弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年11月30日

「伊達騒動」の真相

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 平川 新 、 出版 吉川弘文館

 面白い本です。江戸時代の大名家も、内情はいろいろあって、大揺れに揺れるところも少なくなかったようです。確認されているお家騒動は40件以上。お家騒動とは、大名家に発生した内紛のこと。福岡藩の黒田騒動、佐賀藩の鍋島騒動、加賀藩の加賀騒動が有名だが、それより有名なのは、仙台藩の伊達騒動。
 伊達騒動は17世紀の仙台藩に起きた二つの事件から成る。その一は、放蕩(ほうとう)にふける三代藩主の伊達綱宗が藩主に就任してわずか2年で強制隠居させられたこと。その二は、仙台藩奉行(家老)の原田甲斐宗輔が、藩主一門の伊達安芸宗重を境界争論の審理中に大老酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清邸で斬殺したこと。普通の大名なら即とりつぶしの理由になるような大事件が、わずか10年の間に2度も起きた。それでも仙台藩は取りつぶされなかった。なぜ、なのか...。
 二代藩主であった伊達忠宗は、生前、綱宗の挙動に大きな不安を抱いていた。綱宗の行儀の悪さは相当なもので、父親(忠宗)の叱責にも聞き入れないのなら、勘当する(親子の縁を切る)とまで思っていた。すなわち、綱宗は酒乱気の気があった。父の忠宗は、綱宗に「一滴も飲むな」と断酒を命じていた。
 筑後柳川藩10万石の大名・立花忠茂は、綱宗の監視役に就いた。忠茂は綱宗の義兄になる。藩主・綱宗の「御行跡」が悪いのは、「夜行」、つまり遊郭の吉原通いのこと。
 しかし、結局、1660年7月、立花忠茂・伊達宗勝などが幕府に綱宗の隠居と弟または亀千代への相続を願い出た。この連署証文には、14人が加わった。主要な一門と奉行。当時、藩政を運営していた主要な人物が署名に加わった。綱宗の隠居願いは、藩の重臣の総意だった。
 逼塞(ひっそく)とは、門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。閉門は門扉や窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許さない監禁形。処分としては、逼塞より閉門のほうが罪が重い。
 閉門とされた綱宗は、仙台藩の下屋敷(品川屋敷)に移り、72歳で亡くなるまで、ひっそりと生活した。とはいうものの、実は、綱宗には側室の初子のほか、7人もの側室がいて、初子とのあいだに2人の男子、そして他の側室から7人の男子と11人の女子が生まれた。いやはや、たいしたものですね...。これでは普通の隠居と変わりませんね。
 このころ、仙台藩の財政状況は悪く、逼迫しはじめていた。二つめの伊達騒動の原因をつくったのは野谷地(のやち)、つまり未開発の原野や湿地帯についての争い。係争地は蔵入地によるという明確な方針が忘れ去られ、また、重要な証拠となるはずの「国絵図」も思い出されなかった。信じられませんね...。
 幕府の老中たちは、すでに早くから仙台藩における治政の乱れを知っていた。
 1671(寛政11)年3月27日、大老酒井忠清邸の大書院で、原田甲斐宗輔が、やにわに脇差を抜いて伊達宗重の首筋に切りつけ、宗重は即死した。原田も斬られた。
 この原田の乱心について、著者は、原田に非があったことは明らかなので、結局、身の破滅を悟り、逆上して刃傷に及んだとみるのが自然だとしています。
 この大事件が起きた当日、老中は仙台藩のとりつぶしはないから心配するなと明言したとのこと。ただし、綱宗のあとを継いだ幼い藩主の後見人たちは責任を問われています。
 また、原田宗輔の4人の男子は切腹を命じられ、5歳と1歳の孫たちも処刑された。男子の血筋は根絶やしにされた。これは厳しい処分ですね。
 伊達騒動は、単なる権力闘争ではなく、野谷地という知行地の境界相論に端を発する民衆社会のあり方にかかわった騒動だった。なるほど、そのように評価できるのですね。
 山本周五郎の『樅(もみ)の木は残った』は、原田宗輔について、大老酒井と伊達宗勝による仙台藩乗っ取りを防いだ忠臣だと評価する。しかし、そのストーリーはつじつまがあっていない展開だと著者は批判しています。
 また、伊達家を改易すれば、その反響の大きさに幕府は恐れをなし、とても改易なんかできなかったとしています。なーるほど、ですね。大変勉強になる本でした。
(2022年1月刊。税込2200円)

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