弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年3月 2日

戦略爆撃の思想

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 前田 哲男 、 出版 朝日新聞社

日本の敗戦後、アメリカ軍は日本全土に対して焼土作戦を敢行しました。軍需工場を狙うのではなく、都市を狙い、大人も子どもも、女性も老人も戦闘員がどうか関係なく無差別に爆撃の対象としたのです。これって戦争に関する国際法に違反していると思います。ところが勝者のアメリカ軍の蛮行は何ら問題とされませんでした。原爆投下と同じです。
しかしながら、都市を狙って無差別爆弾を世界で最初に始めたのは、なんと日本軍でした。中国の重慶を狙ったのです。もちろん、その目的は都市住民の戦意を喪失させることでした。しかし、結果は逆でした。重慶の市民は戦意喪失どころか、ますます抗日意欲に燃えて立ち上がったのでした。
そして、アメリカ軍から派遣されて日本軍による爆撃を観察していたカーチス・ルメイは、あとで、日本の本土空襲の先頭に立ったのです。なんという歴史の皮肉でしょうか。
1939年5月。日本軍の重慶爆撃は、「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された。それは、組織的・継続的な軍事作戦だった。ドイツ空軍のゲルニカ(スペイン)攻撃より1年あとだったが、1日限りではなく、3年間、218次の攻撃回数を記録した。
空襲による直接の死者だけで中国側集計によると1万2千人近い。
重慶は、世界どこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市である。重慶爆撃は、東京空襲に先立つ無差別都市爆発の先例だった。
重慶爆撃では、加害者の人影は地上にはなかった。一方的な機械化された殺戮の世界だった。1万人以上の人々が、侵略者がどんな顔つきをしているのか、知る機会もなく死んでいった。日本軍は、重慶において、「工業期戦争の虐殺」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけた。やがて、その悪夢の世界は、東京、大阪、名古屋をはじめ、日本全土主要都市の住民に追体験されることになる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。
日本軍は、南京占領のあと武漢を攻略したが、これ以上の地上進攻はありえないという点で、政府も軍中央も現地の派遣軍も、三者の認識は一致していた。
敵の継戦意思を挫折させるという空からの爆撃作戦はヨーロッパ渡りではなく、日本独自のものだった。日本軍は協力を誓わない中国人をすべて潜在的な敵とみなした。
重慶の爆撃目標地点は、市内中心部の中央公園と定められた。
都市に対する爆撃でもっと威力を発揮するのが焼夷爆弾であることは既に証明ずみであったから、3000発の製造命令を出していた。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していたアメリカ人のシエンノートは、日本軍による重慶爆撃を観察した体験をふまえて、アメリカ政府に対して、対日戦用として焼夷弾の開発をすすめるよう提言した。
日本軍は、5月3日に45機、5月4日に27機、計72機(1機7人、のべ504人)で、わずか2日間のうちに重慶市民5千人を上回る大殺戮を遂行した。
このとき重慶にいた、アメリカ人のエドカー・スノーは、重慶市民が精神的な破壊から免れていて大衆の抗戦意欲はますます強化されていることを理解した。むしろ、病労し、崩壊したのは、侵略者(日本軍)のほうだった。
ところが、日本軍首脳は、重慶の上空を制圧していれば、中国は屈服すると信じきっていた。1939年に海軍が失った機数は26機にのぼった。年間生産機数が38機だったかたら、損害許容率をはるかに超えてきた。
日本軍は1940年に「百一号作戦」を遂行した。井上成美少将が計画立案したもので、112日間、32回の無差別爆撃を遂行した。ところが、爆撃に必要な石油は、その大半がアメリカからの輸入に頼っていた。
ゼロ戦(零戦)が8月19日に護衛任務で同行した。ゼロ戦の航続力は3500キロで、重慶まで往復で960キロだった。9月13日、ゼロ戦と中国機が交戦したが、中国機27機が文字どおり「殲滅」されてしまった。1941年に日本軍は「102号作戦」を発動した。
1988年に発行された古い本ですが、歴史書でもあるので、記述されている内容な古臭くなってはいません。「敵基地攻撃論」に惑わされている人も少なくないようですが、戦略爆撃は罪なき人々を空から大量虐殺しただけで、日本軍にとって何のプラス面もありませんでした。そして、これを注意深く観察していたアメリカ軍将校によって日本は手ひどくしっぺ返しされたのです。大変勉強になりました。
(1988年8刊。税込2750円)

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