弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年7月13日

推古天皇

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 義江 明子 、 出版 ミネルヴァ書房

古代日本では、倭王は天皇と呼ばれず、大王であった。6~7世紀の大王たちは40歳以上で即位するものが多い。推古39歳、天武43歳、持統46歳。奈良時代の人々の死亡平均年齢は40歳。40歳まで生きのびた人間は「老(おとな)」であり、長寿の祝いの対象となった。馬子78歳、推古75歳、斉明68歳。みんな長生きしたというわけです。
大王は世襲されたが、継承順位は明確に定まっておらず、群臣(有力豪族)の支持を得た者が倭王になった。
推古は蘇我馬子(そがのうまこ)と叔父-姪の関係。といっても、二人は年齢的にはごく近い。馬子が76歳で亡くなった3年後に推古も死んだ。二人は同世代の政治的同志だったと考えられる。
推古の父は欽明、母は蘇我稲目(いなめ)の娘・堅塩(きたし)。
推古にとって、王権の強化と蘇我氏の繁栄は何ら矛盾するものではなかった。
推古は額田部(ぬかたべ)王。豊御食炊屋(とよみかしきや)姫ともいう。推古というのは、のちの奈良時代になってつけられた漢風の諡号(しごう)である。ということは、当時の呼び名ではなかったというのです。36年間にわたって馬子とともに国政を担ってきたわけで、お飾りなんかでは決してありません。
古代(5~7世紀)の王権は、群臣が治天下大王を選出し、大王は群臣の地位を任命・確認するという相互補完システムだった。
5世紀末までの倭王は、血縁による継承が自明の原則とはなっていなかった。首長連合の盟主たる地位で実力で勝ち得た者が、他の有力首長たちに王として認められ、王を出すことのできる複数の地域勢力が並立する状況にあった。連合の盟主となったものは中国に遣使し、中国の皇帝から「倭王」の称号を得て王としての地位を確かなものにした。継体大王の選出も、このような従来のシステムにそってなされた。しかし、継体以降は、子孫による血縁継承が続いて、世襲王権が形成されていく。
欽明のあとは、母の異なる4人の男女子、つまり敏達、用明、崇峻そして推古が次々に即位した。欽明につづく男女子4人の即位という事実の積み重ねによって、結果的に世襲王権は、成立した。
弥生後期から古墳時代前期まで、地域の盟主たる大首長もふくめて、男女の首長がほぼ半々の割合で存在した。
欽明は即位したとき31歳だったが、まだ「幼年」で、国政を担うには未熟だとみなされていた。
世襲王権は、蘇我氏の強力な支えのもと、欽明と稲目の子孫よりなる王権として成立した。
額田部(推古)は、18歳で異母兄・敏達の妃となった。異母兄との婚姻は、当時において珍しいことではなかった。6~7世紀の大王と周辺の王族は、極端な近親婚を何世代にもわたって繰り返した。そうやって自分たちの権力を守ろうとしたのでしょうね。
崇峻は蘇我馬子と離反したことから、馬子の配下によって殺され、群臣の支持を得て額田部(推古)が即位した。崇峻殺しは、単に馬子の横暴ではなく、足かけ5年の治世をみてきた群臣が、王を見放したことにもとづく。つまり、王としての資質に欠ける崇峻が馬子によって暴力的に排除され、そのあと安定した政治を回復し、統率力ある執政者として額田部を群臣は切望した。額田部は、まさしく蘇我氏と一体の大王として、蘇我氏の本拠地で即位した。
聖徳太子として有名な厩戸(うまやど)は、32歳ころから20年間、推古の下で働いていた。聖徳太子の実像が、この本でもあまり紹介されていません。誰か、古代の歴史のなかでの、推古と厩戸の関係をふくめて具体的に教えてください。
(2020年12月刊。税込3300円)

 庭にブルーベリーが実っています。孫たちと一緒に実を採ります。わが家のブルーベリーは少し酸っぱくて、孫たちはパクパク食べますが、家人には人気がありません。
 実は隣の人からも同じようにブルーベリーをたくさんもらったのですが、そちらは少し大きくて甘味があるのです。品種が違うのでしょうか...。

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