弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年7月21日

満洲国グランドホテル

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 平山 周吉 、 出版 芸術新聞社

満洲のことを今、調べています。叔父(父の弟)が25歳で応召して満洲に渡り、工兵(2等兵)としてトンネル掘りなどしていました。日本敗戦後はソ連軍の下で使われたあと、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の求めに応じて技術員となり、紡績工場で働き、ついでに新工場をたちあげ、指導員として8年ほど働いていたのでした。今、それはどういう状況だったのかを調べているのです。知らないことだらけなので、古い写真もあり、調べれば調べるほど、ワクワクしてきます。
1931(昭和6)年9月に始まった満洲事変のとき、日本人が満州に23万人いた。日本敗戦時には、その7倍近い155万人の日本人がいた。開拓団や青少年義勇団が増えていたのです。「王道楽土」を夢見て内地を出て満州にたどり着いたとたん、開拓団員たちはとんでもない悲惨な現実に直面させられるのでした。
満洲では、日本人が米、朝鮮人が米と高梁(コーリャン)、中国人は高梁が主食として配給されていた。まさしく、目に見えた差別が公然と横行していたのです。これで「五族協和」だと、笑わせます。
錦州は張学良の本拠地だった。石原莞彌が空から爆撃した。
岸信介は、満州国に入って、40歳で実業部の次長となって、実業部の実権を握った。
河本大作・大佐と甘粕正彦大尉の二人は、「一ヒコ一サク」として、ペアを組み、組まされた。河本大作は、日本敗戦後の1953(昭和18)年に拘置所で死去した(71歳)。
満洲には、日露戦争の「成果」としての満鉄付属地があった。ここは、治外法権の地で、日本軍の介入を許さなかった。この満鉄付属地の存在は、日露戦争の勝利によって日本が得た重要な権益だった。したがって、軍部と財務省の協議は難航した。
日本軍は、匪族と良民の分離工作をしたが、これは完全な失敗だった。
日本支配下の満州の各都市には多くの「密吸煙館」があった。そこでは公然とアヘンの吸飲を許した。アヘンについては、専売制を敷いたことから、「専売益金」を担保として借金し、満州国を国営した。
昭和天皇は、将軍に対して、「満州事変は、関東軍の謀略だったとの噂を聞いたが、どうなのか」と質問した。その模範回答は、謀略の存在をはっきり認めつつ、関東軍の所為ではないとするものだった。昭和天皇は、それにうまうま乗せられた。いや、真相を知っていて、「乗せられた」ふりをしただけなのかもしれない。
関東軍は莫大な機密費をもっていた。お金をもっていたのは、陸軍と満鉄。それぞれ3000万円ほど持っていた。
四平街は奉天と新京の中間にある。この四平街には満鉄の図書館もあった。四平街には戦車学校があった。
1935(昭和25)年の秋、満鉄育成学校に入ったが、ここは完全自治の寄宿舎だった。
満洲国立大学ハルピン学院に転院した。少数精鋭なので、1学年100人(うち日本人60人)だった。
ノモンハン事件の前、天皇は国境の不明確なものを、無理することはない、としていた。
知らないこと、オンパレードの本でした。
(2022年4月刊。税込3850円)

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