弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年4月28日

感染症と差別

社会


(霧山昴)
著者 徳田 靖之 、 出版 かもがわ出版

感染者を社会にとって危険ないし迷惑な存在であるとする捉え方を除去することなしに、感染症に対する差別はなくならない。
これが著者が本書で結論として述べていることです。この本を読むと、なるほどと実感します。感染者は被害者であり、社会をあげて守り支えるべき対象だ。隔離や排除の対象ではなく、治療の対象であり、感染者に対する最善の治療の提供こそが最善の感染拡大防止策である。言われてみれば、まことにもっともですよね。
ところが、これまで、国はいったい何をしてきたのかと、著者は厳しく問いかけます。
実のところ、国は率先して感染者を「病毒を伝播する危険な存在」と規定し、社会から排除する政策をとり続け、国民にそんな認識を植えつけてきた。
これまた、まったく異論ありません。国は、いつだって弱者の味方ではなく、強者、つまり財界や製薬業界の味方であり続けてきました。何か問題があると、形として少しばかり謝罪して、やり過ごし、結局、本質を変えることは全然しないのです。
著者は、本書の最後に、改めて読者に問いかけます。
社会にとって迷惑な存在であれば、差別したり、排除しても構わないのか...。この問いは、優先思想の問題につながる。なるほど、そういうことなんですよね...。
380頁もの大著ですが、内容の重さに比べて、文章自体は私もよく知る著者の温かい人柄を反映していて、とても読みやすく、すいすい読みすすめることができました。
著者の父親が応召して陸軍の兵卒となり、シンガポール戦線に駆り出され、結核のため帰国したあと戦病死したこと、著者自身も結核にかかって死線をさまよい、今も肺に結核の傷痕が残っていることなど、初めて知りました。ちなみに、著者の娘さんは弁護士になって、当会にも所属していました。
菊池事件とは、熊本の山村で起きた殺人事件。被告人は全面否認したが、1953年8月29日に死刑判決が出て、確定した。そして3度目の再審請求が棄却された翌日、死刑は執行された。
被告人は、ハンセン病患者であるF氏で、菊池恵楓園内の仮設法廷で審理された。
この裁判で、裁判官たちは、証拠物を扱うとき、手にゴム手袋をはめ、あるいはハシを扱った。このような法廷のあり方に、最高裁判所は、次のような謝罪文を書いた。
「違法な扱いをしたことを反省する。誤った、開廷場所の指定についての誤った差別的な姿勢は、基本的人権と裁判のあり方について、国民の基本的人権と裁判というものの在り方をゆるがす性格のものだった」
最高裁は書面で、この菊池事件の審理について、このように謝罪した。しかし、著者は、この謝罪では不十分だと厳しく指摘しています。なぜ、自浄能力の欠如が生じたのか、その原因の解明がなされていない。また、これから、被害回復のため、どのような対策を講じる必要があるのかの検討もまったくなされていない。なるほど、そうですよね。これから、謝罪をどうやって生かすのか、ということこそが求められているのです。
著者は、エイズ患者宿泊拒否事件が起きてから、「一般市民」による誹謗中傷文書、すなわち「豚のクソ以下の人間ども」、「お前たちのようなぶざまな奴らは人間ではない」などという文書について、どうして自分と同じ人間に対して、こんな決めつけをしたうえ、そんな罵詈雑言としかいいようのない誹謗中傷文書を、その当事者に対して送りつける行動をする人間が少なからず存在することに衝撃を受け、その社会的な原因について考察をめぐらしています。本当に、いったいどういうことなんでしょうか...。
人間は、状況次第では、すさまじいほどの兇徒と化しうる存在だ。虐殺するときの民衆は、決して「善意」ではない。増悪とか侮蔑といった感情が虐殺を導き出している。そして、そんな蛮行は、精力によって慫慂(しょうよう)されたり、支持されたとき、際限なく拡大する。これらの集団は、より弱い者を迫害することで、その危機感や不安からの解消・回避を図ろうとする。いやあ、そういうことなんですよね。下々の庶民もまた常に正しいわけではなく、間違った行動に走る危険な存在にもなりうるのです。
自らの個人的体験、そして、いくつもの裁判闘争をふまえ、さらにはとても幅広い視点で、感染症と差別を多面的に考えようとする、貴重な労作です。大変勉強になりました。少し高価ですので、ぜひ全国の高校や大学の図書館に一冊備えられ、大勢の人の目にとまることを心から願います。
大分の弁護士である著者は、大学生のころ、私と同じようにセツルメント活動をしていたと聞いています。私の心から尊敬する先輩弁護士です。
(2022年3月刊。税込4180円)

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