福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

2010年03月12日

社会

Twitter 社会論

著者 津田 大介 、 出版 洋泉社新書
 
 私がツイッターという言葉を知ったのは最近のことです。アメリカのオバマ大統領が選挙戦以来愛用しているということでした。ブログとはどう違うのかなと疑問に思っていました。つい最近、初めてツイッターの画面を見ることができました。140字というので5~6行の短文がえんえんとつながっていました。ミニ情報の大洪水のようでした。このなかからどうやって選択するのか不思議でなりません。
 ツイッターを運営するアメリカ、ツイッター社は、2009年9月、複数の投資会社から1億ドル(90億円)を獲得し、現在の企業価値は10億ドル(900億円)に値する。
2006年、アメリカのグーグル社は動画投稿サービス「ユーチューブ」を10億5000万ドル(1500億円)で買収した。
ツイッター社は、ネットの世界にいち早くリアルタイム・ウェブの潮流を持ち込み140字という限られた文字数で放送メディア並みの瞬間的情報伝播力を持たせないことに成功した。 
現在、全世界で5500万人ものユーザーを抱えている。前年比から1270%の増加である。ツイッター社のサービスが始まったのは2006年7月のこと。アメリカのユーザーは2009年に1800万人、2010年には2600万人になると予測されている。
Twitterとは、ぺちゃくちゃしゃべるさえずるという意味。日本人ユーザーは、2009年
10月、100万人とみられている。
ツイッターは、今のところ誰でも無料で利用できる。これから有料になるという話はない
問題は、「なりすまし」だ。そして、デマも急速に伝播してしまう。これは情報の真偽を検証する機能が貧弱であるツイッターならではの問題だ。 
英米に比べて日本のツイッター議員はやや少ない。ツイッターをつかって情報を発信している日本の公的機関もまだ少ない。
ツイッターには、ブログについての「お気に入り」と同じようにフォロワ-というツイッターのフォローをする人々がいて登録するようです。そうでもないと洪水に埋もれてしまいますよね。
(2009年12月刊。760円+税)

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2010年03月11日

世界史(ヨーロッパ)

東欧革命1989

著者 ヴィクター・セベスチェン、 出版 白水社

 イギリスのジャーナリストによる、1989年に起きた一連の革命的出来事がよくまとめられています。なるほど、そういうことだったのかと改めて東ヨーロッパの自由化のうねりを実感しました。
 東ドイツのベルリンの壁崩壊の直接のきっかけは、広報担当者のちょっとした言い間違いであったこと、ポーランドのワレサ「連帯」の勝利は、望まない即時選挙によるものであったこと、ルーマニアのチャウシェスク大統領は、大群衆を前にした演説でやじに負けて哀れな姿をさらけ出したことで、4日後には銃殺されてしまったことなど、知らなかったことがたくさんありました。
 そして、アメリカがこの一連の革命にどう対処したかは面白いものです。CIAはこの大変化を予測できていなかった。ブッシュ大統領は東ヨーロッパの暴走を恐れ、むしろ各国共産党政権を存続させることに必死になっていた。ポーランドのヤルゼルスキは、大統領選挙にあまり勝ち目がないようなので、不出馬を決意していたところ、ブッシュ大統領が強力に出馬をすすめた。うへーっ、なんということでしょう。アメリカのご都合主義がここでも明らかです。ポーランド国民のためになるかとか、民主化を推進するより、アメリカ国益最優先なのです。いつものことですが……。
 東ドイツ政権は、ベルリンの壁を建設して3年後から人身売買に着手した。一定の代金と引き換えに、政治犯を釈放するのだ。1週間に2回、10人ずつ西へ渡った。1人あたり当初は4万マルク、あとでは10万マルク。この方法で西に渡った人は3万4千人。この収入は、東ドイツの国家予算として組み込まれていた。総額80億マルクの収入をもたらした。
 人口900万人のチェコスロバキアでは、あらゆる職業に45万人もの特権階級のポストがあった。政治が最優先だった。
 CIAはワレサの「連帯」を支援するため、大量の資金、印刷、放送機材をポーランドに投入した。お金は、法王庁とつながりのあるカトリック団体を経由して、バチカン銀行などを使って届けられた。バチカンの支援を受けて、CIAが「連帯」に送った資金は6年間で5千万ドルにもなる。
 東ドイツの秘密警察(シュタージ)は、常勤職員6万人、そして50万人をこえる積極的情報提供者がいた。
 ゴルバチョフはロシアの外では熱狂的に歓迎された。しかし、軍部はゴルバチョフによって痛めつけられたので、仕返しを考えていた。ゴルバチョフは国際社会では有名人の地位をほしいままにしていたが、国内での人気は急落していた。せいぜい無関心、ひどければあからさまの敵意に満ちていた。
 実力を持つソ連共産党の重鎮のなかにはゴルバチョフを選んだことを後悔しはじめた者もいた。グロムイコもその一人である。ゴルバチョフは、東ヨーロッパの衛星諸国が独立に突っ走るとは考えていなかった。それは最大の誤算だった。ベルリンやプラハを訪問して「ゴルビー」と叫び、「ペレストロイカ」と書いたプラカードを振る大群衆に迎えられた時、ゴルバチョフは人々がゴルバチョフ流の改革共産主義を支援しているものと思った。ソ連が崩壊するまで、自分の間違いには気がつかなかった。あのデモの群集は、自分たちの支配者に抗議する手段として、ゴルバチョフを隠れ蓑にしているのだということを見抜きそこなっていたのだ。
 なーるほど、そういうことだったのですね……。忘れてはいけない貴重な歴史の本です。

(2010年1月刊。4000円+税)

 日曜日の朝、庭にツクシがたっているのを見つけました。土筆という名のとおりです。子どものころ、土手で摘んでおひたしにしてもらって食べていました。ちょっぴりほろ苦い、春の味わいです。
 ジャーマンアイリスの球根を掘り出して植え替えをしてやりました。これまでとあわせると、数えてみたらなんと150本ほどになっています。6月にはジャーマンアイリス畑になってしまいそうです。青紫の気品ある華麗な花を咲かせてくれることでしょう。白い花、茶色の花も少しだけあります。チューリップのあとの6月の楽しみです。

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2010年03月10日

日本史(明治)

九重の雲

著者 東郷 隆、 出版 実業日本社

 闘将・桐野利秋。これがサブタイトルです。この本は西南戦争で西郷隆盛とともに戦って倒れた桐野利秋の一生を描いています。
 世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物もまた珍しい。
 明治維新の前は中村半次郎。人呼んで「人切り半次郎」。剣の達人にして、その性、明朗闊達。明るく、度量が広く、こせこせしない性格。反面、粗雑にして、無学文盲。半次郎を嫌う人々は、そのがさつな性格を憎んだ。明治10年の西南の役を引き起こした影の首謀者として、西郷隆盛を死に追いやった無知蒙昧な指揮官として、今も指弾する者は多い。
 昭和43年、明治百年記念展に中村半次郎の日記が公開された。半次郎の書体の流麗さは人々を驚かせた。大胆で力強く、誰が見ても美しく感じられた。無学文盲の徒ではなかったのか……!むむむ、どんな書体なのでしょう。見てみたいです。
 西郷従道は、鳥羽・伏見の戦いで撃たれた。ほとんど助からないと思われ、西郷隆盛は「だれか介錯してやれ」と指示した。従道は、このとき兄の隆盛が自分を冷たく扱ったことを生涯忘れなかった。
 うへーっ、そ、そんなことがあったんですか……。知りませんでした。
 戊辰の戦いに出陣した下級・中級の薩摩武士節は、およそ6000人を数えた。そのうち死者は1割。負傷者はその数倍に達する。帰国したあと、武力と自信をもとに藩政改革を始めた。なーるほどですね。
 版籍奉還のころ、中村半次郎は桐野利秋と名乗った。
 改革では下級士族のみが優遇されており、郷士級の者は禄高が50石とされ、差別を受けた。これが。あとあとまで両者にわだかまりをつくった。西郷の改革は、主として己の身近にある城下の下級士族ばかりに目を向けていた。西南の役が起きると、彼ら郷士の中には、このときの恨みを持って出兵を拒否する者も多かった。西南の役に、鹿児島の男子すべてが西郷のために決起したかのように思う人は多いが、そうではなかった。
 維新後、桐野利秋は34歳で陸軍少将となった。官位は従五位である。肥前佐賀人の江藤新平による法治主義の導入は、目を見張るものがあった。大久保の外遊中の留守政府参議の構成員は、薩摩1、土佐2、肥前4であり、ほとんど佐賀人の内閣だった。江藤司法卿は、薩長閥政治の打倒をひそかに企んでいた。
 薩人朴直にして女に弱い。長人は狡猾にして金に汚い。よって、汚職の体質を突いてまず長州を陥し、そのあと、おもむろに薩摩を打つ。
 西郷隆盛は、明治政府を辞職したあとの5日間、静養と称して東京内に潜伏した。見た目と異なり、西郷は案外病弱だった。隆盛や桐野たちが辞職した穴を埋めた者がいる。およそ7000人以上の人々が忽然と首都から姿を消した。
 激戦地、田原坂では、日が経つにつれ薩軍の火線が弱体化しはじめた。その理由は、旧式小銃だ。明治以来使い続けてきたエンピールやヤーゲルといった先ごめ式の小銃は湿気に弱く、薩摩兵士はここぞというときの不発に悩まされた。政府軍兵士から装備を捕獲すると、争ってこれを用いたが、もともと敵の兵器だから、弾薬の安定供給など望むべくもない。
 政府軍の兵士も12種類以上の銃器を与えられ、初めは弾薬の受領に苦労した。しかし、兵站線に最新の注意を払っていた政府軍の補給組織は、田原坂の戦いが始まって数日すると前線の重点正面にある兵の所持重機をすべて後装式のものに交換した。使用弾薬の多くは金属薬きょうで、これは湿気に強く、発射速度も薩軍の2~3倍に跳ね上がった。その火力に依存して、政府軍兵士はかろうじて薩軍と同等の戦意を維持しつつけた。そして弾丸消費量は当初の予想を大きく超えて1日平均32万発。多い日は50万発以上が戦場に消えた。こうした消耗戦に釣り込まれた薩軍の補給線は、悲惨の一語に尽きた。弾薬から糧に至るまで、基本的に自弁であり、薩軍本営が初期に用意した弾薬は150万発でしかなかった。
 西郷隆盛にはフィラリアの持病があった。陰のう水腫のため、睾丸が大きくふくれあがり、歩行も困難なありさまだった。
 参軍の山県は、西郷が生きて城山から下ってくることを、もっとも恐れていた。
 明治10年9月24日、城山で死者160人余人、捕虜200余人。東京日日新聞は、午後には速くも号外を東京市中にまき散らした。西郷の死後わずか数時間で、東京市民は西南戦争の終結を知った。
 明治11年5月14日、内務卿大久保利通は皇居に向かう途上、6人の刺客に囲まれて命を落とした。暗殺犯は加賀士族5人と島根県士族1人であった。
 桐野利秋は明治10年2月に陸軍少将正5位の官位を剥奪されていたが、没後39年、大将5年4月、元の官位に復した。
 「人切り半次郎」という呼び方は近年のものだそうですが、いずれにしても幕末期における京都の殺伐とした状況が、よくぞ正常に戻ったものです。620頁からの大作です。明治維新前後の状況と桐野利秋の人となりを十分なイメージを持って知ることができました。
 
(2009年3月刊。2200円+税)

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2010年03月09日

世界(アラブ)

知ってほしいアフガニスタン

著者 レシャード・カレッド、 出版 高文研

 著者はアフガニスタン出身のお医者さんです。今は日本に帰化して、静岡県の島田市で医師会長をしておられます。たいしたものですね。
 NGO「カレーズの会」の理事長として、アフガニスタンに診療所を開いて治療にあたっているといいます。ペシャワール会の中村哲医師といい、このレシャード・カレッドさんといい、その並々ならぬご努力に対して心より敬意を表します。
 先日、「ペシャワール会」の伊藤さんがアフガニスタンで不幸にも殺害されてしまいましたが、この伊藤さんも初めは「カレーズの会」の所属でした。農業の分野で貢献したいという本人の希望により、「ペシャワール会」への移籍をすすめたということです。善意が時として戦争の中で通じなくなるという不幸なことが起きてしまって残念です。
レシャード・カレットさんは生粋のアフガニスタン人ですが、日本に関心を持って大学生の時に日本に渡ってきて、千葉大学そして京都大学で医学を学んで、医師になったのでした。なれない日本語を身につけ、たくさんのアルバイトをして苦学していたことが書かれていますが、本当に大変だったと思います。
 そして、アフガニスタンを見捨てることなく、現地でも診療活動を続け、ついに診療所まで建てたのです。大変治安の悪くなっているアフガニスタンでも、この「カレーズの会」の診療所にはアフガニスタン人の患者が殺到していると言います。地元の人々の絶大なる信頼を得ているわけです。
 日本政府は、自衛隊なんかアフガニスタンへ送るのではなく、このような「カレーズの会」や「ペシャワール会」への援助を大々的にしたら、どれだけ現地の人々に喜ばれることでしょうか。
 アメリカでオバマ政権が誕生しても、日本で民主党政権が生まれても、チェンジ(変化)が起きず、相変わらず軍事制圧しか考えないと言うのは悲しすぎます。
 お前は甘っちょろいという人がいるかもしれません。でも、戦火をくぐってボランティアで献身しているレシャード・カレッド医師は何と言っているでしょうか……。
 どんなに困難であっても、アフガニスタンは復興を目指して歩んでいかねばならない。当然、多くの国々から支援を続けていただかなくてはならないが、その支援はあくまでも武力を使っての援助ではなく、非軍事的な手段で平和構築に貢献してもらうことである。
 今のところ日本は、アフガニスタンでもっとも信頼が厚く、信用のある国です。その日本の役割は、カンボジアや東ティモールで実績をあげた『対話路線』を推進することであると確信している。すなわち、日本がカンボジアでの道路整備をPKOで行ったように、農業や飲料水の確保、ダム等の建設、空港や鉄道などのインフラ整備を、軍事的な手段を使うことなく進めていったら、それはアフガニスタン国民に対する友情の賜物として深く感謝され、かつ賞賛されることだろう。
 まさに、この通りではないでしょうか。アメリカ軍の後ろに自衛隊がのこのこと尾いていくというのこそ、最悪の事態です。そして、それは日本の治安悪化までもたらしかねません。多くの人に、ご一読をおすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)

 チューリップがいよいよ咲き始めました。先発隊ですね。今5本がピンクの花弁を閉じています。庭の数区画に球根500個をまとめて植えています。今月末から4月上旬にかけて我が家はミニミニハウステンボスとなります。
 青紫色のヒヤシンス、朱色のクリスマスローズ、白とピンクのクロッカス、紫色のツルニチニチソウそして可憐な黄水仙が庭のあちこちで咲いています。
 そして春にはウグイスです。ずいぶん上手くなりました。ホーホケキョと住んだ泣き声を聞きながら花々を見ると春到来を実感します。

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2010年03月08日

人間

大腸菌

著者 カール・ジンマー、 出版 NHK出版

 この本では大腸菌はE・コリと呼ばれています。
 E・コリのほとんどは無害。人間の腸内には何億というE・コリがいて、平和に暮らしている。腸以外のところにも何億といるし。E・コリは川や湖に、森にも庭にも棲んでいる。
 そうなんですね。このありふれたE・コリは研究の対象となって大いに人間に役立ってくれます。
 E・コリはDNAを折りたたんで数百の輪にして、ピンセットのようなもので固定している。その輪はねじれているが、ほどけて広がるのをピンセットが防いでいる。
 E・コリは増殖するとき、つまり細胞分裂するとき、DNAの複製を作らなければならない。全DNA鎖を両端まで引き離し、半分に分かれる。E・コリはそれを20分で完璧に正確にやり遂げる。DNA複製のエラーが起きるのは、100億基につきたった一つという優秀さだ。
 一人の人間の腸内に共存する微生物種は、1000種類。人間は人生のどの時点でも、体内に30種類のE・コリ株を棲まわせている。E・コリに棲みつかれていない人間は、いない。人間の方も、腸内微生物のジャングルに頼っている。食べる炭水化物の多くは、消化するのに細菌の助けを借りなければならない。腸内細菌は人間の身体に必要なビタミンやアミノ酸を合成してくれる。食物から身体組織へと移行するカロリーをコントロールする役も担っている。だから、腸内細菌は、人間を病気から守っている。医師が早産児に病気予防のためのE・コリ株を与えるのは、このためだ。つまり、人間とE・コリは共同体のメンバーなのである。
 ウィルスは、かつて取るに足りない寄生体だと思われていた。しかし、今ではウィルスは地球上でもっとも豊かな生命体の形態で、その個体数は10億×10億×1兆と見積もられている。生命体の遺伝子情報の多様性のカギは、ウィルスのゲノムが握っている。
 人間の腸内には、1000種のウィルスがいる。ウィルスが宿主の遺伝子を拾って別の宿主に挿入するとき、それは種から種へとDNAを行き来させる進化上の基礎を作り上げる。海洋にいるウィルスは、新しい宿主に毎秒2000兆回、遺伝子を移動させている。このように、ウィルスは進化に重要な役割を演じている。
 微生物の生産するインスリン「ヒューミソン」は1983年に発売され、世界中で400万人がお世話になっている。E・コリはビタミンやアミノ酸まで生み出している。
 チーズはウシの胃で産出されるレンネットという酵素で乳を凝固させて作られてきた。今日では、E・コリ製レンネットからチーズが作られている。
 すごいですね、大腸菌って、汚い・怖い存在というより、必要であり、かつ有用な存在なのですね。最後まで知らないことだらけで、面白く読みとおしました。
 
(2009年11月刊。2100円+税)

 3月5日の朝日新聞夕刊で、このブログを大きく紹介してもらいました。取材していただいた山本亮介記者に対して心よりお礼申し上げます、おすすめしている本の中には、まだ紹介していないものもありました。なるべく早くアップしますので今しばらくお待ちください。
 この「弁護士会の書評」がたくさんの方々にもっと広くお読みいただけることを願っています。

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2010年03月07日

社会

からだと心を鍛える

著者  宇都宮 英人  明永 利雄 、 出版  日の里空手スクール

空手の達人であり、畏友の弁護士より贈呈された本です。熊本高校(クマタカ)空手道部
主将であり、京都大学でも空手道部主将であった宇都宮弁護士は、本業のかたわら子どもたちに空手を教える日の里空手スクールの主将としてがんばってきました。達士7段・師範といいますからすごいものです。私も何度かその型を見せてもらいましたが、それはそれは見事なものでした。
 この本にある、日の里空手スクールから巣立っていった子供たちの手記が心を打ちます。他人から自分の尊厳を脅かされない。自分が他人の尊厳を脅かさない。自分が自分の尊厳を脅かさないというのがモットーである。それが護身なのだ。
なるほど、と思いました。
 日の里空手スクールは、大人と子どもとが空手を媒介として集う広場としての機能を持っている。そこに多様なおとながはいることで子どもたちは、コミュニケーションの仕方を学んでいく。包み込まれつつ鍛えられていく。
 子どもたちが空手の練習を重ねるなかで、強くなっているのを認めると、その成長をはっきり子どもに伝える。上手になっている、強くなっている、と声を出す鏡のようなもの。そのことで子どもは、自分の成長を確認できるし、自体を深めていく。小さな成功物語を集積する。
 子どもたちが、身体を動かす機会が少なくなっている。ましてや、身体をぶつけあう機会は非常に少ない。そこで、意識的にそんな機会をつくり出していくことが必要なのである。
なるほど、と思います。これからも一層のご健闘を期待します。
 ありがとうございました。
(2009年12月刊。非売品)

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2010年03月05日

社会

知の現場

著者 知的生産の技術研究会、 出版 東洋経済新報社

 あるモノカキの人は、毎日、規則正しく朝9時に書き始め夕方6時には終了する。1日に5000字のノルマを書いたら、そこで打ち止めする。
 うまくいかないときでも、書くしかないのでとにかく書く。書くときには、NHKラジオの外国語講座を聞き流す。静かだと眠たくなる。意味が分からないところがいい。素晴らしい音楽だと、そちらに気を取られてしまう。書けないときでも、なんとか書いていると、いつのまにか乗ってきて書けるようになる。
 ほんとなんですよね。私も、ともかくひたすら書く派です。
 アウトプットするコツは、なんでもいいからとにかく書くこと。本を書くときの一番の妨げは、自分が書いていることをつまらないと思ってしまうこと。人間タイプライターになったと思って、ひたすら書くしかない。
 いやあ、まったくそうなんですよね。でも、ときどき、こんなことしてていいのかしらんとつい思ってしまい、悩むのです。凡人の辛いところです。
 文章が説教臭くならないように、また読み手に伝わるように、できるだけ感動的な実際のエピソードをオブラートに包んで、思いを心に届けるようにする。
 知を生産するためには、日頃から書物だけに頼らず、人に会うことが大切だ。
 しかし、そうはいっても主たる情報源はやっぱり本である。
 団塊世代は、自分たちの経験や体験を世代を超えて次の世代に継承するよう働きかけるべきだ。そして若い人たちをもっと褒めてほしい。なーるほど、痛いところを突かれました。
 長く仕事をしていても自分を飽きさせないために、自分はすごいものを書いている、オレは天才だ、誰も書いていないようなことを書いている、誰も気の付いていないことを書いている、このように自分自身に思わせるようにしている。ふむふむ、私もやってみます。
 書くテクニックを使いこなすためには、練習を重ねること、他人の作品をたくさん見ること。まさにその通りです。書くのには、すごいエネルギーを要します。
 作家活動にとって一番大切なのは健康だ。
 時間管理が下手な人のなかで偉くなった人はいない。
 文章を書こうというときには、まず自分が書きたいことを書く。駄文でもいいからと割り切って、まずは文章を書き始めることが大切だ。書いた文章の断片を後から編集する。編集するときには、執筆者としてではなく、編集者として文章を客観的に眺めるようにする。
 読んだ人が楽しい気持ちになる、勇気づけられることを考えて書く。
一つのパラグラフを5行以内にするなど、レイアウトを工夫する。見た瞬間に字がありすぎると読みづらい。一つの章を30分で読めるようにする。
 もっとも大切なのはタイトル。タイトルができてから本の執筆に入る。日本語に気をつけ、誰が見ても傷つかない、不快に感じない、誤解されない表現を選ぶ。これは私のモットーでもあります。
 モノへのこだわりを無くすため、愛用品をつくらない。愛用品を持つと、それがなくなったらストレスになる。いかにストレスをためないようにするか、その発想で行動する。
 本を書くのに喫茶店はいい。他人の視線があるから、ちょっとした緊張感が生まれ、原稿がすすむ。いやはや、私も同じです。あまりに騒々しい店は困りますが、近くでおばさんたちの世間話があっていても書けるようにはなりました。
 テレビは大嫌いだ。視覚情報は具体的すぎるので、意識して遠ざけている。ヒヤヒヤ。大賛成です。
 パソコンのような便利な道具に頼りすぎるのは、知的活動を道具に束縛されること。
 ブログは忘却のためのすばらしいツールだ。書いたら、もう脳に残しておく必要はない。
 その道のプロは、その場に必要な何かがないことが分かるかどうかということ。ムムム、この指摘は鋭いですよね。
 人間は『生産』はできないが、『編集』はできる。これが能力だ。
 私にとって大変役に立つと同時に、共鳴できるところの多い本でした。
 
(2010年1月刊。1600円+税)

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アメリカ

チャップリンの影

著者 大野 裕之、 出版 講談社

 チャップリンを支え、全面的に信頼されていた秘書は、なんと日本人だったのです。そして、チャップリンは来日したとき、5.15事件で犬養首相とともに暗殺されようとしたのを危機一髪で免れました。そのとき高野秘書が苦労していたのでした。
 日本人の多くがこよなく愛しているチャップリンと、日本人秘書・高野(こうの)虎市との、うるわしき関係が明らかにされ、感動を呼びます。そして、スパイの濡れ衣を晴らした後の晩年の高野元秘書の悲惨な生きざまも語られています。
 天才チャップリンのすぐそばにいて、大変だったことでしょうが、高野秘書はきわめてもっとも充実した人生を過ごしたと言えると思います。
 広島生まれの高野虎市は、名家出身ではあったが、身内を頼りにして15歳のとき単身アメリカに渡った。そして、苦労して働きながらも、アメリカの学校に通い、英語を身に付けた。いったん日本に戻って結婚し、アメリカに戻って妻とともに生活した。高野の夢は、飛行機のパイロットになること。今でいえば、宇宙飛行士になる夢に匹敵するものでしょうね。
 ところが、夢破れて、当時は珍しい自動車の運転手になったのです。そのとき、チャップリンに出会い、その運転手になりました。チャップリンは既に週給1万ドルという最高の大スターでした。チャップリン27歳、高野31歳の出会いです。やがて、高野の妻も、チャップリン家の料理係として雇われます。
 高野の長男は、チャップリンからスペンサーというチャップリンのミドルネームをもらって名づけられた。そして、高野はチャップリンの兄が住んでいた建物を与えられて、住むことになった。それほど信頼されていたのですね。
 高野は、チャップリンのプライベートな部分に関する秘書だった。チャップリンは高野に全幅の信頼を置き、自分の代わりに小切手に「チャップリン」とサインする権限も与えていた。運転手から秘書に昇格したわけである。
 チャップリンが『黄金狂時代』を作ったころ、高野はチャップリンの右腕として絶大な権力をもっていた。チャップリンに近づきたい映画監督や俳優たちは、みな高野に近づいた。
 1926年ころ、チャップリン家の使用人はみな日本人だった。多いときには17人もいた。
 チャップリンは、勤勉な日本人を大いに気に入った。
 チャップリンは、使用人に対して本当に優しく、公平に、友人として接した。
 チャップリンはユダヤ人ではない。しかし、ナチス・ドイツはチャップリンをユダヤ人の軽業師だと紹介した。チャップリンは「残念なことにユダヤ人であるという幸運に恵まれていない」と言っていた。「愛国心と言うのは、かつて世界に存在した最大の狂気だ」というチャップリンの言葉を、イギリスのマスコミは徹底的に叩いた。
 チャップリンが東京駅に着いたとき、一目でも見ようと日本人が3万人も駅に押し寄せた。いやはや、日本人の熱狂ぶりはすごいものです。
 チャップリンの秘書だった日本人男性を通じて、チャップリンの偉大な人柄も知ることのできる本でした。いい本です。一読の価値があります。
 
(2009年12月刊。1900円+税)

 朝、ウグイスが大きな声で元気よく鳴いていました。ずいぶんと上手くなりました。春告げ鳥です。
 近くの電線に鴉が止まって、ゴミ袋を狙っています。
 ハクモクレンがシャンデリアのような白い花をたくさん見事に咲かせています。
 チューリップの咲くのももうすぐです。
 庭のジャーマンアイリスを整理して、球根を久留米や福岡の地人におすそ分けしました。6月が楽しみです。

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