弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2018年4月21日

西南戦争、民衆の記


(霧山昴)
著者 長野 浩典 、 出版  弦書房

この本を読むと、西南戦争って、いったい何だったんだろうかと改めて思わざるをえませんでした。
西郷隆盛たちは、陸路、東京まで何を目ざしていたのでしょうか・・・。
熊本城を攻略できないまま、熊本にずるずると居続けていたのは、なぜだったのでしょうか・・・。そこにどんな戦略があったのでしょうか・・・。
西郷隆盛が陣頭指揮をとった戦闘は2回だけのようです。では、あとは何をしていたのでしょうか・・・。
薩摩軍には戦略がなかったと指摘されていますが、まったく同感です。熊本城包囲戦に成功せず、田原坂の戦いで勝つことが出来ず、兵站(へいたん)に失敗してしまったのですから、戦争に勝てるはずもありません。それでも若者たちを率いて戦場に出向いて、あたら前途有為な青年を死に追いやったのです。西郷隆盛の責任は重大だと思います。
この本は民衆の視点で西南戦争が語られますので、民衆が被害者であったと同時に観客であり、また戦争で金もうけをしていたことも紹介しています。
残酷無比な戦場に、戦闘が終わるとすぐに民衆は出かけていき、戦死者から、その衣服をはぎとっていました。
民衆は軍属として徴用されましたが、戦場の最前線まで武器・弾薬や食糧を届けるのですから、とても危険でとてもペイしませんでした。無理に徴用しても逃亡者続出だったようです。
犬養毅が慶応大学の学生のとき、記者として戦場に出向いて戦場のレポートを新聞に書いていたというのには驚きました。新聞は戦場のことを書くと売れるのです。
西南戦争とあわせて、農民一揆も発生していたのですね。そして、山鹿には数日間だけでしたが、コンミューン自治が実現しました。
それにしても、参加者5万人という薩摩軍は何を目指してしたのでしょうか、さっぱり分かりません。当時の民衆の対応が手にとるように分かり、西南戦争の全体像を改めてつかむことができる本でした。
(2018年2月刊。2200円+税)

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2018年2月17日

明治の男子は星の数ほど夢を見た

(霧山昴)
著者  和多利 月子 、 出版  産業社

 「男はつらいよ」の主人公は車寅次郎ですが、本書の主人公は同じ寅次郎でも山田寅次郎です。寅年に生まれた二男だったことから命名されました。
 トルコに18年間も住み、オスマン帝国のスルタン(皇帝)と芸術面で交流があったとのことです。さらには、幸田露伴の小説のモデルにもなっているといいます。『書生商人』という小説です。沈没した外国船への義捐(ぎえん)金をもって外国へ行くというストーリーですが、それは山田寅次郎がトルコへ和歌山沖で沈没したトルコの軍艦に乗っていて亡くなった人々の遺族へ義捐金をもっていったことにもとづいているのです。
そして、山田寅次郎は伊藤忠太という東大の建築史教授とも交友がありました。さらに晩年は茶道の家元として活躍したのです。赤穂浪士の討入りが12月14日に決まったのは、この日に茶会があることを師匠が浪士の一人・大高源吾に教えたからですが、この茶道師匠と縁のあるのが山田寅次郎の身内の祖先でした。
 オスマン帝国の軍艦エルチュールル号が和歌山沖で遭難したのは、1890年(明治23年)、山田寅次郎が24歳のとき。生存者65人。死者80人という大惨事でした。山田寅次郎たちは義捐金を集めて、遺体・造物の引き揚げに取り組みました。2000万円ほど要したようです。
 著者は山田寅次郎の孫娘にあたります。調べはじめると意外にもたくさんの資料が出てきたようです。豊富な写真とともに明治の男子が夢をもって海外へ雄飛していった状況が明らかにされます。
 それにしても、男子たるもの外国語を三つはモノにせよとのこと。私は、フランス語ひとつだけでも四苦八苦しています。
日本とトルコの交流をはじめた開祖にあたる山田寅次郎なる偉人を知ることができました。たくさんあるさし絵も明治の雰囲気がよく出ています。
(2017年10月刊。2800円+税)

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2018年1月 7日

果てなき旅(下)


(霧山昴)
著者  日向 康 、 出版  福音館書店

 足尾銅山公害事件に取り組んだ田中正造の伝記の下巻です。軽く読み飛ばすつもりだったのですが、その扱ったテーマの重大さに押されて、そうは問屋がおろしませんでした。下巻だけでも読了するまで1ヶ月間ほどかかってしまいました(毎週日曜日のランチタイムに読んでいたのです・・・)。
 明治34年10月23日、田中正造は衆議院議員の職を辞した。翌月、銅山王・古河市兵衛の妻が神田川で水死体として発見された。同年12月、61歳の田中正造は天皇の馬車に対して直訴状を手にもって近づいた。「お願いの儀がございます」。この直訴状は、社会主義者の幸徳秋水が執筆した。
 幸徳秋水は、社会主義者として、事態の解決を天皇の手に頼ろうとする点に抵抗があり、また、いかにも大時代的な直訴状(じきそじょう)なるものを起草するのは、いかがかとためらった。しかし、長年にわたる苦闘に疲れている田中正造の姿を見て、断りきれなかった。
 田中正造は、自分は死んでもよいと考えていた。そして、鉱毒事件の解決のために社会主義者を巻き込もうと考えていた。
 ところが、田中正造は「狂人」として、何ら罰されることがなかった。田中正造を裁判にかけたら、足尾銅山による公害被害民を支援する世論が湧きたつ危険があった。それを政府は計算した。実際、田中正造の直訴をきっかけとして、鉱毒事件に対する世論が大きく湧きたった。新聞は、こぞって支援したし、内村鑑三や安倍磯雄、そして木下尚江などが被害者救済の演説会を開いた。さらに、明治34年の暮れ、東京在住の大学生たちが大挙して被害地を視察した。そして、鉱毒地救済婦人会も大活躍した。
 この大学生たちについて、結局、何の役にも立たないと田中正造は落胆しています。本当に残念です。学生の大部分は、わが身安全を第一と願う人間となって社会に出てしまう・・・。そうなんですよね・・・。実に痛い指摘です。東大闘争を経験した多くの東大生は権力の醜さを実感したと思うのですが、その多くがいつのまにか体制に順応していきました。
 田中正造に対して、「予戒令」(よかいれい)という措置が講じられたというのは初めて知りました。県知事や警視総監が発する制限命令です。
田中正造は73歳で亡くなりました。死んだとき残っていたのは菅(すげ)の小笠と1本の杖。信玄袋に入っていたのは、聖書と帝国憲法、そして日記帳、そのほか・・・。
 偉大なる、というか不屈の闘士である田中正造の生きざまを垣間見る思いのした本です。37年も前の古い本ですが、ネットで注文して読みました。大変読みごたえのある本です。
(1980年2月刊。1300円+税)

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2017年10月29日

ザック担いで、イザベラ・バードを辿る

(霧山昴)
著者 「日本奥地紀行」の旅・研究会 、 出版  あけび書房

名古屋大学ワンダーフォーゲル(ワンゲル)部のOBが明治11年のイギリス女性の東北・北海道旅行の行程をたどってみました。参加者はのべ109人、23泊34日、東北から北海道までをザック担いで歩いたのです。すごい企画ですね。うらやましいです。メンバー表をみると、私たちの団塊世代の少し前の世代のようです。
イザベラ・バードが歩いた明治11年(1878年)というのは、西南戦争が明治10年ですから、その翌年ですし、明治になってまだ10年しかたっていない農村地帯だったので、ほとんど江戸時代そのままだったことでしょう。その街道の多くは今では主要国道になっていますので、そのまま歩いたのでは危険をともないます。そこで、名古屋大学ワンゲル部OBは、時代に取り残された峠道を丹念に拾って歩いたのです。
大内宿は、今も江戸時代へタイムスリップできることで有名です。私もぜひ行ってみたいと考えています。イザベラ・バードが泊まった「問屋本陣」が今も残っていて、土産物屋になっているとのこと。築300年以上だそうです。
イザベラ・バードが休憩した茶屋で、水しか飲まなかったところ、お金を受けとろうと、しなかったという話も紹介されています。「律義で正直」な日本人がいたのですね・・・。
マタギの郷(小国町)では、熊肉がキロ1万円以上で売られているとのこと。高級和牛並みの値段です。熊皮は7万円から10万円もします。すごい高値です。
イザベラ・バードが東洋のアルカディアと命名したのは米沢平野。ここは台風も地震もなく、雪さえ我慢すれば非常に住みやすいところ」、とは地元の人の言葉。
イザベラ・バードは明治11年当時、47歳の独身の「おばさん」でした。そして、日本には合計5回やって来ています。1904年に72歳でイギリスで亡くなりました。
同伴者の伊藤鶴吉は18歳で、実践的な英語力がありました。英米の公使館でボーイとして働いたことがあったからです。とても有能な通訳・随行者だったようです。
マンガでイザベラ・バードを紹介している本があるようですね。ぜひ読んでみましょう。
(2017年9月刊。2200円+税)

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2017年10月28日

西郷隆盛

(霧山昴)
著者 家近 良樹 、 出版  ミネルヴァ書房

2018年のNHKの大河ドラマで主人公として取り上げられる西郷隆盛の実像に迫った本です。なんと本文だけで550頁もある大著です。それだけの分量をもってしてもまだまだ十分に西郷隆盛なる偉人を十分に分析しきれていないのではないかという感想をもちました。
著者は本書の最後で、次のように西郷像をまとめています。
たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても見事に演じきれるだけの力量のある千両役者だったが、その反面、律義で繊細な神経の持ち主だった。そして、そのぶん、苦悩にみちた人生を歩み続け、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。
西郷は、多情多感ともいえるほど情感の豊かな人物で、人の好き嫌いも激しく、しばしば敵と味方を峻別し、敵を非常に憎むこともある人物だった。つまり、西郷は完全無欠な神のような人物ではなく、人間臭く親しみのもてる人物だった。西郷は人を激しく憎むことができるほど他人と深く関われたぶん、愛されることも多かった。
幕末の上野戦争、つまり上野での彰義隊との戦争で西郷は作戦の陣頭指揮をとった。事前に十分な準備をしていたことから大勝利を収めた。このとき、従軍看護婦が活躍したが、西郷はその処遇について細かく指示した。また、爆薬を運搬する臨時雇いの軍夫の給金を7日文ごとにきちんと支払うよう指示したり、こまごまと具体的に指示している。
このように西郷の実際は、のほほんとした無頓着な人物ではなかった。
それに続く戊辰(ぼしん)戦争において薩摩藩の仇敵ともいうべき庄内藩が降伏、開城したあと、西郷は残酷な仕返しを禁じ、寛大で平和的に処遇した。西郷は、相手が白旗を掲げれば許すという考え方の持ち主だった。
この寛大な処遇が西郷の指示によるものだと知った庄内藩の人々は、西郷に対して敬愛の念を抱き続けた。明治3年には、旧藩主が70人を連れて鹿児島に行き、数ヶ月間も兵学の実習を受け、西郷に教えを乞うた。
西郷隆盛は若いころは、180センチの長身だったが、やせてスマートでもあった。太ったのはストレスによるものだった。
西郷は、若いころ、はじめは赤裸々に自分の感情を相手にぶつけていたが、次第に本心を心の奥深くにしまって対応することが再上洛後は格段に多くなった。西郷は計算高い男だった。西郷は苦しい状況下になればなるほど、めげることなく強気の姿勢に徹した。
そして、冷静な現状分析から対策を講じた。西郷は策略家としての本性を発揮した。西郷は、事前に対策を綿密に立てるのがすこぶる好きな人物だった。そして、それは常識的な判断の下になされた。自分のところに集まってきた各種の情報を客観的に理詰めに分析し、そのうえで相手の意表に出るのを得意とした。
廃藩置県は日本史上でも指折りの転換点だったが、これも西郷の積極的な同意によって初めて実施が可能になったものである。
では、なぜ西郷は十分な準備もなく西南戦争を始めてしまったのか・・・。そして、途中で止めなかったのか・・・。大いに疑問です。
西郷隆盛には5人もの子どもがいたようです。その子孫は今も健在なのでしょうか・・・。弟の西郷従道のほうは子孫がいると思いますが、隆盛の直系の子孫がいるとは聞いたことがありません。どなたか教えてください。西郷隆盛の実像に迫った興味深い本です。
(2017年8月刊。4000円+税)

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2017年6月16日

異郷に散った若い命

(霧山昴)
著者 高瀬 豊二 、 出版  オリオン舎

5月半ば群馬県にある富岡製糸場を見学してきました。世界遺産に登録されて見学者が急増したとのことでした。よく晴れた日曜日でしたが、大勢の小学生が教師に引率されて見学に来ていました。
広大な富岡製糸場の建物はよく保存されていて、一見の価値があります。一部の工場建屋では大がかりな復旧工事が進行中です。
官営富岡製糸場は、明治5年秋、フランス人指導者の下に開業した。欧米に比べてはるかに遅れていた日本の産業革命の夜明けを華やかに先端を切った画期的な工場だった。
ここで働く工女は、寄宿工女371人のうちの148人(40%)が士族出身者だった。
フランス人が赤いワインを飲むのを見て、若い娘を集めて生血を飲むのだと誤解して、応募者が少なかったという話が伝わっている。しかし、この話は疑問だ。フランスをふくめて外国人を知らない人が多い日本人が、ワインを外国人を飲むのを見たというはずはない。むしろ、これは、明治6年の徴兵令と、「血税一揆」ほうが関連しているのではないか・・・。
工女を出身別にみると、はじめは地元の群馬県出身者が多数を占めている。これに続いて、滋賀、長野、埼玉、東京、岐阜、愛知と続いている。明治14年ころからは、愛知、岐阜、大分など西南方面の人が増えている。
工女の死亡者は、明治9年から13年のあいだに集中し、明治13年の1年間に15人が亡くなっている。そして、死亡者は若い。最年少は、なんと9歳10ヶ月。最多が22歳までの17人で、次に20歳までの16人となっている。
富岡製糸所の募集要項は15歳から30歳までとなっていた。
9歳から10歳の少女たちが働いたということは小学生の年齢の工女たちがいたということです。むごいことですね。
有名な「ああ、野麦峠」は、岐阜県高山方面から長野県岡谷市の製糸工場に働きに来ていた工女が病気になって故郷に帰っていく(帰らされる)話です。
この本は墓石と過去帳で亡くなった女工たちの氏名となった女工たちの氏名と享年を明らかにしています。
日本の産業を底辺で支えて、人知れず若くして病死した女工たちの顕賞碑です。実に意義のある作業だと思いました。
官営富岡製糸所は明治26年に三井銀行の経営の移り、明治31年には工女230人のストライキがあった。そのあとの明治35年原合名会社に経営が移った。その後、片倉工業に移り、現在は、市営の施設となっている(ようです)。
私は生糸が出来る過程がようやく分かりました。今では全自動で出来るなんて、すごいことですね。
(2014年7月刊。926円+税)

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2017年5月27日

果てなき旅(上)

(霧山昴)
著者 日向 康 、 出版  福音館

田中正造の伝記です。田中正造は足尾銅山鉱毒被害事件を根絶するために、現職の代議士でありながら天皇に直訴した義人として高い評価を得ています。
本書(上巻)は、田中正造34歳までの苦難の歩みを描いています。綿密な裏付け調査で読ませます。
上巻あとがきを読むと、田中正造については、まだ解明されていないところも多々あるようで、本筋からはずれたと著者が考えたところには触れていないようです。
田中正造の明治44年(1911年)8月28日の日記は日本魂(やまとだましい)を書いています。
「国家の半面は存するも、半面は空虚なり」としています。日露戦争(1904年)のあとの言葉として、重い意味があります。
田中正造は、日清戦争についても領土拡張のための戦いになるのには反対しました。
田中正造は、殺人事件の容疑者として逮捕され、拷問を受けました。もちろん、まだ監獄法もない当時のことです。ですから、よく生き延びたものです。
なぜ、無実の殺人事件の犯人とされたのか、田中正造は地方政治権力の内部抗争の犠牲者のようです。それにしても、ひどい拷問でしたから、よくぞ生き延びたものです。
田中正造伝の本書を、ながく「積ん読」状態にしていたのを掘り起こして読んだものです。
大佛次郎賞を受賞しています。
(1989年3月刊。1650円+税

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2017年2月27日

西南戦争の考古学的研究

(霧山昴)
著者  高橋 信武 、 出版  吉川弘文館

 博士論文をベースとした大変な労作です。明治10年に起きた西南戦争の現地に出かけ、そこに落ちている弾丸や台場、塹壕などを歩きまわって戦闘の実際を確認したのです。
 熊本・大分そして宮崎の山のなかを歩きまわり、鹿に出会い、マダニやヒルに襲われたとのこと。熊がいないのが良かったそうです。いやはや学問を究めるのも大変な苦労をともなうものなんですね・・・。
 西南戦争では、官軍の総兵力は4~5万人。うち戦死者は6843人。15%が戦死したことになる。対する薩軍は総兵力5万1000人で、うち8302人が戦死した。戦死者の割合は16%。両軍とも、ほぼ同じ割合の戦死者を出している。
 著者はなぜ現地に出かけてみることが大事かというと、両軍の従軍日記等に出てくる地名や山の名前は適当につけられることが多く、多くの実際の地名と異なることがある。そして、弾の落下地点を地図に落とし込む作業をすると、どちらの軍が撃ち込んだのかが分かり、戦闘状況が再現できる。したがって、落下した銃弾をきちんと見分ける必要があるというのです。
 当時の銃弾は鉛製が主体で、表面は後年のように銅で覆われていない。発射直後は高熱状態で、近くに着弾するとペシャンコにつぶれてしまう。遠くに落下したときには、原型をとどめる。
 西南戦争では、初期の吉次峠や田原坂の戦闘は有名だが、その場所での勝敗によって戦争全体の決着がつくものではなかった。中世の戦いのように密集した軍同士が衝突して決着がつく決戦ではなく、全般的にみられたのは、両軍ともに長い戦線を形成するとともに、敵の戦線をどこかで突破しようとする戦闘だった。その結果、一部で戦線を突破しても、少し下がった位置に新たな戦線がつくり直され、新たな戦線で戦いは継続した。
両軍とも、初めから抜刀して戦いを始めるという戦闘はなかった。これは古来から同じ。官軍が田原坂を突破したのは3月20日だったが、薩軍は新たな戦線を構築したため、結局、南下しようとした官軍が熊本城に入ったのは4月14日のこと。
薩軍は戦いの初めから弾丸不足に悩まされていた。薩軍は銃弾の材料となる鉛が不足したため、鍚を混ぜたり、銅を追加したりした。そして鉄製銃弾をつかったものの、軽量であり、銃の口径に適合していなかったので、紙を巻いて銃の内径に合うよう調整して射撃していた。しかし、これは遠くにまっすぐ飛べない代物だった。官軍兵士たちは、鍋からできた弾だと笑っていた。
 薩軍は威嚇のためや探り撃ちのときには鉄製銃弾をつかい、本格的戦闘のときだけ、大事に貯めておいて鍚と鉛の合金弾丸などをつかった。
 薩軍って、こんな苦労までしていたのですね、知りませんでした。
 官軍が使った小銃はエンピール銃が2万5千挺、スナイドル銃が8300挺。
この本では官軍の主な大砲は四斤砲であったとされています。私が前に読んだ本によると官軍が田原坂の正面突破にあくまでこだわったのは、ガットリング法(大砲)を人力で運び上げる坂の傾斜角の適地が田原坂しかなかったからだというものでした。この本では、そのような理由を推察できません。大砲のところも、もっと論述してほしかったと思いました。
 ともかく、各種銃弾の図解まである、とても実証的な西南戦争の実情をよく知ることのできる労作です。関心のある方には、図書館でもご一読をおすすめします。
(2017年1月刊。13000円+税)

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2017年1月14日

文明開化がやって来た

(霧山昴)
著者 林 丈二 、 出版  柏書房

明治時代の実相を、当時の新聞の挿絵(さしえ)で紹介しています。なるほど、そうだったのかと、何度も頭を上下させてしまいました。
日本人って、活字大好き人間が多いですけど、今も新聞にはマンガが絶対に欠かせませんよね。新聞マンガと言えば、サザエさんにサトーサンペイに、今では「まんまる団地」ですね。
ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。断髪令が出たのは明治4年。散切り頭の普及は、それなりにすすんだのですね。散髪普及率は、明治5年に10%、明治8年に20%、明治10年に40%、明治13年に70%。西南戦争は明治10年でしたよね・・・。
チョコレートが日本で売られたのは明治11年。風月堂は、日本で初めて西洋菓子の「ショコラート」、つまりチョコレートを販売した。明治19年の新聞広告には「チャクレッ」と書かれているが、これもチョコレートのこと。
明治11年7月の新聞に、風月堂は「アイスキリム」宣伝している。アイスクリームだ。50銭する。このころ、東京・銀座の店で氷水が一杯4銭だったので、一桁ちがう高さ。ところが、明治22年の挿絵では4銭にまで下がっている。
明治17年ころから、日本でも、いろいろビールが売られるようになった。
長屋では、「長屋の犬」として共同して犬を飼い、番犬にしたてあげ明治15年から19年にかけて、ピストル強盗が東京で連続して発生した。ピストルって、このころ、案外、容易に手に入っていた。
明治の生きていた人々の風俗を目で見て知るためには欠かせない本です。絵の訴求力は、たいしたものです。
(2016年10月刊。1800円+税)

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2016年12月 9日

自由民権運動

(霧山昴)
著者 松沢裕作 、 出版  岩波新書

 自由民権運動とは何だったのか、改めて考えさせられました。それは、幕末そして明治維新の原動力となった動きに当然のことながら連動していたのです。
 そして、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだという伝説のある板垣退助の実像が浮き彫りにされています。なるほど、そういうことだったのか・・・・、と思わず膝を叩きました。
 1874年(明治7年)1月17日、板垣退助ら8人が、国会の開設を要求する建白書を政府に提出した。これが自由民権運動の始まりとされている。板垣は土佐(高知県)出身の士族であり、かつての政府首脳の一人である。板垣は、民権運動が西日本の士族たちを主たる担い手として始まったことを象徴する人物である。
 戊辰戦争後の高知藩で実権を握ったのは、大政奉還の立役者である後藤象二郎と、戊辰戦争の英雄である板垣退助の連合政権だった。この二人は、いずれも上士出身である。これに対して、国許の高知で実権を握ったのは、下士・郷士をふくむ凱旋した軍人たち。谷干城、片岡健吉らで、藩の軍務局を拠点としていた。東京の板垣・後藤と高知の谷らは対立していた。高知藩において士族・率族の等級制の廃止に抵抗したのが、のちの自由民権運動の指導者になる板垣退助その人だった。
 このころ、板垣は、藩内の人物を家格によって差別する人物であると認識されていた。板垣らの新政府軍と戦った江戸幕府の歩兵隊は、日雇いの肉体労働で生計を立てているように日用層、つまり都市下層民(「破落戸」(ごろつき))の軍隊だった。
 近衛兵として勤務する薩摩や土佐の軍人たちは、戊辰戦争の、また廃藩置県クーデターの勝利者であるにもかかわらず、自分たちの存在意義の危機に直面していた。
 藩を失い、徴兵制によって、その存在意義も失われつつあった士族たちの不安とは、身分制社会の解体によって所属すべき「袋」を失った士族たちの不安であった。
板垣らは「建自書」を提出した自分たちの行動を「反体制」の活動だとは考えていなかった。民選議院の設立というポスト身分制社会の新たな構想を実現するためには、その主体として、知識と意欲をもつ士族集団が生きのび、そして理想の実現のためには、権力の座につかなくてはならない。彼らは、そう考えた。
指導者としての板垣の権威は、戊辰戦争の功績によって支えられていた。その指導下にある立志社は、潜在的な軍隊であるからこそ、存在感をもっていた。
 西南戦争における西郷の敗北と、立志社の蜂起の未発は、政府から見た潜在的な軍隊としての立志社の存在感を失わせることになった。
自由党の指導部は、実力行使に否定的だった。しかし、板垣以下の自由党指導部は「武」の要素を全面的に否定するわけにはいかなかった。なぜなら、暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核をなしていた。そして、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の経験があり、その戦争の英雄だった板垣が党首として権威をもち続けたのである。だから、自由党は暴力による新秩序の創設を全面的に否定する論理はもたなかった。だから、自由党の指導部は、急進化した党員を抑えることが出来なかった。
オッペケペーの自由民権運動を改めて多面的に掘り下げるべきだと痛感しました。

(2016年6月刊。820円+税)

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