弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年7月17日

山本周五郎、人情ものがたり(市井篇)

江戸


(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社

今から50年前、司法修習生になった私はクラスメイト(正確には実務修習地が同じ横浜だった人)から、「この本、面白いよ」と言って勧められて読んでみた。それが山本周五郎だった。それまで聞いたこともない作家だった。いやあ、しびれました。はまりましたよ。だって、江戸情緒いっぱいで、市井(しせい)の人々の長屋で健気(けなげ)に生きている喜びと悲しみが、実に見事に描かれているのですから...。読んでいる自分が、いつのまにか江戸の長屋にタイムスリップした気分になって、同じように泣いて、笑っているのです。その筆力にはドカーンと圧倒されました。藤沢周平もすごいと思っていますが、その数段上をいく凄みがあります。
オビにこんな文句が書かれています。「周五郎は罪つくりだ。忘れていたものを思い出させる。人の温もり、生きる誇り、涙がにじんで、心が丸くなる」。
本当に、そのとおりなんです。
「人間は、みんながみんな成りあがるわけにはいきゃあしない、それぞれ生まれついた性分があるし、運不運ということだってある。おまえさんには、それがないんだから、しょうがないじゃないか」
「お前さんの仕事が左前になって、その仕事のほかに手が出ないとすれば、妻のあたしや子どもたちが何とかするのは当然じゃないの。楽させてやるからいる、苦労させるから出ていく。そんな自分勝手なことがありますか」
「自分で自分にあいそが尽きた。おらあ、このうちの疫病神だ。頼むから止めねえでくれ。おらあ、どうしてもここにはいられねえんだ」
「そいつは、いい考えだ。どうしてもいたくねえのなら、このうちを出よう」
「出てゆくんなら、ちゃん(父親)一人はやらねえ。おいらもいっしょしていくぜ」
「あたいもいくさ」と、お芳(3歳)が言った。
「女はだめだ。いくのは、おいらとあんちゃんだ。男だからな」
「みんないくのよ。放ればなれになるくらいなら、みんなで野たれ死にするほうがましだわ」
「よし、相談は決まった。これで文句はねえだろう。ちゃん、よかったら、支度をしようぜ」
「おめえたちは、みんな、ばかだ、みんな馬鹿だぜ」
「そうさ、みんな、ちゃんの子だもの、不思議はねえや」
これを聞いて、お芳までが、わけも分からず笑い出した。
どうですか、周五郎ワールドの雰囲気が少しは伝わったでしょうか。
長屋には善人だけがいるのではありません。人を騙して楽しようという悪人もいるのです。でも、全体を包む雰囲気が、どこかしらほっとする安心感があります。
解説には、具体的な人間は、それぞれに嫌なものを持っていると指摘します。
意地の悪さ、愚劣さ、偏狭さ、貪欲さ、ずるさ、卑屈、頑迷などなど...。人間のいやらしさをもっている。しかし、周五郎は、それでも人間を信頼しようとする。登場してくるのは、「哀しいほど思いやりの深い人間たち」。
いやあ、周五郎の作品を毎晩、寝る前に一遍ずつ読みました。いわばすこやかな安眠導入剤でした。自然に流れている涙は、目にたまったゴミを洗い流し、心のオリまで掃き清めてくれるのでした。
(2022年4月刊。税込1320円)

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