弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮

2010年2月24日

朝鮮戦争(下)

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋

 アメリカからすると、ソ連と中国は一枚岩のように見えた。しかし、スターリンは実際には、毛沢東を信用していなかった。それで、中国とアメリカとの緊張が最大限になることを願った。両者が敵対しあう戦争はスターリンに有利に働くはずだった。
 1948年末、毛沢東は何回にもわたって、モスクワでの会談を求めたが、スターリンはその都度ためらいを見せた。毛沢東はスターリンが自分に疑いを抱いていることを十分承知していた。1949年12月、毛沢東はついにモスクワを訪れた。スターリンはすぐに毛沢東と会おうとせず、何日も待たせた。毛沢東の訪問によって得られたソ連からの経済・軍事援助は、わずかなものでしかなかった。
 毛沢東は、あとで「虎の口から肉を取るようなものだった」と言った。ソ連の対応は、本質的には侮辱にほかならなかった。
 1950年10月、毛沢東は朝鮮戦争への参戦を決めた。中国軍部隊を義勇軍としたのは、アメリカとの全面戦争を防ぐための選択だった。中国軍部隊が派遣されるのは、単に 朝鮮を救うためだけではなく、より大きな世界革命、とりわけアジアの革命を促すためだった。
 金日成は、中国が中国軍の指揮を自分に任せるものと思っていた。しかし、中国が軽蔑しきっている金日成に中国軍部隊を任せることなど、ありえなかった。むしろ金日成には再教育が必要だと考えていた。冒険主義以外の何物でもない。軍の統制も子ども並み。このように中国軍を指揮する彭徳懐は言った。
 20世紀のアメリカ軍の誤算の中で突出しているのは、マッカーサーが鴨緑江にまでアメリカ軍部隊を北上させたこと。中国軍は高い山の中にこもって、アメリカ軍の北上を見守っていた。このあと、アメリカ軍を徹底的に叩いた。不意打ちだった。
マッカーサーの職業的な罪の中の最大のものは、敵を完全に過小評価したこと。
 マッカーサーは、アジアを知らず、敵について驚くほど無関心だった。
ウィロビーは陰謀好きだった。ウィロビーは総司令部内のニューディール系リベラルを共産党シンパないし共産党員そのものだと見なして一掃しようとした。
 現場で戦うものたちにとって、ウィロビーの存在は危険なまでに悪に近いものだった。ウィロビーは、戦闘部隊レベルの情報機関がきわめて重要な最高の情報を在韓司令部に送るのを阻止しただけでなく、他の情報源も封鎖した。ウィロビーは共産主義と中国の危険について喚き散らしながら、最後には国連軍部隊が大規模な待ち伏せ攻撃のえじきになるように仕組んでやり、共産主義者たちの仕事をずっと簡単にしてやったのである。
 司令官の至上任務は、兵士の恐怖を抑えることである。偉大な司令官は恐怖を逆手にとり、それが常にあると言う認識を強みに変えることもできる。弱い司令官は兵士の恐怖を昂じさせる。ある司令官の下で勇敢に戦う兵士が、自分の恐怖を投影するような司令官の下では逃げ出してしまう。
 偉大な司令官とは、賢明な戦術的動きが出来るだけでなく、兵士に自信をあたえ、それをやることができる。その日に戦うのは、自分たちの義務であり、特権であると感じさせるような人物である。
 中国軍においては、普通の兵士でも、政治委員の講義を通じて戦闘命令について非常に多くのことを知っている。
 中国軍が初期にえたアメリカ軍との戦闘における異例の成功は、彭徳懐の重荷になった。毛沢東の決めた目標が中国軍の能力を上回りがちとなった。毛沢東が勝利に酔ってしまった。中国軍の重火器用弾薬が明らかに不足していた。
 中国軍の命令構造の硬直性は大きな弱点だった。上から下に伝わるだけで、下の水準にはほとんど融通性がなく、個人的な創意の余地も皆無に近かった。それは勇敢かつ頑丈で、信じられないほど責任感の強い歩兵を生み出した。だが、彼らを統率する中間レベルの指揮官は、戦闘の最中に戦場の変化に応じて重要な決定を下すべき権限も通信能力ももっていなかった。
 これはアメリカ軍とは対照的な違いだった。アメリカ軍では有能な下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していく能力が重要な長所となった。
 中国軍はせいぜい3日間は強烈に戦うことができた。しかし、弾薬、食糧、医療支援、そして純然たる肉体的持久力の限界、それに巨大なアメリカ空軍力のために、有利な条件や局面突破があっても、有効に活用できず、挫折や敗北が増幅された。どの戦闘でも、3日目になると、すべてのものが不足し、はじめ、敵との接触を断つことが必要になってしまう。
 マッカーサーが解任されてアメリカに帰国したとき、アメリカ市民は熱狂的に迎えた。しかしその熱狂はマッカーサーの政策に対する支持を意味するものではなかった。つまり、アジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。マッカーサーへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは、まったく別物だった。
 マッカーサーに長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、マッカーサーが必ずしも真実を語らないことだった。自分に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になると、すぐに真実から離れた。
マッカーサーは、議会の演説で恥知らずな嘘をついた。
 マッカーサーは、ペンタゴン(国防総省)で、ほとんど支持を得ていなかった。マッカーサーの命令無視、中国軍参戦についての責任を認めないこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことにペンタゴンの士官たちは激怒していた。朝鮮戦争の前線で死傷したのは、多くの場合に、若手士官の同期生や友人たちだった。マッカーサーは、ペンタゴンのいたるところで多くの若手士官たちから嫌われ、憎まれていた。彼らは、上院議員たちにマッカーサー攻撃の論拠を与えていた。
 朝鮮戦争を中国軍の内情、そしてアメリカ内の政治状況と結びつけながらとらえた、最新の研究を踏まえた傑作です。

(2009年12月刊。1900円+税)

2009年6月 6日

平壌で過ごした12年の日々

著者 佐藤 知也、 出版 光陽出版社

 戦前、4歳のときに朝鮮にわたり、戦後、16歳のときに日本に帰国した日本人が、最近77歳になって過去を振り返った本です。しみじみとした口調で朝鮮における少年・青年記の生活が語られています。
 日本の敗戦後、朝鮮の求めに応じて、1000人もの日本人技術者が北朝鮮に残留していた。彼らは真面目に北朝鮮の産業復興につとめ、技術協力した。しかし、アメリカ軍と対峙して緊張をつのらせていたソ連占領軍から睨まれ、ついには反ソ運動を名目として幹部が逮捕された。
著者は、朝鮮にいて、日本の敗戦まで、ほとんど朝鮮人と交流することはなかったと言います。そして、敗戦後の朝鮮に突如として気高く気品ある美女があちこちにみられたことに腰を抜かさんばかりに驚くのでした。日本人少年は、朝鮮人に対して根拠のない差別意識、優越感に浸っていたわけです。
 終戦までの朝鮮における生活の日々そして敗戦後の大変な生活の様子が淡々と描かれていて、状況がよく理解できました。
 玉名市であっている「しょうぶ祭り」を見てきました。玉名を流れる大きな高瀬側の北側に、細い流れがあって、そのそばがしょうぶ園のようになっています。川面に板で歩道ができていますし、古い石橋など大変風情があります。
 肥後しょうぶは江戸時代、武士たちが丹精こめてつくり上げたものだと聞いています。薄紫色の花が多いのですが、白に薄紫色の筋が入った花など気品あふれる美しさです。
 しっかり堪能してきました。
 
(2009年2月刊。1524円+税)

2009年5月20日

将軍様の錬金術

著者 金 賛汀、 出版 新潮新書

 大学生のころ、朝鮮大学校の学生との交流会に参加したことがありました。彼らの発言がとても自覚的というか、目的意識が鮮明であったことに衝撃を覚えました。その知的レベルの高さにも圧倒されてしまいました。
 この本の著者も、世代は少し上ですが、朝鮮大学校の卒業生です。朝鮮総連の活動家でもあったようです。私も弁護士になってから、総連の地域活動家の方々とは接触する機会がありました。民団の役員さんよりは多かったように思います。いつも、すごいなあと感心してしまいました。今では、民団の人とも接触はありませんが、総連だと名乗る人と会うことは久しくありません。まったく様変わりしてしまいました。この本を読んで、それもなるほどだと思いました。
 朝銀のなかに、学習組(がくしゅうそ)という秘密組織がつくられ、朝銀を朝鮮総連に服従させるうえで大きな役割を果たしてきた。これは、建て前は、朝鮮労働党の政策学習会であるが、実態は朝鮮労働党の日本分局として機能していた。
 この学習組は、1980年ころまでに、総連活動家に対して金日成に忠誠を誓わせ、北朝鮮の政策に従わせる重要な役割をもった秘密組織としてつくられた。
 朝銀破たんの最大の要因は、総連が「学習組」を朝銀支配の道具としてつかい、人事権を振り回し、イエスマンを理事長に就任させ、融資を引き出す放漫経営と、その一部を北朝鮮に献金するという、歪んだ状況がもたらしたものである。
 そして、朝銀破たんの遠因の一つは、北朝鮮経済の破たんにあった。
 朝鮮総連中央は、北朝鮮の求めに応じて献金するため、直営のパチンコ店をはじめた。「財政委員会」直属の「インターナショナル企画」という商社がパチンコ店の運営にあたった。都心の、既に同胞のパチンコ店があるところに、45億円もかけた豪華なパチンコ店を1993年春、オープンさせた。ところが、パチンコ店はバブル崩壊とともに経営に行きづまった。
 もう一つ、地上げにも朝鮮総連中央は手を染めた。必要な資金を朝銀に出させようという地上げ屋と、地上げ屋を使って利益をあげ、北朝鮮に献金するお金を調達しようとする総連中央の思惑が一致し、地上げ屋が朝鮮総連の周辺で暗躍する状況を生み出した。
 名古屋では200億円の資金をつぎ込んで20億円の利益をあげ、大阪では60億円の投資で40億円の利益をあげた。しかし、北九州では完全な失敗に終わった。
 さらにゴルフ場開発計画でも100億円つぎ込んで失敗した。
 1997年に起きた朝銀大阪の破たんは、日本社会でそれほど大きな話題にはならなかった。その時点では、数年後に1兆数千億円もの公的資金投入の始まりになるとは誰も予測しなかったからだ。ところが、朝銀大阪が経営破たんしたとき、抱えていた不良債権は500億円を超えていた。このときには、朝銀再生に必要なものとして、公金3100億円が投入された。
 ところが1999年5月、13の朝銀が経営破たんした。朝銀東京は、総連中央に直結する不正融資の温床である。2002年4月、認可された4信組の理事長会員が総連の中核組織である学習組の組員であることが発覚した。そこで、総連中央は学習組の解散を通達した。ところが、いまでは「学習組」は名前を変えて復活し、総連組織の指導部に君臨している。
 朝銀に一兆4000億円もの公的資金が投入されて一番の被害者は、一般の在日朝鮮人であり、朝鮮総連と北朝鮮である。そして、もっとも利益を得たのは日本政府だ。朝鮮総連の力が大きく減退し、その脅威なるものは、ほとんど消滅した。日本政府は、このことで大いなる利益を得ている。というのも、朝銀を丸々買い取ったようなものだから。なーるほど、ですね。
 在日朝鮮人の大変な苦労が正当に報われていないことが大変気になる本でした。

ホタルが飛び交い始めました。昨日(19日)、我が家から歩いて5分のところにあるホタルの里に出かけました。竹林のそばに小さな川が流れていて、毎年ホタルが出てきます。
 5月連休が終わると、やがてホタルが飛び交うようになります。まだ数は多くないのですが、フワリフワリとホタルが明滅しながら飛んでいました。足もとの草むらにもホタルが光っていましたので、そっと手を差し伸べると、手のひらに2匹のってくれました。不思議なほどまったく重さを感じません。しばらく手のひらで明滅するホタルを眺めたあと、そっと息を吹きかけて飛ばしました。フワリフンワリと飛んでいきました。
 ホタルは初夏の風物詩として欠かせません。
 
(2009年3月刊。720円+税)

2009年2月21日

パラダイス・イデオロギー

著者 渡邊 博史、 出版 窓社

 奇妙な写真のオンパレードです。通りに人がいません。当然そこにあるべき雑踏というものが見あたらないのです。ええーっ、いったい、人民、いや、民衆はどこに行ったの・・・、と、つい疑問に思ってしまいます。
 街角に映画館があります。タイトルには「海賊王」という漢字が読めます。でも、通行人がまったくいません。不思議です。まるで映画撮影のためのスタジオのようです。黒沢明監督の映画「酔いどれ天使」の看板もかかっています。でも、そこに登場するのは、ホーキをもった清掃のおばちゃん一人です。「乳房拡張美容器店」とか「神経痛」という看板を掲げた店もあります。でも、誰もうつっていません。明るい昼日中の写真なのに、人っ子ひとり歩いていない商店街なのです。あたかも中性子爆弾が落とされて、人間だけが消滅してしまった町並みを撮った写真です。
 偉大なる金正日将軍のどでかい絵の前に、わずかに通行人がいます。そして、大きなビルの前の広場に何かのパフォーマンスを見ている着飾った観客がいます。でも、奇妙です。みんなあまりにも着飾っています。普段着の人が見あたらないのは、やはり居心地の悪さを感じさせます。
 地下鉄のホームには、わずかに雑踏らしきものを感じさせます。それでも、ホームの床があまりにもピカピカすぎて、ふだんは人が利用していないんじゃないの、そうとしか思えません。
 異例づくめの写真集です。大勢の美男・美女がかしこまって出てきます。そこには、残念ながら、暖かい人間味がちっとも感じられません。地上の楽園(パラダイス)というには、あまりにも人工的な、こしらえものの「楽園」としか思えません。
 北朝鮮っていう国は、やっぱり異常な国だと、つくづく思わせる写真集です。

(2008年12月刊。3800円+税)

2007年5月21日

奪還

蓮池透×本そういち 双葉社
週間アクションに連載していた漫画なんですが、
大変読み応えのあるドキュメンタリーになっています。
監修は、北朝鮮の拉致被害者蓮池さんのお兄さん。
『奪還総集編』として第11話まで掲載した増刊号も
販売されました。単行本も出ています。
単なる奇麗事に終わらない、報道されなかった
拉致被害者本人と家族との確執や日本政府の
不十分な対応を政治家から全て実名で記載されて
います。報道は編集されてるんですね、未だに。
 漫画アクションは、女子高生コンクリート殺人
事件をモチーフにした『17歳』という漫画も並行
して当時連載してまして(こちらも原作者は
藤井誠二という上記事件を徹底取材した
ノンフィクションライターです)、とても『クレヨン
しんちゃん』をかつて連載していた漫画雑誌とは
思われない有り様なので(何せキャッチ
コピーが「タブーを斬れ!」ですから)、今度いつ
休刊になるか分からないのですが、増刊号として
販売された『奪還総集編』だけでも読んでほしいと
思います。

ほんのクツワムシ

2007年3月 7日

朝鮮通信使をよみなおす

著者:仲尾 宏、出版社:明石書店
 朝鮮王朝がはじまったのは1392年。日本では足利義満が南北朝の抗争をおさめた年。李成桂(イソンゲ)将軍が衰えていた高句麗王朝を倒し、太祖として即位した。
 それ以来の日本と朝鮮との往来をたどった本です。いわば朝鮮通信使に関する百科全書のような内容となっています。
 室町時代、朝鮮から5回の通信使が派遣され、3回が京都にやってきた。世宗国王のときのこと。日本から、60回以上もの日本国王使が漢城(今のソウル)を訪れ、交隣関係は密接かつ多様になっていった。
 江戸時代はじめ、京都の相国寺(しょうこくじ)に西笑承兌(せいしょうじょうたい)という禅僧がいた。承兌は秀吉の朝鮮出兵の前線基地の名護屋城にまで出かけた。承兌は、朝鮮から回答兼刷還使が来日したとき、「朝鮮の使臣は日本に有益に非ず。薄侍すべし」と進言していた。ところが、その承兌は、朝鮮からやって来た松雲大師の詩文や書を見て、次のように言って舌をまいて感嘆した。
 句々奇なり、言々妙なり。欣然にたえず。筆跡もまた麗し。予、私宝となすは快然たり。 徳川家康は朝鮮との国交回復を図った。それは家康が秀吉から1万5000人の陣立てを命じられたものの、朝鮮へ出兵することがなかったことも幸いしている。しかし、家康はすんなり謝罪する意思をもってはいなかった。さすが老獪な政治家ですよね・・・。
 朝鮮から連行されてきた被虜人のうち、第一回使節とともに帰国したのは、わずか  300人に過ぎなかった。このとき、大名や日本人のあるじが手放さなかったり、日本人と結婚したり、子どもの誕生・養育、また帰国後の生計の見通しがたたないことを理由として断る者も多かった。
 朝鮮通信使がやってきたとき、黒田家では三代の藩主(忠之、光之、継高)が検分を口実に博多湾にある藍島まで出かけて朝鮮使節を見物している。
 貝原益軒は、秀吉の朝鮮出兵について、貪(むさぼ)る兵、驕(おご)れる兵、忿(いか)れる兵と酷評した。
 徳川吉宗は、朝鮮伝来の人参生草や種子の採種、播種、栽培によって、享保から元文年間にかけて人参の国産化を実現した。これによって対馬藩の朝鮮貿易は決定的なダメージを蒙った。
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668〜1755)は、釜山に渡って3年間、朝鮮語を学んだ。そのころ釜山には10万坪の倭館がおかれ、対馬の役人・商人が常駐して外交事務や藩と私の貿易に従事していた。10万坪というと、長崎の出島の25倍の広さだ。雨森芳洲は次のように言った。
 朝鮮は弱く、その人は愚かなり、と人は言う。しかし、これはまことの強弱智愚を知らない言葉だ。朝鮮の人は古今の記録をも多く覚え、物事ふかく思慮するものだから、日本国よりその智は10倍だ。秀吉の朝鮮出兵のとき、乱世に慣れた日本軍は緒戦には勝ったものの、帰陣のときにははなはだ難儀した。
 朝鮮人は手詰の戦いは日本人に及ばずとも、久を持するの謀りについては、日本人はかえって相手にもならない。お互いの文化、歴史、風俗の違いをよく知り、それを尊重しつつ、無用な紛争や誤解をさけ、偏見や侮りを捨て去ることが大切だ。
 なーるほど、そうなんですよね。まったく同感です。
 このところ、日本社会の排外主義と自民族優越意識がひどくはびこっている。
 著者はこのように嘆いています。本当にそのとおりです。それぞれの民族には固有の文化があり、優劣つけがたいのです。それぞれ違って、みんないい。金子みすずの詩を思い出します。

2007年1月25日

モスクワと金日成

著者:下斗米伸夫、出版社:岩波書店
 日本敗戦時、朝鮮半島に進出してきたソ連赤軍第25軍の役割は、当初、関東軍が朝鮮半島をつうじて日本本国に脱出することを防ぐことであって、朝鮮の占領や支配ではなかった。1945年8月8日、ソ連軍司令部は、12万5000人からなる第25軍に朝鮮半島北部の占領を命じた。
 スターリン治下のもとで、軍人たちが直接政治に関与する習慣はなかった。第25軍の政治面での責任者はシュトイコフ大将だった。彼は、もともとは軍人ではなく、スターリン統治下で台頭した共産党官僚であった。1930年代末にはレニングラード市党委員会の書記をしていた。
 朝鮮半島の57%の面積と人口1100万人の北朝鮮がソ連軍の占領地域となり、人口1700万人の南部はアメリカ軍占領地域となった。北は日本の残した工業が主で、南部は農業地域と考えられていた。
 38度線による分割は、あくまで暫定的措置のつもりだった。アメリカと同じく、ソ連外務省も、38度線での分断を正当化する考えは当初はなかった。スターリンも、この地域に社会主義やソビエト型秩序を目ざす構想は、少なくとも当初はなかった。
 ところが、スターリンにとってアメリカが日本に原爆を落として実践使用したことが大きな衝撃だった。これは対ソ警告の意味もあると解していた。当時、ソ連は国内でウランを産出しておらず、東欧と北朝鮮のみだった。そこで、スターリンにとって核開発は至上命題となった。
 スターリンは、パルチザン派出身のソ連軍大尉金日成を北朝鮮の指導者として選んだ。
金日成は、1945年9月19日、元山港に上陸した。主導的にではなく、受動的に朝鮮の解放を迎えたし、ソ連軍隊との協同作戦ではなく、ソ連軍の庇護下に、静かに、人々の噂にのぼることもなく上陸した。このとき、金日成は金成柱と名乗っていた。
 スターリンが金日成のような軍事専門家を北朝鮮の指導者として選んだのは、スターリンにとって、占領軍を通じて指令を忠実に実行させるのに、どちらかといえば無名の金日成は打ってつけの人物であったから。
 このように、金日成は、スターリンの指名によって指導者となった。ただ、金日成本人は、不得意な政治よりも、軍事、しかもモスクワでの軍務に戻ることを望んでいたという見方もある。
 10月14日、平壌のソ連軍歓迎集会で、金日成大尉がソ連軍服を着て、金日成将軍として登壇した。この集会は、金日成帰国歓迎集会ではなかった。ソ連軍金日成大尉は、第25軍が準備したロシア語草稿を田東赫が訳したものをそのまま演説した。
 金日成について、中国共産党側は必ずしも認識していなかった。かつて中国共産党員であったものの、指導幹部ではなかったからだ。名前も、金民松と誤記していた。
 1946年8月に北朝鮮労働党第1回大会が開かれた。このとき初代委員長には中国派の金?奉がなり、金日成は副委員長だった。名誉議長にスターリンが就任している。
 1950年代はじめ、ソ連からの軍備提供の見返りとして、北朝鮮は、金9トン、銀 40トン、そして放射性物資モナジットを1万5000トン提供することになった。
 金日成は、3月30日にソ連に入り、1ヶ月近く滞在した。4月25日、クレムリンでスターリンと会談したとき、金日成は、南でのパルチザンの活動が高まっており、やがて20万人の労働党員が南で蜂起するとスターリンに請け負った。
 スターリンは金日成の武力統一案を承認したが、同時に東アジアでのパートナーとなった毛沢東にも意見を求めるよう金日成に働きかけた。
 金日成は朴憲永とともに中国を極秘に訪れ、5月13日夜、北京で毛沢東と会談した。6月25日、北朝鮮が武力統一を仕掛けて戦争は始まった。とたんに誤算が続出した。
 最初の日から通信が麻痺した。各師団と本部の連絡は途絶えた。人民軍司令部は、第一日目から戦闘を管理していなかった。指揮官は未経験で、戦闘を管理しておらず、大砲や戦車を操作できず、連絡を失った。
 8月28日、スターリンは、金日成に電報を送り、次第に膠着していく状況に苛立っていることを伝えた。
 南労党の朴憲永が北に留めおかれたことも北の占領権力と南の民衆の距離を拡大した。
 金日成ら最高指導者は近代戦の経験をもたず、軍人、戦略家としての資質が低いことが直ちに露呈した。
 1950年12月13日、金日成は、密かに北京を訪れ、毛沢東に面会した。中朝軍司令部が出来て、金日成は彭徳懐と同格の地位となった。
 当時、北朝鮮軍は4コ師団、3万2800人、人民志願軍(中国軍)は18個師団、 20万3600人。中国軍が主体といってよい。ちなみに、対する国連軍(アメリカ軍)は12万3000人、韓国軍は8万8000人だった。
 このように北朝鮮指導部は彭徳懐が指揮する戦時体制を12月に承認していた。
 彭徳懐は、金日成が朝鮮戦争で多くの誤った判断をしたことを、口を極めてなじった。2人の間には深刻な亀裂が生じていた。
 朝鮮戦争は、ロシア資料によると、北朝鮮と中国の死傷者は200〜400万人、韓国40万人、アメリカ14万人。アメリカの専門家によると、中国兵90万人、北朝鮮兵 52万人が死傷した。ちなみに、ソ連は、航空機335機と飛行士120人を含め、全体で士官138人と 161人の兵士を失った。
 40万人の国連軍兵士が死傷したが、そのうち3分の1が韓国兵。
 朝鮮戦争の停戦は、北朝鮮の平和を意味しなかった。それは新たな粛正の波の始まりだった。金日成の影響が弱かった。党機関に対して打撃が加えられた。具体的な標的は、責任秘書として党機関に影響のあった、ソ連派の大物・許哥誼(ホガイ)を粛正することだった。
 金日成は、こうやって次々と粛正していき自らの独裁的な地位を確立したのです。いろいろ勉強になることの多い本でした。この本を読んで強く感じることは、ソ連と中国と北朝鮮が政治的に緊密な一体関係にあったという事実はなく、相互に強い不信感を抱いていたということです。決して共産主義の一枚岩ではありませんでした。
 金日成は南の蜂起は間近なので、北がちょっと南侵すれば朝鮮半島はすぐに統一化できると強引にスターリンと毛沢東を引きずりこんで戦争が始まったということのようです。

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