弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(平安時代)

2012年5月18日

謎とき平清盛

著者   本郷 和人 、 出版   文春新書

 著者はNHK大河ドラマの時代考証も担当する学者です。その指摘には、はっとさせられる鋭さがありました。
日本の歴史には二つの特徴がある。
第一に、平清盛が鎌倉に幕府を開いて以降、明治維新に至るまで、700年間ものあいだ武士が社会の支配者として、大きな役割を果たした。
 第二に、伝統が重んじられ、世襲が社会の基本原則として機能してきた。
 第一の点では、戦前の日本で軍人が偉そうに威張って、日本という国を破滅に導いた愚をくり返したくないものです。昔も今も自衛隊出身の国会議員がいますが、彼らが偉そうに言っているのを聞くと、虫酸が走ります。
 第二の点では、会社はともかくとして政治家の世襲なんて嘆かわしい現象だと思います。これは日本だけではなく、ブッシュ父子のようにアメリカでも起きています。
 黄櫨染(こうろぜん)と黄丹(おうだん、おうに)。前者は赤みを帯びた肌色で、天皇だけが用いることのできる色。後者は赤みをおいたオレンジ色で、皇太子だけに許されている。いわゆる禁色(きんじき)の色である。うひゃあ、こんな色が禁色だったのですね。
 中世の本質は、統一性ではなく、多様性にある。
 税を徴収するために、郡司(ぐんじ)、郷司(ごうし)、保司(ほうし)が任じられた。彼らは、存置の有力者で、国の役所である国衙(こくが。現在の県庁)の役人である在庁官人に任じられた。国衙では太田文(おおたふみ)という台帳が作成されていた。米で収める「年貢」、特産品で収める「公事」(くじ)、労働力を提供する「夫役」(ぶやく)の三つが当時の税を構成していた。幾内の国では「夫役」は、「京上夫」(きょうじょうふ)として、実際に京に行っていた。
 国司に任じられた貴族は、自身は京都にいて、家礼(けらい)を現地に派遣した。この家礼は目代(もくだい)とか眼代(がんだい)と呼ばれ、在庁官人を指揮して、国を統治した。
朝廷は官僚をもたなかった。日本では中国・朝鮮・ベトナムのような科挙の制度を導入しなかった。そのため、才能よりも世襲が政府における支配的な原理となり、貴族だけが政治に関わった。
 また、朝廷は軍隊も保有しなかった。常備軍は消滅した。
朝廷の正式な儀式においては、天皇よりも上皇がえらい。政治の実権を握っているのも上皇だった。
 「精兵」(せいひょう)と形容した強い武士、優れた武士とは、まずは強弓を引ける人。弓の上手に大変な敬意が払われている。戦いで倒れる兵は多く、古くは弓で射られ、また、鉄砲でうたれて命を失っていた。
 日本列島の西方を重視する政権づくり、経済重視、海外交易の推奨。そして改革者だという武士として、平清盛と織田信長の2人があげられる。
 平清盛は、既存の知行国制を有効活用し、いわば朝廷のなかに将軍権力を生み出そうとした。ただ、身分の低い武士が結集する場としては、伝統ある京の都はふさわしくなかった。そのため、清盛は福原への遷都を強行したのではないか。
 平清盛と武士たちについて、いかにも鋭い分析がなされていて、驚嘆しながら面白く読了しました。
(2011年11月刊。750円+税)

2012年2月27日

平清盛の闘い

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫

 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

2011年11月12日

刀伊入寇

著者   葉室 麟 、 出版   実業之日本社

 ときは平安朝。平和な日本のなかで貴族たちは安穏に日々を過ごしていると思いきや、朝廷内では高級貴族たちが激しい暗闇をくり広げていて、しかも中国・朝鮮という外国の争乱までも日本に影響を及ぼしていたのです。
 この世をば 我が世とぞ思う
望月の欠けたることもなしと思えば・・・
藤原道長もこのような得意絶頂としてではなく、その地位が不安定な高級貴族の一人として登場します。そしてまた、『源氏物語』を書いた紫式部、さらには『枕草子』の清少納言も登場し、その不安定な地位を前提として語るのです。
 平安時代に生きる人たちも決して平穏無事に、のんべんだらりと泉水のある庭園でゆったり和歌づくりに専念していたわけではない。そのことを自覚させられる本になっています。
 夜郎自大(やろうじだい)の国。夜郎とは、中国(漢)の時代に西南の夷にあった国のひとつ。漢が大国であることを知らず、自らを強大と思って漢の使者に接した。うむむ、自戒すべき言葉ですね。
 紫式部は清少納言が好きではなかった。清少納言は漢籍の知識をしたり顔でひけらかすが、たいしたことはない。猿楽言(さるがるごと)とは、冗談のこと。
さがな者とは、荒くれ者、性悪者だという意味である。
 刀伊国の50艘の船が壱岐島に来襲し、家を焼いたほか島民を殺し、捕らえて連行していった。これを刀伊(とい)入寇という。その警戒にあたる責任者として、京都から藤原隆家が太宰府に派遣された。藤原家の率いる貴族たちがまるで武士であるかのように来襲してきた刀伊と戦うなんて、ええっ、本当なの・・・と叫びたくなります。
 平安時代を中国・朝鮮からの外圧とたたかっていたとみる視点が新鮮でした。そして、信長の不安に満ちた生の声が聞こえてくるストーリーも奇想天外でした。
(2011年6月刊。1600円+税)

2011年11月 5日

藤原 道長

著者  朧谷  寿    、 出版   ミネルヴァ書房   

 平安貴族の栄華を極めた藤原道長が、実は、長く病気に苦しめられていたことを初めて知りました。決して順風満帆の生涯ではなかったのです。
 平安貴族の上層部においては、地位や生活が安定していたとは言えないようです。藤原道長は、嫡男の頼通が具平新王の娘である隆姫女王と結婚したとき、こう言った。
「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり」(男の価値は妻次第で決まるものだ。たいへん高貴な家に婿取られていくのがよいようだ)(『栄花物語』巻第八)
この言葉は、道長が天皇家との縁組により、力をつけていったことを象徴している。この世をば我が世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば。この歌をよんだとき、道長は病に苦しんでおり、実は、悲哀もないまぜになっている。道長は、病とたたかいながら頂点を極めた男だった。
院政の主である上皇と摂関とでは似て非なるものがある。上皇には選択の余地が少なく、自ずと決まってくる。摂関では、個人の力量とその結果とが必ずしも一致せず、他力本願的な要素に左右される面が強い。その第一は娘に恵まれること。第二に、その娘が成長したあかつきには天皇ないし将来天皇になりうる人に配すること。第三に、そこに皇子が誕生すること、である。外戚の地位を確立するためには、このように人力を超えた要素が介在する。これに成功を収めたのが道長だった。
道長は関白にはなっていない。道長の日記自筆本が14巻(計7年分)が現存し、これが最古の自筆日記を位置づけられる。この道長の日記を読むと、病む人・道長の像が浮かびあがってくる。
道長には、正式の妻が2人いた。その倫子も明子も、ともに源姓であり、藤原姓にはならない。当時は夫婦別姓の時代だった。ですから、いま夫婦別姓にしようという動きに対して右翼・保守側から、そんなのは日本古来の伝統を破壊するものだ、という意見が出ていますが、これは明らかな間違いなのです。
妻は墓も父親と同所でした。当時の女性は、生家と深い関係を維持し続けた。
有名な紫式部と道長との関係も取り沙汰されています。著者は二人の関係は親密だったとします。紫式部が道長と出会わなかったら、『源氏物語』は生まれなかった。この物語の内容形成にも道長は深く関わっている。
内覧と関白は違う。内覧は宣旨、関白は詔勅による任命という違いがある。内覧は、太政官と天皇との間を往復する文書のみで、関白はすべての文書に目を通すことができた。道長は内覧であり、1年ほど摂政になったが、関白にはなっていない。チャンスを待っての道長の動きは、機を見るに敏なるたとえそのもの。焦らず、着実にという道長の心情は生涯の重要な局面でよく見られる。
道長は出家してもなお、政治への介入になお健在ぶりを示した。
藤原道長、そして平安貴族の一生を改めて考えさせてくれる本です。

(2011年6月刊。3000円+税)

2010年11月27日

平安朝の父と子

 著者 服藤 早苗、 中公新書 出版 
 
 まず第一番に驚いたのは、平安朝の貴族の男性は料理が出来たということです。とりわけ、魚や鳥などの動物性食料は、男性が料理するのが古来からの日本の伝統であった。
そして、蔵人の頭(くろうどのとう)は妻が出産するについて、産休をしっかりとっていた。
 うひゃあ、本当でしょうか・・・・。驚きです。
 平安時代には、妹のことを「弟」と書くのは少なくなかった。「オト」と読み、本来なら男女関係なく年下のキョウダイのこと。なんだか間違いますね。
平安初期、9世紀のころには、天皇のキサキは、摂関期に比べて、はるかに多かった。嵯峨天皇のキサキ数は20数人、子どもは50人もいた。
父親が幼児期のときから子育てに参加すると、子どもの知能指数は5以上あがるという研究成果がある。
 10世紀中ごろ、女御や更衣の生んだ子どもたちは7歳まで父の天皇に会うころはなかった。
平安中期、貴族の子息は12~16歳で元服という成人式を迎える。平安前期の9世紀は、上層貴族から庶民層まで16歳が元服年齢だった。その後、天皇から次第に元服年齢が若くなり、上層貴族にも浸透していく。
 男子は、大人になれない下人的隷属者をのぞいて、どんな庶民でも一般的に大人名を付けてもらえるのに対し、女子は朝廷と正式に関係を持つ者しか大人名前は付けられなかった。そして、父の存在が大変に重要だった。
 菅原道真は、突如として大宰府に左遷された(901年)。大宰府の配所に同行したのは男女児二人。成人していた長男は土佐に、次男は駿河に、三男は飛騨に、四男は播磨に流された。妻と成人女子は都に残され、幼少二人の同行が許された。そして、男児は配所で亡くなったが、栄養失調ではないかとされている。道真本人も配流後2年で亡くなる。これも、やはり栄養失調だったのであろうか・・・・。
一夫多妻妾を認める平安中期の貴族層にあっては、妾や数度の関係しかもたなかった女性が出産したとき、女性が強い意志表示をしないかぎり、男性は父としての自覚をもたず、認知さえしなかった。
父の認知がない子どもは、「落胤」(らくいん)と呼ばれた。身分秩序の固定化と、いまだ母の出自・血統を重視する双系的意識のもと、父は子を認知することさえ不可能の場合があった。
父に認知されない「落胤」者は、貴族層にとってさげすみの対象だった。天皇の孫でも、母の出自・血統が低いと、貴族の正式の妻になることさえ難しかった。父の認知によって子は父の血統や身分的特権を継承できるが、母の出自・身分の格差が大きいと、認知さえもらえなかった。
しかし、院政期になると、父系制が定着し、母の出自はあまり問題にならなくなる。
『今昔物語集』では、親が子を「不孝」するとあり、父母が子を義絶することを「不孝」といった。現在の勘当と相違し、さらに「ふきょう」という語は現代では使用されていないようである。貴族の日記類では、「不孝」は、文字どおり親に子が孝養を尽くさない意である。
平安時代の父と子の関係については、知らないことも多く、大変勉強になりました。
 
(2010年2月刊。760円+税)

2010年7月25日

源氏物語とその作者たち

 著者 中村 亨 、文春新書 出版 
 
  弁護士になって、浮気や不倫・不貞は日常茶飯事であり、ありふれたことの一つでしかないことを痛感します。この36年あまりの弁護士生活において、不貞にからむ事件が絶えたことはありません。金銭貸借をめぐるトラブルと同じように、申し訳ありませんが弁護士にとってのメシのタネの一つです。
 この体験からすると、不貞行為は日本人の本性に深いところで根づいているものではないかと思わざるをえません。源氏物語は、そのような日本人の心性の始まりを文学的に描いた作品ではないでしょうか。つまるところ、男女の浮気、不貞、不倫を奨励するかのような話のオンパレードなのですから・・・・。
そして、著者は、源氏物語の作者は紫式部一人ではなかった、多くの読者が書き写しながら勝手に書き足していった集大成なのだと主張しています。
 今のように、活版印刷による本なんて当然なく、すべては人の手によって書き写していた時代ですから、写し間違いだけではなく、故意に書き足し、書き落としがあったのでしょう。また、それは避けられないことでした。だって、誰にせよ、どれが原本(正本)なのか、分かるはずがなかったのですから・・・・。
 源氏物語が、必ずしも「いづれの御時にか」から書き出されたとは限らないという考えは昔の人も持っていたらしい。紫の上につながる話は紫式部の原作であり、玉鬘(たまかずら)系の巻々は複数の別人の筆になるものだろうと考えられている。
 うむむ、そうなんですか・・・・。
 読者はすぐに作者になることにためらいのない時代であった。・・・・えーっ、そうでしたか・・・・。藤原頼通も源氏物語の作者のひとり、少なくとも作者たりえた存在である。
 ふむふむ、そのように考えられるのですか・・・・。これだから歴史物の本を読むのはやめられませんね。固定観念がうちこわされてしまう面白い本でした。
(2010年3月刊。770円+税)

2010年7月19日

謎の渡来人 秦氏

著者 水谷 千秋、 出版 文春新書

 秦氏は、自らを中国の秦の始皇帝の子孫と称する。戦後の通説は、朝鮮半島からの渡来人とする。秦氏は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に登用されたという伝承を持つくらいで、高い地位に就いた者はいない。秦人は一般に農民であった。秦氏が奉斎してきた稲荷山には、彼らの入植する前より古墳群が築造されていて、古くから神体山として信仰の対象とされてきた。もともと神体山への信仰だったものが、「稲成り」(いなり)として、農耕の神となって秦氏の守護神に変容したのであろう。
 日本列島には、もともと馬はいなかった。古墳時代中期初めころ(5世紀初頭)、朝鮮半島から運ばれ、大阪の平野を最初の牧として育てられた。これらをもたらしたのは、当然、渡来人である。
 平安朝の桓武天皇の時代は、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だった。日本の歴史のなかでも特異な時代と言える。桓武天皇の外戚の和(やまと)氏や百済王氏、坂上氏といった渡来系豪族が桓武朝の朝廷で異例の昇進を遂げた。
 母方のいとこにあたる和家麻呂(やまとのいえまろ)は、渡来系豪族として初の参議に列せられ、のちに中納言にまで上った。
 征夷大将軍として功のあった坂上田村麻呂も、後漢氏の出身だが、参議に昇進した。菅野真道はもとは津連という渡来系豪族だが、参議従三位まで昇進した。従来なら考えられなかったことである。
 桓武天皇ほど多くの渡来系豪族出身の女性を娶った天皇も珍しい。27人の后妃のうち、渡来系豪族では、百済王氏が3人、坂上氏が2人、百済氏が1人と、全部で6人もいる。
 平安京は畿内における渡来人のメッカともいうべき一大拠点であった。その代表格ともいえる秦氏が、まさにここを本拠地としていた。
 秦氏が蘇我氏と大きく異なるのは、秦氏はある時期から政治と距離を持ち、王権に対して反乱をおこしたりすることはなかったこと、そして、地方にも各地に経済基盤を築いて生産を進め、中央の秦氏と互いに支え合っていたことだろう。
 日本と日本人の成り立ちを考えるうえで手掛かりとなる本です。
(2010年1月刊。750円+税)

2010年1月10日

建礼門院という悲劇

著者 佐伯 真一、 出版 角川選書

 建礼門院(平徳子)は、平清盛の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んで国母(こくも)となった。しかし、夫の高倉天皇が若くして亡くなり、続いて父の平清盛も熱病のために64歳で病死し、やがて平家は木曽義仲に追われて都を落ち、ついには壇ノ浦合戦で滅亡してしまった。母の二位尼(にいのあま)時子(ときこ)と愛児の安徳天皇は、壇ノ浦の海に沈んだ。徳子も海に飛び込んだものの、源氏の荒武者にとらわれて京都に連れ戻され、命は助けられて出家して大原に籠った。
 そして、平家一門を滅亡に追いやった後白河法皇が大原まで徳子を訪ねてやってくる。大原御幸(おおはらごこう)である。
 このとき、建礼門院は、自らの運命を仏教で考える全世界を表す六道の輪廻転生になぞらえて語った。
 著者は『平家物語』にある建礼門院の物語を縦横無尽に考察しています。その謎ときは、素晴らしいものがあります。さすが一流の学者はえらいものです。ほとほと感心しながら読みすすめました。
 平清盛の権力は、後白河天皇との親密な関係によって支えられていた。平清盛の妻・時子と後白河法皇の最愛の女性であった建春門院(平滋子)とは姉妹だった。
 人間道には四苦八苦がある。四苦とは生老病死の四つの苦しみ。これに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたのが八苦である。
 女院の栄華から転落の歴史、平家の滅亡への道程が、六道の上位から下位への転生と重ね合わせて語られてきた。天上道のような生活から人間道へ、そして餓鬼道、修羅道を経て地獄道へと、平家滅亡への道程が六道の上位から下位への転落のように語られた。
『平家物語』が生まれる背景には、平家一門の怨霊が恐れられる風土があった。
 安徳天皇は、地上の政権に敵対するヤマタノオロチの化身であるとも言われた。もし、鎮魂が果たされないなら、冥界にいるその集団は現世に対してどんなに恐ろしい災いをもたらすか分からないのである。そのような一門の怨霊をなだめるという性格を、『平家物語』という作品は、生成当初において多かれ少なかれ帯びていたはずである。
 知らないことがたくさんあるということを実感しました。
 
(2009年6月刊。1500円+税)

2009年9月12日

大和物語の世界

著者 尾崎 佐永子、 出版 書肆フローラ

 『大和物語』は、天暦5年(951年)、村上天皇の時代に成立した。在原業平の『伊勢物語』よりも、文章が古体である。ところが、この『大和物語』に登場してくる宮廷人たちは、恋をし、失恋し、自由奔放に生きていたことが描かれている。
 昔から、日本では男も女も、性的にかなり自由であったことを裏付ける格好の本でもあります。先日、『源氏物語』の現代語訳を紹介しましたが、同じことがそこでも言えました。
 『かぐや姫の物語』が流行して以来、月をまともに見ると、はるかな月の都に女は連れていかれてしまうという噂が、まことしやかに女たちの間に広がっていた。そこには、「垣間見をする男たちに顔をさらすな」という裏の意味もこめられていた。男に顔を見せない女の身だしなみを、月の夜にはつい忘れやすい。それをよいことに男たちは、月を仰ぐ女のほのかに白い顔を遠見ながら、垣の陰から覗き見て、心をときめかすのである。
 内親王の多くは、未婚のまま生涯を終える運命にあった。しかし、皇女といっても生身の女である。年頃が来て、恋をするのは当然なのだが、まわりがそれを許さない。
 この本には、舞台となったお寺などの素晴らしいカラー写真とともに、国宝である文章そのもの(原文)も紹介されています。流麗な筆致で、往時をしのぶよすがとなります。
 当時は、宮廷内での貴公子と女たちとの恋は日常のこと。丁々発止と恋のやり取りを存分に楽しむ雰囲気があった。女から誘いの消息を出すことも、異例ではあっても、あった。
 女性は、ただひらすら忍従して耐えていたというのではなかった。
 身を憂しと思ふ心のこりねばや人をあはれと思ひそむらむ
 すぐ男を好きになって、心をひかれてしまうわが身を情けないと思いますのに、まだこりないのでしょうか。またもや、ほかの男を好きになってしまったようなのです。
 花すすき君がかにぞなひくめる思はぬ山の風は吹けども
 花すすきのように、なびきやすい私。でも、どうもあなたの方に心がなびくようです。思いがけない山の嵐が吹いて、ちょっと花すすきは乱れましたけど……。
 男を引き入れるのではなくて、女のほうから男に逢いに行くこともあったようです。
 たましひはをかしきこともなかりけりよろづの物はからにぞありける
 魂だけではちっとも面白くありませんわ。あなた自身でなければ。すべてのものは形あっての価値でしょうに。どうやら、心より体と言っているようである。なかなかどうして、しっかりした女性のようである。
 自由に男と交際している女たちがいて、それを堂々と歌に詠んで残していたことが分かる本でした。たまに、こんな本を読むのもいいものですよ。

 
(2009年5月刊。2500円+税)

2009年8月 7日

紫式部日記

著者 山本 淳子、 出版 角川ソフィア文庫

 紫式部が初めて職場に出たとき、誰も声をかけてくれず、仲良くしてくださいと歌を贈ってもはぐらかされる始末。結局、欠勤し、こじれて5か月も引きこもってしまった。
 そこで紫式部は、「ぼけ演技」作戦をとった。どんなことでも、「さあ、知りません」「わたくし、何も存じませんの」という顔をして話をかわしてしまう。
 これで、同僚の紫式部を見る目が変わった。それまで、紫式部って高慢ちきで怖い才女だと思いこんでいたのだと告白し、仲良くなれることができた。
 それから、紫式部は、「おいらか」を自分の本性にしようと決意した。おいらかとは、角を立てない、人当たりの穏やかさのこと。その努力が報われて、やがて主人の彰子(しょうし)にも心を開いてもらえるようになった。
 ふむふむ、これってなんだか、今日の職場における出来事のようですよね。
 上達部(かんだちめ)とは、朝廷につかえてまつりごとにかかわる議事に参加する貴族たち(公卿)のこと。一条天皇の時代には20~30人いた。貴族とは、朝廷から5位以上の位を授けられた高級官僚を言う。100~200人はいた。
道長の孫が誕生したときのお祝いの場で、貴族たちが双六(すごろく)に打ち興じた。その商品は、紙だった。当時、紙は大変な貴重品だった。平安時代、内裏に盗賊が入ることは、数年に一度の頻度であったことが記録上で確認できる。むむむ、宮中の警備って意外にも手薄だったのですね。
 紫式部日記にも、宮中に強盗が入り、2人の女房が身ぐるみ剥がれた事件の発生が書かれている。紫式部は清少納言を、「得意顔でとんでもない人だった」(したり顔にいみじう侍りける人)と非難している。紫式部が彰子に勤め出したのは、清少納言の使えていた定子が亡くなり、宮中を去ってから5年か6年あとのこと。したがって、2人が顔を合わせたはずがない。それでも、紫式部の仕える彰子の前時代、定子(ていし)文化を代表する女房であったから、批判せざるをえなかった。
 彰子の女房である紫式部にとって、『枕草子』は、目の前に立ちふさがる大きな壁だった。紫式部にとって、清少納言と『枕草子』は、度を失わせるほど手ごわい存在だったのである。
 この本は、紫式部は藤原道長の愛人だったという説を打ち消しています。もちろん、真相は分かりませんが、道長からかなり目を掛けられていたことは日記からも裏付けられています。
 水鳥を水の上とやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど 身はいとくるしかんなりと思ひよそへらる
 言葉は難しくても、昔も今も日本人の気持ちってあまり変わらないものだと改めて思い知らされたことでした。
 
(2009年4月刊。667円+税)

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