと。蝦夷(えみし)が奈良・京都の都にたてついた。桓武天皇のとき、794年(延歴13年)に平安京となったが、延歴21年(802年)4月に蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)が降伏した。田村麻呂はこれを受け入れ、京都へ連行し、二人は騙しうちのようにして公開処刑された。
弘仁2年(811年)、最後の征夷がおこなわれた。結局、双方とも決定的な勝利を得られないまま、38年にわたる「征夷」を終結した。
古代史の内戦の通史みたいな本で、改めて勉強になりました。
(2018年12月刊。920円+税)

2020年4月 5日

船原古墳、豪華馬具と朝鮮半島との交流


(霧山昴)
著者 甲斐 孝司、岩橋 由季 、 出版  新泉社

古賀市から盗掘されていない遺物埋納坑が発見されました。2013年3月のことです。船原(ふなばる)古墳のすぐ脇の土坑(どこう)です。
今は、すごいんですね。掘る前に三次元計測とX線CTを使って、地中にどんなものが、どんな状態で埋まっているのか、具体的に予測できるのです。
土坑の幅も深さも80センチしかないので、人間一人がやっとの空間です。そこでどうやって調査するのか...。2本の木杭を地表面に置いて、ロープで足場板を支える空中ブランコ方式が採用されました。そして、地中のものを掘り出すのには液体窒素で瞬間的に氷結させ、掘り出したものを医療用ギプスでとり上げるのです。6ヶ月間で遺物ブロック500点を取り出しています。あとは、九州歴史資料館(小郡市)の室内でじっくり発掘していきます。
すると、見事な金具が次々に発見されていくのでした。
金銅(こんどう)製歩揺(ほよう)付飾金具。唐草文を透彫(すかしぼり)した六角形の金銅板の中心にドーム状の台座があり、そこから支柱が立っている。支柱からは、傘骨状に8本の吊手が広がり、そこに歩揺がつく。そして六角形のコーナーごとに金銅板と一体となっているやや小ぶりの支柱が立ち、四本の吊手に歩揺がつく。きわめて精巧なつくりで、まるでシャンデリアのよう。そして、ガラスで装飾された金銅製辻金具と雲珠。鉛ガラスは緑色。見事な形と色です。
馬の頭を守るための馬冑(ばちゅう)、その他の馬具も見事なものです。そして、武器・武具も発見されました。
そこで、いったいこんな豪華な副葬品のある前方後円墳(船原古墳)の被葬者は誰なのか、が問題となります。
それまで有力な首長を輩出してこなかったこの地域において、6世紀末から7世紀初頭ごろに急に頭角をあらわし、前方後円墳を造営できるだけの力をえることができた人物で、高度な技術によって生産された貴重な国産馬具や船来の新羅系馬具を多く入手できるだけのつながりをヤマト王権や朝鮮半島と有していた。
遺跡には感動があると書かれていますが、まさしくそのとおりです。カラー図判があって、目がさめる美しさに驚かされます。
(2019年12月刊。1600円+税)

2020年3月22日

古墳時代に魅せられて


(霧山昴)
著者 都出 比呂志 、 出版  大阪大学出版会

三角縁(さんかくぶち)神獣鏡が日本で大きな話題となるのは、これが邪馬台国論争の重要資料だから。邪馬台国は九州にあったと考えている人は関西でも多い(6割)。ただ、これは、弱者(判官)びいきのせいかもしれない。私は、もちろん九州説です。日本の文明は九州に始まったと頭から信じているのです...。
土井ヶ浜で発掘された弥生人の骨格をみて、金関丈夫先生は、この長身の人々は朝鮮半島から新しい長身の渡来人がやってきたと説明した。今では、だいたいその説で落ち着いている。
現代日本人の血液型を調べると、A型が西に多く、東に少ないことが判明している。西高東低の配置だ。
新モンゴロイドの特徴は、胴長短足、顔は扁平で、デコボコが少ない。目はくりくりと丸いものではなく、細長い。これが現代日本人の平均的な姿。これは、2万年前のもっとも寒冷な氷河期を生きのびた東北アジア人のなかで形成されたと考えられる。私も新モンゴロイドなのかな...。
雄略大王は、中国の南宋に使いを派遣し、それまでと違って王一人だけの将軍の称号を受けとった。そして官僚制度を取り入れ、中央政権が指揮する軍事制をすすめ、各地の有力首長連合体制を解体させて、中央権力を強化し、国家形成を大きくすすめた。
6世紀の継体大王の時代に使われた土器には、朝鮮系のものが多く含まれている。
馬を飼っていたのは日本ではなく、朝鮮半島だった。日本には渡来系の人々が移住して始まった。文化的に高い渡来系集団が政治的に力をもち、継体大王を支える勢力になる盟主墳を築くようになった。
前方後円墳がもっとも巨大となったのは5世紀。
6世紀に入ると、前方後円墳の性格は大きく変貌する。6世紀になると、畿内では、さらに前方後円墳そのものが急速に減少していく。しかし、関東では逆に増加した。
古墳時代の中央政府は、地方の有力首長連合に支えられていた。しかし、中央政府は着々と力を蓄え、5世紀後半の雄略大王は地方の最大勢力である吉備や毛野を打ち負かし、管制、軍制、前方後円墳の祭祀イデオロギー定着で飛躍した。
ところが、雄略大王のあと、中央政権は磐井(いわい)の大きな反逆を受け、磐井を鎮圧したにもかかわらず、その後継者である息子は赦免するほかなかった。そのうえ、反逆者である磐井の墓(八女市)は九州最大の規模に築かれた。これは、中央権力は地方有力首長連合体の力を無視できなかったことを示している。
5世紀の倭の大王権力が朝鮮半島に執着していたのは、鉄資源を確保するためと考えられる。
6世紀も後半になると、岡山や京都北部で鉄を生産していたが、5世紀までは朝鮮半島に頼っていた。
急流の河川をもつ日本の稲作は、水を管理する非常に高度な灌漑技術が必要で、首長は高度な土木技術を身につけ、住民を組織して日本の河川を制御し、生産量を大きく伸ばした。その経験が首長のなかに受け継がれており、農民と固く結びついて共同体を支配する主張たちの力は大きく、中央の大王の力は相対的に低くなるので、前方後円墳体制につながった。
古墳時代をもっと知るには天皇陵とされている古墳を学術的に掘って解明していく必要があると思います。改めて勉強になった本でした。
(2018年12月刊。1700円+税)

2019年12月 1日

戸籍が語る古代の家族


(霧山昴)
著者 今津 勝紀 、 出版  吉川弘文館

1872年(明治5年)、日本の人口は3480万人。1920年に5600万人、1940年は7314万人。戦前の日本の人口は1億人いなかったのですよね・・・。
18世紀初めは3128万人、1840年は3230万人。近世初頭は1200万人から1800万人のあいだ。
奈良時代は平城京の人口が10万人、全国(律令国家の支配人口)が450万人。
9世紀初頭は540万人から590万人。
奈良時代の平均余命は30歳前後。
日本古代、オジ・オバについて、父方・母方の区別がないのが特徴。
律令制では、男性は15歳以上、女性は13歳以上で婚姻が許される。
古代の戸籍を調べると、かなり高い再婚率が、男女ともに認められる。妻と死別し、富裕な男性は、貧しく孤独な若い女性と再婚していることが古代の戸籍から判明する。
古代の婚姻は通うことから始まった。男性が女性の許(もと)を訪れる通いを経たあとに同居へ移行していったと考えられる。
古代社会では二世帯で居住することは、ほとんどなかった(はず)。親の世代は早くに亡くなっているのが一般的だった。
古代の女性は、財産を所有するとともに経営の主体でもあった。
中世後期の慢性的飢餓状態は、基本的に古代社会にもあてはまった。疾病は3月から5月に多く発生し、死亡は5月から7月に多い。これは、飢餓状態になると、栄養状態が悪化して抵抗力が弱まるからだった。
古代の戸籍が残っていたおかげで、昔の日本人の結婚生活の実情がかなり分かるのです。
とはいっても、古代の戸籍がよくも残っていましたね・・・、驚嘆しました。
(2019年10月刊。1700円+税)

2019年10月14日

埋葬からみた古墳時代


(霧山昴)
著者 清家 章 、 出版  吉川弘文館

またまた認識を改めました。古墳時代、被葬者の半分は女性だったというのです。これには驚きました。後期になると、戦争があって軍事面から男性の比率が高まったのですが、前期から中期まで男性家長と女性家長が同じ比率で存在していました。すなわち、家族集団の長は性別を選ばず、男女ともに継承していた。これは、いわゆる父系社会ではありえないこと。
熊本県宇土市にある向野田古墳の被葬者も女性だ。女性首長は、古墳時代の前期には一般的に存在していた。非首長層でも、女性のリーダーが活躍していた。
鏃(ぞく)、甲冑(かっちゅう)、鍬形(くわがた)石があると、被葬者は男性。車輪(しゃりん)石や石釧(いしくしろ)を腕に置く副葬品を配置しているときには、女性が被葬者。
人骨が女性であると、妊娠痕が見つかることがある。妊娠中期をすぎると、胎児の胎動に負けないように骨盤の耳状面下部に靭帯(じんたい)が深く骨に食い込み、圧痕が付着する。これがあると、出産したか否かはともかく、妊娠したことは判明する。すると、妊娠痕のある女性首長には子どもを産む機会があったことが分かる。いやあ、こんなことまで判明するのですね、すごいですね。
もう一つ驚いたのは、古墳には、複数の人間が葬られるのが一般的だったということです。むしろ、単体埋葬の古墳のほうがかえって少ないのです。いちばん多いのは長野県にある森将軍古墳で、ここには81基もの埋葬が確認されているそうです。
平安時代の墓は、夫婦別墓が原則。嫁になっても、死んだら実家の墓に入り、夫婦は別の墓。
父系化が進行したのは、韓半島をめぐる軍事的緊張と戦争に巻き込まれ、あるいは積極的に関与していったことから、戦力とならない女性首長が姿を消していったと考えられる。
なるほど、なるほど、昔から日本人の女性は強かったのですね・・・。それにしても、やっぱり平和が一番ですよね。
(2018年5月刊。1800円+税)

2019年10月 3日

闘争の場としての古代史


(霧山昴)
著者 李 成市 、 出版  岩波書店

「任那」(みまな)とか「任那日本府」というのが実在していたかのような錯覚が私たち日本人にはあります。つまり、古代日本の大和朝廷が朝鮮半島の一部を支配していかのような錯覚です。日本国内だってきちんと統一していないのに、そんなことがあるはずもありません。
「任那」とは、加耶(かや)諸国に対して古代日本においてのみ特殊に用いられる呼称であって、もともと一盟主国の別名にすぎない。
「神功皇后の三韓征伐」なるものは、史実とは無縁であり、その大部分は7世紀以降に形成されたもの。そもそも神功皇后は、その実在性すら否定されている。
「古事記」や「日本書紀」で完成した「三韓征伐」説話は、8世紀には日本の支配層に広く受容されていた。明治維新政府にとって、神功皇后は、国権拡張のシンボルだった。
広開大王碑が日本軍部によって改ざんされたという説は現在は否定されている。ただ、倭の百済や新羅に対する軍事行動を記したことに間違いはないとされている。
広開大王碑は、今も高句麗の王都であった吉林省集安市に吃立している。高さ6メートル、30トンをこえる碑石である。
南北朝鮮では、この碑石に記された広開大王の偉業を今日の朝鮮民族の誇りとみなしている。広開大王とその子・長寿王は391年から491年にかけての父子2代の100年間、高句麗の最盛期であった。
この碑文中の「倭」について、日本人研究者は「倭」を過大に評価し、南北朝鮮そして中国人研究者は過小に評価しようとする傾向がある。
広開大王碑は、形状や形式などから、少なくとも中国の墓碑や墓誌の制度から大きく逸脱した碑石である。ではなぜ、広開大王碑が、何のために刻され、立碑されたのか・・・、そこをよく考える必要がある。
広開大王碑は、高句麗に伝統的に継承されていた、国家的な徒民策による守墓役体制にもとづきつつ、あらためて制度を強化するという思惑と目的をもって刻まれ建てられた。
碑文中の武勲記事は、330戸の人々を守墓人とする根拠と必然性を周知させ、その来歴を説明する前提的な内容になっている。
この碑文は、王家の由来と広開大王に至る系譜を掲げ、次いで広開大王一代の武勲を語ることによって、高句麗王家を祖王・先王とともに称え、現在の権力者である長寿王に至る支配の正当性を訴えている。
「倭」とは、高句麗にとって、朝貢を強要する対象ではない。高句麗の属民である百済や新羅を「臣民」としたり、加耶の諸国とともに百済の背後から支援して高句麗と戦ったりする難敵である。つまり。「倭」とは高句麗を中心とする政治秩序を脅かし、破壊する「敵」なのだ。
碑文の書き手としては、「倭」について弱い敵とするよりは、むしろ強い敵だとしたほうが、効果を一層強く発揮できる。「倭」という外部の敵の前で、内部から強烈なかたちで喚起され、内なる団結が促される。
広開大王碑をめぐる論争の最新の到達点を深く知ることができました。
(2018年8月刊。3600円+税)

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