弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年11月26日

ベトナム戦争と韓国、そして1968

韓国


(霧山昴)
著者 コ・ギョンテ 、 出版 人文書院

アメリカがベトナム侵略戦争をすすめていたとき、韓国軍もベトナムに派遣され、ベトナムの人々と戦いました。韓国軍の兵士が5千人も亡くなり、1万人あまりが負傷したのですが、ベトナムの人々を5万人も殺したとのこと。
そのなかで、アメリカ軍がソンミ村で罪なき市民を大量虐殺したのと同じように、韓国軍も平和な村へ進攻して、何の罪もない非武装・無抵抗の村人たち(年寄りと女性・子どもがほとんど)を大量に虐殺したのでした。この事件は直後にアメリカ軍が駆けつけて証拠写真を撮り、アメリカ軍のウェストモーランド司令官が正式に書面で韓国軍に調査を要求したことで表面化しました。
1968年2月12日、ベトナム中部のフォンニャット村で74人の村人が虐殺された事件です。この本は、なぜ虐殺事件が起きたのかを、当時の韓国社会の状況、ベトナム戦争の実情、そして加害者である韓国軍元兵士、被害者のベトナム人遺族と生き残った人々へのインタビューによって多面的に構成されていて、とても読みごたえがありました。
韓国軍によるベトナム戦争時の民間人虐殺の犠牲者は9千人にのぼるといいます。韓国人兵士はベトナムの子どもたちに優しく接していたという報道があります。恐らくそれも本当のことでしょう。でも、ひとたび戦場に投入され、殺すか殺されるかの極限状況に置かれたら、タガが外れてしまって「動くものは皆殺せ」とばかり何も抵抗していない民間人に発砲していったのでしょう。恐ろしいばかりです。
1968年2月1日、南ベトナムの治安局長のロアン将軍がサイゴン(ホーチミン市)の街頭でベトコン将校の頭にピストルをつきつけて即決処刑した。この場面はあまりに有名です。何ら尋問することもなく、裁判によらず、カメラマンなどのマスコミもいる面前でベトコン容疑者の頭に向かってピストルを撃って殺すとは...。野蛮な行為そのものですが、それはベトナム戦争の本質をずばりあらわすものでもありました。
このときのテト攻勢によって、アメリカ大使館はベトコン特攻隊(19人)によって6時間も占拠されています。
このテト攻勢は、ベトコンと北ベトナム軍は3万人もの犠牲者を出し、軍事的には失敗したと言われている。しかし、政治的にみると、アメリカ国民のベトナム戦争に対する見方を根本的に転換させたという点で大きな意義があったことは間違いなく、軍事的失敗を上回る大きな成果を上げたと評価されています。私もそう考えています。なにしろ、強大なアメリカ軍の象徴であるアメリカ大使館がベトコンによって半日ほども占拠されたのですから、ベトコンの不屈の力をアメリカ国民に見せつけることに成功したのです。このあと、アメリカ国内にはベトナム戦争の行方に疑問をもつ国民が増え、ベトナム反戦運動が大きく盛り上がりました。私も大学2年生でしたが、ベトコンってすごーい、と驚嘆したことを今でもはっきり覚えています。
ちなみに、ベトコンというのは、アメリカ軍が南ベトナム民族解放戦線(NLF)を「ベトナム共産主義者」と軽蔑して表現するコトバです。日本でも韓国でも、マスコミが普通に使っていました。私も日常用語として深く考えもせずに当時は使っていました。
このロアン将軍は、3ヶ月後の5月5日に、ベトコンの狙撃手に狙われ足を撃たれたが、命だけはとりとめ、サイゴン陥落後にアメリカに渡って、1998年7月、68歳で亡くなった。
1968年1月21日(日)、北朝鮮の特殊部隊員31人が韓国の首相官邸である青瓦台を襲撃した。この襲撃は失敗に終わり、31人のうち1人だけが投降し、残る1人が北朝鮮に逃げ帰ったものの、残る全員が死亡した。
北朝鮮はベトナム戦争を支援するため、ミグ戦闘機とパイロット87人を北ベトナムに派遣した。うち14人が戦死したという。地上軍の派兵はしていない。
1月21日の青瓦台襲撃は、北朝鮮にとって、「南朝鮮革命」攻勢の一つであり、ベトコンへの側面支援でもあった。
朴大統領は北朝鮮への報復爆撃をアメリカに求め、ジョンソン大統領はそれを拒絶した。
「シルミド事件」は、このあとに起きた悲劇なんですよね...。
青瓦台襲撃事件で唯一生き残ったキム・シンジョは北朝鮮軍の特殊部隊の厳しい訓練状況を暴露した。その結果、韓国軍は服務期間が延長され、訓練内容も厳しいものに変えられた。
ベトナムに派遣された海兵第二旅団は4800人。対する敵兵力は8700人と想定されていた。これは北ベトナム軍第二師団7400人とベトコン地方軍1300人を加えたもの。
フォンニャット村はベトコンの解放区で、村長もベトコン。村の人口300人で、遊撃隊80人が活動していた。ベトコンの遊撃隊員は狙撃と監視が主たる任務であり、中隊規模の敵兵力に対峙するのは山中に身を隠す正規軍の役目だった。
韓国軍の海兵第二旅団は空軍に負けてはならなかったし、ベトコンに負けては、さらにいけなかった。
アメリカ軍司令官による調査要求に対して、韓国軍は、ベトコンが韓国軍偽装用の軍服を着て残虐行為をして、責任を転嫁して韓国軍についての悪宣伝に利用したものだと弁明した。
たしかに、朝鮮戦争のとき、韓国軍兵士が人民軍の服装をして北進し、人民軍の後方を攪乱することがあった。そのときの部隊長がベトナムに派遣された韓国軍司令官チェ中将だった。なるほど、自分の体験をもとに偽装事件をデッチ上げようとしたわけです。
戦争中に敵の軍服を着用して偽装するのは、ときにあったようです。第二次大戦中、ナチス・ドイツ軍がヨーロッパ戦線(たしかアルデンヌの森)で偽装してアメリカ軍の部隊を攪乱したことがあったと思います。
それにしても、ベトナムでベトコンが韓国軍兵士に偽装して村民を大量虐殺したというのには無理がありすぎます。わずかながら奇跡的に生存者もいたのですから、同じベトナム人が韓国軍兵士に偽装していたら、すぐに見破ったはずです。
ベトナムには自由射撃地帯と射撃統制区域があり、フォンニャット村は、何でも自由に撃ってよい自由射撃地帯ではなかった。なので、韓国軍の村民虐殺は許されることではありませんでした。しかし、韓国軍は兵士の士気低下を恐れて何も処罰しなかったのでした。
朴大統領が青瓦台襲撃事件の報復として対北軍事報復しようというのを、アメリカのジョンソン大統領は断固として阻止した。それは、北朝鮮の思うつぼにはまるだけのことだと考えたからです。
1968年2月というと、私が大学1年生の終わりころのことです。この年の6月から東大闘争が始まっていますし、ベトナム反戦のデモや集会にしばしば参加して、声を枯らしていました。1968年の1年を複眼的にみることのできる、いい本です。一読を強くおすすめします。
(2021年8月刊。税込3960円)

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