弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

江戸時代

2008年2月15日

江戸人のこころ

著者:山本博文、出版社:角川選書
 江戸時代の人が書いた手紙が自由自在に読めたら、どんなにいいかと思うのですが、私にはアラビア文字と同じで、さっぱり分かりません。それをスラスラ読み解く学者って、やっぱり偉いですよね。
 遊女がイギリス商館長のカピタンであるリチャード・コックスに宛てた手紙が紹介されています。江戸時代の平戸に1623年(元和9年)までイギリス商館があったのですね。この遊女の手紙は大英図書館の東洋・インド部に所蔵されているものです。
 優美なかな書きの手紙なので、大坂の陣で没落した武士の妻女出身とも考えられる。かなりの教養をもった女性だろうと著者は推測しています。
 さてさてあいたいぞ、見たいぞや・・・という文言があり、胸をうちます。
 多摩地方の上層農民(名主クラスの裕福な農家)の娘が、江戸城大奥や御三卿などの奥へ奉公に出ていた。これは、貧乏な家庭を助けるための「口減らし」ではなく、いわば田舎から都会の女子大へ行くような、行儀見習いのための奉公だった。
 多摩地方は、江戸城大奥の下級女中の供給源となっていた。その中の一人、御殿女中だった吉野みちの手紙115通が残されていて、紹介されています。
 みちは、奥奉公がやたらとお金がかかったため、実家の父親によく小遣いをねだっている。うーん、なんだか、今もよくありそうな親子のあいだの手紙です。ぴんときますね。
 滝沢馬琴の手紙も紹介されています。八犬伝の定価は、1冊あたり、1分3朱。金1両を現在の物価で換算すると、20万円になるので、八犬伝は1冊あたり8万7500円。初版500部で、江戸で300部を売り出し、上方へ200部を発送する。江戸ではすぐに増刷し、年末までに累計600部は確実。発売して半年で800部の売上げがあった。350両になる。経費を差し引いた純益金は300両なので、6,000万円のもうけだ。ところが、馬琴の手にしたのは、原稿料は1冊わずか2両が相場だった。なーるほど、江戸時代の出版事情って、そういう仕組みだったんですか・・・。
 赤穂浪士の何人かの手紙も紹介されています。大石内蔵助の手紙から、内蔵助は、たしかに祇園や伏見に踊りを見に行ったが、それは息子の主税と一緒だった。したがって、内蔵助の遊興は、こうした物見遊山が中心で、祇園の茶屋で派手に遊んだということではなかったのだろう。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 すでに自分の命はないものと決め、盟約に加わった者たちの首領になっている内蔵助の手紙は、穏やかで、妻の身体を気づかい、周囲の人の気遣いに感謝し、妻への思いやりに満ちている。
 なぜ討ち入りをしたのか。武士が面子をつぶされることは、死に勝る屈辱である。これを回復するためには、吉良を討って喧嘩両成敗法を自らの手で実現しなければいけなかったのだ・・・。
 江戸人の心の奥底を少しだけのぞいたような満足感を与えてくれる本でした。
(2007年9月刊。1400円+税)

2008年1月30日

田沼意次

著者:藤田 覚、出版社:ミネルヴァ書房
 田沼意次の父の意行(おきゆき)は、紀伊藩の徳川吉宗に仕えていた。吉宗が将軍になったため江戸へ出て、幕臣となり旗本になった。いわば吉宗子飼いの家来であった。意次は意行の長男として、吉宗の長男である家重の小姓になった。蔵米300俵をもらった。父意行の知行600石を受け継いだ意次は23年に1万石の大名に出世した。600石の旗本が1万石という大名になるのは異例の大出世である。
 田沼意次は、徳川家重の小姓から御用取次、ついで徳川家治の御用取次を経て側用人、さらに老中格からから老中に昇進したが、なお側用人の職務をそのままつとめた。老中と側用人とを兼任したこと。これこそ、意次がまれにみる権勢を手に入れた理由であった。
 1684年、当時の大老堀田正俊が江戸城で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺された。この事件をきっかけに、将軍の身の安全から、老中以下の諸役人と将軍とが直接に接する機会を制限した。その結果、将軍と諸役人との間に、側用人や側衆を介在させる仕組みになり、老中といえども、側衆や側用人を仲介しないと将軍に会えなくなった。その結果、側用人など奥づとめの役人たちの役割が大きくなっていった。
 側用人は、将軍に近侍して政務の相談にあずかるとともに、将軍の命令を老中に伝達し、老中の上申を将軍に伝えるという、将軍と老中との間を取り次ぐのが主な職務である。側用人は将軍の意思を体現する存在である。側用人が幕政に強い権勢をふるうには、将軍の特別な恩顧のほかに、個人的な野心や能力が必要だった。
 側用人政治を否定したとされる吉宗は、幕府政治の改革にあたり、みずから新設した御用取次をつかって、側用人政治とよく似た政治運営をしていた。
 田沼意次が活躍したときの将軍家重と家治は、いずれも幕府政治に積極的に関わろうとしないタイプの将軍だった。
 田沼意次が幕府政治と直接関わるようになったのは、美濃郡上一揆の処理から。この一揆は、宝暦4年から8年にかけてのこと。幕府は、老中、若年寄という重職を罷免し、若年寄を改易、大名金森の改易という、まれにみる厳しい処罰を断行した。これを果断に処理したのが御用取次の田沼意次だった。
 町奉行や勘定奉行など、幕府の重要ポストには、田沼意次と直接の姻戚関係もふくめ、何らかのつながりをもつ役人たちが配置されていた。田沼意次は、子弟や姪らを介して、老中2人、若年寄1人、奏者番2人、勘定奉行などと姻戚関係をがっちり結んでいた。
 重要な政策は、その発議が意次か奉行であるかは別にして、意次と担当の奉行が事前に協力して立案し、そのあとで老中間の評議にかけていた。意次は幕閣の人事を独占しただけでなく、幕府の政府を主導していた。
 意次時代には、幕府の利益を追求する山師が跋扈し、田沼意次こそ山師の頭目であった。しかし、これは、田沼意次の政策が革新的であったとも言えるものだ。
 耕地を増加させるため、新田開発策をとった。意次にとってもっとも大きな問題は、幕府の財政をどうするか、だった。
 明和7年(1770年)、江戸城の奥金蔵や大阪城の金蔵にはあわせて300万両もの金銀が詰まっていた。これが天明8年(1788年)には81万両にまで急減していた。
 この時代の山師中の山師は平賀源内である。源内のパトロンが田沼意次だった。
 意次は、銅と俵物の増産に取りくんだ。また、白砂糖の国産化もすすめた。
 印旛沼の干拓をすすめ、ロシアとの交易、蝦夷地の開発もすすめようとした。
 田沼意次が清廉潔白とは言えないが、当時、賄賂は義務的なものでもあった。
 田沼意次は「はつめい」の人と言われた。「はつめい」とは、かしこい、という意味。家来の下々にまで目を配り、家来たちが気持ちよく働けるようにするための配慮や心づかいのできる人物であり、人心操縦の術にたけた人物でもある。
 意次の長男である意知が殿中で切られて死亡すると、意次もたちまち失脚してしまう。それほど反感を買っていたということでしょう。
 出世や優遇を期待して田沼家と姻戚関係をもった大名家や、意次の家来と姻戚関係をつくった旗本家は、かなりの数にのぼった。しかし、田沼家が凋落したとき、櫛の歯を挽くように離縁が相ついだ。その節操のなさには、呆れるほどだ。
 しかし、意次は、「御不審を蒙るべきこと、身をおいて覚えなし」という書面を書いています。意次にも反論したいことが山ほどあったようです。
 意次の素顔を知ることのできる本です。
(2007年7月刊。2800円+税)

2008年1月11日

侍の翼

著者:好村兼一、出版社:文藝春秋
 いやあ、たいしたものです。まいりました。フランスのパリに長く住む剣道の達人である日本人が、江戸時代の侍の生きざまを見事に描き出したのです。剣道8段の腕前です。なんと私と同世代。大学生のときに剣道の指導員としてフランスに渡り、それ以来、フランスで剣道の指導をしているというのです。これまで、『日本刀と日本人』などの本があるようですが、この小説によって作家としてデビューしたというわけです。その勇気と努力に対して心から拍手を送ります。私も遅ればせながら作家を目ざしていますが、道はるかなり、というところです。まあ、それでもあきらめずにがんばります。ぜひ応援してやってください。
 大阪城の陣に参戦し、やがて天草の乱に出動します。そこで、我が子が戦死してしまいます。そのうえ、藩主が自害して、武士を失業。行くあてもなく、江戸に出て、侍の誇りを失わないようにしながらも人夫として働きに出ます。
 妻は労咳、今の結核にかかって、病の床にふせっています。死に至る病いです。夫に心配をかけないように表面をとりつくろった無理がたたったのか、早々と亡くなり、主人公は自暴自棄の心境となります。そこへ由比正雪と知りあい、その謀反の手伝いをさせられようとします。一夜、悶々とした主人公はある決断をします。
 子を失い、妻を亡くした主人公は天涯孤独の身となり、生きる意義を見失ってしまいました。あとは、いかに死ぬるかだけを考えて過ごします。
 天雷无妄(てんらいむぼう)という言葉を私は初めて知りました。无妄とは、妄(みだ)り无(な)し、つまり偽りも迷いもない、ありのままの状態をいう。天の運行は晴曇風雨と、さまざまな象となって現れ、そこになんら天の作為はないのに、地上の我々はえてして慌てふためき、作為をもってそれに反応してしまう。ありのままの天に対して作為はいらない。ありのままに応ずるだけだろう。
 自然の摂理に従う限りは、天に背くことはない。その先に待っているのは、きっと平安であろう。著者の言葉です。味わい深いものがあります。
 この本は12月31日に読み終わったものです。私の読書ノートによると、昨年1年間で読んだ単行本は556冊でした。これからも、いい本にめぐりあうために私はせっせと乱読を続けます。速読の秘訣を尋ねられました。私の答えは、ともかく本を読むことです。好奇心をもって本を読めば、どんどん速く読めるようになるものです。
(2007年11月刊。1667円+税)

2007年11月 9日

銀しゃり

著者:山本一力、出版社:小学館
 いやあ、うまいですね。何が、ですって?そりゃあ決まっています。本のつくりといい、出てくる鮨の美味しそうなことと言ったら、ありゃしませんよ。思わず、ごくんとつばを飲みこんでしまいそうです。
 ときは、江戸も寛政2年(1790年)。木場で働く川並(いかだ乗り)や木挽き職人相手の飯屋で働く職人の話。
 手早く米を洗い、米は1升五合に加減した。水は心持ち多目にした。重たい木のふたから出る湯気は勢いがよかった。シュウッと力強く噴き出した湯気が、炊き上がりの上首尾を請合っているようだった。鮨飯には、シャキッと硬い飯の腰が命だ。
 21歳の新吉は、もっとも江戸で手間賃が高いと言われる、腕利きの大工と肩を並べる給金をもらっていた。最初の給金が24両。月にならせば2両である。天明4年(1784年)は、飛びきり腕のよい大工の手間賃が出づら(日当)700文だった。月に20日、働いたとして、大工の手間賃が14貫文。金に直せば2両3分だ。
 炊き口で火勢を見ている新吉は、薪を動かして炎を強くした。重たい木ぶたの隙間から湯気が立ち始めれば、火をさらに強くするのがコツである。
 煙を出していた薪から、大きな炎が立った。へっついの火が、さらに勢いを増した。炎につられたかのように、湯気が噴き出し始めた。
 木ぶたのわきに手を置くと熱い。すぐさま炊き口の前にしゃがむと、まだ燃え盛っている薪を取り出した。三本の薪を取り除いたところで、湯気の勢いが弱くなった。飯が炊き上がりつつある。思いっきり細めた火が燃え尽きたところで、へっついから釜をおろす。そして、しっかり木ぶたを閉じた。ここからゆっくり三百を数え終われば、飯が一番うまく蒸し上がる。
 うまいものですね、この描写。本当に飯がうまく熱々に炊き上がる情景が眼前に浮かんできます。子どものころ、キャンプ場で飯ごう炊飯しました。夏休みに兄と田舎のおじさん家に行くと、炊事場にはへっついや釜がありました。なつかしく思い出します。
 湯気が消えて、釜のなかの飯が見えた。ひと粒ひと粒、きれいに立っている。一合の酢に40匁の砂糖をつかう。
 炊き上がった賄いメシを口に含んだとき、新吉は心底から驚いた。米粒が艶々と光っていたし、米には旨味が加わっていた。旨味はコンブのものだけではなかった。井戸水の塩気を巧みに残し、その味にコンブの旨味を乗せていた。
 こいつあ、てえした按配だ。
 私と同年生まれの著者の筆力には、いつもほとほと感嘆させられます。
(2007年6月刊。1600円+税)

2007年11月 2日

露の玉垣

著者:乙川優三郎、出版社:新潮社
 登場人物はすべて実存するという歴史小説です。窮乏にあえぐ越後の新発田藩。その家老たち一族の物語が史実をふまえて生き生きと語られます。
 話は天明6年(1786年)に始まります。家老の溝口半兵衛はまだ31歳の若さ。記録方で歴代藩主の廟紀(びょうき)を編纂(へんさん)していた。
 新発田藩は慶長3年に藩祖溝口秀勝が入封して始まった。5万石から、新田開発を続けて、実高は9万石をこえた。広大な平地と水に恵まれながら、潟や湿地が多く、米のほかにこれといった特産物がなく、ひとたび川が氾濫すると、水泡に帰してしまう。
 溝口家の祖は藩祖秀勝の弟である半左衛門勝吉にはじまり、以来、賓客として徒食を強いられてきた。家中に溝口を名乗る家はいくらかあるものの、先祖が家臣となったのちに溝口姓を賜ったものが多く、代々、半左衛門か半兵衛を名乗ってきた彼の家とは主家とのつながり方が違った。家老の溝口内匠(たくみ)の実氏は加藤であったし、武頭(ものがしら)で普請奉行の溝口数馬の先祖は坂井といった。どちらも元は織田家の家臣で、信長の死後、溝口に仕えた。彼らが高禄を食んで重く用いられてきたのに対し、半兵衛の父祖は賓客としての名誉を与えられたかわりに、およそ藩政や重要な役目に関わることはなかった。そのため、知行が増えることも減ることもほとんどなかった。
 家中の祖には織田をはじめ、逸見、斎藤、浅井、朝倉、柴田、蒲生、加藤といった家々の遺臣が多い。加えて松平や上杉、酒井や細川などから任官替えした家臣たちの子孫が城の周りに軒を並べている。もし一斉にかつての旗印を掲げたら、まるで乱世の縮図のようではないか。
 ひゃあ、そうだったんですね。江戸時代の藩士というのは、いろんな地方の元浪人を抱えこんで成り立っていたのですね。おどろきました。
 家老が博奕(ばくえき。バクチです)を好み、博打仲間が切腹させられ、本人は隠居させられるという事件も起きました。
 学問せぬものは、目なき擂鉢(すりばち)といって、人のためにも自分のためにもならん。当人はそのことにも気付かずに未熟な自分ひとりの考えを正しいと信じて一生を終えてしまうものだ。なーるほど、ですね。
 信長の死後、羽柴秀吉が明智光秀を討ち果たし、やがて天下取りをかけて柴田勝家と対立したとき、高浜城主となっていた溝口秀勝は羽柴方の丹羽長秀の武将として参戦したが、同時に柴田方へ家臣の柿本蔵人を、念には念を入れて羽柴方へ姉婿の加藤清重を送っている。やはり信長の遺臣で、勝吉とともに柴田に属した溝口久助こと丹羽久助秀友は清重の娘婿であったから、兄と弟、義父と婿、主君と家臣がそれぞれ敵味方に分かれて戦った。 藩主のお国入りの準備役が、本陣として予定していた町で大火が起きて予定が狂い、ほかにもいろいろ変更があって乱心し、同役を斬り殺してしまった。もちろん、切腹。やはり、すまじきものは宮仕え、なのですね。
 連年の災害と借上げ、終わりのない生活の苦しさも、そこへ巡ってきた馴れな役目と対象的な相役、予期しない日程の変更、津川の大火、そういうものが重なりあって悪く働いた結果の乱心ではないか。運の悪さは夫の罪ではない。乱心は御宿割の役目を果たしたあとのこと、重責やそこに至るまでの苦悩を斟酌しないのはおかしい。彼の妻はこのように言い募った。
 江戸の人々の生活と心理状態が見事に描かれた本です。さすがは実録歴史小説だと感嘆しました。私も一度はこういうものを書きたいと考えています(目下、挑戦中なのです)。
(2007年6月刊。1500円+税)

2007年9月28日

新潟 樽きぬた

著者:火坂雅志、出版社:小学館
 江戸時代に、小さいながらもパリ・コミューンみたいなことが起きていたなんて、ちっとも知りませんでした。
 長岡藩は、固定資産税である地子(ぢし)のほか、新潟湊(みなと)に出入りする船の積み荷の取引にかかる仲金(すあいきん)を取り立ててきた。そのうえ、臨時税として1500両もの御用金として新潟町に課した。新潟町の町政を取り仕切る検断は、昔から定員3人で、長岡藩が指名した。このときは1人欠けて2人の検断となっていた。室屋と加賀屋である。いずれも新潟で一、二を争う廻船問屋である。
 廻船問屋は新潟湊へ出入りする船から荷を買いつけ、売りさばく権利を一手に握っている。そのうえ、千石船、五百石船を何艘も所持し、大坂と蝦夷地の松前を結ぶ西廻り航路であきないをおこない、莫大な利益を得ていた。この豊富な資金力を元手に、田畑や山林を買って大地主となり、さらに経済力をつけていった。
 検断や町老人以下の町役人には、御用金の免除という特権も与えられていた。
 ときは明和5年(1768年)。天候が不順だった。雨の日が続いて、河川が氾濫して洪水が起きた。7月には台風に襲われ、イナゴの大発生によって田畑は壊滅的な打撃を受けた。米の不作は深刻となり米価は天井知らずに暴騰していった。
 そこで、長岡藩に対して、御用金の残る半分750両の先延ばしを嘆願することになった。ところが、裏切り者が出て、町会所(まちがいしょ)に洩れてしまった。
 検断は謀議の首謀者を町会所に呼び出し、入牢を申しつけた。
 それに町民が怒り、暴動を起こした。検断や町役人、米問屋などが次々に打ちこわされていく。ついに、町奉行は、これ以上の一揆の広がりを恐れて首謀者を釈放した。新潟町の打ちこわしは、9月26日、27日の2日間で終わった。2日で24軒が襲撃された。
 そして、町民自治が始まった。交代で町を警戒し、困窮した町民を救済した。買い占めていた米問屋に米を供出させ、米価を引き下げた。豆腐も酒も、日常用品を強制的に値下げさせた。質屋の利息を月2分に下げ、臨時に5軒の質屋を新設して、誰もが借金できるようにした。
 これより町中公事(くじ)、沙汰、また金銀の出入りごと、何ごとも、涌井藤四郎の取り計らいにてすまずということなし。
 町会所の町役人が失脚し、代わって選ばれた町中惣代となった藤四郎が町民の話しあいをもとに町政を取り仕切った。まさしく前代未聞の次第である。
 わずか二ヶ月とはいえ、この状態が続いたのです。しかし、ようやく態勢を立て直した長岡藩は、涌井藤四郎ともう一人を騒動の責任者として市中引き廻しのうえ打首獄門としました。
 涌井大明神として、今も人々に敬われているというのです。すごーい、ですよね。
(2007年9月刊。1400円+税)

江戸の転勤族

著者:高橋章則、出版社:平凡社
 タイトルと本の内容とのギャップが大きすぎます。むしろ、サブタイトルの「代官所手代の世界」がぴったりですし、さらにはオビにある「手代たちは狂歌がお好き」がもっと内容をあらわしています。
 江戸幕府の直轄地である天領を治める実務家である代官所手代は全国各地を転勤していたというのです。そして、彼らの多くは狂歌をたしなむ文化人でもありました。代官所手代は江戸時代の文化を担っていた人たちでもあったのです。
 代官手代とひとくくりにされている代官所の主要な構成員である「手附」(てつき)と「手代」(てだい)のうち、手附は、武士身分を有しており、代官同様に全国を転勤する転勤族であった。
 手附が幕臣であるのに対して、手代は農民・町人のなかから事務に習熟した者が縁故によって採用された。民間人が見習いの書役として出仕し、昇格して手代となり、なかには手附と同様に上位管理職である元締めとなった。そして、さらには武士身分を獲得し、手附となり、代官になった例すらある。
 飛騨高山には「高山陣屋」が再現されています。私も一度だけ行ったことがあります。
 この高山陣屋の主は、郡代とも呼ばれ、全国の10数%を占めた天領の行政・裁判の執行者である代官の最高位を占めたエリートだった。石高でみると、普通の代官領が5万石程度であるのに、郡代領は、その倍の10万石ほどであった。郡代は、関東・美濃・九州・飛騨の要衝地4ヶ所におかれていた。
 漬け物に あらねど人の 孝行は 親を重しと するが肝心
 老いらくの 身には針より 按摩より 気をもまぬこそ 薬なりけり
 なかなかよく出来た狂歌だと思います。
 お寺の扁額に狂歌作者たちの画像が描かれているものが紹介されています。ちょうど、公民館に歴代館長の写真を飾るような感じでしょうか・・・。
 江戸時代には役者から学者に至るまで、さまざまな人品をめぐる番付表が作成されていて、それぞれの世界における秩序・序列が可視的にまとめられていた。狂歌の世界でも多くの番付表がつくられた。ということは全国の狂歌作者が相互に知りあっていたということを意味する。
 ふーん。そうなんですね。江戸時代って、タコツボのような閉鎖社会ではなかったということですね。
(2007年7月刊。2600円+税)

2007年8月23日

江戸城、大奥の秘密

著者:安藤優一郎、出版社:文藝春秋
 大奥は、将軍の正室(御台所)、側室、将軍の子女、そして勤務する女性たち(奥女中)の生活の場である。もちろん、将軍の寝所もある。その面積は6318坪もあり、本丸御殿の半分以上を占める。表向(おもてむき)、中奥(なかおく。将軍が日常生活を送る空間で、居間)をあわせても4688坪に過ぎない。
 大奥というと、男子禁制の空間というイメージが強い。もちろん、将軍は例外だが、実は将軍以外の男性の役人も常時詰めていた。大奥内部は御殿向(ごてんむき)、長局向、広敷向の三つに分けられる。広敷向には、大奥の事務を処理したり、警護の任にあたる広敷役人が詰めていた。大奥といっても、この空間だけは男子禁制ではなかった。長局向と広敷向の境は七ツ口と呼ばれ、大奥に食料品など生活物資を納入する商人が出入りしていた。奥女中も出てきて、くしやかんざし、化粧品などの小間物(生活用品)を注文する。五菜(ごさい)と称する、奥女中に代わって城外での用件を果たす男性使用人(町人)も七ツ口までは出入りしていた。
 奥女中とは、いわば幕府の女性官僚である。下働きの女性をふくめると1000人をこす女性が働いていた。上級の奥女中の収入は500石クラスの中級旗本なみ、年収   1000万円。しかし、つけ届けがあるため、その実収入は相当なものだった。奥女中の蓄財は、1000両は普通で、7000両ということもあった。これは数億円レベル。幕臣に支給される米のうち、最上等の米は奥女中に支給され、それよりも質の下がる米は、権勢のある幕府役人に、何の権勢もない者には最下等の米を渡すのが慣例だった。
 さらに、奥女中のうち年寄と表使(おもてつかい)には、別に町屋敷が与えられた。その土地からあがる収入を自身の手当に充てることが許されていた。年寄の場合、200坪前後の地所を拝領し、労せずして年に8〜9両の地代収入があった。
 また、30年以上、大奥でつとめた者には、サラリーである切米と衣装代である合力金のうち多い方、さらに扶養手当の扶持米も、一生支給する規定が設けられていた。年金のようなものである。
 中臈(ちゅうろう)に与えられていた合力金は40両。しかし、この金額では足りず、実家に無心する女性が多かった。衣類代がかさんでいた。奥女中たちは、衣類をも古着屋に出す。江戸には、古着を扱う商人がなんと3000人ほどもいた。
 将軍の身の回りの世話をするのは、御小姓と御小納戸である。御側御用取次(おそばごようとりつぎ)のような政治職ではないが、ふだんから将軍の身近にいるため、隠然たる実力をもつことがある。
 小姓のほうが小納戸よりも格式は高かったが、その威を誇っていたのは、むしろ小納戸のほうだ。小姓は将軍の身辺を警護する役だが、小納戸は理髪や膳方など、将軍の衣食住の世話を直接する役である。小納戸のほうが、将軍にとっては、より身近な存在だったからだろう。小納戸の頭取職ともなると、将軍の御手許金を管理したり、あるいは将軍が鷹狩りなどで城外に出るときには、その現場責任者をつとめた。御側御用取次よりも格式は低かったが、中野石翁のように、将軍家斉の信任を受け、諸大名に恐れられるほどの実力を誇る者もいた。
 大奥と側近衆は、お互いに利用しあいながら、幕政への発言権を強めていった。
 大奥の経費は年間20万両と言われていた。大奥の経費とは、あくまでも将軍の生活費である。松平定信の寛政の改革は、この大奥経費を3分の1に減らした。だから大奥が反発したことは容易に想像できる。当然の成り行きとして、大奥は定信の前に抵抗勢力として立ちふさがった。改革は挫折に追いこまれた。
 家斉将軍のころ、ある大奥女中は次のように語った。
 自分たち奥女中が、どんなに贅沢な生活を送りたくても、先立つものがなければかなわないこと。しかし、それが可能なのは、幕府役人が頼みもしない賄賂を次から次へと大奥に贈ってくるから。大奥の贅沢な暮らしを止めるためには、幕府役人の賄賂を止めない限り、効果はない。
 なーるほど、ですね。大奥の権力の源泉と、その生活の実情の一端をうかがい知ることができました。
(2007年6月刊。690円)

2007年8月17日

幕末下級武士の絵日記

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

2007年8月10日

中世しぐれ草子

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

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