弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年11月 3日

都鄙(とひ)大乱

日本史(中世)


(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版 岩波書店

この本は、平安時代末期の源平合戦のころの日本を対象としています。とても勉強になりました。知らないことが次々に出てきて、朝からずっと裁判のあいまに読みふけって、夕方までに完読しました。
本書は、治承4(1180)年5月の以仁王(もちひとおう)の乱から元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦での平氏滅亡までの、足かけ6年にわたって続いた、鎌倉時代成立に至るまでの戦乱の時代を扱っている。
そのなかで、義経のひよどりごえの戦いも、軍紀物語の話だとされています。
治承・寿永の内乱と呼ばれるのは、この戦乱が単なる源平の戦いに解消されない、激動と創造の時代であったことによる。貴族化し、腰ぬけ武士になったために負け続ける平家(へいけ)と、質実剛健で死をも恐れ東国の武士という、紋切り型の対比は必ずしも正しいと言えないこと。このことが、この本を読むと、よく分かりました。
まずは、平清盛など平家が権力を独占的に握ったことが戦乱を招いて、ついには平家滅亡に至ったという分析・指摘に驚かされました。
クーデターで権力を独占した結果、支配層内部での平家の孤立は深刻なものになった。
また、知行国や荘園を大量に集積し、自らの政治的・経済的基盤としたことは、全国の公領・荘園が生みだし、当時、深刻化しつつあった、中央と地方間の社会的・政治的な対立を、支配層内部で平家がまったく孤立したまま、一手に引っかぶることを意味していた。つまり、本来なら王家や摂関家などに向けられるべき当然の怨(うら)みが、相手を変えて平家に向けられるという皮肉な結果になった。
だからこそ、以仁王が平家打倒を呼びかけたとき、反乱は燎原の火のごとく日本全国に広がった。この内乱は源氏と平家の争覇という次元にとどまらず、広く社会矛盾の激発という本質をもっていた。
平清盛には福原に遷都する強い意欲があったが、以仁王の乱の衝撃から、準備不十分のまま急いで遷都が実行に移された。これが結果として平家を自ら孤立に追い込み、反平家の気運をさらに高めた。
このころ、日本は、西日本を中心として大旱魃(かんばつ)に襲われていて、深刻さが増していた。平家は兵糧米の調達に苦しみ、大軍を動かすことができなかった。
源氏と平氏という氏(うじ)の違いは、この内乱での敵と味方を分ける原因とはなっていない。たとえば、頼朝のもとに結集した関東の家人たちのほとんどは桓武平氏の末流であって、坂東八平氏と、平姓を名乗っていた。
このころ、「駆(かけ)武者(むしゃ)」という言葉があった。平家と日常的な主従関係を結んでいる武士ではなく、国衙(こくが)の力によって駆り集められた地方の武者たち。かれらにとって、戦(いく)さは、稼ぎの機会でしかなかった。これは、平家の軍隊の特色ではなく、平安時代には普通に行われた兵力動員方式だった。
平家軍の侍大将は、大将軍のもとで、その兵を預かり、実戦の指揮をする武将たちをさす。平家軍が大軍化するとき、一門を構成する名家とその御家人集団を単位としながらの連合という形をとる(とらざるをえない)。しかも、全軍を統率する真の意味での最高司令官は存在しない。大将軍と呼ばれていても、他家に所属する御家人への直接指揮は原則として、ありえなかった。
源義経の有名な「ヒヨドリ越えの逆落し」は、実は多田行綱をリーダーとする摂津武士たちによるもの。義経は平家討滅には大功があった。しかし、三種の神器のうち宝剣を回収することができず、安徳天皇を死なせてしまった...。
義経の、あざやかな指揮の連続は、範頼に率いられて、半年ものあいだ、山陽道や九州で戦った人にとって義経は怨嗟(えんさ)の対象ともなった。そこで、義経の進退は、今や、鎌倉勢力と後白河院とのあいだの政治的な綱引きの焦点になった。
源平合戦について、歴史上の豊富な史料にもとづく、目を見張る解説のオンパレードでした。
(2021年9月刊。税込3080円)

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