弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮(韓国)

2010年9月10日

されど

 著者 洪 盛原 、 本の泉社 出版 
 
 日本の植民地支配を受けていた朝鮮では、一人の人物が独立の志士として評価される時期があり、また民族反逆者として罵倒される時期もあるという複雑な様相をもたらすことが起きる。
 万歳事件とも呼ばれた1919年の3.1独立運動のころには、日本の帝国主義に対して命がけで戦っていた愛国的な独立運動の志士たちが、アジア・太平洋戦争の末期には日本の帝国主義者に積極的に同調して媚を売る親日派、民族反逆者に心変わりして、彼らに心を寄せていた後世の人たちに、裏切られたという惨めな思いを味わせることがある。
いやあ、これって厳しい現実をふまえると、しかも迫害した日本側の子孫として、なかなか難しいところですね・・・・。この本は、そのような歴史的事実をふまえ、現代に生きる我々は、そのような重たい歴史的事実をどう受けとめたらよいのか、このことを改めて問いかけるものとなっています。
日本の帝国主義支配に改めて反対した人物が、その後、どのような生活をしていたのか、その子孫は今どこで何をしているのか、そして先祖についてどう評価しているのか、巧みなストーリー展開でぐいぐいと読ませます。
ただ、日本の植民地支配が韓国の近代化に役立ったという「日本人の主張」については、たしかにそのようなことを声高に言いつのる日本人は少なくないと私も思いますが、決して多数派でもないと私は信じています。一国の主権を奪うことをそんなに簡単なものと考えたらいけないと思うからです。
それは、たとえばアメリカのおかげで戦後の日本は発展してこられたのだから、今なお首都・東京に広大なアメリカ軍の基地があるのは当然なんだというような論法でしょう。でもこれって、まったくすりかえの論理であって、私にはとうてい承服できません。
 戦中・戦後の日朝・日韓関係を考えるうえで貴重な素材が提供されたと思える、読みごたえ十分の小説です。
 
(2010年4月刊。2800円+税)

2010年6月29日

光州・五月の記憶

著者 林 洛平 、社会評論社 出版

 今から30年前、1980年5月、韓国で光州事件と呼ばれる民衆決起と戒厳軍による虐殺事件が起きました。その実相を追及し紹介する貴重な本です。
 この事件は、初めのうちは「戒厳令下に不純分子が起こした暴動」つまり事態とされていました。しかし、1988年、軍人出身の盧泰愚(ノテウ)大統領は「光州で起きたことは民主化のための努力であった」と認めるに至り、光州民主化運動と呼ばれるようになりました。さらに、1990年に光州補償法が制定され、犠牲者への補償金の支払いが始まり、1993年には金泳三大統領が「光州での流血は、民主主義の礎であり、現在の政府はその延長線上に立つ民主政府である」という談話を発表しました。
 1995年、「光州民主化運動等に関する特別法」によって、全斗煥や盧泰愚という元大統領12・12クーデターと光州虐殺関連者での処罰の道が開かれました。
 この運動の中で市民軍のスポークスマンとして活躍し、銃弾に倒れた伊祥源(サンウォン)の生きざまを語った本です。
 一般市民そして市民軍の人々も、最後にはアメリカ軍が助けに駆けつけてくれるだろうと期待していたようです。無慈悲な虐殺蛮行の軍部とアメリカが手を握ることなんてありえないと市民は固く信じていました。ところが、アメリカは、市民の期待に反して戒厳軍を支持し、何らの動きも示しませんでした。
 戒厳軍を前にして、武器を捨てるのか、武器を捨てずに対等な交渉に持ち込むのかで市民内部の意見が割れました。伊祥源(サンウォン)たちは、武器を捨てずに戒厳軍圧倒的な武力の差の前に銃弾に倒れるわけです。
 では、早々に武器を捨てるべきだったのか・・・・。難しいところだと思いました。もっとも、勇気のない私などは武器を持って道庁内に立て籠もるという選択は出来なかったと思います・・・・。
 光州事件のとき、道庁内で死亡したのは20人。全体では606人。政府発表による死傷者数は3586人となっています。
 大変な事態であったことはいうまでもありません。韓国でも日本でも、この事件を決して風化させてはいけないと思ったことでした。

(2010年4月刊。2700円+税)

 土曜日の午後、福岡で韓国映画『クロッシング』を見てきました。北朝鮮の人々の置かれている厳しい現実がよく描かれていると思いました。涙の止まらない悲しい話です。決して反共映画ではありません。飢えている人々がいて、ヤミ市場があり、各種の強制収容所があるなかでも、人々は家族愛を育み、仲間同士で助け合っていることもよく伝わって来ました。
 5分前に映画館に着いたら、もう満席でした。一番前で補助椅子に座っての観賞でしたから、画面が歪んで見えるのですが、映画が進行するなかで、そんな歪みはまるで気にならず没入して見入りました。
 KBCシネマで上映中です。ぜひ足を運んでご覧ください。

2010年5月12日

朝鮮戦争の社会史

著者:金 東椿、出版社:平凡社

 朝鮮戦争を戦争史ではなく、人々の経験から見直した労作です。なるほど、そういうことだったのかと思い至ったところが多々ありました。しっかり読みごたえのある500頁に近い大作です。
 韓国人にとっての朝鮮戦争は、仲むつまじく過ごしてきた隣人が突如として悪魔に変身した経験であり、自らの生命と財産を守るはずの政府と公権力のエージェントが生命と財産を奪う存在に急変した地獄の体験であった。
 そうなんですね。「敵」は攻めてきた北朝鮮軍だけではなかったのでした。その実情が詳しく紹介されています。
 アメリカは、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んでいる。アメリカにおいて、朝鮮戦争は、第二次世界大戦やベトナム戦争に比較して研究書などがきわめて少ない。
 ある日、突然に北が戦争を敢行して、平和だった南の社会を悲劇に陥れたという韓国の公式解釈は、6.25以前の政治社会の葛藤と李承晩政権の北朝鮮に対する好戦的な姿勢はもちろん、戦争以後、韓国の政治社会が新たに構造化され、軍部勢力が北朝鮮の脅威を名分に表舞台に登場して30年あまりのあいだ、権力の蜜を吸い、軍部エリートたちが社会のエリートとなって膨大な特権を享受してきたという社会的事実を隠蔽する。
 1950年6月25日、大韓民国はまったく戦争に備えていなかった。6月24日夜は、軍の首脳部は盛大なパーティーをしていて、陸軍参謀総長は明け方まで酒を飲み、朝まで酔いが覚めない状態だった。
 李承晩も韓国軍も、最小限の努力すらしなかった。これはアメリカの援助なくして可能なことすらしなかったという意味である。
 李承晩は何の準備もなく戦争を迎えた。自分の身が危うく、国家が崩壊するかもしれないという絶体絶命の危機の前で驚いたり、当惑することはなかった。
 アメリカの北朝鮮の戦争準備、しかも開戦日時まで知っていたことは明らかである。
 李承晩も、韓国政府も、越南者や共匪討伐過程で逮捕したパルチザンを通じて、北の戦争準備を正確に把握していた。韓国の権力中枢は、北の戦争準備と具体的な戦争開始日まで、知りうる者はみな知っていた。
 戦争勃発の当日である6月25日の李承晩の驚くべき落ち着きぶり、それはきわめて重要な、誰にとっても謎にみちたミステリーなのである。
 李承晩は、1949年末から、機会あるごとに「北進論」を主張してきた。というのも5.30選挙以後、李承晩は政治的窮地に追いつめられていた。5.30選挙で、与党は11%の支持しか得られなく、執権2年の李承晩政権は失脚寸前の状態だった。戦争が始まらなかったら、その失脚は時間の問題だった。だから、アメリカの堅固な後援のもとで勝利する可能性のある戦争を自らの権力維持のための一種のチャンスとして認識する十分な理由が李承晩にはあった。
 なるほど、なるほど、うむむ。そういうことだったのですか。いやはや、ちっとも知りませんでした。
 1949年から1950年初めまでの大討伐作戦で、南にいた北のパルチザンは、ほぼ壊滅状態だった。北が南侵してきても、南の人々が蜂起することはなかった。
 5.30選挙では、無所属が大量当選し、李承晩の手先はのきなみ落選した。当局による激しい選挙干渉があったなかでの結果であるから、李承晩政権に対する支持がほとんどなかったことを意味する。
 ところが、北朝鮮が「祖国解放」を名分にして戦争を起こし、南朝鮮の民衆が李承晩政権から解放される機会を得ることになったにもかかわらず、彼らがそのまま静かに人民軍を受け入れたのを見ると、数年間の左右対立と双方からの忠誠の要求に民衆も極度に疲れ萎縮していたのではないかと思われる。とくにパルチザン活動地域内に暮らしていた農民は、事実上、生存のために、昼は大韓民国の軍と警察に、夜はパルチザンにそれぞれ協力しないわけにはいかなかった。
 険しい世の中の荒波を経験した彼らが得た知恵は強い者の側に立つことだった。住民に生の哲学があったとすれば、唯一、どちらの側からも処罰されず生き残らなくてはならないというものであり、それは社会主義や資本主義という理念よりもいっそう重要であった。
こうした理由から住民は、人民軍がやって来たときは人民軍に、韓国軍がやって来たときには韓国軍に協力する準備ができていた。
 ソウルが陥落の危機に瀕した状況において、李承晩は自らの避難に対してアメリカの大使と相談しただけで、国会議員には相談しなかった。そして非常国会が開かれていた真っ最中の27日の明け方に、国会の要人たちにも知らせず、アメリカ大使にも通報しないままソウルを離れた。銀行券もそのままにし、政府の重要文書も片づけず、数万人の軍人たちを漢江以北に置いたまま・・・。
 李承晩にとって、大韓民国の安全保障について実質的な責任を負うアメリカだけが主要な対話の相手だったのである。
 アメリカは、6月28日、2500人にのぼるアメリカ人を全員安全に日本へ対比させた。李承晩政権は、国家の救出を掲げながら、国家の構成員である国民の生命は無視していた。
 「国家不在」の状況で、人々は人民軍と韓国軍のどちらに徴収されたとしても誇らしいことではないと考えた。ただひたすら逃げて一身の生を守ることが賢明と考えた。
 朝鮮戦争の全期間にわたり、人民軍の南下を避けて避難した政治的避難よりも、アメリカ軍の爆撃から逃れるために避難した場合がはるかに多かった。
 アメリカ空軍の無差別的な爆撃は、朝鮮人を恐怖に陥れた、もっともむごい出来事だった。とくに38度線以北に対する爆撃は想像を絶するほどだった。当時の平凡な国民の目には、李承晩だけが自分だけ生きのびようとした存在として映ったということが重要である。
 李承晩は、国家や民族よりは自らの生存と権力維持をまず第1に考慮する人物であった。
 李承晩の生涯には驚くほど一貫した原則があった。権力欲が、まさにその原則であった。
 マッカーサーは李承晩に韓国の安保をアメリカが守ると約束していた。李は情報員を通じて北朝鮮の侵攻を十分に予想していたし、北の侵略に南が対処しえないこと、そのまま放置すると朝鮮半島は内戦に突入することもはっきり認識していた。李は核を保有した世界最強のアメリカが頼もしい存在と考えており、アメリカは韓国を見捨てないと信頼していた。
 李承晩は、アメリカとソ連という超大国が主導する冷戦対立のなかでは、「無定形」な国民の支持や支援よりも、アメリカの軍事的・経済的支援がより重要だと知っていた。大韓民国防衛の責任は自分ではなくアメリカにあるという政治的判断をすべての前提としていた。
 「反共を国是として掲げた」韓国の歴代政府が、人民軍が後退しながら犯した左翼側の虐殺を本格的に調査したことがないのは不思議である。しかし、それは、それまで共産党の蛮行と思われていた事件が、実は、右翼側による民間人虐殺事件であったと判明することを恐れてではないかと考えられる。たとえば、共産党の反乱あるいは良民虐殺事件と考えられてきた済州島四・三事件や麗順事件において、今では犠牲者の大部分は反乱軍ではなく韓国軍・警察・右翼による虐殺だと推定されている。「アカは殺してもいい」という原理は、実際に、今日の資本主義的経済秩序と法秩序、社会秩序に内在化し、再生産されている。それはファシズムの民族浄化の論理と本質的に同一である。「アカ狩り」という権力行使の欲求を抑制できる程度に民主主義は発展したが、現在の韓国の民主主義と人権の水準・市民社会の道徳性の水準は、一介の新聞社が過去の「国家機構」に代わって個人の思想的純粋性を審査し、追放を扇動できるという事実に集約されている。
 500頁に近い大変な力作です。朝鮮戦争に関心のある人には必読の基本的文献だと思います。
(2008年10月刊。4800円+税)

2010年4月 7日

美しい家

著者 孫 錫春、 出版 東方出版

 戦前から戦後の朝鮮戦争を経て、金日成と金正日政権下を生き延びてきた北朝鮮の活動家の日記です。北朝鮮の「労働新聞」の記者として、晩年は活躍していました。
 日記は戦前、1938年4月に始まります。朝鮮が日本の植民地として支配されていたころの状況が描かれています。このころ、金三龍、朴憲永という著名な活動家とも親交を持っていました。著者は日本に渡り、東京で中央大学哲学科に編入します。
 1940年8月22日、メキシコで、スターリンの放った刺客によってトロツキーがピッケルで刺殺されたことが書かれています。私は、これを読んで、このころこんなに詳しく背景事情から何まで判明していたというのはおかしいと感じました。あまりにも出来すぎています。もちろん、今となっては真実のことですが、スターリン崇拝の熱が今では想像できないほど強かった戦前に、スターリンをこれほど客観的にとらえることのできた日本人や、朝鮮人の活動家がいたなんて、とても信じられません。私は、ここで、この「日記」の信ぴょう性を疑ってしまいました。
 日本の敗戦後の朝鮮半島で、金日成が朴憲永を追い落としていく過程が批判的に記述されています。
 常識を逸脱したとんでもない話だ。金日成同志に少々失望した。あまたの共産主義運動の先輩を押しのけ、弱冠33歳の金日成が革命の最高指導者になろうとしている野心を露骨にさらけ出している。
 どうでしょうか。こんな金日成批判を書いた手帳を、北朝鮮のなかで後生大事に隠し持っていたなどと考えることは、とてもできません。朝鮮戦争がはじまり、やがてアメリカ軍が仁川に上陸して、反転攻勢が開始します。
 目の前で愛する妻と子が爆死してしまうのです……。
 停戦後の北朝鮮の日々です。
 個人英雄主義として朴憲永同志が批判されている。しかし、それなら金日成首相のほうこそ……。
 ええーっ、たとえ日記であっても、ここまで書いて大丈夫なのかしらん……!
 今日の我が党の現実は、人民大衆中心の党ではない。党の中心には、人民大衆ではなく、首領がいる。首領中心の党である。うむむ、本当なんですか……
 朝鮮戦争は全面戦争への転換が不適切な時期に冒険的に起きてしまった。
 金日成同志は、朴憲永同志が南労党同志たちの決起が必ずあると誇張し騒ぎたてたとし、失敗の責任の矢を南労党の同志たちに向けている。しかし、もっとも重大な判断ミスは、老獪な米帝を相手に戦わなければならない事態になりうることを、まったく想定していなかったところにあるのではないか……。
 「日記」の最後の日付は1998年10月10日になっています。60年間にわたって北朝鮮内で活動家として生き抜いた人の日記が残っていたというわけです、私には、まったくのフィクション(小説)としか思えません。ただし、はじめから小説として読むと、朝鮮半島を取り巻く情勢、そのなかで生きていた人々の息吹を身近に感じることのできるものにはなっています。
 
(2009年7月刊。2500円+税)

 チューリップはほとんど全開となりました。横にアイリスが咲き始めてくれています。茎の高い、黄色と白色の気品のある貴婦人のように素敵な花です。毎年ほれぼれと見とれます。私のブログでちかく紹介します。

2010年2月17日

戦争の記憶、記憶の戦争

著者 金 賢娥、 出版 三元社

 アメリカのベトナム侵略戦争に韓国軍が加担して兵を送り、ベトナム人を大量に虐殺していた事実は知っていましたが、最近、改めてベトナム現地に訪問して、このことを確認した韓国人団体の活動記録です。
 1965年から1973年までの9年間に韓国軍のべ32万人がベトナムで戦争に従事し、5千人以上がなくなった。
 1965年、アメリカは25ヶ国に参戦を要求したが、それに応じたのは韓国を含めて7ヶ国だけだった。しかも、韓国のほかは砲兵隊や工兵隊など、実際の戦闘とは関係のない部隊を派遣した。イギリスに至っては、わずか6人の儀仗隊を派遣しただけで、名目的な参戦でしかなかった。それだけ名分のない戦争だった。そのとき韓国軍は、のべ32万人もの兵を派遣し、実際に戦闘行為をすすめた。
 この本を読んで、なぜ韓国軍がベトナムに送られたか認識することができました。要するに、当時の韓国の朴正煕政権が、アメリカの支援に政権の存亡をかけていたのです。
 朴政権は、ベトナムへの軍事支援によるベトナム特需という経済的効果と、派兵の対価としての援助を獲得するという目的を設定した。当時の韓国は、外貨不足と物価高による経済的危機が蔓延している状態だった。そのなかで、朴正煕に対する12回もの逆クーデターの試みがあり、しかもクーデター指導者間の内部軋轢が朴政権を脅かしていた。朴正煕は、ベトナム派兵を一つの政治的突破口と考えた。つまり、アメリカから経済的軍事的援助を得て、ベトナムで外貨を獲得しようとした。結果として韓国はベトナム戦争で10億ドルを稼ぎ、おかげで韓進などが大企業に成長することができた。
 朴正煕が32万人もの兵力をベトナムに派遣できたのは、韓国人の協力と黙認があってのこと。メディアと知識人は、政権維持のために韓国民の生命を担保とした朴正煕と暗黙の共謀をしたことになる。ベトナム戦争は、危機に瀕していた朴政権を盤石なものにした。ベトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は、長期政権の道を歩み、暗うつな暴圧政治が始まった。この暴圧政治の実現には、大多数の韓国民の手助けがあった。朴正煕の三選のための改憲と維新憲法による暴圧政治の基礎を作ったのが、まさにベトナム戦争だった。
 たとえば、1966年1月にヒシディン省で1200人のベトナム民間人が殺され、同年11月にもクアンガイ省ソンティン県で青龍部隊がベトコン掃討作戦を行い、多くの民間人を虐殺した。韓国軍には現地のベトナム人がみなベトコンに見えた。根絶やしするしかないと考えたのです。恐ろしいことです。
 朝鮮戦争を経て、韓国軍兵士にはアカは殺してもいい、いや殺さねばならないという意識が染みついていたこともその背景にあった。
 非武装の民間人が虐殺されたのです。これは、やりきれなく悲しい。どちらからも認められない死だから。遊撃隊員の死だと、ベトナム政府から烈士補助金が支給されるのに……。
 忘れてはならない戦争の記憶を掘り起こした貴重な本です。『武器の影』(岩波書店)も、小説ですが、同じテーマを扱っていて、大変重たい本でした。
 
 左膝を痛めて、いろいろな治療を受けました。まず湿布です。ホッカイロで温めてみましたが、痛みは止まりませんでした。整体師に見て貰ったところ、鯨飲不明と言われてしまいました。外科医で痛み止めと湿布をもらいましたが、あまり効き目がありませんでした。別の外科医に行って膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらい、強力な痛み止めの薬を飲み始めたところ、かなり痛みは和らぎました。もう一回注射してもらおうと思ったところ、知人から注射はよしたほうがいい、それよりカイロプラティックに行って整骨・整体してもらったらどうかとアドバイスされたので行ってみました。1時間ほどの整体を受け、翌日からすっかり痛みがなくなりました。人体の自然治癒力を高めるのが整骨・整体だということで、そのおかげだったのでしょうか。それにしても、足をひきずってしか歩けないため、バリアフリーの必要性を痛感しました。階段の上り下りが大変なのです。エレベーターのないところでは泣きたいほどでした。わが身になって自覚したわけです。

(2009年11月刊。2700円+税)

2009年12月30日

朝鮮戦争(上)

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋

 かつては朝鮮動乱とも呼ばれていましたが、今では朝鮮戦争という呼び方が日本では定着しています。
 1950年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、南朝鮮との軍事境界線である38度線を突破した。兵士の多くは中国の国共内戦で共産軍側についてたたかった者たちで、3週間で朝鮮半島南半分を征圧する目論見だった。
 たしかに、当初、金日成の号令一下、怒涛のように朝鮮半島を一気に征圧してしまう勢いでしたが、やがて釜山の手前で立ち止まり、ついにはマッカーサーによる仁川上陸作戦で形勢が大逆転してしまいました。
 朝鮮戦争については、かつてアメリカ軍が挑発して、北朝鮮がやむなく反撃して侵攻したのだと言われたことがありましたが、今では金日成がスターリンと毛沢東の了解を取り付けて、無謀にも武力による全土統一を企て南部へ侵攻したことが明らかとなっています。
 この本は、アメリカが朝鮮半島をいかに軽視し、手抜きしていたか、アメリカの内部資料によって余すところなく明らかにしている点に大きな意義があります。北朝鮮軍が攻めてきた当時のアメリカ軍の哀れな状態を知って、朝鮮に送られてきた多くの将兵が憤った。定員も訓練も足りない部隊。欠陥だらけの旧式装備。驚くばかりに低水準の指揮官層。
 戦車への依存度の高いアメリカ軍にとって、朝鮮半島は最悪の地勢だった。
 山岳地帯は、装甲車両の優位性を損ない、逆に敵には洞窟その他の隠れ家を提供した。朝鮮戦争によるアメリカ軍の死者は、3万3千人。負傷者10万5千人。韓国軍の死者41万5千人。負傷者42万9千人。これに対して、中国・北朝鮮の死者は公表されていないが、150万人と推計されている。
 マッカーサーは、韓国に関心がなかった。朝鮮はアメリカ人の心をひきつけず、関心さえ引かなかった。初代アメリカ軍司令官のホッジ将軍は、韓国も韓国人も好きではなく、「日本人と同じ穴のむじな」と書いている。アメリカ軍の韓国駐留はおざなりそのものだった。
 金日成はカリスマである必要はなかった。スターリンにとって衛星国にカリスマ的人物は不要だった。ユーゴのチトー、中国の毛沢東のような人物では、かえって危険だと考えていた。
 なーるほど、そういうことだったんですね。それで、まだ若くて、ソ連軍に入って行動していた金日成が選ばれたというわけなんですか……。
 金日成が登場してきたとき、集会での初めての演説において、スターリンとソ連へのお追従を言って、朝鮮の人々をがっかりさせたが、それは理由のあることだった。
 金日成が6月25日に南へ侵攻したのを知ったとき、アメリカ当局の反応が面白いのです。
 アチソンは、韓国への侵攻は見せかけで、次に来るのはソ連の支援を受けた中国軍による台湾の蒋介石攻撃、あるいは、同じように危険なのは、蒋による挑発の後の共産側の反撃だと考えた。トルーマン大統領は、そうではなく、次の矛先はイランと予想した。マッカーサーも同じ意見だった。
 なるほど、これではアメリカの反撃が後手に回ったのも当然ですよね。
 上巻だけで500頁にのぼる本です。アメリカ内部の動きとあわせて、最前線での戦闘の様子が活写されています。さすがとしか言いようがありません。

 
(2009年10月刊。1900円+税)

2009年5月 9日

ノグンリ虐殺事件

著者 鄭 殷溶、 出版 寿郎社

 朝鮮戦争勃発直後、アメリカ軍による避難民「皆殺し」に巻き込まれ、家族が犠牲になった著者が、自らの苦悩と向き合いながら残虐な戦争犯罪を初めて告発した衝撃のノンフィクション。
 これは、この本のオビに書かれている言葉です。
 朝鮮戦争が始まったのは、1950年6月25日のこと。金日成の命令で、10万人の人民軍が一斉に韓国に侵入して、韓国軍とアメリカ軍は後退の一途をたどっていた。
 7月20日、アメリカ軍第24師団長のディーン少将は戦死し、大田は陥落した。
 7月末の時点では、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍は、防衛線を釜山を中心とする広い地域に定めつつあった。そして、ノグンリ虐殺事件が起きたのは、7月26日から29日までのこと。
 「大田で難民たちに仮装した人民軍に、私たちアメリカ軍はひどくやられた。したがって、疑わしい避難民はすべて殺せという上部の厳命があった……」
 避難民を鉄道の上にあがらせ、戦闘機を呼び、空と地上と合同で避難民を殺傷した。
 鉄道上の爆撃で生き残った人々は、鉄道下の大きな双子トンネルの中に、あるいは爆撃現場下の小さなトンネルの中に身を隠した。ところが、アメリカ兵たちは、この小トンネルの中にいる人々に向けて銃を乱射しながら引っぱり出し、大きな双子トンネルの中に押し込んだ。立錐の余地もない双子トンネルの中の人々に対して、アメリカ兵は、7月26日午後3時ごろから、機関銃射撃を加えはじめた。夜になっても射撃は止まなかった。アメリカ兵たちは、老人、婦女子、子どもたちであることを知りつつ、避難民を機関銃で撃った。
 彼ら避難民は、山の中で何の問題も起こすことなく過ごしていたのに、アメリカ軍が引っ張り出して危険地帯に入らせたうえで殺傷したのだった。
 この虐殺をしたアメリカ兵は、大田で人民軍に敗北した24師団ではなく、24師団から陣地を引き継いだ第一騎兵師団の部隊であった。
 仁川上陸作戦が開始されたのは9月15日のこと。
 アメリカ政府は、国連軍が朝鮮半島から撤退せざるを得ないときには、政府と韓国軍60万人をニュージーランドによって統治されている西サモア群島のサバイ島とウポル島へ避難させる計画を立てていた。これは韓国政府にも秘密にしていた。
その前、1950年8月の時点でも、アメリカは、韓国政府と韓国軍2個師団そして民間人10万人だけをグアムやハワイに移して、アメリカ軍はひとまず朝鮮半島から撤退する計画も検討していた。
 うむむ、さすがアメリカです。自分たちのことしか考えていないことがよく分かります。
このノグンリ事件については、2004年2月に特別法が制定され、犠牲者235人に対しての審査が実施されました。民間人の執念が実ったわけです。お疲れ様でした。
 
(2008年12月刊。3000円+税)

2009年4月24日

最後の証人(下)

著者 金 聖鐘、 出版 論創社

 2つの殺人事件の思わぬ真相が、覆っていた黒いベールをはぎとるようにして少しずつ明らかになっていきます。そこには韓国社会の闇を反映するものがあります。なにより、朝鮮戦争における朝鮮人同士の殺し合いに深い根があり、その後、長く続いた反共アカ狩りと、南侵スパイ政策がからまっていきます。いずれも、今日にまで続く韓国社会の奥底に今日もなおうごめく深い闇の部分です。
 それらの闇は、司法界にも当然のことながら及んでいます。弁護士だけでなく、裁判官も当の権力に牛耳られているのです。そして、マスコミも同罪です。
 1974年、「韓国日報」の懸賞公募に当選し、200万ウォンという多額の賞金を獲得した作品だということです。なるほど、なるほど、すごく読みごたえがあります。
 著者は1941年生まれで、韓国ではなんと2度も映画化されているとのこと。ぜひ私も見てみたいと思いました。日本語字幕付きのDVDが売られているそうです。
 現在、著者は韓国推理作家協会会長をつとめておられるとのことです。今後も活躍されることを大いに期待します。
 先日、北朝鮮がミサイルか人工衛星かよく分かりませんが打ち上げ、日本の政府・マスコミが大騒ぎしました。これも憲法改正への地ならしではないかと私などは大いに心配です。よくよく考えてみれば、日本にたくさんある原子力発電所をミサイルが狙ったら大惨事になるのは必至です。そんなことにならないよう未然に防止するしかないと思います。武力に頼ってはいけないのです。この点、例の田母神氏が次のように述べているのは紹介に値します。
「核ミサイルでない限り、ミサイルの脅威はたかが知れている。通常のミサイル一発が運んでくる弾薬量は、戦闘機1機に搭載できる弾薬量の10分の1以下である。1発がどの程度の破壊力を持つのかというと、航空自衛隊が毎年実施する爆弾破裂実験によれば、地面に激突したミサイルは直系10メートル余、深さ2~3メートルの穴を作るだけだ。だから、ミサイルが建物の外で爆発しても、鉄筋コンクリートの建物の中にいれば死ぬことはまずないと思ってよい。1991年の湾岸戦争のとき、イラクがイスラエルのテルアビブに対して41発のスカッドミサイルを発射したが、死亡したのはわずかに2名のみだった。北朝鮮が保有しているミサイルをすべて我が国にむけて発射しても、もろもろの条件を考慮すれば、日本人が命を落とす確率は、国内で殺人事件により命を落とす確率よりも低いと思う」
 北朝鮮は怖い国だ。攻めて来るかもしれない。だから憲法を改正して自衛軍を持とう。そんなイメージ・キャンペーンがはられています。でもでも、日本国憲法を変えてしまったら、それこそ日本は東南アジアの平和をかき乱す尖兵になってしまうでしょう。本当に北朝鮮は怖いのか、いったい日本の自衛隊というのは果たしてどれほどの戦闘能力をもっているのか、まずはもっともっと真実が語られるべきだと私は思います。
(2009年2月刊。1800円+税)

2009年4月 4日

最後の証人(上)

著者 金 聖鐘、 出版 論創社

 これはとても面白いし、考えさせられるミステリー小説です。韓国では開戦日にちなんで6.25と呼ばれるそうですが、日本でいう朝鮮戦争の起きたころ、韓国における激しいパルチザン闘争を背景とした、重厚な小説でもあります。
 朝鮮半島に住む同じ民族が、親共・反共に分かれて殺し合い、憎しみ合ったことがあること、それが今日なお水面下で奥深く尾を引いていることを感じさせる内容です。
 ミステリー小説ですから、ここでアラスジをバラすわけにはいきません。ともかく、読んで絶対に損はしない、面白い本だということを保証します。
 この本は、韓国では1974年から1年にわたって新聞に連載されていたものですが、なんと50万部も売れたベストセラーだそうです。いやあ、実にすごいものです。でも、この本を読むと、それもなるほどと納得できます。
 著者によると、まったくのフィクションということではなく、一部は事実にもとづいているとのことです。『南部軍』という、やはり韓国南部にある智異山を舞台としたパルチザンが壊滅していくまでを描いた本を前に読み、ここで紹介しました。(韓国では映画にもなったそうですが、残念ながら日本語版はないようで、私は見ていません)。その知識があると、さらに時代背景が理解しやすいと思います。
 私は、この本を東京行の飛行機の中で時間の経つのも忘れて一心不乱に読みふけり、いつのまにか東京についていたことを知りました。
 ソウルの有力弁護士が殺され、5ヶ月後に田舎で金持ちの男が惨殺されます。この2つの殺人事件が、実は深いところでつながっているのです。それを田舎の警察署にくすぶっている刑事が足でたずね歩いて、一つ一つ核心に迫っていくという話です。読んで損はしないミステリー小説です。一読を強くお勧めします。
 
(2009年2月刊。1800円+税)

2008年10月 2日

済洲島四・三事件

著者:文 京洙、 発行:平凡社

 1948年というのは、団塊世代である私の生まれた年です。その4月3日未明、済洲島で武装蜂起が起きました。その規模は300人。重火器は日本製九九式銃など、旧式のものが20挺ほどで、残る大半は竹槍とか斧・鎌の類を所持するだけ。この小さな抗議行動が、その後130あまりの村を焼き、全島人口28万人のうちの3万人もの島民が犠牲となる凄惨な殺戮劇のきっかけとなった。四・三事件というのは、歴史上記憶されていい、悲しい出来事だと思います。
 60年経った2007年6月、済洲島はユネスコの世界自然遺産として登録された。
 四・三事件は、1980年代まで韓国の歴代政権の下で闇に封印され、これをまともに語ることは久しくタブーとされた。2000年1月に四・三特別法が制定され、ようやく問題解決の糸口が見出された。
 済洲島には白頭山に次ぐ朝鮮半島第二の高峰であるハルラ山(1950m)がそびえている。冬ともなれば、厚い雪に埋もれ、その険しさは人を寄せ付けない。
 戦前の済洲島での抗日運動で見逃すことのできない特徴の一つは、日本、とりわけ大阪の左翼運動との関係が深かったこと。
 終戦後、信託統治反対(反託)の運動は、すねに傷持つ親日派が民族独立の大義を持って政治的に復権する格好のチャンスを与えた。そして、当初、反託の立場を示した左派は、共産党指導部(朴 憲永)の平壌への秘密訪問(1945年12月28日)のあと、信託統治支持(賛託)にまわり、信託統治への賛否は、そのまま韓国における国論の左右分裂となって、解放後の朝鮮を引き裂いた。
 済洲島の島民の多くが、日本など島外の近代世界の生活体験を持ち、教育水準や政治意識も高く、抵抗と自立にまつわる記憶の共有を背景に自律への気構えが旺盛だった。
済洲島の共産党組織が結成されたのは1945年10月のこと。210人ほどのメンバーだった。しかし、独自の組織活動はほとんどなく、済洲島の左派勢力は人民委員会の一員として活動し、左派の中央での路線は済洲島にはスムーズに伝わっていなかった。
 ところが、1945年11月にソウルで南労党が作られ、済洲島でも南労党島委員会として衣替えしたころから変わり始めた。
 1947年の三・一節事件から四・三事件勃発までの1年余りの逮捕者は2500人に上った。左翼・同調者と見られると検挙・テロにさらされ、職場からも追い出された。だから、夏ごろから若者たちが続々とハルラ山に入山しはじめた。そこは絶好の避難場所だった。
 軍政警察・右翼の攻勢が厳しさを増せば増すほど、南労党内では古参の社会主義者を中心とする穏健派がしりぞき、復讐心や敵愾心に燃える急進的な若手指導者の発言力が高まっていった。武装蜂起の決断も、若い強硬派の主導で下された。4月3日の蜂起は、追い詰められた左翼の自衛的かつ限定的な反抗・報復としての性格を帯びていた。
 しかし、四・三の武装蜂起は、アメリカ軍政が全力で推進しようとしていた5・10選挙に対する重大な挑戦と映った。4月5日、済洲島非常警備司令部が設置された。
 6月10日、ディーン軍政長官は、済洲島での選挙の無期延期を発表した。このようにして、済洲島は大韓民国の建国に向けた5・10単独選挙を全国で唯一拒んだ島となった。
 済洲島で犠牲となった1万4000人あまりのうち、軍警討伐隊による殺害が80%近い。しかし、武装隊による犠牲も13%はあった。武装隊と討伐隊の双方からの攻撃と報復の悪循環で、多くの住民が犠牲となった。
 四・三事件のあと、済洲島は与党の大票田となった。1956年の大統領選挙では投票率95%、そして李承晩の得票率は88%だった。全国平均より18%も高い。済洲島の若者は、「反共の戦士」に徹するしか、「暴徒」「アカ」という汚名を拭い去ることができなかった。
 私はまだ済洲島に行ったことがありません。すごく重い歴史を持った島だと思います。 
(2008年4月刊。2400円+税)

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