弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年2月15日

北の大地に自由法曹団の旗を掲げて

司法


(霧山昴)
著者 北海道合同法律事務所 、 出版 北海道合同法律事務所

1970(昭和45)年9月、廣谷・三津橋法律事務所が発足。その後1972(昭和47)年に北海道合同法律事務所と改称し、今では弁護士18人、事務局15人を擁する北海道でも有数の法律事務所です。このほか、ここの出身の弁護士も18人います。
発足したころ、札幌地裁では自衛隊をめぐる長沼訴訟が進行中で、福島重雄裁判官が札幌高裁長官から注意処分を受けて辞任を表明したが、そのことについて札幌弁護士会は総会を夜中まで開いて、裁判干渉をした平賀健太・札幌地裁所長について訴追請求をすると同時に、福島判事については辞職を撤回せよと決議し、弁護士会の役員が福島判事宅に乗り込んで説得し、福島判事の辞職を撤回させた。長沼訴訟では、自衛隊は憲法違反だという画期的判決(1973年9月7日)が出た。弁護士会が臨時総会を開き、夜中まで審議して決議したなんて、今ではとても信じられない熱気を感じますね。
1970年ころは、乾式コピー機がなく、カーボン紙をはさんで手書きする、せいぜい和文タイプする、コピーは青焼きという時代。この青焼きは湿式で、回転ローラーに原稿がはさまってしまったり、大変苦労したこともありました。
当時の工藤祐三事務局長は、「緩やかに日々が流れていて、今のようにテンポが速くなく、追いまくられずに、ゆったりとできた」と語っています。とはいっても、その仕事ぶりは、どんなものかというと...。事務所の近くの中華料理店(「北京楼」)でジンギスカンをコーリャン酒も飲みながら食べ、そのあと向かいの銭湯に入り、酔いをさまして仕事に戻るというもの。今瞭美弁護士は、「午後3時ころになると裏手にあった中華料理店から料理をとって小宴会をした」と書いている。
村松弘康弁護士は、もっとマナマナしく1980年前後の状況を明らかにしてます。
「当時は、土日なく働くのは普通だった。土曜日は、顧問先で法律相談を受けて、夕方は事務所で仕事した。ある日、夜遅く帰宅すると、大事にしていた本が玄関にバラバラになって散乱していた。家にひとり放置されていた家人の無言の抗議だった。ゆっくり仕事ができるのは日曜日くらい。日曜日は事務所のビルが閉まるため、土曜日の夜に2階の窓のカギを外し、ハシゴを準備して帰宅し、日曜日、管理人のいないころにハシゴをかけて2階の窓から『出社』していた。管理人に発見され、注意され、謝罪した。そのうち、管理人からは、『ケガするなよ』と注意されるだけになった」
管理人から「ビルの門限を守らない、夜中の出入りは困る。一度や二度ならともかく、常態化している」というクレームが何度も来ていたことを工藤事務局長も書いています。
田中貴文弁護士(40期)は、「24時間、戦えますか」という時代風潮のとおり、地下鉄の終電ギリギリまで事務所にいるのは当たり前で、時には仕事終わりが深夜に及ぶこともあった。たまに朝早く事務所に出ると、机の下のカーペットの床に石田明義弁護士(33期)が転がっていることが二度や三度ではなかったと回顧しています。2008年に入った山田佳以弁護士(新61期)も、深夜0時すぎまで仕事するのがフツーの生活で、第一子の出産予定日も仕事をしていたとのこと。
では、いったい、なんで、こんなに忙しかったのか...。
北海道合同には新人が3人一緒に入所したことが2度もあり、そのときに「経営危機」に陥ったようです。1回目は、1974(昭和49)年のことで、このとき私の同期(26期)でもある今重一・今瞭美、そして猪狩久一弁護士の3人が入り、「事務所にあった現金がまたたく間に底をついたが、新人3人は何とも動じなかった」というのです。同期ですから当然、私もよく知っていますが、まさしく当時も今も豪傑の3人です。そして、もう1回は40期の3人(笹森学、佐藤博文、田中貴文弁護士)が入所した1988(昭和63)年のこと。本人たちは、「給料以上に働いた」と言っていますが、新人が稼げるようになるまでは事務所としては大変だったろうと思います。
いったいぜんたい、何で、そんなに忙しかったのか、それも、この本を読むとよく分かります。目次をみると、扱った主要な事件として、薬害スモン訴訟、北炭夕張新鉱ガス突出災害事故訴訟、石炭じん肺訴訟、国鉄分割・民営化・全動労をめぐる訴訟、統一協会・青春を返せ訴訟、B型肝炎訴訟、自衛官人権弁護団、建設アスベスト訴訟、新・人間裁判、陸上自衛隊南スーダンPKO派遣差止訴訟、などなどです。いやあ、これだけの世間の耳目を集める訴訟を本気で勝つために追行するには、たしかに休日返上、深夜まで書類作成等で必要だったことでしょう。でも、ワークバランスが強調されている今日、そんな過重労働を今やっていいのかというと、必ずしも無条件で肯定できないことですよね...。
クロム患者の代理人として活動していた村松弁護士は、原告団事務局長が入院したとき、定期的に病室に行って、次第に衰弱していく様子をビデオに撮ったこと、また、亡くなった直後の遺体解剖にも立ち会い、解剖中の主治医が村松弁護士の右手をつかんで腹の中に差し入れ、「まだ暖かいだろう」と声をかけられ、いのちの名残りの温かさを感じて涙がこみあげてきたとのこと。想像するだけでも胸が詰まります。
北海道合同で特筆すべきことは、何人もの弁護士が候補者となり、議員となったということです。そのトップバッターは、創設者の廣谷陸男弁護士で、北海道知事選挙に立候補しました。以下、順不同でいくと、高崎裕子弁護士が1期6年間、参議院議員(日本共産党)をつとめました。猪狩久一弁護士は道議会議員に立候補することになって札幌市西区に猪狩康代弁護士とともに法律事務所をつくりました。惜しくも当選できませんでした。そして、つい最近(2019年)、札幌市長選挙に立候補した渡辺達生弁護士(46期)です。短期間で得票率30%、26万票以上をとったのですから、たいしたものです。首長選挙に出たのは廣谷弁護士以来36年ぶりとのこと。渡辺弁護士は下戸なので、スイーツ好きで、FBにはいつもでっかいパフェが登場します。
内田信也弁護士(38期)は、NPO法人子どもシェルターレラピリカの理事長をライフワークとしています。「レラピリカ」って、どんな意味なんでしょうか...、それにしてもすごいことです。
こんな雰囲気の事務所にしたのは創設者の廣谷弁護士の個性が大きいようです。いつも笑顔を絶やさず、違いよりも共通点を見つけて行動する、真の自由人だった。自らが自由であるだけでなく、相手の人の自由も尊重した。
まさしく「個性豊かな弁護士の集まり」を実感させる貴重な50年史になっています。
(2022年1月刊。非売品)

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