弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2017年2月27日

西南戦争の考古学的研究

(霧山昴)
著者  高橋 信武 、 出版  吉川弘文館

 博士論文をベースとした大変な労作です。明治10年に起きた西南戦争の現地に出かけ、そこに落ちている弾丸や台場、塹壕などを歩きまわって戦闘の実際を確認したのです。
 熊本・大分そして宮崎の山のなかを歩きまわり、鹿に出会い、マダニやヒルに襲われたとのこと。熊がいないのが良かったそうです。いやはや学問を究めるのも大変な苦労をともなうものなんですね・・・。
 西南戦争では、官軍の総兵力は4~5万人。うち戦死者は6843人。15%が戦死したことになる。対する薩軍は総兵力5万1000人で、うち8302人が戦死した。戦死者の割合は16%。両軍とも、ほぼ同じ割合の戦死者を出している。
 著者はなぜ現地に出かけてみることが大事かというと、両軍の従軍日記等に出てくる地名や山の名前は適当につけられることが多く、多くの実際の地名と異なることがある。そして、弾の落下地点を地図に落とし込む作業をすると、どちらの軍が撃ち込んだのかが分かり、戦闘状況が再現できる。したがって、落下した銃弾をきちんと見分ける必要があるというのです。
 当時の銃弾は鉛製が主体で、表面は後年のように銅で覆われていない。発射直後は高熱状態で、近くに着弾するとペシャンコにつぶれてしまう。遠くに落下したときには、原型をとどめる。
 西南戦争では、初期の吉次峠や田原坂の戦闘は有名だが、その場所での勝敗によって戦争全体の決着がつくものではなかった。中世の戦いのように密集した軍同士が衝突して決着がつく決戦ではなく、全般的にみられたのは、両軍ともに長い戦線を形成するとともに、敵の戦線をどこかで突破しようとする戦闘だった。その結果、一部で戦線を突破しても、少し下がった位置に新たな戦線がつくり直され、新たな戦線で戦いは継続した。
両軍とも、初めから抜刀して戦いを始めるという戦闘はなかった。これは古来から同じ。官軍が田原坂を突破したのは3月20日だったが、薩軍は新たな戦線を構築したため、結局、南下しようとした官軍が熊本城に入ったのは4月14日のこと。
薩軍は戦いの初めから弾丸不足に悩まされていた。薩軍は銃弾の材料となる鉛が不足したため、鍚を混ぜたり、銅を追加したりした。そして鉄製銃弾をつかったものの、軽量であり、銃の口径に適合していなかったので、紙を巻いて銃の内径に合うよう調整して射撃していた。しかし、これは遠くにまっすぐ飛べない代物だった。官軍兵士たちは、鍋からできた弾だと笑っていた。
 薩軍は威嚇のためや探り撃ちのときには鉄製銃弾をつかい、本格的戦闘のときだけ、大事に貯めておいて鍚と鉛の合金弾丸などをつかった。
 薩軍って、こんな苦労までしていたのですね、知りませんでした。
 官軍が使った小銃はエンピール銃が2万5千挺、スナイドル銃が8300挺。
この本では官軍の主な大砲は四斤砲であったとされています。私が前に読んだ本によると官軍が田原坂の正面突破にあくまでこだわったのは、ガットリング法(大砲)を人力で運び上げる坂の傾斜角の適地が田原坂しかなかったからだというものでした。この本では、そのような理由を推察できません。大砲のところも、もっと論述してほしかったと思いました。
 ともかく、各種銃弾の図解まである、とても実証的な西南戦争の実情をよく知ることのできる労作です。関心のある方には、図書館でもご一読をおすすめします。
(2017年1月刊。13000円+税)

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2017年1月14日

文明開化がやって来た

(霧山昴)
著者 林 丈二 、 出版  柏書房

明治時代の実相を、当時の新聞の挿絵(さしえ)で紹介しています。なるほど、そうだったのかと、何度も頭を上下させてしまいました。
日本人って、活字大好き人間が多いですけど、今も新聞にはマンガが絶対に欠かせませんよね。新聞マンガと言えば、サザエさんにサトーサンペイに、今では「まんまる団地」ですね。
ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。断髪令が出たのは明治4年。散切り頭の普及は、それなりにすすんだのですね。散髪普及率は、明治5年に10%、明治8年に20%、明治10年に40%、明治13年に70%。西南戦争は明治10年でしたよね・・・。
チョコレートが日本で売られたのは明治11年。風月堂は、日本で初めて西洋菓子の「ショコラート」、つまりチョコレートを販売した。明治19年の新聞広告には「チャクレッ」と書かれているが、これもチョコレートのこと。
明治11年7月の新聞に、風月堂は「アイスキリム」宣伝している。アイスクリームだ。50銭する。このころ、東京・銀座の店で氷水が一杯4銭だったので、一桁ちがう高さ。ところが、明治22年の挿絵では4銭にまで下がっている。
明治17年ころから、日本でも、いろいろビールが売られるようになった。
長屋では、「長屋の犬」として共同して犬を飼い、番犬にしたてあげ明治15年から19年にかけて、ピストル強盗が東京で連続して発生した。ピストルって、このころ、案外、容易に手に入っていた。
明治の生きていた人々の風俗を目で見て知るためには欠かせない本です。絵の訴求力は、たいしたものです。
(2016年10月刊。1800円+税)

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2016年12月 9日

自由民権運動

(霧山昴)
著者 松沢裕作 、 出版  岩波新書

 自由民権運動とは何だったのか、改めて考えさせられました。それは、幕末そして明治維新の原動力となった動きに当然のことながら連動していたのです。
 そして、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだという伝説のある板垣退助の実像が浮き彫りにされています。なるほど、そういうことだったのか・・・・、と思わず膝を叩きました。
 1874年(明治7年)1月17日、板垣退助ら8人が、国会の開設を要求する建白書を政府に提出した。これが自由民権運動の始まりとされている。板垣は土佐(高知県)出身の士族であり、かつての政府首脳の一人である。板垣は、民権運動が西日本の士族たちを主たる担い手として始まったことを象徴する人物である。
 戊辰戦争後の高知藩で実権を握ったのは、大政奉還の立役者である後藤象二郎と、戊辰戦争の英雄である板垣退助の連合政権だった。この二人は、いずれも上士出身である。これに対して、国許の高知で実権を握ったのは、下士・郷士をふくむ凱旋した軍人たち。谷干城、片岡健吉らで、藩の軍務局を拠点としていた。東京の板垣・後藤と高知の谷らは対立していた。高知藩において士族・率族の等級制の廃止に抵抗したのが、のちの自由民権運動の指導者になる板垣退助その人だった。
 このころ、板垣は、藩内の人物を家格によって差別する人物であると認識されていた。板垣らの新政府軍と戦った江戸幕府の歩兵隊は、日雇いの肉体労働で生計を立てているように日用層、つまり都市下層民(「破落戸」(ごろつき))の軍隊だった。
 近衛兵として勤務する薩摩や土佐の軍人たちは、戊辰戦争の、また廃藩置県クーデターの勝利者であるにもかかわらず、自分たちの存在意義の危機に直面していた。
 藩を失い、徴兵制によって、その存在意義も失われつつあった士族たちの不安とは、身分制社会の解体によって所属すべき「袋」を失った士族たちの不安であった。
板垣らは「建自書」を提出した自分たちの行動を「反体制」の活動だとは考えていなかった。民選議院の設立というポスト身分制社会の新たな構想を実現するためには、その主体として、知識と意欲をもつ士族集団が生きのび、そして理想の実現のためには、権力の座につかなくてはならない。彼らは、そう考えた。
指導者としての板垣の権威は、戊辰戦争の功績によって支えられていた。その指導下にある立志社は、潜在的な軍隊であるからこそ、存在感をもっていた。
 西南戦争における西郷の敗北と、立志社の蜂起の未発は、政府から見た潜在的な軍隊としての立志社の存在感を失わせることになった。
自由党の指導部は、実力行使に否定的だった。しかし、板垣以下の自由党指導部は「武」の要素を全面的に否定するわけにはいかなかった。なぜなら、暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核をなしていた。そして、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の経験があり、その戦争の英雄だった板垣が党首として権威をもち続けたのである。だから、自由党は暴力による新秩序の創設を全面的に否定する論理はもたなかった。だから、自由党の指導部は、急進化した党員を抑えることが出来なかった。
オッペケペーの自由民権運動を改めて多面的に掘り下げるべきだと痛感しました。

(2016年6月刊。820円+税)

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2016年10月 2日

日本で初めて労働組合をつくった男

(霧山昴)
著者  牧 民雄 、 出版  同時代社

 今の日本ではストライキという言葉は、まるで死語同然です。ところが、江戸時代が終わって10数年たったばかりの明治の日本で、ストライキが起こり始めました。これも、江戸時代の「オカミ」に盾つく百姓一揆の伝統を受け継いでいたからなのでしょうか・・・。
 日本人が、昔から皆、従順で、モノ言わぬヒツジだったというのは、真っ赤な嘘です。それは江戸時代の一揆の規模・回数をまったく知らない人の言う妄言にすぎません。
 明治19年10月に靴職工のストライキは、日本初だった。この靴職工たちは、士族上りが多く、他の職工とは品性を異にし、気質温和、恥を知る美風があった。
 城(じょう)常太郎は、明治21年9月、25歳のとき、アメリカへ向けて旅だった。常太郎はアメリカはサンフランシスコに定着し、ホテルの客引きをしていた高野房太郎と出会った。
 アメリカで日本人のできる仕事で最も有望なのは、靴工業だった。靴が生活必需品であるアメリカでは、手先の器用な日本人靴工による靴の修理は大好評だった。
 明治22年11月、日本人靴職人14人がアメリカに集団移民した。日本人靴職人は修理費が格安で、納期をきちんと守ったことから顧客が増えた。
 1886年1月、サンフランシスコ市内の靴工は7000人いた。その多くを中国人靴工が占め、白人靴工は2割、1000人ほどだった。しかし、白人靴工の日給手当は2ドル、中国人靴工は1ドルだった。
 明治19年以降、東京や関西の靴工場で、工員たちによる労働争議が頻繁に起こり始めていた。
 明治25年12月、300人もの靴工たちが日比谷公園に集まり、衆議院に向かって堂々のデモ行進を遂行した。日比谷公園は、日本におけるデモ行進の発祥の地なのである。
 弁護士会も安保法制法案の成立反対を叫んで、日比谷公園から国会に向けて何回となくデモ行進をしました。もっとも、今は、パレードと呼ぶことが多いのですが・・・。
 明治20年1月、カリフォルニア市内で、城常太郎の音頭のもと、「加州日本人靴工同盟会」が発足した。白人靴工に対抗するとき、非暴力で相手の怒りを鎮めようとする平和的な道を選んだ。このころサンフランシスコ市内の日本人靴店は20店、靴工は60名いた。
 明治42年になると、会員数327人にまで膨れあがった。日本人靴店も76店あった。当時、ゲルマン人の食料品、フランス人の洗濯屋、イタリア人の魚商、中国人の薬舗、日本人の靴工と言われていた。
 明治29年の末、城常太郎は、ストライキに反対する者たちから袋叩きにあい、重傷を負った。
 明治30年6月、東京・神田の青年会館において職工義友会の主催する演説会が開催された。1200名の聴衆を前に、学歴のない城常太郎が一番に演説した。
労働組合期成会は、明治30年にわずか71名でスタートしたが、翌31年7月には2500人の会員を擁するまでに発展していた。初期の労働運動のピークは明治32年夏だった。
 城常太郎は、その後、中国大陸に渡ったが、明治38年7月に、42歳で肺結核のために死亡した。
明治29年に高野房太郎よりも早く日本に帰国し、日本の労働運動を大きく盛り上げたのが城常太郎だったことを初めて知りました。
 それにしても明治20年代ころのカリフォルニアに日本人靴店がたくさんあったことを知り、目を開かされました。今では、町に靴を修理してくれる店なんて、とんと見かけませんね・・・。
 歴史の掘り起こしは大切だと痛感した本でもありました。
(2015年6月刊。3200円+税)

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2016年1月20日

日露戦争と大韓帝国

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研

1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

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2015年6月 4日

川上音二郎と貞奴

                              (霧山昴)
著者  井上 理恵 、 出版  社会評論社

 オッペケペ節で名高い福岡生まれの川上音二郎について、劇場人としての歩みをたどった本です。
川上音二郎の生まれた年は確定できない。明治維新のときには、4歳か5歳だった。
 川上は、明治の終わり前に、50歳にならずして亡くなった。
川上音二郎は、明治の男、明治の演劇人だった。
川上音二郎は、新時代の政談を演説し、事件を舞台に上げて民衆の絶大な人気を獲得し、海外巡業に行き、その身体で西欧を感じとった最初の演劇人だった。
 明治の半ば、人々の貧しさや不当な扱いを許さない憤りが、暴動につながり、宗教に救いを求めた。宗教劇が流行し、仏教演説会を可能にした。
 明治20年(1887年)に俳優としてデビューしたあと、川上音二郎は一座を組んで社会的事件や政治的内容の芝居を舞台に上げていた、各地で講談、政談を口演しながら滑稽演劇も上演し、壮士上がりの素人たちで一座を組んだ。
川上音二郎は明治26年(1893年)、フランスへ行った。1月に日本を出て日本に帰ってきたのは4月末のこと。40日の船旅なので、パリに滞在していたのは2ヶ月ほどでしかない。
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)のこと。この日清戦争に日本が勝ったのが日本にとって、大きな災いをもたらしました。小さな島国の日本人が中国大陸に住む中国人に優越感をもってしまったのです。
 宣伝戦がうまくいって、日本人の多くが有頂天になってしまいました。日清戦争を舞台で演じると、みていた観客が舞台に上がって清国兵の役者を殴りつけたのでした。
 川上音二郎には反体制の意識はなかった。しかし、権力や権威を利用しつつも、それにこびへつらう気持ちもなかった。
川上音二郎が川上座を開場してから、不入り失敗したというのは間違い。いつも大入り満員だった。
 それでも、川上音二郎は高利貸への返済に追われていた。川上音二郎は、俳優たちとの離合集散を体験しながら、一座を運営して、常に「大入り」を取っていた。
 川上音二郎は、舞台を構成する演出者として能力を発揮した。川上音二郎は、アイデアマンで、構成能力があり、状況把握に長けていた。
 川上音二郎は、衆議院選挙に2回立候補したが、当選できなかった。当時は制限選挙である。この立候補と高利の借金返済のため、川上劇場の維持が困難となり、売却せざるをえなくなった。
 「金色夜叉」で、川上音二郎は高利貸になる貫一の役を演じたが、生身の川上音二郎は高利貸の取立に苦しんでいた。
 演劇人の川上音二郎の半生を丹念に紹介した本として、面白く読みました。
(2015年2月刊。2700円+税)

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2015年2月14日

風雪のペン

著者  吉橋 通夫 、 出版  新日本出版社

 秩父困民党の「暴徒」の娘として両親を亡くして孤児となった主人公・フキは7歳のとき、伯父から旅籠の飯炊きに売られた。13歳になったら飯盛女として客をとらされる身だ。先輩の女の子が死んだとき、旅芝居一座に隠まわれた旅籠を逃げ出すことができた。そして、人の親切から、東京の新聞社の女中として住み込んで働くようになった。
明治時代に幸徳秋水の「萬(よろず)」朝報」や「平民新聞」などがあるのは知っていましたが、他にも非戦論で頑張っていた新聞があったようです。
 フキは、その新聞で女中として働くうちに、校正を担当し、ついには女性向けの柔らかい記事を書くようになったのでした。
 そして、やがて日清戦争がはじまります。非戦論を唱える新聞社は存立が危なくなります。さらに、日露戦争になると、ますます政府による言論統制が強まります。
明治時代と現代日本では、もちろん大きく時代状況は異なります。それでも、権力者が情報を統制しようとする点では、まったく同じです。そして、国民を熱狂させて戦争へ駆り立てようとする点も、共通しています。今の安倍政権も同じ手法です。中国や北朝鮮、韓国の「脅威」をやたらとあおりたてて軍事拡張の必要性を強調しています。今度の軍事予算は5兆円を超えてしまいそうです。福祉を削って軍事予算は増大させています。そして、戦争を招こうとしています。怖いことです。やめてほしいです。そして、そのためにNHKをはじめとしてマスコミ統制をますます強めています。NHKの籾井会長のいつもながらの低劣な発言には唖然とさせられます。まるで表現の自由への配慮がありません。 
 主人公のフキは、ついに記事の書き手になり、編集責任者にまでなります。なにしろ、男性記者が招集されて兵隊として戦争に駆り立てられていくからです。
戦争へ、戦争へ・・・。勇ましいことを言うばかりの政治家がいて、それで儲かる軍需産業がいて、その下で無意味に殺される兵士がいます。また、多くの遺族が泣いています。そんな戦争の悲惨さを伝えるのが新聞ではないのか・・・。
新春の西日本新聞の中村哲医師のアフガニスタンでの奮戦記に、私は身体が震えるほどの思いをしました。戦車ではなく、ショベルカーこそが求められているのです。
 あまり本の紹介はできませんでしたが、明治時代にも、戦うジャーナリストがいたことを知らせてくれる、元気の出る小説でした。
(2014年12月刊。2300円+税)

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2014年12月29日

日清・日露戦争をどう見るか


著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書

 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

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2014年11月24日

カクレキシリシタンの実像


著者  宮崎 賢太郎 、 出版  吉川弘文館

 なーるほど、そうだったのか・・・。とても納得できる本でした。
 江戸時代の300年近くをキリスト教信者が生きのびたという事実をどう理解したらよいのか、疑問でした。
 この本では、「カクレキリシタン」と読んでいます。明治に入って、キリシタンの禁令の高礼がおろされ、信者の自由が認められたのちも、仏教の仏様も、神道の神々や民族神も、そして先祖代々伝わるキリシタンの神々も、それこそ三位一体の神様のように拝み続けて今日に至っている人々のこと。
 彼らには、隠れてキリシタンの信仰を守るという意識はない。誰にも見せないのは、ご先祖様から他人には絶対に見せてはならないと厳しく言われてきたから。
 彼らは、キリシタンであることを隠している「隠れキリシタン」ではなく、ご神体を他人には見せない「隠しキリシタン」である。何かを隠しているという秘密性、そのこと自体に意味がある。
 たとえば、生月島山田地区のカクレキリシタンは、戦後になって一人もキリスト教の洗礼を受けていない。高山右近のような、一部の例外的な人物を除けば、日本人のなかで本当の一神教としてのキリスト教信仰を理解し、実践できた人はいなかったのではないか・・・。
 カクレキリシタンは、隠れているのでもなければ、キリスト教徒でもなく、キリスト教的雰囲気を醸し出す衣をまとった、典型的な日本の民俗宗教の一つと言ってよい。
 カクレキリシタンの信仰の根本は、先祖が命をかけて守り伝えてきたことを、たとえその意味が分からなくなってしまっても、忠実に、絶やすことなく、継承していくことにある。その継承された信仰形態を守り続けていくことそのものが、先祖に対する最大の供養になると考えている。
 カクレキリシタンは、行事面でキリシタン的要素を残しているが、370年余におよぶ指導者不在によって教義的側面はほとんど忘却され、日本の諸宗教に普遍的に見られる重層信仰、祖先崇拝、現世利益的な性格を強く取り込み、キリスト教とはまったく異なった日本の民俗信仰となっている。
 江戸時代初期の人口は1000万人。そのうち3%、30万人がキリスト教信者だった。
 殉教者は、その氏名が明らかなものだけでも4045人。少なくとも4万人にのぼるだろう。これには、島原の乱の犠牲者3万人は含まれない。なんのために、誰のために、殉教者は生命を捧げたのか・・・。
 殉教者には、100%、王国への道が約束されていた。目の前で、命がけで自分たちのために働いてくれている、慈父たる宣教師たちへの、子としての命がけの報恩行為であった。もし棄教すれば、先祖代々隠れて守り伝えてきた祖先や家族との信仰の結びつきが断ち切られることになり、信仰共同体から仲間はずれにされることは彼らは恐れた。
明治初期まで潜伏キリシタンの組織が存続していたのは、次の7カ所。そのうち、長崎県の3カ所のみが、現在まで存続している。
 ①久留米近くの大刀洗町
 ②天草市
 ③長崎市内の浦上駅周辺
 ④長崎県の西彼杵半島
 ⑤生月島(平戸市)
 ⑥平戸島
 ⑦五島列島
 幕末まで組織が存続できたのは、信徒によるコンフラリアの組織があったから。コンフラリアとは、組・講のこと。信心講とも呼ばれる。
 カクレキリシタンに教会はなく、神父もいない。カクレキリシタンは、神仏信仰とともに、先祖代々伝わるカクレの神様もあわせて拝んできた。
 カクレキリシタンは、なんでも自分たちの手で、自分たちの家で行わなければならない。手のかかる宗教である。
 生月のオラショは、正式に唱えたら、早口でも40分ほどかかる長大なもの。これを後継者は、すべて暗記しなければならない。オラショは、祈禱(きとう)文にあたるもの。人間の、神への願い、思いを定型の言葉にしたもの。今では、呪文の世界に変容している。
 現在、キリスト教が日本に土着しえないのは、頑強に現世利益主義を否定し、来世志向的な一神教を保持していこうとしているから。
カクレキリシタンとは何か、現地で27年間も調査研究してきた学者の本です。本当に説得力があります。
(2014年5月刊。2300円+税)

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2014年10月 2日

日清戦争


著者  大谷 正 、 出版  中公新書

 日清戦争が、いつ始まり、いつ終了したのか、明確になっていないということを初めて知って驚きました。
 日本と中国(清)が戦争したのは朝鮮戦争の支配権をめぐるものだったわけですが、台湾についても戦争があり、その終期が不明確だったのです。
 日清戦争の始まりが曖昧なのは、日本政府の先制・奇襲攻撃をごまかそうとする隠蔽工作の結果でもあるのです。
中国では、地方の郷勇組織が近代的軍隊へ転換しはじめ、それを中央政府が認知した。日本は、中央政府が主導して徴兵制軍隊をつくった。この違いは大きい。国土の広さの違いからくるところもあるのでしょうか・・・。
日本では、1873年の徴兵令公布とともに徴兵制による近代軍が誕生した。
 1893年、日本軍の師団編成が完結したものの、兵站部門には問題が残り、日清戦争においてトラブル多発の一因となった。
 1892年8月、第二次伊藤博文内閣が成立した。
 1894年、伊藤首相は日清協調を主張したが、外相の陸奥宗光が開戦を主張した。
 対清・対朝鮮強硬論が高まり、ジャーナリズムの多くも、これに同調し、9月の総選挙を前にして、政党の多くが対外強硬論を競うなか、伊藤内閣は朝鮮半島からの撤兵に踏み込みきれなくなった。
 当時の清政府の内情は、日本人以上に複雑だった。清の光緒帝は、1887年から親政を始めていたが、依然として重要国務には西太后が関与した。そして、直隷総督・北洋大臣の李鴻章が重要な発言力をもっていた。李鴻章は、日本との開戦回避に動いた。西太后も同じ。主戦論は、光緒帝と若い側近たちが唱えた。
 李鴻章が2300人の兵士と武器を牙山(朝鮮)に送るという情報に接し、7月19日、日本政府と大本営は対清開戦を決定した。しかし、この段階でも、明治天皇や伊藤首相は清との妥協の可能性を探っていた。
 7月25日、豊島付近で日本の連合艦隊が清海軍と遭遇し、戦闘が始まった。豊島沖開戦である。
 宣戦布告あるいは開戦通知の前に日本海軍は清軍艦を攻撃した。その前の7月23日、日本軍が漢城(今のソウル)の朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「とりこ」にした。
 後日、不都合な事実は隠され、歴史の書き換えがなされた。王宮占領は、先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的な事件だとされた。
 7月29日、日本軍が清軍と戦闘するなかで、「死ぬまでラッパを吹きつづけた木口小平(当初は、白神源次郎だった)」の話がつくられた。
 海陸で戦闘が始まると、日清両国とも、宣戦布告に向けて動き出した。
 日本政府部内では、開戦の名目をどうするかで議論続出となり、まとまらなかった。
 ようやく、8月2日に閣議で8月1日に開戦と決まった。
 9月10日の閣議では、それより早く、7月25日を開戦日とすることになった。とすると、7月23日の戦闘は日清戦争ではなくなる。
 「石橋を叩いて渡る」慎重な性格の明治天皇にとって、日清戦争は不本意な戦争だった。清に負けてしまうかもしれないことを、天皇は大いに心配していた。
 「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と明治天皇は高言した。相当にストレスがたまっていた。
 広島に大本営が翌4月まで置かれた。明治天皇が出席した大本営の御前会議は、実際に作戦を立案決定する場ではなく、多くは戦況報告を聞く場だった。
 開戦前の明治天皇は対清戦争に消極的だったが、広島では次第に戦争指導に熱心になっていった。心配に反して、日本軍が清軍に勝っていったからです。
 台湾では、日本の領土になることを拒否する地元有力者らが独立を求めた。唐景松は5月25日、台湾民主国総統に就任した。「虎旗」を国旗とする、アジア最初の共和国が生まれた。台湾の抗日軍は激しい戦い、日本軍を悩ませた。そのうえ住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、赤痢や脚気が蔓延した。このようにして日清戦争の死者の過半は台湾でのものだった。
 10月、日本軍が全面攻撃すると、劉永福はイギリス船で大陸へ逃亡し、台湾民主国は滅亡した。
 1896年春、日本軍が占領していたのは、台湾の西部のみだった。台湾の南部、東部そして原住民の暮らす山岳地帯は未占領だった。山地住民の制圧は1905年ころまでかかった。
 日清戦争に参加した日本軍兵力は25万人に近い。軍人軍属は40万人。そのうち30万人以上が海外で勤務した。そして、死亡したのは1万3千人。その原因は、脚気・赤痢・マラリア・コレラの順に高かった。
清軍の戦力となったのは「勇軍」(郷勇ともいう)と練軍で、総員は35万人だった。
 日清戦争は、閣議決定によって8月1日に始まったとされているが、誤りだ。
 日清戦争は三つの戦争相手国など、相手方地域の異なった戦争の複合戦争だった。
 第一に、日清戦争は朝鮮との戦争、清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という三つがあった。
 日清戦争は1894年7月23日の日本軍による朝鮮王宮攻撃に始まった。そして、日清戦争の終期は、1895年3月30日の休戦条約調印、5月の講和条約調印によって法的には終了した。しかし、朝鮮との戦争、そして台湾住民との戦争は1896年4月の大本営の解散でも終結しなかった。
日本にとって、日清戦争はもうかる戦争だった。一方の清は、日本へ支払う賠償金2億両(日本円で3億1100万円)を自力で捻出できず、外債依存の泥沼に陥った。
 そして、日本政府が得たお金(3億円)は、陸海軍の要求を8割まかなうというものだった。清からの賠償金の8割が、その後の日本軍の軍備拡張に充てられた。
 歴史の真実を知ると同時に、日本軍の野蛮な侵略作戦は許せないという気分にもなりました。
(2014年6月刊。860円+税)

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