弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年2月22日

公卿会議

日本史(平安時代)

(霧山昴)
著者 美川 圭 、 出版  中公新書

貴族政治って、意外にも会議体をもって議論して決めていたのですね。驚きでした。
公卿(くぎょう)とは、貴族の上層の人たちのこと。
律令制のもとには、太政官(だじょうかん)の議政官会議というものが存在した。議政官とは、左右内大臣、大納言(だいなごん)、中納言、参議らのこと。
太政官がいかなる提案をしたとしても、天皇はそれに制約されずに決定できるというのが律令制の原則。天皇と太政官は対立的に存在しているのではなく、天皇を輔弼(ほひつ)する太政官議政官の会議は、天皇の君主権の一部を構成していた。
藤原道長は摂政にはなったが、関白にはなってはいない。一条天皇は外戚(母の父)である道長の言いなりの人物ではなかったので、道長の立場は盤石ではなかった。
一条天皇が亡くなり、皇位を継承した三条天皇は、道長に関白就任を要請するが、それを道長は受けなかった。道長は関白ではなく、内覧左大臣の地位を自ら選択した。
三条天皇は眼病のため失明に近い状態となった。その三条天皇に道長はたびたび譲位を迫った。そして、後一条天皇が即位すると、外祖父の道長は摂政となった。
幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政。天皇が成人となったとき、奏上や招勅発給などに拒否権を行使できるのが関白。
摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるから、制度上は摂関になったほうがよい。
天皇の外戚という非制度的な関係をもたないときには、権力が弱体化する恐れが常にあった。摂関政治といいながら、外戚、つまり天皇のミウチであることが、とても重要だった。
このころ、実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭(くろうどのとう)を終えたあと、公卿として陣定に出席するようになった。
道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身を置いて、彼らの信頼を得ることが重要だと考えた。そのため、あえて一上(いちのかみ)、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとした。
三条天皇のころは、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかった。それでも道長は関白にならなかった。道長は、内覧で一上左大臣という立場の有効性を確信していた。
そして、外孫である後一条天皇になると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任する。以後、道長は陣定に出席していない。
170年間、藤原氏は天皇の外戚を独占した。
御前での公卿会議が、天皇と関白の対決の場になった。
13世紀の日本では、神社の荘園が押収されたため訴訟が次々に起こされ、朝廷にもち込まれた。院政期には、所領相論(そうろん)、つまり不動産紛争の問題が、陣定(じんのさだめ)の議題として多くあがった。
日本人は昔から紛争が起きるとすぐに「裁判」に訴えていたのです。日本人が昔から裁判が嫌いだなんて、とんでもない嘘っぱち、私は、そう確信しています。
13世紀、雑訴評定においては、訴人(原告)と論人(ろんじん。被告)の双方を院文殿(いんのふみどの)に召し出して、その意見を聴取することになった。これが文殿庭中(ふどのていちゅう)である。
鎌倉時代の後期には訴訟が増大した。鎌倉後期には、幕府が訴訟の増大に対処することに追われた。貴族の分家が対立し、貴族内部の争いが家産、官位の争奪というかたちをとって深刻化したため、朝廷での裁判の重要性はいっそう高まった。
圧倒的な軍事力をもつ鎌倉幕府が成立してから200年、承久の乱で敗北してから150年、ほとんど幕府に対抗できる武力をもたない朝廷が、合意形成をしながら政治権力として一定の統治能力を維持したことは再評価してよい。宮廷貴族たちは、院や天皇のもとに結集して、公卿会議で論戦しつつ、朝廷を自立的に運営していった。
朝廷と貴族(公卿)の関係について、難しいながらも面白い本でした。宮廷貴族たちは、意外なほど会議での合意を目ざし、それなりの努力を続けていたのでした。
(2018年10月刊。840円+税)

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