弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2019年2月 2日

江戸東京の明治維新

(霧山昴)
著者 横山 百合子 、 出版  岩波新書

眼が大きく開かされる思いのする本です。知らないことだらけで、明治の庶民の毎日の生活を始めて実感できた気がしました。
明治初年の東京には、町方人口の7~8割が、その日稼ぎの人々だった。
下層民とは、①畳や建具はもっているが、三度の食事のうち二度が粥(かゆ)である「上」、②カマドと湯釜、タンスなどは持っているが、サツマイモや粥を日に二度食べるのがやっとの「中」、③畳、建具もカマドもない「下」。
そして、江戸から明治になって物もらい(窮民)が大量に発生した。品川、千住、四ッ谷、板橋そして本所海辺あたりに散在している物もらいや無宿非人が1万余人もいた。
路上には床店(とこみせ)が立ち並んでいた。間口が一間から二間ほどの小さな家とも小屋ともつかない建物。この床店から上がる利益をめぐって、幕府一町、請負人一床所地主(家守層)一床商人という重層的な分配構造が形づくられていた。やがて路上から追われた床商人たちは、明治10年代になると、共同で付近の店舗を借り受け、密集した商いの場をつくり出していった。
新吉原遊廓では遊女たちによる放火が多かった。遊女の処遇が過酷だったから。1849年に起きた放火事件は、遊女16人によるもので、すぐに発見されるよう表通りからも目に着く2階の格子に放火し、直ちに名主の下に自首して抱え主の非道を告発したものだった。
明治になって解放令が出たあと、遊女かしくと竹次郎の連名による嘆願書が紹介されています。そこでは、7歳で身売りして新吉原の遊女になったかしくが、「遊女いやだ申候」として、解放のうえ結婚することを認めてほしいと東京府に願い出たのでした。口頭指示で却下されたようですが、それでも、このような書面が残っていたこと自体が驚きです。
江戸が明治に変わったころ、下層市民はどのように生きていたのかを知ることのできる貴重な労作です。この本は、明治初めに生きていた市民の生活の実情を知るため、広く読まれてほしいと思いました。
(2018年11月刊。780円+税)

2019年1月 7日

生きづらい明治社会

(霧山昴)
著者 松沢 裕作 、 出版  岩波ジュニア新書

1868年が明治のはじまりです。それから1945年の敗戦まで、なんと77年間でしかありません。いま、敗戦から73年たっていますので、その差はわずか4年。
前の77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、そして第一次世界大戦に参戦して中国・青島でドイツ軍と戦争し、さらに第二次世界大戦をひき起こしました。まさに、戦争に明け暮れた77年間です。それに対して、敗戦後の73年間は、戦争とは無縁(少くとも直接的には)で過ごしてきたのです。ありがたいことですよね、これって・・・。
明治維新から明治天皇が死んだ1912年までの45年間に、日本は大きく変わった。
日清・日露戦争によって、日本は台湾や朝鮮半島を植民地とした。明治時代は経済的には発展の時代だった。1870年に3400万人だった人口は、明治が終わるころには5000万人(植民地は除く)になっていた。実質GDPは2倍になった。
明治時代の人びとは、大きな変化のなかを不安とともに生きた。そして、不安のなかを生きていた明治時代の人たちは、ある種の「わな」にはまってしまった。
明治の都市下層社会では、家族は安定した形をとっていない。正式に結婚している夫婦は少なく、事実婚の夫婦が多い。そして、夫婦ゲンカが絶えない。
長屋に住むが、そこは木造平屋建てで、四畳や六畳の一部屋だけ。布団を所有しない世帯も珍しくない。布団を買うお金がないので、毎日の収入のなかから、少額のレンタル料を払って布団を借りている人が珍しくなかった。
住居をもてない都市下層民は木賃宿(きちんやど)に住んだ。大部屋に人びとが雑魚寝(ざこね)して寝泊りする。東京市内に145の木賃宿があり、1ヶ月の宿泊者は1万3000人だった。20畳の部屋に照明はランプが一つ、まくらは丸太で、寝具は汚れて悪臭を放ち、ノミがたくさんいるという不衛生な状況だった。
明治時代、今の生活保護法に類似した制度は恤救(じゅっきゅう)規則。これまで隣近所で面倒見てきた者は、この恤救規則の対象にはならないとされた。国は、救助を貧困者の隣近所の住民に押しつけた。
貧困は自己責任であって、社会の責任ではない。法律をつくると、怠け者が増えてしまう。こう言って、反対する議員が多く、法律は制定されなかった。
江戸時代には、農村部の休日は増加傾向にあった。最大で年間80日も休んでいた村もあった。ところが、明治時代になると、通俗道徳の「わな」に人びとがはまってしまった。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶる思想にとりつかれていた。
貧困者を「ダメ人間」視するところでは、政府や地方自治体のような公的機関が、税金を貧困者のためにつかうことには強い抵抗がある。一部の「ダメ人間」のために、「みんな」のお金をつかうことはできないと考えるのだ。
おカネは、道路、鉄道、学校といった、「みんながつかうもの」と考えられた目的につかわれ、貧困対策のような「一部の人たちだけがトクをする」と考えられたものには使われなかった。
慈善は悪事である。怠け者を助けてやっても、ますますつけあがって怠けるだけ。
成功した者が動かす社会では、政府がつかうおカネが増えたからといって、それが貧困対策につかわれることはない。成功者たちからすると、貧困者は怠け者の「ダメ人間」なのだ。
いやあ、今でも、こんな考え方の人は多いですよね。自分がいつ弱者になるかもしれないのに、そんなことをまったく考えないのです。
生きづらいのは明治社会だけではなく、現代日本でも残念ながら同じですよね。こんなすばらしい本がジュニア新書として出ているんですね・・・。多くの人に一読してほしい本です。
(2018年9月刊。800円+税)

2018年12月30日

新にっぽん奥地紀行

(霧山昴)
著者 芦原 伸 、 出版  山と渓谷社

イザベラ・バードを鉄道でゆく。明治の初めに東北と北海道をめぐる女一人旅を敢行したイギリス人女性の足跡を鉄道で追いかけた本です。
イザベラ・バードが日本を旅したのは40代のころ、当時は独身でした。東北地方を引き馬に乗って旅をし、北海道に渡っています。イギリスに戻って出版した『日本奥地紀行』(1880年)は、発売と同時に重版というヒット作になりました。うらやましい限りです。
40歳をこえてから紀行作家として活躍したイザベラ・バードは、72歳で亡くなりました。
顔は平たく、鼻は低く、がに股で、ちんちくりんの一寸法師。これが、当時の外国人から見た日本人の印象だった。
日本には浮浪者がひとりもいない。小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべき何らかの自分の仕事というものを持っていた。
では、イザベラ・バードの容姿はどうか・・・。ずんぐりとした、やや太めの金髪のイギリス婦人。つまり、外見はフツーのおばさん。しかし、態度は物おじせず、きびきびしていて、とても47歳の熟年女性とは思えなかった。
英国代理領事はバードにこう言った。
「英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう。ただし、ノミの大群と乗る馬の貧弱なことを除けば・・・」
バードが東北地方を旅行したのは明治11年のこと。前年(明治10年)に西南戦争が起きている。そして、バードが横浜に着いた10日前に大久保利通が暗殺された。血を血で洗う激動の時代にバードは日本に来たのだった。
日光に今もある金谷ホテルの宿帳には、バードが宿泊したことが記載されている。
会津で、バードは、眠れない、食べれない、好奇の的にさらされる。プライバシーが保てない。警察官から疑われる。1日11時間を費やしても、30キロも進まない。
バードは、「ただの一度として不作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともない」と書いています。当時の人々の道徳心の高さをうかがわせます。今の日本では、果たして同じだと言えるでしょうか・・・。
バードの旅を同行した通訳でもある伊藤鶴吉は、惜しくも54歳の若さで亡くなっています。日本人へのバードの高い評価はこの通訳・鶴吉の人柄と能力によるところも大きいと思います。
バードが各地でスケッチした絵は見事なものです。明治初めのころの日本の実情をよく知ることができる紀行文として、資料的価値もあります。
面白い旅の本でした。
(2018年7月刊。1600円+税)

2018年9月20日

明治の技術官僚

(霧山昴)
著者 柏原 宏紀 、 出版  中公新書

申し訳ないことに「長洲ファイヴ」も長州五傑(ごけつ)も私は知りませんでした。映画化もされているようです。
明治になる前の幕末、長州藩からイギリスに密航した5人の藩士がいた。伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三。もちろん、伊藤博文と井上馨は知っています。私が知らなかったのは残る3人です。井上勝は、日本における鉄道の導入そして拡大を主導した人物として、東京駅前広場に銅像が立っている。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・。遠藤は、近代的な造幣事業(要するに紙幣、お金です)のスタート段階で大きな役割を果たした。山尾は、工部省の創設に関わり、鉄道、電信、造船などに尽力した。
このように、3人とも明治政府における官庁に属して活躍するという官僚人生を歩んだ。いずれも技術官僚だった。そして、老年に近くなるまで、長く政府内にとどまった。
長州藩は攘夷というだけでなく、西洋に藩士を派遣して新知識を習得させて導入しようという度量の広さも持ちあわせていたのですね。すごいことです。
1人あたり1000両かかるということで、藩は1人200両を出し、商人から5000両借金(押借、おしがり)して工面した。長州藩は、極秘に硬軟両様で時局にのぞんでいたのだ。
この5人がロンドンに到着したのは183年(文久3年)のこと。伊藤と井上馨はわずか7ヶ月で日本に帰国したが、残った3人は、専門性を身につけていった。イギリスでは、薩摩藩からの留学生とも交流していたようです。
明治5年に京浜間で鉄道が開通した。山尾・工部省の所管だった。それまでは、多くの人が道路建設を優先させよと言っていたが、今では、早く東京から青森や京都まで鉄道を敷設せよと希望していると山尾は報告した。
井上勝は、鉱山頭兼鉄道頭となり、次第に鉄道専任の官僚となっていった。
明治初めごろのお雇い外国人の給与は高額だった。太政大臣の月給が800円だったのに、鉄道差配役カーギルは2000円、建設部長ギイルは1250円。そして、400円クラスの外国人が複数いた。
長州五傑は、密航留学経験に由来する専門性を基盤として明治政府で活躍した五人組だった。
著者は五人組の陰の部分も指摘しています。
要するに、過激なテロ行為に加担し、政治外交を大きく混乱させた。伊藤博文も若いころはテロリストだったのですよね。そして、明治政府で自己主張が強くて組織の秩序を乱したこともあった。さらには公私の区別があいまいだった。そして、藩閥の論理を露界にすすめる片棒も担いでいた。
このように、功罪、それぞれをきちんと踏まえるのは、とても難しいと私も思います。
それにしても、このような力をもった技術官僚はたしかに必要ですよね。と言いつつも、アベ政権に骨抜きされて、唯々諾々つかえるだけの官僚であっては困ります。
(2018年4月刊。880円+税)

2018年8月 8日

戊辰戦争後の青年武士とキリスト教

(霧山昴)
著者 目黒 順蔵 ・ 目黒 士門 、 出版 風濤社

『五日市憲法』(岩波新書)を読み終わって、戊辰戦争と自由民権運動の関わりを認識されられていると、その直後にフランス語仲間から、この本が贈られてきました。
戊辰戦争で負けて朝敵となった仙台藩士が東京に出てキリスト教とフランス語に出会い、学校の教員となったあと医師になり、故郷の仙台に戻って自由民権運動とも関わりをもったのでした。
目黒順蔵は仙台藩の次男として生まれた。戊辰戦争では仙台藩の兵士として参戦し、なんとか生きのびたが、「朝敵」、「奸党」の汚名を受けることになった。
明治4年(1871年)、順蔵は東京に出て、フランス人神父の主宰するマラン塾に入った。そして、キリスト教の洗礼を受けた。その後、葉山の学校で教員として働くようになり、さらに、東京の西洋医学校に入って医学を学んで、医師となった。
明治12年に医師として仙台に戻り、病院で働くようになった。
明治18年に、内外科と眼科を開業した。
明治39年、東京に転居した。長男三郎にカトリックとフランス語を学ばせるためだった。
目黒三郎は暁星小・中学校から東京外国語学校(東京外大)仏語部に入学した。そして、大正9年(1920年)4月から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の助教授となった。当時の学生に小林多喜二や伊藤整などがいた。NHKの発足とともに始められた「フランス語講座」の初代の講師をつとめた。
私は弁護士になって以来、NHKラジオで毎朝フランス語講座を聴いています。いつまでたってもちっともうまく話せませんが、おかげで聞き取り能力だけはかなり(としか言えません)アップしました。
順蔵は、関東大震災の5年後の大正7年(1918年)に71歳で亡くなった。
この本は、三郎の死後、その書斎から順蔵の手書き原稿を発見したことから、順蔵の生きた社会状況を順蔵の書きのこした文章を手がかりとして再現したものです。
順蔵は大槻文彦(『大言海』の著者)と親交を結んでいた。
順蔵は古川で病院長をしながら自由民権運動に挺身する青年たちとまじわっていたが、それは村民や青年を扇動するものだとして仙台への転勤を命じられた。それが嫌で、独立・開業することになった。
戊辰戦争と自由民権運動の結びつき、またキリスト教やフランス語との結びつきの具体例が分かり、戊辰戦争のあとに苦労しながら奮闘し、自由民権運動にも目ざめたのが『五日市憲法』の千葉卓三郎だけでないことを知り、大変な感銘を受けました。
目黒ゆりえ様、大いに知的刺激を受けました。贈呈ありがとうございました。
(2018年7月刊。2800円+税)

2018年8月 1日

五日市憲法

(霧山昴)
著者 新井 勝紘 、 出版  岩波新書

明治憲法ができる前に全国各地の自由民権運動は、それぞれ自前の憲法草案を発表したのでした。その一つが五日市憲法と呼ばれるものです。
この本は東京近郊の五日市の「開かずの蔵」から掘り起こされる経緯、そしてそれを発見した大学生がその後、50年にわたって調査・研究した成果が生き生きと語られていて胸が熱くなるほどの感動本となっています。
五日市にあった朽ちかけた土蔵が開かれたのは1968年8月下旬のことでした。わたしは大学2年生、東大闘争が8月に始まってまもなくの、暇をもてあましていたころのことです。
土蔵の2階に小さな弁当箱ほどの竹製の箱があった。蓋をあけてみると、古めいた風呂敷包みが出てきたので、結び目をほどくと、布製の風呂敷はボロボロと崩れてしまった。そして、一番下に和紙をつづった墨書史料があり、「日本帝国憲法」と題した薄い和紙があった。「大日本帝国憲法」ではない。「大」の字が虫に喰われてなくなったくらいに考え、「驚きの新発見」ではなかった。これが、その後の50年の研究のスタートだった。宿舎にもち帰り、そして卒論のテーマとすることになった。
他の憲法草案と比較検証するなかで、まったく目新しい独自のものだということが次第に明らかになっていきます。国民の権利をどう守るか、とりわけ司法によっていかに守るかを重視したものだということが分かります。
今では、まったく東京のはずれでしかない五日市は、明治初年のころは自由民権運動の一つの大きな拠点だったようです。そして、この草案を起草した「千葉卓三郎」の追跡の過程が、それこそ多くの人々の善意によって結実していく過程に心が打たれます。
結論からいうと、卓三郎は仙台藩の出身で、官軍と戦った賊軍の一人でもあり、東京に出てキリスト教に入信し、不敬罪で刑務所に入り、フランス語を学んだりして、自由民権運動に触れて五日市の学校で校長をつとめて憲法草案をつくったものの、31歳の若さで病死したのでした。
今、卓三郎の碑が3ケ所にあるとのことです。それは、ひとえに五日市憲法の内容の先駆性によるものです。自ら被疑者・被告人となって獄舎につながれた経験、かつて賊軍だったことなど、若くして豊富な人生経験したことが結実したものと言えます。
もちろん、五日市憲法の内容も語られているのですが、私にとっては、起草者の発掘過程に胸がドキドキする思いでした。一読に価する新書です。
(2018年4月刊。820円+税)

2018年4月21日

西南戦争、民衆の記


(霧山昴)
著者 長野 浩典 、 出版  弦書房

この本を読むと、西南戦争って、いったい何だったんだろうかと改めて思わざるをえませんでした。
西郷隆盛たちは、陸路、東京まで何を目ざしていたのでしょうか・・・。
熊本城を攻略できないまま、熊本にずるずると居続けていたのは、なぜだったのでしょうか・・・。そこにどんな戦略があったのでしょうか・・・。
西郷隆盛が陣頭指揮をとった戦闘は2回だけのようです。では、あとは何をしていたのでしょうか・・・。
薩摩軍には戦略がなかったと指摘されていますが、まったく同感です。熊本城包囲戦に成功せず、田原坂の戦いで勝つことが出来ず、兵站(へいたん)に失敗してしまったのですから、戦争に勝てるはずもありません。それでも若者たちを率いて戦場に出向いて、あたら前途有為な青年を死に追いやったのです。西郷隆盛の責任は重大だと思います。
この本は民衆の視点で西南戦争が語られますので、民衆が被害者であったと同時に観客であり、また戦争で金もうけをしていたことも紹介しています。
残酷無比な戦場に、戦闘が終わるとすぐに民衆は出かけていき、戦死者から、その衣服をはぎとっていました。
民衆は軍属として徴用されましたが、戦場の最前線まで武器・弾薬や食糧を届けるのですから、とても危険でとてもペイしませんでした。無理に徴用しても逃亡者続出だったようです。
犬養毅が慶応大学の学生のとき、記者として戦場に出向いて戦場のレポートを新聞に書いていたというのには驚きました。新聞は戦場のことを書くと売れるのです。
西南戦争とあわせて、農民一揆も発生していたのですね。そして、山鹿には数日間だけでしたが、コンミューン自治が実現しました。
それにしても、参加者5万人という薩摩軍は何を目指してしたのでしょうか、さっぱり分かりません。当時の民衆の対応が手にとるように分かり、西南戦争の全体像を改めてつかむことができる本でした。
(2018年2月刊。2200円+税)

2018年2月17日

明治の男子は星の数ほど夢を見た

(霧山昴)
著者  和多利 月子 、 出版  産業社

 「男はつらいよ」の主人公は車寅次郎ですが、本書の主人公は同じ寅次郎でも山田寅次郎です。寅年に生まれた二男だったことから命名されました。
 トルコに18年間も住み、オスマン帝国のスルタン(皇帝)と芸術面で交流があったとのことです。さらには、幸田露伴の小説のモデルにもなっているといいます。『書生商人』という小説です。沈没した外国船への義捐(ぎえん)金をもって外国へ行くというストーリーですが、それは山田寅次郎がトルコへ和歌山沖で沈没したトルコの軍艦に乗っていて亡くなった人々の遺族へ義捐金をもっていったことにもとづいているのです。
そして、山田寅次郎は伊藤忠太という東大の建築史教授とも交友がありました。さらに晩年は茶道の家元として活躍したのです。赤穂浪士の討入りが12月14日に決まったのは、この日に茶会があることを師匠が浪士の一人・大高源吾に教えたからですが、この茶道師匠と縁のあるのが山田寅次郎の身内の祖先でした。
 オスマン帝国の軍艦エルチュールル号が和歌山沖で遭難したのは、1890年(明治23年)、山田寅次郎が24歳のとき。生存者65人。死者80人という大惨事でした。山田寅次郎たちは義捐金を集めて、遺体・造物の引き揚げに取り組みました。2000万円ほど要したようです。
 著者は山田寅次郎の孫娘にあたります。調べはじめると意外にもたくさんの資料が出てきたようです。豊富な写真とともに明治の男子が夢をもって海外へ雄飛していった状況が明らかにされます。
 それにしても、男子たるもの外国語を三つはモノにせよとのこと。私は、フランス語ひとつだけでも四苦八苦しています。
日本とトルコの交流をはじめた開祖にあたる山田寅次郎なる偉人を知ることができました。たくさんあるさし絵も明治の雰囲気がよく出ています。
(2017年10月刊。2800円+税)

2018年1月 7日

果てなき旅(下)


(霧山昴)
著者  日向 康 、 出版  福音館書店

 足尾銅山公害事件に取り組んだ田中正造の伝記の下巻です。軽く読み飛ばすつもりだったのですが、その扱ったテーマの重大さに押されて、そうは問屋がおろしませんでした。下巻だけでも読了するまで1ヶ月間ほどかかってしまいました(毎週日曜日のランチタイムに読んでいたのです・・・)。
 明治34年10月23日、田中正造は衆議院議員の職を辞した。翌月、銅山王・古河市兵衛の妻が神田川で水死体として発見された。同年12月、61歳の田中正造は天皇の馬車に対して直訴状を手にもって近づいた。「お願いの儀がございます」。この直訴状は、社会主義者の幸徳秋水が執筆した。
 幸徳秋水は、社会主義者として、事態の解決を天皇の手に頼ろうとする点に抵抗があり、また、いかにも大時代的な直訴状(じきそじょう)なるものを起草するのは、いかがかとためらった。しかし、長年にわたる苦闘に疲れている田中正造の姿を見て、断りきれなかった。
 田中正造は、自分は死んでもよいと考えていた。そして、鉱毒事件の解決のために社会主義者を巻き込もうと考えていた。
 ところが、田中正造は「狂人」として、何ら罰されることがなかった。田中正造を裁判にかけたら、足尾銅山による公害被害民を支援する世論が湧きたつ危険があった。それを政府は計算した。実際、田中正造の直訴をきっかけとして、鉱毒事件に対する世論が大きく湧きたった。新聞は、こぞって支援したし、内村鑑三や安倍磯雄、そして木下尚江などが被害者救済の演説会を開いた。さらに、明治34年の暮れ、東京在住の大学生たちが大挙して被害地を視察した。そして、鉱毒地救済婦人会も大活躍した。
 この大学生たちについて、結局、何の役にも立たないと田中正造は落胆しています。本当に残念です。学生の大部分は、わが身安全を第一と願う人間となって社会に出てしまう・・・。そうなんですよね・・・。実に痛い指摘です。東大闘争を経験した多くの東大生は権力の醜さを実感したと思うのですが、その多くがいつのまにか体制に順応していきました。
 田中正造に対して、「予戒令」(よかいれい)という措置が講じられたというのは初めて知りました。県知事や警視総監が発する制限命令です。
田中正造は73歳で亡くなりました。死んだとき残っていたのは菅(すげ)の小笠と1本の杖。信玄袋に入っていたのは、聖書と帝国憲法、そして日記帳、そのほか・・・。
 偉大なる、というか不屈の闘士である田中正造の生きざまを垣間見る思いのした本です。37年も前の古い本ですが、ネットで注文して読みました。大変読みごたえのある本です。
(1980年2月刊。1300円+税)

2017年10月29日

ザック担いで、イザベラ・バードを辿る

(霧山昴)
著者 「日本奥地紀行」の旅・研究会 、 出版  あけび書房

名古屋大学ワンダーフォーゲル(ワンゲル)部のOBが明治11年のイギリス女性の東北・北海道旅行の行程をたどってみました。参加者はのべ109人、23泊34日、東北から北海道までをザック担いで歩いたのです。すごい企画ですね。うらやましいです。メンバー表をみると、私たちの団塊世代の少し前の世代のようです。
イザベラ・バードが歩いた明治11年(1878年)というのは、西南戦争が明治10年ですから、その翌年ですし、明治になってまだ10年しかたっていない農村地帯だったので、ほとんど江戸時代そのままだったことでしょう。その街道の多くは今では主要国道になっていますので、そのまま歩いたのでは危険をともないます。そこで、名古屋大学ワンゲル部OBは、時代に取り残された峠道を丹念に拾って歩いたのです。
大内宿は、今も江戸時代へタイムスリップできることで有名です。私もぜひ行ってみたいと考えています。イザベラ・バードが泊まった「問屋本陣」が今も残っていて、土産物屋になっているとのこと。築300年以上だそうです。
イザベラ・バードが休憩した茶屋で、水しか飲まなかったところ、お金を受けとろうと、しなかったという話も紹介されています。「律義で正直」な日本人がいたのですね・・・。
マタギの郷(小国町)では、熊肉がキロ1万円以上で売られているとのこと。高級和牛並みの値段です。熊皮は7万円から10万円もします。すごい高値です。
イザベラ・バードが東洋のアルカディアと命名したのは米沢平野。ここは台風も地震もなく、雪さえ我慢すれば非常に住みやすいところ」、とは地元の人の言葉。
イザベラ・バードは明治11年当時、47歳の独身の「おばさん」でした。そして、日本には合計5回やって来ています。1904年に72歳でイギリスで亡くなりました。
同伴者の伊藤鶴吉は18歳で、実践的な英語力がありました。英米の公使館でボーイとして働いたことがあったからです。とても有能な通訳・随行者だったようです。
マンガでイザベラ・バードを紹介している本があるようですね。ぜひ読んでみましょう。
(2017年9月刊。2200円+税)

1  2  3  4  5  6  7

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー