弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ドイツ

2015年10月 9日

チャップリンとヒトラー


(霧山昴)
著者 大 野  裕 之   出版 岩波書店
 
チャップリンとヒトラーは、まったく同世代なのですね。やったことはまるで正反対。一方は人々を大いに笑わせ、そして笑いながらも人生と政治について深く考えされてくれました。もう一方は、多くの人々を騙し、殺してしまいました。
1889年4月、20世紀の世界でもっとも愛された男と、もっとも憎まれた男が、わずか4日違いで誕生した。なんという偶然でしょうか・・・。
チャップリンは極貧の幼少時代を過ごした。チャップリンはユダヤ人ではない。父方の祖父の妻がロマ(ジプシー)なので、チャップリンは、ロマとのクォーターだというのを誇りにしていた。
ヒトラーは中流家庭の出身。ヒトラーは、若いころは「引きこもり」だったが、ドイツ軍に入って、なんとか兵長にまでは昇進した。
チャップリンは、5歳のときミュージック・ホールで芸をするようになり、24歳まで働いた。短時間のうちに少人数の舞台で客の心をつかむ演技術を鍛えあげた。舞台女優だった母親がチャップリンにユーモアにみちた笑いと人間味あふれる愛を与えてくれた。それによって貧苦という現実とチャップリンはたたかうことができた。
ヒトラーは長年にわたって兵役逃れをしていた。チャップリンには兵役のがれをした事実はない。チャップリンは体重不足で兵役不適格となったのである。
二人とも25歳になるころ、お互い知らずに、同じちょび髭をはやした。
1919年10月、30歳のヒトラーが公開の集会で初めて演説した。ドイツ労働者党の集会だった。それまで、人前で話すことはおろか、他人と接触することすら稀だった30歳の男の鬱屈した人生で積りに積もった怨念が、堰を切ってとめどもなくあふれ出し、爆発した。このとき、希代の演説家ヒトラーが誕生した。30歳にして表舞台に躍り出た天才演説家は、当時のドイツの時流に乗った。
ヒトラーは皮肉なことに、東欧移民のユダヤ人4人兄弟の率いるワーナーブラザーズが発明し、ユダヤ人の天才エンターテイナーであるアル・ジョルソンの主演作で初めて導入された技術であるトーキーを駆使して、権力を手に入れた。
チャップリンの長い映画人生を通して、公開時に損失を出したのは『殺人狂時代』(1947年)のみ。株価大暴落の直前にもっていた株式を全部売って利益を確保した。チャップリンは天才的な経済センスの持ち主でもあった。
チャップリンは、こう言った。「わたしは愛国者ではない。・・・600万人のユダヤ人が愛国心の名によって殺されているとき、誰かがそんなものを許せるか」
チャップリンの映画を、ヒトラー政権下のドイツは徹底的に批判し、上演を禁止した。チャップリンは、ナポレオンを主人公とした映画を構想した。しかし、その構想は日の目を見ず、次第にヒトラーをモデルとする『独裁者』のほうへ関心が移っていった。
チャップリンは、どれだけいいギャグであっても、単に世相を反映させただけのギャグや、本筋と関係のないギャグは捨てた。問題の本質に近づいていくためだ。
チャップリンが『独裁者』の制作をすすめている途中、イギリスは、公的機関や政治家などを使って、国をあげて徹底した妨害工作をすすめた。イギリスにとって、当時のドイツは同盟国だったからである。
うむむ、なんということでしょうか・・・。ヒトラーを擁護する立場でイギリスが行動していたとは、許せませんよね。
イギリスのメディアとナチスのメディアは、完全に歩調をあわせていた。1939年5月ころのことである。
そしてアメリカ。アメリカでも『独裁者』の妨害キャンペーンが大々的にすすめられていた。なぜなら、当時のアメリカでは、反ユダヤ主義の風潮が90%をこえ、財界はナチス政権に多額の投資をしていたから。当時のアメリカは親ファシズムとも呼べる国だった。映画づくりを止めさせようとアメリカの一般大衆からチャップリンに対して多くの脅迫の手紙が届いた。
これは、ナチス・ドイツでありアメリカであれ、戦争へと突きすすむなかで、いかに人々が冷静さを失っていくかを如実に指示している。
チャップリンは、手に入る限りのヒトラーのニュース映画をみた。そして、こう言った。
「やつは役者だよ」
チャップリンはヒトラーの演技に心から感心していた。
『独裁者』の最後のシーンでチャップリンは6分間もの長広告をふるう。周囲の人々がそんなことをしたら興行収入が100万ドルは減るから、やめるように忠告した。それに対して、チャップリンはこう言って反論した。
「たとえ500万ドル減ったところで、かまうものか。どうしても私はやるんだ」
ヒトラーがパリに入場したのは1940年6月23日。その翌日、チャップリンは、たった一人でラストの演説の撮影にのぞんだ。この演説の部分だけで、4日間をつかった。
公開の日。1940年10月、ニューヨーク。劇場にはなだれ込む大群衆で、もはや制御不能だった。左派からは共産主義的だと攻撃され、右派からは生温センチメンタリズムと批判された。映画批評家は、キャラクターにあっていないと、この演説は酷評された。しかし、観客は、そのシーンに毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手を送った。演説は大衆の愛する名文句となった。
ヒトラーの恐怖のまっただ中にいるイギリスでは、「ドイツは、これを見ろ!」と。『独裁者』こそ、ナチスへの武器だと国民が待ち望んでいた。
笑いこそヒトラーがもっとも恐れる武器であり、それは一個師団以上の力なのだ。
1941年2月までに世界中で3000万人が見たという世界的大ヒットとなった。しかし、戦前の日本では『独裁者』は公開されていない。
笑いこそ、独裁者とよくたたかう武器になるというのは、本当のことです。例の安倍なんか、笑いでぶっとばしてやりましょう。チャップリンの不屈の戦いがよく分る、興味深い本です。改めて『独裁者』を私もみてみたくなりました。

(2015年6月刊。2200円+税)

2015年10月 6日

ヒトラーとナチ・ドイツ


(霧山昴)
著者 石田 勇治   出版 講談社現代新書
 
日本の国会で、首相が平然とウソをつき、与党が拍手かっさいして、大手マスメディアがそれを無批判にたれ流して、世論を操作しようとしています。
憲法違反の安保法制法が「成立」してしまいました。今の日本では、憲法が改正されてもいないのに、憲法に明らかに反する法律によって安倍政権は世の中を動かしていこうとしてます。 こんなとき、ヒトラーの手口に学べばいいんだという元首相(副首相)のコトバが「生きて」きます。本当にとんでもない世の中になりました。
「おかしいだろう、これ」。新潟県弁護士会会長の一口コメントに、多くの共感の声が上がったのも当然です。
この本は、ヒトラー台頭からナチス・ドイツが残虐の限りを尽くしたうえで自滅していくまでを、とても分かりやすくたどっています。
ヒトラーはオーストリア生まれ。父親は、非嫡出子だった。ヒトラーは、このことを生涯ひた隠しにした。母親は乳がんのため苦しくて亡くなった。
大都会ウィーンでヒトラーは青年時代を過ごしたが、貧しかったわけではない。徴兵検査・兵役を逃れるため、ヒトラーはホームレスの一時収容所に入っていたこともある。 
第一次世界大戦が始まると、25歳でドイツ帝国陸軍に志願兵として入営した。ヒトラーは危険な前線にはいかず、比較的安全な後方勤務に就いた。
ヒトラーの演説は、すべて巧みな時事政談だった。
世界を善悪二項対立のわかりやすい構図におきかえ、情熱的に語る。
聴衆の憤りは、おのずと悪に向かう。その悪の具現者こそ、ユダヤ人、マルクス主義者、そしてワイマール共和国の議会政治家だった。
ヒトラーは、ナチ党の実権を握ると、独裁権力を行使した。
ヒトラーがナチ党の党首となったのは、優れた演説家であり、宣伝家であったから。集会活動に力点をおくナチ党にとって、ヒトラーのたぐいまれな観客=聴衆動員力は、ナチ党を他の急進右派勢力から際立たせると同時に、ヒトラーをカリスマと感じる人々に根拠と確信を与えた。
ナチ党には、党の意思決定の場としての合議機関は存在せず、党首を選出する規則も任期も定められていなかった。入党条件は、ヒトラーに無条件に従うことだった。
ヒトラーの肖像写真を撮ることを許された唯一の写真家がいた。その名は、ハインリヒ・ホママン。
ヒトラーの「我が闘争」(1925年)は、獄中でヒトラー自らタイプライターをたたいて執筆したもの。ヒトラー自身は、「嘘と愚鈍と臆病に対する四年半の戦い」というタイトルを望んでいた。この本は、累計1245万部も売れた。「我が闘争」は、虚実とりまぜて語るヒトラー一流のプロパガンダの書である。
この本が売れたため、首相としての給料はヒトラーにとって不要なほどだった。
ナチ党は、全国進出にあたって弁士不足という問題に直面した。そこで、1929年6月、ヒトラー公認の弁士養成学校を開校した。開校してから1933年までに6000人の全国弁士を送り出した。
ナチ党躍進のカギは、国民政党になったことにある。すべての社会階層にまんべんなく支持される大政党になった。
1933年1月30日に、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領によって首相に任命された。このころ、ナチ党は得票数をかなり減らし、党勢は明らかに下降局面に入っていた。
1932年7月の国会選挙で第一党になかったが、同年11月の選挙では200万票も失い、議席数も196と後退していた。このとき、ドイツ共産党は躍進していた。その一審の原因は、ヒトラーのカリスマ性の限界だった。ヒンデンブルグ大統領が1月に成立させたヒトラー政権は、国会に多数派の基盤のない「少数派政権」だった。
ヒトラーは首相になってすぐ、ラジオで演説した。このときは穏やかで信心深い政治家を装った。そして、ヒトラーは3月に選挙を行った。機能不全に陥った国会をよみがえらせるためではなく、終わらせるために・・・。
1933年2月27日夜、国会議事堂が炎上した。翌日には、共産党の国会議員などを一網打尽に逮捕した。非常事態宣言、大統領緊急令によるものだった。
そして、1933年3月、授権法が成立した。これによって、国会は有名無実になった。このとき反対したのは、社会民主党の94人の議員のみ。4年間の時限立法のはずだったのが、1945年9月まで効力があった。授権法は、国会と国会議員だけでなく、政党の存在理由も失わせた。共産党の議員はすでに逮捕されていたが、続いて社会民主党も非合法化された。こうして、14年間続いていたワイマール共和国の議会制民主主義は、わずか半年でしかも合法性の装いを保ちながら、ナチ党の一党独裁体制にとって代わられてしまった。
この本は、なぜ文明国ドイツで、こんなヒトラーのような野蛮な独裁者にみんなが従ってついていったのかと問いかけ、その謎を解明しています。国民の大半が、あきらめ、事態を容認し、目をそらした。様子見を決め込んで動かなかったものが大勢いた。甘い観測と、安易な思い込みがあった。教会も、学者もヒトラー支持をうちだしたことも大きかった。そして、ヒトラーは既成エリートとの融和をすすめた。
いまの日本は安倍政治によって危険な曲がり角に立たされています。このとき、誰かが何かをしてくれるだろう。安倍政治はいずれ行き詰まるだろうから、もう少し様子を見ておこうなんて言っているときではないと私は思います。今こそ私も、あなたも黙っていることなく、声を上げるべきなのではないでしょうか・・・。
この本を読みながら、そのことを私はひしひしと痛感しました。

(2015年6月刊。920円+税)
 

2015年9月25日

独裁者は30日で生まれた


(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア   出版 白水社
 
  ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
  ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
  ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
  ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
  ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
  ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
  熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
  ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
  ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
  ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
  1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
  1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
  ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
  1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
  ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
  1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
  1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
  民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
  ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
  一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
  首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
  そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
  1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
  ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
  このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
  1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
  この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
  いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
  それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)


 シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
 たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
 そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
 北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
 団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
 私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
 やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
 それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。

2015年7月29日

ヒトラーと哲学者

                            (霧山昴)
著者  イヴォンヌ・シェラット 、 出版  白水社

 ヒトラーは、1923年11月、ミュンヘン一揆に失敗し、逮捕・投獄される。国家反逆罪で有罪となり、1924年の春からバイエルン州にあるランツベルク刑務所で過ごす。
 ところが、ヒトラーの部屋は高級食料品店の様相を呈していた。ドイツ中の支持者が貢ぎ物を送りつけていた。そして、看守からも優遇されていた。
 ある女性からのプラムケーキの差入れに対するヒトラーのお礼状が紹介されています。
 ヒトラーは学校時代の後半には、際立って能力に欠けると見なされ落第していた。ヒトラーは、学業に何の興味も示さない怠惰な生徒と思われた。
 ヒトラーは、行動の人として刑務所に入ったが、出るときには「哲人指導者」だったと自分では考えていた。
 ヒトラーは遅くに起床し、いつも怠けたり、うつらうつらして過ごした。集中して本を読むことが嫌いで、本一冊を読み通すのはまれだった。たいていは、本の出だしの部分を読むだけだった。
 ヒトラーは貪欲で、意地汚いところがあった。むら気をおこさずに働くことができない。実際に、彼は仕事ができない。アイデアが浮かんだり、衝撃を受けたりはする。熱に浮かされたように、それを実地に移すことを命じるが、あっという間に取りやめにされた。ヒトラーには、持続的に辛抱強く仕事することが、何なのか分からなかった。
 ヒトラーのやること、なすことは「発作」だった。ヒトラーの言う、子ども好き、動物好きは、ポーズにすぎなかった。
 1933年に、ユダヤ系知識人を学問の世界から追放する布告が実行されたとき、ヒトラーたちはほとんど抵抗を受けなかった。抗議行動は、まったく起きなかった。なぜか?
 多くのユダヤ人が追放されると、そのポストが空く、そこへアーリア系の大学人たちが、ハゲワシよろしく割り込んできたのだ。
 ナチは、比較的少人数のはぐれ者集団から始まったが、ほどなく普通の学歴をもった人間がどんどんメンバーに加わるようになった。ときがたつと、大学人のほとんどがナチ化された人間になっていた。
 ハイデガーのナチスに対する協力は、ヨーロッパ中の崇拝者たちを戸惑わせた。そして、ドイツ国内では、大きな影響力を発揮した。
 カール・ヤスパースがハイデガーに「あんな無教養な人間にドイツを統治させていいものかどうか」と問いかけると、ハイデガーは、「教養など、どうでもいい。あの人物の素晴らしい手を一度見たまえ」と答えた。なんと非論理的な答えか・・・。
 このハイデガーに、ユダヤ人の若き女子学生、アンナ・ハーレントも強く心が惹かれ、秘密の愛人となったのでした。
ハイデガーは、ヒトラーを礼賛した。ナチズム支持大会にハイデガーは出席して演説もしているのです。信じられない哲学者の堕落です。
 ミュンヘン大学の哲学教授クルト・フーバーは1943年7月、ギロチンで処刑された。
 学生を感化させることにかけては、フーバーに及ぶ者はいなかった。その一人がトップクラスの才媛ゾフィー・ショルだった。白バラ兄妹を感化した教授もまた、ナチスによってギロチンで処刑されたのです。
 フーバーは、左翼でもなければ、ユダヤ人でもなかった。保守的なナショナリストだった。フーバーは、いかなる類の暴力も激しく嫌っていたし、ヒトラーをドイツ社会の価値観を破壊する者だととらえていた。
 ハイデガーとは異なり、フーバーは、ヒトラーの話しぶりに惑わされることなく、そして大学にいる多くの同僚とは逆に、声を出した。フーバーがカントの講義をするのは、ヒトラーに抵抗せよと言う本当のメッセージを学生に伝えたかったからだ。
 白バラは、哲学に強い関心をもった学生活動家が主体となった、結束の固い小グループである。白バラは勇敢であるとともに、非暴力を貫き、自分たちにできる唯一の手段は言葉でもって抵抗した。
 クルト・フーバーが処刑されたあと、家族は遺族年金の支払いを拒否された。学生や友人たちが遺族へのカンパを募ったところ、ナチスは没収し、現行犯で逮捕した。そして、ギロチン使用料として、給与2ヶ月分に相当するお金の支払いを命じた。
 ハイデガーは、戦後、サルトルの後援で返り咲いたが、戦前のナチス礼賛について、まったく反省を示さなかった。
 ユダヤ人である、アンナ・ハーレントの葬儀は無宗教で行われた。
 いろいろ、深く考えさせられる本でした。
(2015年4月刊。3800円+税)

2015年6月28日

驚くべき乳幼児の心の世界

                              (霧山昴)
著者  ヴァスデヴィ・レディ 、 出版  ミネルヴァ書房

 人間の赤ちゃんを観察する学問があるのです。それによって、人間とは、どういう存在なのかを知ることができます。私は赤ちゃんが大好きです。生命(いのち)の輝きをみていると、心が浮き浮きしてきます。
 赤ちゃんは、生まれてすぐからよそ見している顔より、自分を直接見つめる顔を好んで見たがる。赤ちゃんは相手が反応しないと、苦痛に感じる。
 母親がうつ状態で、反応が乏しいと赤ちゃんも、より起伏のない感情を示し、ひっこみがちな状態になる。そのとき、赤ちゃんは「無力感」を学習している。
 赤ちゃんは、予期できないこと、驚くことを必要としている。すべてが予測できるのは、赤ちゃんにとって退屈なのである。
 赤ちゃんは、他者のフンイキや表現におけるちょっとした変化に非常に敏感である。
 人間の赤ちゃんは、生後9ヶ月から12ヶ月で、他者から注目されていることに気がつくようになる。
 問題のある環境で育てられた子どもは、日常生活で笑いがほとんどない。
 1歳未満でも、赤ちゃんは他者との非言語的交流のなかで、ものを隠したり、だましたり、人の気をそらしたり、何かのふりをしたりする。
 だましのコミュニケーションは、最初の、またすべてに先行するコミュニケーションであり、他のすべての社会的コミュニケーションと同様に、基本的に対話的な過程を通じてあらわれるはずのものである。
 「赤ちゃん学」の今日における到達点を知った気がしました。
(2015年4月刊。3800円+税)

2015年6月27日

革命前夜

                               (霧山昴)
著者  須賀 しのぶ 、 出版  文芸春秋

 冷戦下のドイツが舞台です。
 いったい、誰を信用していいのか。誰は信頼できるのか、疑心暗鬼になってしまいます。主人公は、ドレスデンの音楽大学でピアノを学ぶ日本人留学生です。
 私は、久しくコンサートに行ったことはありませんし、自宅でクラシック音楽を聞くことも滅多にありませんので、バッハ平均律に深い思い入れをもつと紹介されても、さっぱり何のことやら分かりません。
 そこへ、ベトナムや北朝鮮からの留学生が登場し、ハンガリーからの留学生もいます。
 ヴァイオリン、オルガン、ピアノの奏者たちです。
 音楽のことは、正直いってよく分かりませんが、その雰囲気はよく描写されていると思います。なんとなく、オーケストラや室内音奏団のかなでる音楽を聞いている気分になってくるのが不思議です。
 でも、話のほうはシビアです。東ドイツが崩壊する前、ベルリンの壁が健在だったのに、それが、今にもこわれてしまいそうになっていく様子が小説としてよくとらえられています。
(2015年3月刊。1850円+税)

2015年5月 7日

ベルリンに一人死す

                                (霧山昴)
著者  ハンス・ファラダ 、 出版  みすず書房

 ナチスドイツに抵抗したドイツの大学生たちは、白バラ・グループと呼ばれました。大学の内外でナチスへの抵抗を呼びかけたビラをまいたのです。ところが、そのビラを読んで決起した学生・市民はほとんどいませんでした。そして、大学生の兄妹は死刑となってギロチン台で処刑されてしまいました。
 戦後になって、その行為は高く評価されたわけですが、残念ながら、同時代のドイツ人を立ち上がらせることは出来ませんでした。
 この本の主人公は、一人息子をドイツ兵として戦死させてしまった中年の夫婦です。夫は、まだ現役の労働者でした。ヒトラーを批判し、反戦を呼びかけるハガキをベルリンの町のあちこちに置いていったのです。
 ところが、そのハガキを手にした人は、恐怖のあまりほとんどが警察へすぐに届け出てしまいます。その限りでは、反戦ハガキは何の効果もありませんでした。しかし、本当に効果がなかったのかどうかは、本書のような存在が証明していることになります。
 この小説のモデルとなった実在の人物は1940年から2年にわたって、公共の建物にナチスへの抵抗を呼びかける文章をハガキに書いてベルリンの町のあちこちに置いていった。
 ベルリン中からハガキが発見されたため、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)は、大がかりな地下組織の存在を疑っていた。実際には、夫婦二人だけの「犯行」だった。1942年に逮捕され、形だけの裁判で死刑判決を受け、1943年にギロチンで処刑された。
 あらゆる意味で平凡な一般市民の中に、こんな絶望的とも言える勇気をもった人々がいたことに驚かされる。
 でも、よく考えてみれば、ベルリン市内には戦後までユダヤ人を隠して守り抜いた人々が少なからずいたのです。守った人々も、普通の一般市民だったのです。
 ハガキを書いて町のあちこちに置いていたオットーは、政治的信条のためではなく、「まっとうな人間」でいるためにハガキを書いたのだ。本書に登場する人物のうち、ナチスへの抵抗を試みるのは、ほとんど全員が確固たる政治的信条をもたない平凡な人物ばかり。彼らは、ただ単に「まっとうな人間」でありたいという願いから、ナチスに抵抗し、迫害を受ける。その抵抗が何の役に立ったのかと問われたとき、オットーは次のように答えた。
 「自分のためになります。死の瞬間まで、自分はまっとうな人間として行動したのだと感じることができますからね。そして、ドイツ国民の役にも立ちます。聖書に書かれているとおり、正しき者ゆえに救われるだろうからです」
 この本は、1946年に出版されています。まさに終戦直後に書かれたのです。平凡なドイツ市民、はじめはヒトラー・ナチスを賛美していた夫婦がヒトラー批判のハガキを書いて町じゅうにばらまくようになるのです。その心理的変遷を行き詰まるタッチで描き出しています。
 600頁もの分厚い本です。そのうえ上下2段組です。戦時下のドイツ、首都ベルリンの行き詰まる市民生活が丹念に再現されていて、読ませます。
(2014年10月刊。780円+税)

 次のような詩があるそうです。

 批判ばかりされた子どもは、非難することを覚える
 殴られて大きくなった子どもは、力に頼ることを覚える
 笑いものにされた子どもは、もの言わずにいることを覚える
 皮肉にさらされた子どもは、醜い良心の持ち主となる
 しかし、激励を受けた子どもは、自信を覚える
 寛容に出会った子どもは、忍耐を覚える
 賞賛を受けた子どもは、評価することを覚える
 フェアプレーを経験した子どもは、公正を覚える
 友情を知る子どもは、親切を覚える
 安心を経験した子どもは、信頼を覚える
 かわいがられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じることを覚える

 これはスウェーデンの中学校の教科書に載っているそうです。ドロシーロー・ノルトの「子ども」という詩です。長瀬文雄氏が紹介していました。弁護士生活40年以上となった私の実感にもぴったりあいます。やはり、人間同士も国同士も信頼しあうことが大切です。安倍政権のようなあちこちに「敵」をつくり、武力によって「敵」を抑えこもうというのではいけません。

2015年4月16日

ヒトラー・ランド

                               (霧山昴)
著者  アンドリュー・ナゴルスキ 、 出版  作品社

 ドイツにいたアメリカ人の見たヒトラーの印象が紹介されています。
「人を惹きつける力のある弁舌家で、組織をまとめあげる類いまれな能力に恵まれた人物だ」
 「キリスト教の使徒を思わせる熱心さと、説得力のある弁舌、人を惹きつける魅力に恵まれ、共産主義および社会主義団体の中枢からも支持者を引き寄せるなど、ヒトラーは指導者としてのあきらかな資質を持っている。ヒトラーが、いつの日か、バイエルン州の専制君主として名乗りをあげるという恐れもある」
 「とてつもない扇動政治家だ。あれほど論理的かつ狂信的な男の話は、めったに聞けたものではない。ヒトラーが民衆に与える影響ははかり知れない」
 ヒトラーは、議会も議会政治も廃止すべきだ。今日のドイツを議会が統治できるはずがない。独裁政治だけがドイツを再び立ち上がらせることができると主張する。
 他方、ヒトラーに対しては、次のような冷ややかな見方もありました。結局、間違ったわけですが・・・。
 「ドイツには、すぐれた知性がある。あんな、ごろつきに騙されやしないさ」
 そうなんです。日本人に比べて格別に「民度」の高いはずのドイツ人の圧倒的な多数が単なる「ごろつき」にころっと騙され、とんでもない蛮行を犯してしまったのです。そこから、今日の日本でも、安倍首相のとんでもない大嘘に騙されないようにという教訓を生かし、実行しないといけません。
 「ドイツは、一時的におかしくなっているだけ。誇り高いドイツ人が、あんな田舎者に我慢していられるはずがない」
 こう言っていたユダヤ人は、強制収容所で生命を落としてしまいました。安倍首相の悪だくみを黙過していると、大変なことになること、これに日本人はもっと真剣に自覚すべきだと思います。まさか、まさかが、自分たちの首を絞めてしまうのです。
 「ヒトラーは、労働者に向けてドイツ人の名誉と権利や新しい社会について、じつに説得力のある話をする男だ」
 「ヒトラーは、声や言い回しとその効果を自在にあやつる術に長けており、あんな芸当ができる人間は、ほかにいない。ヒトラーは、はじめ軽いおしゃべりのような調子で話しはじめた。やがて、本題に入るにつれ、その弁舌は鋭さを増していった。ヒトラーは、ユダヤ人が暴利をむさぼり、周囲の人間を惨めな状況に陥れていると糾弾した。
 目を釘付けにされたようにヒトラーを見つめる若い女性がいる。彼女らは、まるで宗教的な恍惚感に包まれているように、我を忘れている。
 被告人とされたヒトラーの法廷での話は、ユーモア、皮肉、情熱がこもっていた。きびきびと動く小柄な男で、新兵を訓練するドイツ軍の軍曹のようでもあり、ウィーンの百貨店の売り場の監督のようでもあった。
 「ヒトラーは、まるでコルクだ。国民感情という名の波があれば、やつは必ずその上にぷかぷかと浮かんでいる。ヒトラーほど大衆の心理をうまく嗅ぎ分け、それに対処できる人物はいない」
 「大衆をペテンにかける大がかりなゲームにおいて、ヒトラーは並ぶ者のいない達人だ」
 ヒトラーの統治を受け入れ、ヒトラーとその運動に完全な忠誠を誓わなかった者たちは、ただ消し去られただけではない。そんな人間は、もともと存在していなかったことにされる。
 レームらSA幹部に対する殺害は非常に大規模になされ、また犠牲者の背景がそれぞれことなっていたという事実は、ヒトラーとSSが、かつて敵対した者も全員を抹殺するつもりだということを示唆した。
ユダヤ人に対する凄まじいまでの暴力を誰も止めようとしなかった理由は二つ。一つは、ドイツは、このころ、ナチ党のやることであれば「何であれ信じる」ようになっていたから。もう一つは、怖くて何も言えなかったから。
 アメリカとドイツは、1935年に、お互いの士官訓練校の交換留学生を受け入れることを合意した。そして、この合意は実行された。
 ドイツが緒戦で立て続けに勝利とおさめたことで、それまでナチスに対して懐疑的だった人々までは、ナチスへの熱狂的な信者になっていった。
 同時代のアメリカ人のヒトラーに対する好意的、あるいは軽視する見方が紹介されて、興味深い内容がありました。
(2014年12月刊。2800円+税)

2015年1月10日

ぼくはナチにさらわれた

著者  アロイズィ・トヴァルデッキ 、 出版  平凡社ライブラリー

 ポーランド人の子どもが、幼いうちにナチス・ドイツにさらわれて、ドイツ人の子どもとして育てられたのです。そして、そのことを成人してから知りました。いったい、その子どもはどうなるのでしょうか・・・。ヒトラー・ナチスは本当に罪深いことをしたものです。
 第二次大戦中、ドイツに占領されたポーランド西部の町でナチスによって、2歳から14歳までの少年少女が大勢さらわれた。青い目で金髪の子どもたちである。その数は20万人以上。
 著者も4歳の時に母親から引き離され、ドイツに連れ去られた。孤児院に入れられ、ドイツ人の名前をつけられ、子どものいないドイツの家庭にもらわれた。そして、ポーランド語も、母親のことも忘れ去った。
 ヒトラーが考え、ヒトラーが具体化させた「レーベンスボルン」という1936年に設立された秘密組織があった。「生命の泉」という意味で優秀な子どもを増やすための組織だった。表向きは、子どもと母親を守る社会福祉の「活動」をしていた。
 表の顔は二つあり、その一は、優秀なドイツを数多く、自然の出生を待たずに産ませること。大切なのは目の色と髪の色、そして、とりわけ頭の形。丸い頭のもなはまったくチャンスがなかった。
 ドイツ人の名前に変えるときには、できるだけ本名のほうがいい。新しい名前と前の名前とが似ているほうが子どもの記憶のなかで混合しやすいから。工夫のしようがないときには、新しいドイツ名は、できるだけ平凡な、どこにでもある名前にする。特徴的な名前を付けるのは厳禁された。
 「レーベンボルン」で生まれた子どもはエリートになるはず。果たして、そうなったのか・・・。
 戦後の調査では、そうはなっていなかった。知能でも体力でも後退が認められた。
 幼いときにドイツ語に無理やりに変わらされ、そのため思考に困難を生ずることがあった。
 また、大きくなって、本当は自分はドイツ人ではなかったと分かった子どもたちは、また母国語の勉強をし直した。だから、大学まで行けた子どもは少なかった。みな、心に深い傷を負っていた。
 4歳の子どもは、悲しみも早く癒え、忘れてしまう。それに大人は驚いてしまう。
 子どもは、速く言葉を覚え、速く忘れもする。 はじめに子どもに希望を与え、あとで残酷に断って、いいようのない絶望に突き落とすぐらいの野蛮なことはない。孤児院にいた子どもは、終生、愛への飢えを抱き続ける。
著者は高校生の年頃で、ポーランドに戻ったのですが、ドイツ人だった頭のなかをポーランド人に切り替えるのに実に苦労したようです。
 それでもポーランドの大学に入って勉強するのでした。そしてドイツ人の育ての親と再会するのです。思春期という、ただでさえ難しい年頃に、ドイツ人からポーランド人に戻るのは、本当に大変だったと思います。
 全遍が手紙で語る形式となっていて、その心理描写がよく出来ている手記です。
(2014年9月刊1400円+税)

2014年12月19日

祖父はアーモン・ゲート


著者  ジェニファー・テーゲ 、 出版  原書房

 知的な黒人女性の顔が表紙になっています。憂いを秘めたまなざしが印象的です。
 本のタイトルだけではピンとくる人は少ないでしょう。でも、かのナチ強制収容所の所長の孫というサブタイトルをみると、まさかと思います。ナチの所長の孫が黒人のはずはない・・・、と思うのは誤った先入観なのです。
 あの有名な映画『シンドラーのリスト』に登場する残虐なナチ収容所長こそ、著者の祖父アーモン・ゲートなのです。
 アーモン・ゲートは、映画『シンドラーのリスト』のなかで収容所内の罪なきユダヤ人を面白半分に射殺していた冷血なナチス親衛隊指揮官でした。そして、映画で描かれていたとおりの事実があったのです。
シンドラーとアーモン・ゲートの二人は同い年で、酒、パーティー、女性に目がなかった。二人ともユダヤ人迫害によって富を得ていた。ゲートは、ユダヤ人を殺害してすべてを取り上げたことによって、シンドラーはユダヤ人が所有していた工場を受け継ぎ、ユダヤ人を低賃金の労働者として働かせることによって富を得た。
 ドイツ特務機関のスパイとしてポーランドで活動していたシンドラーは、金もうけのためにクラクフへ来た男だった。後に、稼いだ財産の大部分をユダヤ人救出にあてているが、最初は戦争成り金だった。
 アーモン・ゲートとオスカー・シンドラーは、どちらも権力をもっていた。一方は、それを救うために使った。シンドラーは、その従業員1100人を最後まで守ったのでした。
 アーモン・ゲートがライフルを手にもって、短パンをはいてバルコニーに立っている写真があります。このようにして、罪ないユダヤ人を勝手気ままに殺したのでしょう。まさしく、おぞましい殺人鬼です。
 アーモン・ゲートは、17才で右翼思想に傾倒し、ヒトラー・ユーゲンに入会した。1931年にナチ党員となり、やがてナチ親衛隊員となった。幼少時に両親から世話してもらえず、ほったらかしにされたと語っていた。
 気に入らない者がいれば、髪のあたりをわしづかみにして、その場で撃ち殺した。この残酷な人殺しの化け物は、美的な柔らかさを帯びた面持ちで、しかも温和な目つきをもち、巨体で逞しく堂々とした風貌に見えた。
 これは、アーモン・ゲートに仕えていたユダヤ人書記の証言です。
 また、アーモン・ゲートには、ユダヤ人のメイドもいたのです。
 この二人は、結局、殺されずに生きのびていますが、いつ殺されるか分からないという状況がずっと続いていました。恐るべき状況です。
 アーモン・ゲートはドイツの敗戦後に発見・逮捕され、裁判にかけられました。1946年にクラクフで絞首刑に処せられ、遺骨はヴィスワ川に流された。
 長身だったアーモン・ゲートは絞首刑がうまくいかず、二度目になってやっと刑死した。
愛人のルート・イレーネ・ジェニファーはアーモン・ゲートのやったことは何も知らなかったと言いはり、1983年に睡眠薬を飲んで自殺した。
 著者の母は、ナイジェリア人との間に著者を生んだ。生後4週間でカトリック系の養護施設に預けられ、3歳で里親のところに行き、7歳で養子縁組した。実母の写真は出てきません。著者は38歳のとき図書館で、たまたまアーモン・ゲートが祖父であることを知ったのでした。母について書かれた本を偶然に手にしたのです。
 ナチ高官の子や孫たちの人生はさまざまのようです。
 ヒムラーの娘は、ネオナチとして活動している。しかし、たいていは、父親への賛美と、実父への憎しみの間を、いったり来たり、揺れ動いている。すべての子どもに共通していることは、過去から逃れられないということ。ナチの子孫で、不妊手術を受けたとか、自分の意思で子どもをつくらないことにしたという男女も少なくない。自殺者もいる。
 大変重たい内容の本でした。ナチスの影響は、今なお、こういう形でも残っているのですね・・・。
(2014年8月刊。2500円+税)
 一昨日(17日)朝おきて外を見ると、白くなっていました。霜でも降ったのかと思うと、ホラホラ雪が降っているのが見えました。うっすらと積もっているのでした。この冬、初めての雪です。私の娘は「ゆき」と言いますが、前日に戻ってきましたので、「ゆき」を連れて来たね笑ったことでした。
 衆議院の総選挙で投票率52%というのは低すぎます。もっと投票所に足を運んでほしいものです。
 自民党が「大勝」したとマスコミは言っていますが、実際には、得票数も得票率も減らしています(議席も)。小選挙区のマジックで、自民党が議席を維持しただけなのです。民意を反映しない小選挙区はやめてほしいです。
 選挙が終わったら、原発再稼働を次々に認め、武器輸出に国が補助金を出すなんて、恐ろしい話が着々と進行しています。大変な世の中です。

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