弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年12月23日

鎌倉殿と執権北条氏

日本史(鎌倉)


(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版 NHK出版新書

なぜ源頼朝が苦労してうちたてた鎌倉幕府が、いつのまにか妻・政子の出身母体である北条氏一門で牛耳られるようになったのか...。北条政子は自分の子より、なぜ実家を大切にしたのか...。鎌倉時代には不思議なことが多いですよね。
源頼朝が伊豆で挙兵したとき、まず一番にやったのは山木攻め。このとき、わずか3~40人ほどの兵力で奇襲をかけた。この奇襲において北条氏は頼朝軍のまさしく中核だった。
ところが、石橋山合戦では頼朝軍は大敗し、頼朝自身も闘わずして上総・安房(あわ)に逃れた。
鎌倉時代には、敵対者の子が男なら、たとえ赤ん坊や幼児であっても命を奪うのが常だった。
このころ、武士は、恩を施してくわる者こそ主君だとみていた。
源平合戦の一つとして有名な「富士川の戦い」においては、甲斐源氏はともかく、兵力差におじけ(怖気)づいた追討軍のなかから数百騎が脱走したため、やむをえず撤退したのではないか...。
北条義時は、忠実なる御家人として頼朝に仕えた。
北条時政は、頼朝の期待にこたえた。ただし、少し調子に乗りすぎた。
頼朝自身は53歳で死亡。政子は、源家の若い当主である頼家を支える家長。御家人たちも政子の意見には従った。頼家は「暗君」ではない。積極的に幕政に関与し、将軍親裁(しんさい)を執行していた。
「比企(ひき)の乱」は、追いつめられた北条時政ら北条氏の側が仕かけたクーデターであり、その実態は「北条の乱」と呼んだほうがいい。
源実朝が鎌倉殿を承継したときは、わずか12歳だった。このときから北条時政の独走が始まった。
牧氏事件は、政子と北条義時ら、方丈時政前妻の子たちが将軍実朝と協力し、時政と後妻の牧の方を追放した事件。
北条義時は、情勢分析がうまく、適切なチャンスが来るまで、じっと待機していた。チャンス到来と判断すれば果断、迅速に行動した。
和田合戦で和田義盛の和田氏が滅びてしまった。
承久の乱における北条氏と後鳥羽上皇の駆け引きが詳しく紹介され分析されているところは、なるほど、そういうことだったのかと思わず膝を叩いてしまいました。
後鳥羽上皇が許せなかったのは、大内裏(だいり)焼失の原因をつくった鎌倉幕府が再建に協力しないこと。
後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発した。これに対して、義時の姉の政子が動いた。「尼将軍」政子の演説は、今も日本史上に残る名演説です。このとき、政子は簾中(れんちゅう)から言葉を発するという手続を踏んだ。この政子の演説によって御家人たちは激しく心を動かされた。
このとき、後鳥羽上皇が命じたのは、朝敵義時の追討だったのに、あたかも幕府本体への攻撃だったと政子はうまくすりかえた。すなわち、政子は義時追討を「三代の将軍の遺跡」幕府そのものへの攻撃であるかのように巧みにすり替えた。
そして、幕府を構成する御家人たちの危機感があおられ、鎌倉幕府の解体の危機がつきつけられた。その状況からして、御家人たちには「鎌倉方」を選択するしかなかった。
義時の率いる鎌倉勢は、圧倒的な実戦経験があった。和田合戦などで実戦を通じて学んでいた。これに対して、京方の将兵は実戦経験に乏しかった。
後鳥羽上皇は、さすがに「治天の君」として策略を立て、三段がまえの戦略を立てた。しかし、万が一に備えておくこともしなかった。
執権北条って、決して盤石ではなかったということがよく分かりました。歴史のダイナミックを実感させられる本です。
(2021年9月刊。税込1023円)

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