弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年5月27日

スターリン(下)

ロシア

著者:サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、出版社:白水社

 赤い皇帝とは、よくも名づけたものです。ここに登場してくる人物は、社会主義とか共産主義とか、そんな思想とは無縁の皇帝と、仁義なき暗闘とくり広げる側近たちの醜い権謀術数の行方でしかありません。ソ連では社会主義の端緒もなかったのではないでしょうか。
 そして、軍事指導の天才と持ち上げられたスターリンが、実は、軍事に関してまったく無能であり、部下の有能な将軍たちに嫉妬し、次々に失脚させて銃殺していったという事実は恐ろしいばかりです。
 ロシア(当時はソ連)の善良な人々が独ソ戦争で大量に殺害された責任はスターリンその人にあるということです。
 今のロシアにはスターリン再評価の動きがあるそうです。それは理解できます。だって、何でもアメリカ並に自由化してしまったら、年金生活者をはじめとする弱い人々は生活が成り立ちません。福祉・教育を昔のように充実してほしいというロシアの人々の願いは当然のことです。でも、だからといって、スターリンの圧政が良かったなどと本気で思う人は、ごくごくわずかでしかないと思います。そんな、ごく少数の人は、スターリンの圧政下で甘い汁を吸っていた特権階級の生き残りでしょう。
 独ソ戦争が始まったとき、スターリンはヒトラーを信頼しきっていたので、しばし茫然自失の状態だった。
 ソ連を救ったのは、極東軍である。日本にいたスパイのゾルゲから、日本が当面、ソ連を攻める意思がないという情報を得ていたので、極東軍を独ソ戦にまわすことにした。 40万人の兵員、1000両の戦車、1000機の飛行機がノンストップ列車で西へ緊急移送された。戦争全体を通じてもっとも決定的な意味をもつ兵站作戦が奇跡的に成功した。
 スターリンの間違いの本質は、その途方のない自信過剰にあった。十分な戦力を確保する前に大規模な反撃作戦に出るという性急な戦術は、モスクワ防衛戦の勝利を生かすどころか、逆にドイツ軍側に一連の戦術的勝利を献上し、最終的にはスターリングラードの危機を抱く結果となった。スターリンが側近の軍事的アマチュアに大きな権限を与えたことは事態の改善に少しも役に立たなかった。
 スターリンは、無能で腐敗した酔っ払いの司令官に代えて、腐敗こそしていないが同じく無能で偏執狂の司令官を送り込んだ。
 スターリンは、報告の嘘を見抜くことにかけては天才的だった。自分の任務の状況を完全に把握しないでスターリンの前に出る者には禍が降りかかった。
 スターリンは軍事的天才ではなく、将軍レベルでさえもなかった。しかし、卓越した組織能力があった。スターリンの強みは、生まれつきの知性、専門家としての本能、そして驚異的な記憶力だった。
 スターリンの重臣たちは、権力と補給物資を求めて、互いに激しく争い、また、将軍たちとも争っていた。恐怖と競争の世界で暮らしていた重臣たちは、常に相互に嫉妬心を抱いていた。
 ベリヤは、強制収容所の囚人170万人を奴隷労働に駆り出し、スターリンのための兵器生産と鉄道建設に動員した。ソヴィエト製飛行機は劣悪な性能によって、戦争で失われた8万300機のうち半分近くが墜落していた。
 モロトフの妻もスターリンによって監獄に入れられたが、助かったあと、娘にこう語った。監獄暮らしに必要なものは三つ。身体を清潔に保つための石鹸。お腹を満たすためのパン。元気を保つための玉ネギ。
 朝鮮戦争のとき、スターリンは、毛沢東をアメリカとの戦争に追いこんだが、ソ連空軍による支援の約束は、ついに与えなかった。38度線で戦争が膠着したとき、スターリンは和平の合意を認めなかった。消耗戦こそ、スターリンの望むところだった。スターリンは、こう言った。
 「北朝鮮は永久に戦い続ければいい。なぜなら、兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何もないからだ」
 いやはや、スターリンにとって人命の軽さなんて、どうでもいいことの典型なんですね。恐ろしい人間です。
 ソ連の強制収容所に入れられた囚人は、1950年に最大の260万人に達していた。それでも殺されなかっただけよかったということなのでしょうか・・・。
 なんとまあ、とんだ赤い皇帝です。ソ連の崩壊は必然でした。
(2010年2月刊。4600円+税)

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2010年5月26日

不幸な国の幸福論

社会

著者:加賀乙彦、出版社:集英社新書

 私よりも20歳も年長ですし、お会いしたこともありませんが、著者に対して私は一方的に親近感を抱いています。というのも、学生時代にセツルメント活動をしていたという共通点があるうえに、40年前の東大闘争について、学生と教官との違いはあっても参画し、その体験をふまえて自伝的小説を書きすすめているところも同じだからです。しかも、フランス語を話せる(私は、ほんの少々でしかありませんが・・・)ことまで似ているからです。
 80歳を過ぎても、こんなに素晴らしい本を書いておられることに対して人生の先達として心から敬意を表します。
 なんと、75歳のとき、韓国語を始めたというのです。
 記憶力が衰えるのは脳をつかっていないからだ。何か新しいことをやれば活性化するのではないかと思い立った。年をとると生命力も枯れていくのか、好奇心や他者に対する関心が薄れ、どうしても自分とその周辺のことだけに心が向きやすくなる。だからこそ、意識して、これまで興味をもったことのないものに挑戦したり、初めてのものを見たり、聞いたり、味わったりしたほうがいい。そうすれば、昨日と同じ今日の繰り返しに慣れてしまっていた脳が大いに刺激され、活性化する。
 とっくに還暦を過ぎてしまいましたが、幸いなことに好奇心だけは薄れることがありません。次からが、この本のメインです。
 現代人は、問題に直面したとき、それをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力に欠けている。
 真に悩み、悩み抜くということは、自身の苦悩を材料に考え抜くということでもある。ふだんから何か問題が起きたとき、その遠因と近因を多角的、客観的に分析し、今の自分にできる対策は何かと考える習慣のある人は、自己憐憫の罠や自分の不幸を誰かのせいにしたくなる心の動きに、そう簡単に飲み込まれはしない。
 残念ながら、日本人は、概して自分の頭で考え抜くという作業が苦手である。
 しかも、現代社会は私たちから「考える」という習慣を奪いつつある。
 日本とフランスの統合失調症の患者の悩みがまるで正反対というのに驚きました。フランス人は、他人と顔や心が同じになってしまった、みんなと同じになった、自分の独自性がなくなったといって悩む。ところが、日本人は、みんなと違ってしまった、だから嫌われ、仲間はずれにされてしまうといって悩む。たしかに日本人は横並び思想って、根強いですよね。
 親に知られない秘密をもつ権利、つまりプライバシーの権利への要求こそ、最初の他者である親と自分との境界を確立し、自我意識を発達させるためのもっとも重要な要素なのだ。
 秘密をもち、それが保たれることで、母親と一体化していた幼い子どもの内に「自我」が芽生える。自分と親、ひいては自己と他者とのあいだに境界線が引かれ、自分という存在を意識するようになり、一人ひとりの人間を唯一無二の存在たらしめている人格の中枢部分が発達しはじめる。
 だから、子どもが秘密をもったら、親はその子が自立心を養いはじめたあかしとして喜ぶべきなのである。
 なーるほど、そういうことなんですか・・・。
 日本人本来の性向としては集団主義が好きでは決してないのに、日々の生活のなかでは無理をして集団主義的にふるまっている。
 人間にとって、他者に認められることは大きな喜びだ。だからといって、自分の評価を他人だけにゆだねてしまってはいけない。自分を自分で評価できること、自分という人間がこれから変わっていく可能性を秘めていることを忘れてしまったとき、人は自らを不幸へと追いやることになる。
 自殺者は年間3万人をこえる。10年間の累計は36万人に近い。日露戦争のときの戦没者は8万8千人。3年に一度、日露戦争をしているようなもの。日本の自殺率は主要先進国のなかでは突出している。アメリカ、カナダの2倍、イギリスの3倍。そして実は未遂者が10倍はいると推定されている。日本は年に30万人もの人が自殺をはかっている国なのである。
 幸福を定義しようとしてはいけない。幸福について誰かがした定義をそのままうのみにしてもいけない。
 本当によくよく考えさせられる、味わい深い本でした。一読をおすすめします。
(2009年12月刊。720円+税)
 青森県にある三沢基地を小雨の中見てきました。湖に面して巨大な通信傍受施設があります。ゾウのオリと呼ばれていますが、なるほど圧倒されるほどの大きさです。おもいやり予算(年に2千億円)で作られた立派なアパート群も見ました。アメリカの将兵は本当に大切にされています。
 案内してくれたタクシー運転手の男性は私と同世代でしたが、アメリカ軍と三沢氏は共存共栄している、普天間基地の代わりを引き受けてもいいという口振りでした。三沢市長は公式にそのように言っているそうです。三沢市民の5人に1人がアメリカ軍の将兵と家族だそうです。何の産業もないところですので、生活の糧になっているようです。
 それでも私はアメリカ軍の基地が日本にあるのはおかしいし、戦争を招くだけだと思うのです。皆さん、いかがでしょうか。

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2010年5月25日

民衆の北朝鮮

朝鮮

著者:アンドレイ・ランコフ、出版社:花伝社

 知られざる隣人、北朝鮮の実情を教えてくれる貴重な本です。
 著者はロシア人ですが、金日成総合大学に学んだことがあり、北朝鮮の内情を実によく知っています。2段組みで400頁ほどの本です。とても奥深い内容となっています。一読を強くおすすめします。
 とりわけ、北朝鮮の侵攻に脅威を感じている人には、ぴったりの本です。とてもとても、それどころではないという、この国の実情が明らかにされています。
 著者が初めて北朝鮮に行ったのは1984年9月のこと。金日成総合大学に留学生として出かけたのです。
 北朝鮮は、非効率、残忍さ、とりわけ抑圧的独裁国家を具現化したものであった。
 もっとも抑圧的な社会政治的な状況であっても、大多数の人々は普通の生活をよくしようとし、一般的にはそうやっていけるという単純な真実を理解した。
 北朝鮮は、人口2330万人、一人あたりのGDPは1800ドル。モザンビークの人口は2090万人、一人あたりのGDPは1500ドル。小さくて、ひどく遅れた独裁国家であり、モザンビークに近い。
 北朝鮮が奇妙にも目立つのは、2つの理由がある。一つは、北朝鮮の外交官が並外れた手腕で演じている核の脅迫のゲーム。二つ目は、北朝鮮が世界の最後の頑固な共産主義(スターリン主義)政権として生き残っていること。
 金王朝は、北朝鮮を60年以上も支配してきた。少なくとも二世代が、完全なスターリン主義社会の中で成長した。
 北朝鮮の人々は、12歳になると、金日成バッジを外出するときには必ず着用しなければならない。北朝鮮の人々は、毎日、2~4時間も、生活総括と呼ぶ自己批判集会に参加しなければならない。
 朝鮮労働党の党員は400万人。北朝鮮にも、最近は、中国から大量のラジオが持ちこまれている。そして、ラジオでは韓国の放送が広く聴かれてる。北朝鮮には有線ラジオがある。多くの家では、このラジオ番組だけが娯楽の源になっている。
 テレビは、まだ普及しておらず、200万台があるのみ。白黒テレビでも、年収の5年分に匹敵する。そして、北には3つのチャンネルしかない。平均的な北朝鮮の人は、映画を年に21回も見に行く。北朝鮮の暮らしでは、映画の代わりになるものは、たくさんはない。
 普通の北朝鮮の人々は、社会的な出世のチャンスについて、ほとんど幻想を抱いていない。不平等を嫌悪している。エリートの子どもたちは、つつましい庶民とはまったく異なる世界で生涯を過ごす。エリートは、大衆の苦しみにはまったく無関心である。
 北朝鮮では、平壌にある少数の最高級のアパートだけが、個人の風呂場がついている。そうしたぜいたくな住居はエリートだけのもの。庶民は、家でタンクのお湯をつかって体をふくか、公衆浴場に行くか、職場単位の小さな入浴施設を使うかしかない。
 北朝鮮の治安は良くない。暴力的な路上犯罪は南より多い。若者の非行集団は日常生活の一部となっている。というのも、北朝鮮の若者は、未来について心配する必要がないからだ。
 北朝鮮には電話番号簿がない。ケータイも解禁されたあと、2004年に再び当局が没収してしまった。
 1996年、北朝鮮の配給制度は崩壊した。数百万人の北朝鮮の人々が食料を求めて国中を動きまわった。
 北朝鮮には全国各地に収容所がある。人口の3~5%が収容所を体験している。
 朝鮮人民軍は120万人の兵力を有している。これはインドの軍隊にほぼ等しい。
 北朝鮮は、政府をあげて密貿易に従事している。偽ドル札、不法な覚せい剤、禁止されている象牙の販売など・・・。
 北朝鮮の兵士は降参しない。それは家族がいるから。家族連帯、責任制は驚くほど効果がある。
 脱北者は、2002年以降、年に1000~1500人だった。2005年に南に住む脱北者は6700人いた。2009年6月には1万600人になった。
 脱北者は南ではうまく生活できず、犯罪率は全国平均より1.7人も多い。
 現在、亡命はそれほど困難ではない。北を抜け出すより、南(韓国)に入るほうが、ずっと難しい。韓国政府は暗黙のうち、脱北をやめさせようとしている。韓国のエリートは、ドイツ統一の教訓に脅えて、韓国のために、北朝鮮を破綻させないように援助することを選んだ。
 現在の状況では、北朝鮮の人々は死んでも、反乱を起こすことはない。
 北朝鮮という、変てこな国の実相を知ることができました。
(2009年12月刊。2400円+税)

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2010年5月24日

天孫降臨の夢

日本史(古代史)

著者:大山誠一、出版社:NHKブックス

 とても面白い本です。歴史学界でどのように評価されている本なのかは知りませんが、なるほど、そういうことだったのかと思わず一人で興奮してしまうほど、知的刺激に満ちた本です。東京から帰りの飛行機のなかで読み耽っていると、いつもより早く福岡に着いた気がしました。
 著者は、なにしろ聖徳太子は実在していなかったし、憲法17条が、そのころ成立するはずはない、後世の人々がある意図をもって作りあげたものだというのです。そして、この本を読むと、それがまったく納得できるのです。
 我々は王家(皇室)は一つと考えているが、実は複数の王家があり、交代で大王(おおきみ)を出していた。その一つが蘇我家である。うむむ、そうだったのですか・・・!?
 天皇と皇帝とは、まったく別のものである。何よりも、天皇は皇帝のような専制君主ではない。日本の歴史全体を通じて、一人として唯一絶対の権力者、つまり専制君主であった天皇はいない。
 国政のうえでも、現実の場においても、天皇は権力から疎外されており、現実の権力者は常にほかにいた。では、天皇の役割は何だったのかと言うと、客観的事実として、現実の権力者に正当性を与えることだった。日本の天皇には権力はないが、権威はあった。ただし、飛鳥時代までの大王(おおきみ)は、権力者であった。
憲法十七条は、名を聖徳太子にかりて、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者によって作られたものである。このような津田左右吉の考えは、今日の通説である。
 聖徳太子がつくったという『三経義疏』は、中国からの輸入品であった。ながいあいだ日本人の信仰の対象となってきた聖徳太子は実在しなかった。
『日本書紀』が完成したとき(720年)、藤原不比等は右大臣、長屋王は大納言であった。長屋王の変というのは、長屋王が謀反を起こしたのではなく、光明子と武智麻呂が襲いかかって、政敵である長屋王を虐殺した事件である。
 天平時代、天皇も皇后も、彼らを取り巻く女性たちも、すべて藤原不比等の子孫かその近親であった。天皇自身を含めて、皇位にかかわる人間は、実質上すべてが藤原一族であった。皇室といっても、実質的には、藤原氏の一部に過ぎなかった。
 仏教というのは、単なる思想・宗教ではなく、建築、土木、金属の鋳造・加工、医学、織物、染色それにもまして文字(経典)という魔術を有する巨大な高度かつ神秘的な技術の集大成なのであり、最高の国家機密に属するものである。したがって、百済が、交戦中である相手の大和王権に仏教をもたらすなど考えられない。
『隋書』に出てくる倭王は男王であり、推古は女性であり、また卑弥呼のような女王でもない。そこで、それは、蘇我馬子だったと考えるしかない・・・。ええっ、そうなんですか・・・?
 現代日本人は聖徳太子が実在する存在として考えていますが、それは後世の人が自らの権威づけのためにこしらえた存在であること、それを推進したのは藤原不比等であることが、とてもわかりやすく論証されています。
 日本の古代史も、こうやってみると、本当に謎だらけです。また、それだからこそ、面白いのです。私も『憲法十七条』について少し調べてみようとしたことがありますが、役に立つ文献がほとんどなくて困った覚えがあります。
(2009年12月刊。1160円+税)

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2010年5月23日

警察庁長官を撃った男

司法(警察)

著者:鹿島圭介、出版社:新潮社

 国松孝次・警察庁長官が暗殺されようとした事件が、ついに時効を迎え、迷宮入りが確定してしまいました。日本警察の完敗です。
 この本は、捜査にあたっていたのが警視庁公安部であったから犯人検挙ができなかったのだと口をきわめて再三再四、厳しく弾劾しています。
 先ごろ、日曜日、マンションに日本共産党の赤旗新聞号外を配布した人(公務員でした)を強引に検挙して、あげくの果てに無罪になった事件がありましたが、その事件の主役も同じ警視庁公安部でした。マンションへのビラ配布事件では。1ヶ月ほどもその人を尾行していて、ビデオで撮影していたと言います。よほど警視庁公安部ってヒマなんですね。とても犯罪にならないような事件を何十人もの公安係の刑事が尾行していたというのです。全部、これって税金でまかなわれる公務なんですよね。ひどいムダづかいです。ところが、自分のボス(親玉)の暗殺未遂事件では犯人検挙ができなかったというわけです。警視庁公安部って、どっか狂っている感じですね。
 時効が完成したあと、やっぱりオウムが疑わしいんだという報告書を警視庁公安部が主体の捜査本部が発表してマスコミから叩かれていましたが、その批判はもっともだと思います。強力な権力を握っていながら、立件もできなかったのに、あいつは疑わしかったんだ、なんて犬の遠吠えみたいな言い草はないと思います。
 この本の恐るべきところは、暗殺(未遂)犯を実名であげ、その背景と経過を明らかにしたうえ、なぜ立件されなかったのかを追及しているところです。
 結局、警視庁公安部がオウムを犯人に仕立てあげるのに固執していたため、すべては狂ってしまった。このように著者は言いたいのです。
 警察庁長官狙撃事件で犯人とされていたのは、オウム真理教の現役信者であった元巡査長でした。この人は、なんと3回も警視庁公安部から取り調べを受けたのです。これは、たしかに異例すぎます。
 この異例の大失敗を重ねた責任者は、2010年1月に警視総監を勇退した米村敏明氏だと、著者は厳しく弾劾しています。この本を読むと、それもなるほどと思わせます。米村氏の弁明を聞いてみたいと思いました。
 警察庁長官狙撃事件が発生したのは1995年3月30日のことです。その10日前の3月20日にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しています。
 そのころ私は弁護士会の役員をしていましたから、上京することも多く、地下鉄の霞ヶ関駅にもよく行っていました。事件にぶつからなかったのは運が良かったとしか言いようがありません。
 国松長官が住んでいたマンションは、超高級マンションであり、国家公務員の給料だけで買えるはずはないという指摘もされていました。私も、そうだと思います。県警本部長を退任すると巨額の餞別金をもらえる。また、警察の裏金の支給もある。こんなお金で、この超高級マンションを購入したのではないか・・・。この疑問のほうも解明されないまま、事件は時効を迎えてしまい、本当に残念です。
 日本の警察よ、もっとしっかりしてくださいね。お願いしますよ。
(2010年4月刊。1500円+税)

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2010年5月22日

日本のモノづくりイノベーション

社会

著者:山田伸顯、出版社:日刊工業新聞社

 日本は世界に冠たる貿易立国として、国際収支の黒字を続けている。輸出の大きなウェイトを占めるのが製造業で生み出した財で、そのうち機械金属の工業製品が76%を占める。
 そのモノづくりの地位が低下しつつある。さあ、どうするか・・・。
 東京都大田区にある中小零細企業が日本のモノづくりを支えていること、まだまだ日本も捨てたものじゃないことがよく分かり、門外漢が読んでも元気が出てきて、大いに応援したくなってくる本です。
 量産体制を成り立たせるには、それを支える技術(支持産業)が必要である。次々と変化する時代の先端的産業を担う特殊技術や製産分野の中間技術を下支えする底辺の技術で、この基礎的技術が、産業技術全般の発展には不可欠である。これが不十分だと、その国の産業の自立的発展が困難となる。この技術を基盤技術という。
 日本の産業が国際競争において圧倒的に優位だったのは、この基盤技術がしっかりしていたから。ところが、現在、この基盤技術が揺らいでいる。この習得には時間と根気を要する熟練技能そのものであるが、苦労して技能を受け継ごうとする若者が少なくなっていることにもよる。
 大田区の工場は、1983年がピークで、9190、2003年に5040、2005年には4778になった。20年間で4000以上の工場が消滅してしまった。
 海外進出しても、生産技術の生まれる生産拠点を日本国内に温存し、国内を空洞化させないことが日本の企業にとって重要な経営戦略である。
 高校生に工場に入って現場で実戦させる教育がすすんでいることに感嘆しました。そうですよね、これが必要ですよ。
 1年は2週間のインターンシップを年に3回、2年生は2ヶ月の長期就業訓練、3年生も2ヶ月だけど、希望によりさらに2ヶ月の訓練を受けられる。
 職場体験学習が広まることにより、子どもが社会に対する認識をもち、生きることの目的を考えるようになる。受け入れる企業の側では、未熟な若者に教える経験を通して、工程を見直して分かりやすくするなど改善し、社内に新たな刺激をもたらしている。
 そうなんですね。未熟の若者に教えるのは企業にとっても、単なるボランティアだけでなく、それなりのプラス面もあるわけです。
 特許についても、小さな町工場が超大企業と対等の立場で契約したり、見える理論部分だけ特許をとって他の人には分からない電子回路についてはあえて特許を取らないという工夫が紹介されています。町工場が生き抜いていく知恵ですね。
 町工場のいろんな工夫が盛りだくさんに紹介されている面白い本です。
(2009年1月刊。1800円+税)

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2010年5月21日

地雷処理という仕事

中東

著者:高山良二、出版社:ちくまプリマー新書

 こんな危険な仕事を自らすすんでやっている日本人がいるなんて素晴らしいことです。しかも、私と同世代の人です。自衛隊を定年退職したあと、一度派遣されて行ったカンボジアに再び渡って地雷処理の仕事をしているのです。
 自衛隊の人も、戦争大好きだという人ばかりでないのを知って、とてもうれしく思います。人を殺すより、人を助けるのに生き甲斐を見いだすって、本当に素敵ですよね。
 英語もカンボジア語もよく出来ないのに、おじさん(現地では、おじいさん、ターと呼ばれています)が現地にとびこむのです。なんという勇気でしょうか。しかも、日本に妻子を置いての単身赴任です。すごいですね・・・。
 地雷除去の作業は、まず2人で1組、1人が地雷探知員となり、幅1.5メートル、奥行き40センチの範囲の雑木や草を地面ギリギリまで取り除き、金属探知機を操作できるようにする。うしろで待機している地雷探知員は金属探知機で、その場所を探知する。金属反応がなければ、さらに40センチ前に前進する。この作業を繰り返し進めていく。
 金属反応があったときには、その場所を地雷探知棒や小さなショベルで磁石などをつかって、金属が何であるかを慎重に調べる。このときが大変危険な作業であり、地雷を作動させてしまう部分に触れないように細心の集中力を要する。
 寸刻みで土を取り除き、再び探知機で探知しながら、金属の正体が分かるまで繰り返す。
 地雷原が戦闘地域であったことから、小さな鉄片や小銃弾ということも多い。40センチを進むのに1時間以上を要することがある。
 地雷が発見されたら、その場所に地雷標識を立て、午前中の終わりころか、午後の終わりころにTNT爆薬で爆破処理する。この爆破にあたるのは、地雷探知員ではなく、爆破作業の訓練を受けた隊員が行う。専門家がそれを確認する。
 無金属の地雷はない。72A型対人地雷のように、9割以上がプラスチック製であっても、撃針など一部はどうしても金属を使わないといけない。
 また、地雷や不発弾には、必ず爆薬が使われている。爆薬の有無の確認には、地雷探知犬が使われている。ここでは、83頭の地雷探知犬が活動している。
 地雷探知員(デマイナー)は、33人で一個小隊、ひとつのグループをつくる。99人、3個小隊で地雷処理作業にあたる。平均年齢24歳。半分近くが女性。40度をこす厳しい天候なので、30分作業して、10分休む。
 地雷処理という危険な仕事をするときに大事なことは、基本的な動作を慎重にやること。怖いと常に思うことが大切。怖くなくなったら、デマイナーはしないほうがいい。怖くなくなったときに事故が起きる可能性が高くなる。
 うひゃあ、そういうことなんですね。慣れは、この場合、よくないのですね。なにしろ生命がもろにかかった仕事ですから、そういうことなんでしょう・・・。
 カンボジア全土に埋められている地雷は400~600万個。これをデマイナーが手作業で取り除いている。年間に処理する地雷は1万個。
 地雷処理車を使ったらと思うかもしれないが、現地には手作業しかできないところも多いので、仕方のないこと。
 そして、著者たちが除去している地雷は、実は、なんと村人自身が埋めたものだったのです。村人は元クメール・ルージュの一員だったのでした。なんということでしょうか・・・。ポルポト軍に命令され、やむなく埋めた地雷を今、生命がけで除去しているというのです。
 すごく分かりやすい、いい本でした。
(2010年3月。780円+税)

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2010年5月20日

在日米軍最前線

社会

著者  斉藤 光政  、 新人物文庫 
 日本とアメリカによる3年かかりの壮大なガラガラポンの果てに姿を現したのは、アメリカ軍によるさらなる基地強化、つまり日本列島の前線化にほかならなかった。それは、戦略展開拠点ニッポンの現実だった。
 「世界の警察」を自認し、世界中のどこにでも即時に出撃することを前提としているアメリカ軍は150万人の大兵力を世界の5つの地域に分けて展開している。この統合軍で最大規模を誇るのが、ハワイに司令部を置く太平洋軍だ。
 太平洋軍の総兵力は30万人。在日アメリカ軍は、陸軍2千人、海軍5千人、空軍1万4千人、海兵隊1万8千人の計3万9千人。このほか、太平洋艦隊第7艦隊1万2千人がいるので、太平洋軍の6分の1、5万人が日本列島を拠点に活動している。
 私は、近く(5月末に)青森の三沢に出かける予定です。この三沢にはアメリカ軍の第35戦闘航空団が常駐しています。
 三沢基地には、戦闘機F16Cファイティングファルコン40機が配備されている。この航空団は、敵防空網の制圧と制空権の確保が目的であり、全軍の露払いを使命とする。
 三沢基地には、「ゾウのおり」と形容される巨大な円形アンテナと、14基の大型パラボラアンテナが林立するパラボラアンテナのうち4基は秘密通信傍受システム「エシュロン」に使われていて、軍事スパイ網の要となっている。
 アメリカは、青森県を「友好的で、アメリカ軍基地に対する抵抗感が強くなく、機密保持に適した場所」とみている。三沢基地には、アメリカ軍がF16を2個飛行隊かかえ、自衛隊がF2を2個飛行隊かかえる。つまり、80機の攻撃飛行隊が集結する。こんな基地は世界でもまれだ。このように三沢基地は、対地攻撃に特化した一大拠点になろうとしている。
1960年代、三沢のアメリカ軍基地では、1年間に2000発以上の核模擬弾を消費していた。三沢は「核漬け」の状態にあった。1961年9月から1963年8月までの2年間に、6機ものF100戦闘爆撃機が訓練ルートで墜落した。これらの事故の多くは公にされることはなかった。
 核攻撃任務を与えられていたのは三沢基地だけではない。埼玉県の入間、福岡県の板付、愛知県の小牧、沖縄県の嘉手納も同じである。
 嘉手納の核貯蔵庫から、三沢、入間、小牧、板付に核弾頭が搬出されていた。嘉手納には、予備もふくめて最低200個、通常400個ほどの核弾頭が配備されていた。今、これがゼロだとはとうてい思えませんが・・・・それはともかく、日本がアメリカ軍の最前線基地になっているなんて、とんでもないことです。
 ところが、多くの日本人は今なお、アメリカ軍が日本を守るために日本にある基地を構えているかのように錯覚しています。アメリカが日本を守ってくれるなんて、ありえないことです。むしろ、アメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまう危険のほうがよほど大きいと思います。
 そんなことを実感させてくれる絶好のレポートです。小さな文庫本ですが、内容はずっくりと重たいものです。どうか、ぜひ読んでみてください。
 
(2010年3月刊。667円+税)

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2010年5月19日

北朝鮮帰国事業

朝鮮

著者:菊池嘉晃、出版社:中公新書

 戦後、日本にいた朝鮮人が北朝鮮へ帰国していった。1959年12月から1984年7月まで、9万3340人。
 「地上の楽園」と前宣伝されていた北朝鮮にたどり着いたあとに待ち受けていたのは、あまりに苛酷な現実だった。そのうち日本に再び「帰還」できたのは、わずか200人ほど。9万人をこす「帰国者」のうちには、日本人妻など日本国籍をもつ人が6800人いた。しかし、彼らも日本への「里帰り」は例外を除いて認められなかった。
 北朝鮮からの手紙に次のように書いてきた帰国者がいた。
 「あなたの子どもたちは、みんな今、府中の別荘に入っている。この国自体も、大きな別荘だ」
 ここで、府中の別荘とは、刑務所を意味している。しかし、この手紙を受けとった人は、にわかに信じられなかった。
 終戦時の日本に在日コリアンは200万人いた。1946年3月までの7ヶ月間に  130万人が帰国した。しかし、その後は、1950年5月までの4年あまりに10万人しか帰国しなかった。
 それは朝鮮南部における就職難と生活費の高さに帰国者が直面したからである。在日コリアンの97%が「南」の出身だった。1948年4月の済州島4.3事件は、在日コリアンに衝撃を与えた。李承晩政権やアメリカへの強い不信感を植え付けた。
 日本の外務省は、厄介払い願望をもちつつ、北朝鮮への追放政策は実行できないことを認識していた。
 在日朝鮮人の集団は、日本当局の悩みの種であった。
 日本政府は、数万人に及ぶ朝鮮人が、非常に貧しく、また大部分がコミュニストである彼らを厄介払いしたがっていた。帰国事業は公安と財政の問題を同時に解決することになるものだった。
 日本からの帰国者を出迎えた北朝鮮の人々は、びっくり仰天した。みすぼらしい服で日本から帰ってくるものだと思っていると、北朝鮮では想像もつかないくらい立派な服装だった。天女が下りてきたようだと思い、何度もその服に触った。逆に帰国者は、出迎えた2000人のみすぼらしい姿に、驚き、ぽかんとした。「これはウソだ」「まいったな」と、つぶやいた。
 帰国者の歓迎会で、北朝鮮人民と同じ綿入れ服を贈ろうと用意していたが、取りやめた。日朝間の生活格差を知ることなく、「地上の楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者と、「日本で虐げられた貧しい在日コリアンを受け入れよう」という当局の呼びかけだけを聞かされてきた北朝鮮の人々。双方の不幸な関係は、帰国船が着いた瞬間から始まっていた。
 日本の生活に慣れ、「楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者にとって、日本より生活水準の低かった北朝鮮で「優遇」されても、ありがたく感じた人々はほとんどいなかった。
 平壌に住めた帰国者は全体の5%だけ。
 北朝鮮当局に歓迎された帰国者は、工業部門の技術者、化学者、医師。逆に敬遠されたのは、政治・経済・法律専攻志願者、次いで病人、日本人妻、老人であった。
 北朝鮮への帰国事業は在日コリアン9万人あまりを悲劇に陥れてしまいましたが、それは北朝鮮当局と朝鮮総連のみでなく、また社会党や共産党などの左翼の責任は大きいものの、日本政府もまた小さくない責任を負うべき問題だと思いました。
 それにしても、北朝鮮を「地上の楽園」だなんて、よくも大きな嘘をまき散らしたものですね。信じられません。国自体が強制収容所だというのは、まさに、そのとおりですよね。50年たった今でもそうなのですから、世の中、信じられないことが多過ぎます。
(2009年11月刊。800円+税)

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2010年5月18日

裁判百年史ものがたり

司法

著者 夏樹 静子、 出版 文芸春秋

 日本という国を知るうえで、裁判の現実を知ることは必須だとつくづく思わせる本です。
 福岡在の高名な推理小説作家が、裁判史上著名な事件を改めて読みやすく紹介してくれました。なるほど、そういうことがあったのかと、ついつい膝を叩き、ぐいぐい文中の世界に引きずり込まれました。さすが推理小説を得意とする筆力です。
 大津事件では、時の権力が裁判官たちに直接、露骨に圧力をかけます。日本の国を救うため、法を曲げろと迫ったのです。そして、それを逆に大審院長が担当裁判官たちに権力におもねるな、法を守れと直談判したというのです。
 ともに、裁判の独立という考えが確立していなかったように思いました。といっても、現代日本の裁判官のなかには、時の権力が露骨に圧力をかけなくても、それこそアウンの呼吸で権力に迎合する判決を書いているんじゃないか、と思える判決が少なくありません。長らく住民訴訟をやってきて、残念ながら一度も勝利判決を手にしたことのない私には、そう思えてなりません。
 大津事件で命拾いしたロシア皇帝(事件当時は皇太子)は、27年後、ロシア革命のさなか、レーニンのソビエト政府によって、ひそかに家族全員とともに銃殺されたのでした。50歳の時です。
 明治天皇を暗殺しようと考えたひとがいたことは確かのようです。そして、そのための爆裂弾もつくりました。しかし、それだけのことなのです。ところが、社会主義思想をもっていた人々を一網打尽にして、多くの人をあっというまに死刑執行したのが大逆事件です。
裁判は証人尋問もないまま、公判開始から19日で結審し、死刑を宣告します。そして、判決の6日後には幸徳秋水以下、11人の死刑が執行されたのでした。恐るべき暗黒裁判です。というか、これでは裁判ではありません。政府という権力者による私刑(リンチ)であり、法服を着た私刑官でしかありません。ひどいものです。
戦前の日本に陪審裁判があっていたことは、私ももちろん知っていました。しかし、なんと陪審裁判の日本第一号が、大分地裁で始まったということは知りませんでした。昭和3年10月23日のことでした。当番弁護士制度を日本でいち早く始めたのが大分県弁護士会ですから、偶然のことでしょうが、大分にはそんな地盤があるのかなと思ってしまいました。
戦前の日本実施された陪審裁判は昭和3年から17年までの15年間で、484件。うち無罪になったのは81件。16.7%だった。
『真昼の暗黒』という映画があります。今井正監督の作品です。八海事件をテーマとしている映画です。一審の裁判長をつとめて死刑判決を書いた藤崎峻という裁判官が『八海事件―裁判官の弁明』という本を出したのだそうです。そこでは、判決で認定した時間を10分ほどずらして、それを「絶対動かないところ」と書いていたところ、なんと第二の本では「何時何分かははっきりしていない」と再訂正したというのです。自分の書いた判決文を著作で二度も訂正するなんて、酷いものです。信じられません。
ところが、その後、広島高裁で担当した河相格治裁判長は、犯行時間についてなんと秒刻みの認定をしたのです。こ、これにはさすがの私も驚きましたね。実は、まったくの間違いなのです。それを秒単位で、まことしやかに認定する高裁の裁判官がいるというのですから、世の中、いよいよもって信じられません。裁判官も間違うことがあると、軽くは見過ごせないでしょう。
こんな人は裁判官として明らかに不適格だと思います。思い込みが激しすぎる人が裁判官に少なくないのは現実ですが、そんな人は速やかに排除したいものです。そのためのシステムも一応はあるのですが、残念ながら十分に活用されているとは言えません。
裁判所がそんなシステムの存在を国民に知られないように努力し続けているからでもあります。
ともあれ、面白い本でした。
(2010年3月刊。1900円+税)

 今年初めてのホタルを見てきました。毎年、五月の連休があけるとまもなくホタル探偵団からホタル発見の知らせが地元紙に掲載されます。
 16日(日)の夜、8時過ぎに歩いて近くの小川に行くと、フワフワっと明滅するホタルの群れに出会いました。草むらにいるホタルに手を差し伸べると、黙って手のひらに移ってきて、じっとしています。懐中電灯で照らすと、体長1センチほどのホタルでした。ふっと息をふきかけて小川に戻してやりましたが、間もなく別のホタルが衣服に着地してしまいました。
 とても細い三日月の上に、近世でしょうか、すごく明るい星が輝いています。翌朝の新聞を読んで、やはり宵の明星(金星)だと知りました。風のない五月の夜はホタルの出る季節です。ホタルは、何回見てもいいものです。

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2010年5月17日

みんなが知りたいペンギンの秘密

生き物(小鳥)

著者:細川博昭、出版社:サイエンス・アイ新書

 日本人は、世界でいちばんペンギン好きな国民として知られている。
 そうですね。私も、ペンギン大好き人間の一人です。旭山動物園のペンギンにもご対面してきました。もっとも、有名な冬のお散歩を見たわけではありません。
 それに南極大陸での皇帝ペンギンたちの冬の子育ての模様を映画で見て、そのすさまじさに感嘆・感動してしまいました。子育てというのは、これほど生命(いのち)がけの営みなんだと、つくづく自分のしたことを反省させられました。いえいえ、子育てに手を抜いたつもりはありません。ただ、もっともっと真剣に関わるべきだったと思ったということです。
 ペンギンが、ほかのどんな鳥よりもまっすぐ身を起こした体型になったのは、海の生活に適応した結果である。陸上で生活するために、あの印象的なスタイルになったわけではない。
 ペンギンは足の位置を移動させた。尾に近いからだの後方へと足が移動したことで、ペンギンはより水の抵抗の少ない、効率的な泳ぎができるようになった。
空を飛ぶ必要のなくなったペンギンは、軽い骨である必要がなくなった。逆に、海に潜るためには重いからだのほうが有利である。そのため、ペンギンの骨は、密度が高く、重たいものになった。
 ペンギンは、消化を助ける目的のほか、効率の良い潜水ができるように体重を増やす意図から、小石を飲み込んでいる。
 ペンギンは南半球にしかいない。赤道をこえて北半球に行こうとすると、30度をこえる海水の中を長時間、泳ぎ続けなければならなくなる。それは、ペンギンにとって致命的なこと。冷たい海につかって熱を逃がすことでペンギンは体温管理をしている。それが出来なくなってしまう。
 ペンギンは一夫一婦制。オスは、前の年にカップルになり、うまく子育てが出来たメスの帰りを待つ。しかし、オスが待つのは1日だけ。丸一日たっても意中のメスが戻ってこないときには、別の身近なメスを選んで繁殖行為に入る。そうしないと、ヒナをうまく育て巣立たせることができなくなるから。ところが、遅れていた前年のつがいのメスが到着したとたん、オスは、そのメスに駆け戻って、なにごともなかったように交尾を始めるのだ。うむむ、なんということでしょう・・・。
 ペンギンでは、結婚相手を決めるのはオス。メスが協力しないと交尾は成功しない。すべてはメスにゆだねられている。だから、オスは自己PRにつとめる。それを見たメスが、このオスは自分にふさわしいと思ったら、カップルは成立する。2羽はお互いの存在を認めあうかのように向きあってディスプレイを始める。互いのおじぎから始まり、ともに空を見上げて鳴き交わしたり、クチバシを触れあわせたりしながら、それぞれの種ごとに一定の動きを繰り返す。これを相互ディスプレイと呼ぶ。
 事前のディスプレイに熱が入る反面、交尾自体はきわめて短時間に終わる。
 ペンギンは海中で20分以上も息を止めることができるし、最深潜水記録は564メートルである。
 ペンギンは2~5週間も絶食できる。最長はエンペラーペンギンのオスで、3~4ヶ月も絶食し、体重は30~40%も減ってしまう。
 ペンギンは親子、夫婦を音声、顔つき、クチバシのプレートの色や様子、斑紋やからだをおおう羽毛の微妙な違い、挙動にあらわれる個性などもふくめて、さまざまな条件を統合して認知・識別している可能性がある。
 ペンギンのことを深く知ることのできる、面白い本でした。
(2009年11月刊。952円+税)

 久しぶりに日比谷公園を歩きました。新緑のみずみずしさが目に映えて、まばゆいほどです。銀杏の大木はすっかり裸になっていて、梅の実が葉の影にたくさんなっていました。池の周りにはキショウブが花盛りです。
 澄み切った青空なのですが、風が冷たいのです。3月の肌寒さを感じるほどで、良く見ると薄でのコートを着て歩いている人すらいました。
 皇居前広場には今日もホームレスらしき人々があちこち点在して、寝転がっています。日比谷公園の出入り口には、徳之島にアメリカ軍基地不要、と書いたゼッケン、黄色シャツの人々が集まっています。
 私がよく利用する喫茶店に政府(厚労省)参与に再び就任した湯浅誠さんが、いつもの軽装で一人あらわれて食事をとっています。政治の大激動を見れる幸運な時期を生きていると実感します。

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2010年5月16日

カデナ

アメリカ

著者:池澤夏樹、出版社:新潮社

 私が物心ついたころ、既にベトナム戦争は始まっていました。大学生のころは、その絶頂期でした。あとで知ったのですが、私とまったく同世代のアメリカ人青年がベトナムのジャングルに送られ、「ベトコン」と戦い、殺し、殺されていたのです。50万人ものアメリカ兵がベトナムに送られていたなんて、とても信じられません。いま、イラクにも50万人ものアメリカ兵はいないでしょう。そして、ベトナムに送られたアメリカ人の1割にあたる5万5千人の青年が戦死しました。もちろん、ベトナム人の死者は桁が2つも違います。
 今も当時も、私には、アメリカのベトナム戦争に大義があったなんて考えられません。まさに大義なき侵略戦争でした。アメリカ帝国主義の威信をかけた侵略戦争です。超大国アメリカが最新兵器を続々と送り続けて、ついにベトナムの人々から惨めに叩き出されてしまったのです。サイゴンのアメリカ大使館からヘリコプターにぶら下がって逃げ出していくアメリカ人の醜い姿を見て、みんなで手を叩いて喜んだものでした。侵略者の哀れな末路です。
 この本は、まだアメリカがベトナムに北爆していたころ、沖縄でのささやかな反戦運動をテーマとしています。
 アメリカ空軍のB52がベトナムの上空に入りこんで、大々的に爆弾を落としていきます。ひどいものです。許されることではありません。そのルート、目的地、日時を探り出し、ベトナムに伝達する。それを使命とした人が沖縄にいたのでしょう。沖縄から飛び立つB52の操縦士たちに近づいて情報を得て、ベトナムに知らせるのです。それをフツーの市民がやっていたのでした。そして、アメリカの脱走兵を逃がす仕事もありました。
 B52機が沖縄の基地で、大爆発するという事故も起きました。
 ベトナム人を虐殺するのに関わって罪の意識にさいなまれ、悩むアメリカ兵も登場します。そうでしょうね。人間として当然の反応です。
 日常生活の淡々とした情景描写のように見せて、沖縄におけるベトナム反戦の取り組みの一コマを垣間見せてくれる貴重な本だと思いました。
 私にとっても、この小説の舞台となった1968年は忘れられない年です。大学2年生のとき、東大闘争が始まったのでした。
(2009年10月刊。1900円+税)

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2010年5月15日

もうひとつのスーダン

世界(アフリカ)

川原 尚行・内藤 順司 著者 、主婦の友社 出版 
 福岡の出身で九大医学部を卒業した医師がアフリカの地、それも内戦まっただなかのスーダンでがんばっています。アフガニスタンでがんばっているペシャワール会の中村 哲医師と年齢こそ違いますが、あまりに共通点があるのに驚かされます。
 大判の写真集なのですが、スーダンの実情が表情豊かによく撮られています。どことなく物悲しさの感じられる少女の顔がアップでうつっています。この子たちの将来を奪ってはいけないと思わせます。
 川原医師は、初め日本外務省の職員として大使館勤めの医師でした。ところが、外務省を辞めて、スーダンでボランティアの医師として働いているのです。そして、日本に支援組織をたち上げました。まるでペシャワール会と同じです。川原医師を支える会はNPO法人ロシナンテスと言います。そうです、あのドン・キホーテの乗っていたロバの名前からとったものです。
 川原医師たちは、劣悪な水事情が下痢を招き、子どもたちの生命・健康を願っていることを憂えて老朽化がすすみ、水漏れがひどかった給水設備をリニューアルしました。良質な地下水が利用できるようになって、病気抑制の基となる水が確保されたのです。少女たちの喜ぶ笑顔が素晴らしい。村に学校をつくります。女の子が通える学校もつくりました。そして、母子保健に取り組みます。
 さらに、サッカーボールを日本から持ち込み、子どもたちにサッカーを教えます。日本人コーチを引っ張ってもきました。なんと、女子サッカーチームまでつくったのです。子どもたちに夢と希望を与えるって素晴らしいことですよね。
 子どもたちのはじける笑顔は、写真を眺めているほうの心まで幸せにしてくれます。子どもの笑顔は世界遺産に匹敵するほどの宝です。
 私もロシナンテスを応援します。この本を買って読むだけでも応援になるのです。あなたも、ぜひ買って読んで、眺めてみて下さい。
 
(2010年4月刊。2857円+税)

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2010年5月14日

弁護士・布施辰治

司法

著者:大石 進、出版社:西田書店

 布施辰治弁護士の孫であり、日本評論社の社長・会長であった著者が等身大の布施辰治の姿を明らかにした力作です。
 布施辰治は2004年12月、大韓民国から建国勲章を授与され、孫である著者が代わって受けとった。なぜか?
布施辰治は明治13年(1880年)に現在の石巻市で生まれた。布施は一般に「社会派」の弁護士と理解されている。しかし、はじめから「社会派」弁護士だったはずはない。   1920年の「自己革命の告白」以前の布施は、熟達の刑事弁護士として花形的存在だったし、「告白」以後も、布施の意識は、生涯を通じて刑事弁護士だった。
 すべての人間は、逮捕された瞬間に社会的弱者になるというのが布施の認識だった。
 「人生まれて刑事被告となるなかれ」というのは布施の警句である。
 刑事弁護人というのは、ボランティアとしては成り立っても、職業としては成り立たない。それを布施辰治は可能ならしめた。他の弁護士の3倍、いや5倍もの仕事をした。そして、その3分の1、5分の1のエネルギーを自分の良心に反しない限りでの民事事件にあてた。つまり、布施辰治はエネルギーの3分の1は、5分の1は食べるために、残りは世のため、人のために使った。
 被告人は判決が心配で、よほど親切な弁護をされても不満を感じる。そういう被告をも満足させるのが本当の弁論だ。弁論が情理を尽くして被告の立場を理解したものであれば、被告は有罪で服役しても、その弁論に心を支えられ、自暴自棄にならずにすむ。
 これは、布施が刑事弁護人として歩み始めたころに訓育を受けた刑務所長の言葉である。
 うむむ、なるほど、そうなんです・・・。
 布施辰治は政府からにらまれ、逮捕・起訴されて2度も下獄しています。
1回目は、1933年に3ヶ月の実刑。新聞紙法違反、郵便法違反。なんと、獄中の依頼人へ手紙を渡したことが郵便法に違反するというのです。信じられません。
 2度目は1939年です。3.15事件の弁護にあたった日本労農弁護士団が一網打尽にされてしまいました。
 治安維持法というのは、弁護人が被告人を弁護しただけで犯罪になり、実刑を科されるというのですから、つくづく恐ろしい法律です。
 布施辰治は、1926年に朴烈・金子文子大逆事件の法廷に立って弁論した。同年、朝鮮に渡り、各地で演説会を開き、また、たたかう朝鮮の人々と交流した。
 治安維持法では、日本人には一人も死刑判決が出ていないが、朝鮮人の処刑者は50人をこえている。この法律の重罰化は、もっぱら植民地対策だった。
 布施辰治は、虎狼の職とされる判事・検事・警官にも、同じ人間としての惻隠の情、あるいは良心というものがあって、それを呼び起こすことができると信じていた。判事や検事の人間性を信じ得ぬものが、どうして被告人の人間性を信じ得ようか。
 そのような性善説なしでは、弁護士の職は、あまりにもむなしい。判事・検事説得の可能性を信じること、この思いが彼の活動を、長い力のこもった弁論を支えたのだ。
 うむむ、なるほど、なるほど、よく分かります。見習いたい、身につけたい指摘です。
(2010年3月刊。2300円+税)

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2010年5月13日

犬として育てられた少年

司法

著者:ブルース・D・ペリー、出版社:紀伊國屋書店

 アメリカの子どもの40%は18歳までにトラウマになりうる経験を一度はする。
 2004年、アメリカ政府の児童保護機関に児童虐待あるいはネグレクトが300万件報告された。そのうち90万件近くが事実だと確認されている。17歳未満の子どもの8人に1人が過去1年内に大人からなんらかの深刻な虐待を受けていて、27%の女性、 16%の男性が子ども時代に大人から性的虐待を受けている。
 アメリカでは、1000万人の子どもが家庭内暴力のある環境にいて、毎年15歳未満の子どもの4%が親を亡くしている。毎年80万人の子どもが里親のもとで暮らしている。虐待を受けた子どもの3分の1は、それが原因で明らかな精神的な問題を抱えている。
 人間は学ばなければ人間的にはなれない。すべての人間が人間的な心を持っているわけではない。
 彼女は、とても幼い時期に性的虐待を受けたせいで、脳のシナプスが非常に不幸な形につながりを作ってしまった。彼女のごく幼いときに関わった男性たちと、加害者の少年が、男性とはどういうものかという概念と、異性への対処法を決めてしまった。幼いころ周囲にいた人々によって、人間の世界観は形づくられてしまう。
 男が自宅に入ってきて母親を強姦殺人し、そばにいた3歳の女の子まで殺そうとしたが、奇跡的に子どもは助かった。その子はいったいどうなるのか・・・。
 ノドを切り裂かれた3歳の子どもは、泣きながら手足をしばられ冷たくなっている血まみれの母親の死体を元気づけようとし、自分も慰めを得ようとしていた。どれほど心細く混乱し、恐ろしかったことだろう。だから、医師の質問を無視したり、隠れたり、特定のものを怖がったりするという症状は、トラウマを寄せつけないために彼女の脳が築き上げた防衛手段なのである。このような子どもを治療するには、この防衛手段を理解することがとても重要だ。
 呼び鈴、そう呼び鈴からすべてが始まった。呼び鈴の音が殺人者の到着を告げたのだ。日常的にありふれたものが、彼女を終わることのない恐怖に陥れる記憶を呼び起こす合図に変わってしまった・・・。
 脳は、おびただしい量の情報を処理するため、世の中がどういうものかを予期するため、パターンに頼らざるを得ないのだ。
 脳は、いつも、現在はいってくるパターンを、過去に貯蔵されたひな型やつながりと比較している。この比較のプロセスは、最初、脳の最下部のもっとも単純な部分、危険に反応する神経系の始まりの部分で行われる。情報が処理の最初の段階から上がっていくとき、脳は、このデータをもう一度見直し、より複合的に検討と統合を行う。けれど、最初に脳が知りたいのは、今入ってきているこのデータには危険の可能性があるのか、ということだけだ。その経験が安全だと分かっているなじみのあるものだったら、脳のストレスシステムは活性化しない。しかし、入ってきた情報がとりあえずなじみがなく、初めてあるいはよく知らない体験だったとき、脳はすぐにストレス反応を始める。このストレスシステムがどこまで活性化するかは、その状況がどれだけ危険に見えるかによる。重要なことは、何もない状態では受け入れるのではなく、疑うのが基本だということだ。少なくとも、新しい、未知のパターンの活性に直面したときには、さらに警戒する。この時点での脳の目的は、より多くの情報を得て、状況を検討し、どれだけ危険かを判断することだけ。人間が出会う、もっとも危険な動物は常に人間なので、声や表情や身ぶりなど言葉以外の部分に悪意が感じられないかをじっと観察する。
 落ち着いた状態なら、人は脳の皮質部分だけで楽々と生きていける。脳の最高の能力をつかって、抽象的なことを考えたり、計画を立てたり、将来の夢を考えたり、読書したりできる。しかし、何かに注意をひかれ、思考を破られたとき、人間は警戒し、現実的になり、脳の活動の中心を大脳皮質より下の領域に移し、危険を察知するために知覚を鋭敏にしようとする。刺激に反応しつづけ、やがて恐怖を感じるようになると、脳の下部のもっとすばやい反応をする領域に頼らざるを得なくなる。たとえば、完全なパニック状態になっているときに起こる反応は反射的なものであり、事実上、意識ではコントロールできない。恐怖は、文字どおり、人間の頭を鈍らせる。これは、短いあいだ、すばやく反応し、その場を生きのびるための性質だ。
 幼い脳には適応力があり、愛情や言葉をすばやく学ぶことができるが、不幸なことに、そのせいでネガティブな経験の影響も受けやすい。3歳児までの、脳の重要な社会的回路が発達する時期にネグレクトされていたので、誰かを喜ばせたり、ほめられたりすることの喜びが本当には理解できない。教師や友だちを怒らせて、拒否されても、それが辛いという気持ちにならなかった。正常な発達をしておらず、人間関係を喜びに感じることができないので、他人の思いどおりにしなければならないという必要性を感じなかったし、人々を喜ばせてもうれしくなかったし、他人が傷つこうと傷つくまいと気にならなかった。
 社会病質者が他人に共感できないのは、他者の感情を感じとれないのと同時に、他者への同情心がない。つまり、他人の気持ちがまったく分からないというだけでなく、他人を傷つけても気にしない、あるいは、積極的に傷つけたいと思うのだ。
 虐待やネグレクトでトラウマを受けた子どもに対して何かを強制したり、威圧したりするのは逆効果で、さらにトラウマを与えるだけ。
 いやはや、とんでもないケースが世の中にはあるものですよね。子どもたちの心の闇が、大きくなって手のつけられないほど肥大化して社会に対して復讐する。そんなことにならないよう、温かい目で子どもたちをしっかり受けとめ、抱きしめてやりたいものだと、つくづく思いました。とても勉強になる本なのですが、こんな残酷な現実があるなんて信じられない、信じたくないという気になったのも事実です。でも、とりわけ弁護士にとって必読の本だと思います。
(2010年2月刊。1800円+税)

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2010年5月12日

朝鮮戦争の社会史

朝鮮(韓国)

著者:金 東椿、出版社:平凡社

 朝鮮戦争を戦争史ではなく、人々の経験から見直した労作です。なるほど、そういうことだったのかと思い至ったところが多々ありました。しっかり読みごたえのある500頁に近い大作です。
 韓国人にとっての朝鮮戦争は、仲むつまじく過ごしてきた隣人が突如として悪魔に変身した経験であり、自らの生命と財産を守るはずの政府と公権力のエージェントが生命と財産を奪う存在に急変した地獄の体験であった。
 そうなんですね。「敵」は攻めてきた北朝鮮軍だけではなかったのでした。その実情が詳しく紹介されています。
 アメリカは、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んでいる。アメリカにおいて、朝鮮戦争は、第二次世界大戦やベトナム戦争に比較して研究書などがきわめて少ない。
 ある日、突然に北が戦争を敢行して、平和だった南の社会を悲劇に陥れたという韓国の公式解釈は、6.25以前の政治社会の葛藤と李承晩政権の北朝鮮に対する好戦的な姿勢はもちろん、戦争以後、韓国の政治社会が新たに構造化され、軍部勢力が北朝鮮の脅威を名分に表舞台に登場して30年あまりのあいだ、権力の蜜を吸い、軍部エリートたちが社会のエリートとなって膨大な特権を享受してきたという社会的事実を隠蔽する。
 1950年6月25日、大韓民国はまったく戦争に備えていなかった。6月24日夜は、軍の首脳部は盛大なパーティーをしていて、陸軍参謀総長は明け方まで酒を飲み、朝まで酔いが覚めない状態だった。
 李承晩も韓国軍も、最小限の努力すらしなかった。これはアメリカの援助なくして可能なことすらしなかったという意味である。
 李承晩は何の準備もなく戦争を迎えた。自分の身が危うく、国家が崩壊するかもしれないという絶体絶命の危機の前で驚いたり、当惑することはなかった。
 アメリカの北朝鮮の戦争準備、しかも開戦日時まで知っていたことは明らかである。
 李承晩も、韓国政府も、越南者や共匪討伐過程で逮捕したパルチザンを通じて、北の戦争準備を正確に把握していた。韓国の権力中枢は、北の戦争準備と具体的な戦争開始日まで、知りうる者はみな知っていた。
 戦争勃発の当日である6月25日の李承晩の驚くべき落ち着きぶり、それはきわめて重要な、誰にとっても謎にみちたミステリーなのである。
 李承晩は、1949年末から、機会あるごとに「北進論」を主張してきた。というのも5.30選挙以後、李承晩は政治的窮地に追いつめられていた。5.30選挙で、与党は11%の支持しか得られなく、執権2年の李承晩政権は失脚寸前の状態だった。戦争が始まらなかったら、その失脚は時間の問題だった。だから、アメリカの堅固な後援のもとで勝利する可能性のある戦争を自らの権力維持のための一種のチャンスとして認識する十分な理由が李承晩にはあった。
 なるほど、なるほど、うむむ。そういうことだったのですか。いやはや、ちっとも知りませんでした。
 1949年から1950年初めまでの大討伐作戦で、南にいた北のパルチザンは、ほぼ壊滅状態だった。北が南侵してきても、南の人々が蜂起することはなかった。
 5.30選挙では、無所属が大量当選し、李承晩の手先はのきなみ落選した。当局による激しい選挙干渉があったなかでの結果であるから、李承晩政権に対する支持がほとんどなかったことを意味する。
 ところが、北朝鮮が「祖国解放」を名分にして戦争を起こし、南朝鮮の民衆が李承晩政権から解放される機会を得ることになったにもかかわらず、彼らがそのまま静かに人民軍を受け入れたのを見ると、数年間の左右対立と双方からの忠誠の要求に民衆も極度に疲れ萎縮していたのではないかと思われる。とくにパルチザン活動地域内に暮らしていた農民は、事実上、生存のために、昼は大韓民国の軍と警察に、夜はパルチザンにそれぞれ協力しないわけにはいかなかった。
 険しい世の中の荒波を経験した彼らが得た知恵は強い者の側に立つことだった。住民に生の哲学があったとすれば、唯一、どちらの側からも処罰されず生き残らなくてはならないというものであり、それは社会主義や資本主義という理念よりもいっそう重要であった。
こうした理由から住民は、人民軍がやって来たときは人民軍に、韓国軍がやって来たときには韓国軍に協力する準備ができていた。
 ソウルが陥落の危機に瀕した状況において、李承晩は自らの避難に対してアメリカの大使と相談しただけで、国会議員には相談しなかった。そして非常国会が開かれていた真っ最中の27日の明け方に、国会の要人たちにも知らせず、アメリカ大使にも通報しないままソウルを離れた。銀行券もそのままにし、政府の重要文書も片づけず、数万人の軍人たちを漢江以北に置いたまま・・・。
 李承晩にとって、大韓民国の安全保障について実質的な責任を負うアメリカだけが主要な対話の相手だったのである。
 アメリカは、6月28日、2500人にのぼるアメリカ人を全員安全に日本へ対比させた。李承晩政権は、国家の救出を掲げながら、国家の構成員である国民の生命は無視していた。
 「国家不在」の状況で、人々は人民軍と韓国軍のどちらに徴収されたとしても誇らしいことではないと考えた。ただひたすら逃げて一身の生を守ることが賢明と考えた。
 朝鮮戦争の全期間にわたり、人民軍の南下を避けて避難した政治的避難よりも、アメリカ軍の爆撃から逃れるために避難した場合がはるかに多かった。
 アメリカ空軍の無差別的な爆撃は、朝鮮人を恐怖に陥れた、もっともむごい出来事だった。とくに38度線以北に対する爆撃は想像を絶するほどだった。当時の平凡な国民の目には、李承晩だけが自分だけ生きのびようとした存在として映ったということが重要である。
 李承晩は、国家や民族よりは自らの生存と権力維持をまず第1に考慮する人物であった。
 李承晩の生涯には驚くほど一貫した原則があった。権力欲が、まさにその原則であった。
 マッカーサーは李承晩に韓国の安保をアメリカが守ると約束していた。李は情報員を通じて北朝鮮の侵攻を十分に予想していたし、北の侵略に南が対処しえないこと、そのまま放置すると朝鮮半島は内戦に突入することもはっきり認識していた。李は核を保有した世界最強のアメリカが頼もしい存在と考えており、アメリカは韓国を見捨てないと信頼していた。
 李承晩は、アメリカとソ連という超大国が主導する冷戦対立のなかでは、「無定形」な国民の支持や支援よりも、アメリカの軍事的・経済的支援がより重要だと知っていた。大韓民国防衛の責任は自分ではなくアメリカにあるという政治的判断をすべての前提としていた。
 「反共を国是として掲げた」韓国の歴代政府が、人民軍が後退しながら犯した左翼側の虐殺を本格的に調査したことがないのは不思議である。しかし、それは、それまで共産党の蛮行と思われていた事件が、実は、右翼側による民間人虐殺事件であったと判明することを恐れてではないかと考えられる。たとえば、共産党の反乱あるいは良民虐殺事件と考えられてきた済州島四・三事件や麗順事件において、今では犠牲者の大部分は反乱軍ではなく韓国軍・警察・右翼による虐殺だと推定されている。「アカは殺してもいい」という原理は、実際に、今日の資本主義的経済秩序と法秩序、社会秩序に内在化し、再生産されている。それはファシズムの民族浄化の論理と本質的に同一である。「アカ狩り」という権力行使の欲求を抑制できる程度に民主主義は発展したが、現在の韓国の民主主義と人権の水準・市民社会の道徳性の水準は、一介の新聞社が過去の「国家機構」に代わって個人の思想的純粋性を審査し、追放を扇動できるという事実に集約されている。
 500頁に近い大変な力作です。朝鮮戦争に関心のある人には必読の基本的文献だと思います。
(2008年10月刊。4800円+税)

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2010年5月11日

リクルート事件、江副浩正の真実

司法

著者:江副浩正、出版社:中央公論新社

 今は昔の事件となってしまいました。リクルート事件です。
 1988年、51歳の著者は30年ほどつとめた社長をやめてリクルート会長に就任。このとき、グループ売上1兆円、経常利益1000億円。そして、リクルート事件が「始まった」のは1988年6月18日の朝日新聞。川崎市助役の川崎テクノピアビル建設疑惑から。この助役は、結局、起訴されなかった。
 著者は、映像の力は強い。新聞を読むよりテレビをみる方が辛かったと言います。
 私は日ごろ、テレビを全然みませんが、それはテレビ映像の生々しさが嫌だからでもあります。事故や事件の生々しい映像は私の心にグサリと突き刺さってしまい、映像のインパクトが強烈すぎて、何ごとも考えられなくなるのです。
 著者を病院で取り調べたのは今の検事総長(樋渡利秋検事)でした。
 当時のリクルートグループは500億円の利益をあげていた。その1%の5億円なら、寄付は非課税になる。その枠内で政治家のパーティー券を購入していた。
 つまり、現体制を維持することにリクルートは利益があると考えていたわけです。そのこと自体についての反省は、この本にはまったくありません。残念です。
この本には、検察官の取り調べ状況が「再現」されています。
「特捜の捜査がどんなものか見せてやる。捜査を長引かせているのは、おまえだ」
「バカヤロー!検察官に対して何たる態度だ。検察官をバカにするのもいいかげんにしろ!おまえの態度は、あまりにも自分本位で、傲慢だ!」
 「実に不愉快だ。これまで、キミに好意をもっていたが、憎しみと変わった。憎しみが倍加した。なぜ素直に罪を認め、調書に署名しないんだ!」
 「実に不愉快だ。罪名拒否の調書は裁判で不利になるぞ!今日は、もう調べをやめる。帰れ!」
 拘置所の接見室における弁護士との面会について、本当は秘密は保持されていないのではないのかと著者は指摘しています。
 極小カメラ分野で、日本は世界一の先端技術の国である。取調室内の天井ボードの穴に極小電子カメラを組み込んだビスのようなものを貼って、そこから髪の毛ほどの細い高速デジタル回線か、マイクロウェーブで映像を本庁へ送信する。マイクは小型の1センチ四方、2~3ミリの厚みで、接見室のテーブルや椅子の下に設置し、無線で音声を送る。本庁では、隠しカメラやマイクで取調室の様子をモニターしている。
 以上は想像だという断りがついてます。本当だとしたら、恐ろしいことですね・・・。
 検事が机を持ち上げる。積み上げられた書類がドーンと音を立てて落ちる。
 「立てーっ!横をむけーっ!前へ歩け!左向け左!」
 壁のコーナーぎりぎりのところに立たされ、すぐそばで検事が怒鳴る。
「壁にもっと寄れ!もっと前だ」
鼻と口が壁にふれるかどうかのところまで追い詰められる。目をつぶると、近寄ってきて、耳元で
 「目をつぶるな!バカヤロー!!オレを馬鹿にするな!オレをバカにするな!俺を馬鹿にすることは、国民を馬鹿にすることだ。このバカ!」
 鼓膜が破れるのではないかと思うような大声で怒鳴られた。鼻が触れるほど壁が近いので、目を開けているのは非常につらい。検事は次のようなことも言った。
 「そのような態度だと、弁護士の接見を禁止する。弁護士の逮捕も考える」
 「おまえは嘘をついていた」
 検事は、たたみかけるように、怒鳴った。
 「立て、窓際に移れ!」
 「オレに向かって土下座しろ」
 新聞が書くことは世論。新聞が書いているのに立件しないと捜査の権威が失墜してしまう。
特捜の人員は、たかだか30数名、新聞、テレビ、新聞やテレビなどの記者は、我々の数十倍いる。こっちは手が足りない。
 特捜は、疑惑があると報道されたなかから、あげられそうな立派なものを選ぶ。
 それにしても、検事の自白強要はいつもながらのやり方なのに驚いてしまいます。
(2009年10月刊。1500円+税)

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2010年5月10日

ホソカタムシの誘惑

生き物

著者 青木 淳一、 出版 東海大学出版会

 70歳で無職となって昆虫少年に戻った著者の、心躍る採集日記です。読んでる方まで楽しくなります。虫とりカゴを持って野山を駆ける昆虫少年を思い浮かべました。
 ホソカタムシは、大きさが5ミリほどしかない小さな昆虫です。しかも、地味な色合いをしていて、動きも緩慢なので、野外で見つけるのは難しい昆虫です。しかし、昆虫少年たちはそれを難なく見つけます。そこはもう、意気込みが違うのですよ……。
 ホソカタムシは生きている樹木にはおらず、枯れ木に住みついている。枯れ木の菌類か甲虫の幼虫を食べる。生きた樹木は食べないので、害虫にはならない。
 身体はガッチリと固く、光沢はなくても複雑な彫刻が施されていて、触角の先が玉になって膨らんでいて、身体は細く、両側が平行な虫である。
 ホソカタムシは、人間に見つかっても、あわてず騒がず、ゆっくりのっそりと落ち着いて、マイペースで歩いていく。その動きは、まことに優雅で気品に満ちている。
 この本には、ホソカタムシの写真と著者自身のペンで描いた精密画の2つで紹介されていますから、その生態がよく分かります。とりわけ、生態画のほうは、いかにも昆虫少年らしく丹念にペンで描かれていて、ほとほと感心・感嘆します。
 著者はホソカタムシを求めて、熊本、徳之島、石垣島、北大東島、種子島、そして小笠原諸島まではるばると出かけます。沖縄ではハブの出現を心配しながら森の中へ分け入っていくのです。いやはや、さすがに昆虫少年の心を持っていないとできませんね、こんなことは……。
ただ、その地で夜は美味しい料理を食べて、お酒を飲むわけですから、本当に豊かな老後を過ごしておられると、羨ましく思ったものでした。
 細密画の中では、ノコギリホソカタムシが印象に残りました。ギザギザ、コブコブの突起物に覆われた姿は、アニメ漫画に出てくる怪獣のようだと紹介されていますが、まったくそのとおりです。
 東北以南の日本全国どこにでもいるホソカタムシです。でも、これも3~5ミリと小さいので、目立たないんですよね。
 大変な貴重な労作だと思いました。

(2009年2月刊。1600円+税)

 いま、我が家の庭はアイリス、ジャーマンアイリス、ショウブ、アヤメの花盛りです。みんな背が高く、姿も形もとりどり艶やかなので、まさに花園です。アイリスは黄色、ショウブはキショウブ、アヤメは薄紫色です。そしてジャーマンアイリスは青紫色が多いのですが、濃茶色の花のほか純白の花もあります。華麗で会って清楚なたたずまいの真っ白さに、えもいわれぬ気高さを感じます。
 私の個人ブログに花園を公開中です。一度ぜひご覧ください。

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2010年5月 9日

北畠親房

日本史(中世)

著者 岡野 友彦、 出版 ミネルヴァ書房

 鎌倉時代末期(13世紀)、公家社会は、親幕府的傾向を持つ持明院統よりのグループと、反幕府的傾向を持つ大覚寺統よりのグループに大きく分かれていた。公家社会にとって最大の感心事は、自家の存続であり、いずれかのグループに旗幟を鮮明にしてしまうことは、きわめて大きなリスクを追いかねない。そこで、ほとんどの公卿層は、いずれの勢力にもある程度のコンタクトを持ちつつ、周囲の情勢をうかがっていた。そのなかで、あえて大覚寺統よりであることをいち早く鮮明にしたのが北畠家の人々だった。
 北畠家の盛衰は、とりもなおさず大覚寺統の盛衰を反映したものにほかならなかった。親房は、北畠家の嫡男として生まれた時点で、大覚寺統派の公卿として活躍すべき運命が初めから定められていた。
 中世社会の平均寿命は、およそ50歳。後醍醐天皇52歳。足利尊氏54歳、新田義貞は39歳で亡くなった。当時の人々は、40歳を一定の定年と考えていた。当時の人々にとって出家とは、今日の定年退職にほかならない。40歳をすぎてからの人生は、いわば第二の人生であった。親房は、38歳で出家したが、父も38歳で、祖父は46歳で出家していた。
 北畠親房は、出家した後、陸奥、伊勢、そして常陸へと下向し、その地の実情を目の当たりにして、その地の人々と交流するなかで、40歳を超えてから人間として大きく成長を遂げた。
 親房は、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐天皇の朝令暮改ぶりに対して、このままでは世論の信頼を失う可能性があると諫言したかったに違いない。
 奈良時代以来、壬申の乱の記憶なるものは、天皇家にとって、常に立ち直ってもっとも輝かしい過去であった。うひょう、そ、そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
 大日本は神国なり。この書き出しに始まる『神皇正統記』のなかで、親房は、不徳の天皇は廃位されて当然としている。この本は、幼少の後村上天皇を訓育・啓蒙するために書かれた本である。
 「南北朝」対立の本質は、あくまでも公卿中心の政治を目ざす南朝と、武家中心の政治を目ざす足利政権との争いであった。これが武家政権によって巧妙に「君と君との御争い」に持ち込まれてしまったのである。
 北畠親房を保守反動の象徴的人物とみるのは必ずしもあたっていないという本書の指摘は、大いにうなずけるところがありました。
 中世日本における公卿と武士の関係を考え直させてくれる面白い本でした。
 
(2009年10月刊。3000円+税)

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2010年5月 8日

見えざる隣人

中国

著者:吉田忠則、出版社:日本経済新聞出版社

 中国人と日本社会というサブタイトルのついた本です。在日中国人の状況を紹介しています。
 日本に住む外国人のなかでは、今や中国人が韓国・朝鮮を抜いてトップ(最多)である。
 日本に住む60万人をこす中国人のほとんどは新華僑である。新華僑とは、新中国の成立後、1978年の改革開放以降に海外にわたった人々を指す。
 中国人は1988年には13万人だったから、20年のあいだに5倍に増えた。
 一時滞在も多い。旅行、出張のために日本に来た中国人は、48万人ほど。
 中国人が集中的に住む町の一つが池袋。池袋は中国人が起業する街でもある。
 日本の大学を卒業し、そのまま日本に残って日本企業に就職する外国人が増えている。そのなかで一番多いのが中国人であり、7割を占める。日本企業に就職する留学生の急増を中国人が引っぱってきた。
 留学生の採用が増えたのは、日本企業の国際化が進んだことと関係がある。
 2007年末時点で、教授の資格で日本に滞在している中国人は2453人いる。2位のアメリカ(1167人)と3位の韓国・朝鮮(965人)を2倍以上ひき離している。
 アメリカにいる中国人留学生は2006年に9万3700人で、日本には8万6400人。
 中国の若者の留学熱は冷めていないが、日本を目ざす人は、昔ほど多くなくなった。
 日本と中国との深い関わりを多面的に論じている本です。
(2009年11月刊。1900円+税)

 連休中に近くの小山(388メートル)に上りました。左膝が居たかったので、今年になて初めての山登りです。竹林の中をあるくと、ひんやりして気持ちの良い風が吹いてきます。タケノコ掘りの跡も見えます。
 たっぷり1時間かけて見晴らしのいい頂上でお弁当開きにします。おっと、その前に、来ていた上着を全部ぬいで上半身裸になって汗を拭きとり、着替えます。さっぱりしたところで紅茶を飲み、おにぎり弁当にかぶりつきます。
 もやがかかって、まさに春霞です。遠くの山は見えますが、海の方は見えません。ウグイスが足元にある林で鳴き、涼しい風が下の方から吹き上げてきます。
 地上の人間世界を眺めながら、じっくり弁当を噛みしめます。至福のひとときです。

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2010年5月 7日

琉日戦争1609

日本史(江戸)

著者:上里隆史、出版社:ボーダーインク

 大変面白い本でした。戦国時代から江戸時代はじめにかけて、島津氏が琉球に侵攻するまでの歴史状況がとても分かりやすく、また生き生きと描かれています。知らなかったことがたくさんありました。著者に感謝したいと思います。
 1609年(慶長14年)、薩摩の島津軍が琉球王国に侵攻した。首里城を包囲された琉球国王尚寧は降伏し、わずかな家臣とともに江戸へ連行された。
 琉球は14世紀後半から中国(明)の朝貢・冊封体制下にあった。
 15世紀はじめに沖縄島に統一政権を成立させ、海域アジア世界における交易活動によって繁栄した独立国家として存在していた。
 沖縄島は、北山(山北)、中山、山南(南山)の三つの大きな勢力(三山)に分かれて覇権を争っていた。首長は「按司」(あじ)、「世の主」(よのぬし)と呼ばれ、城塞(グスク)を拠点として割拠していた。三山の実態は、強固な「国」というよりは、按司を第一人者にいただく按司の連合体だった。14世紀には、中山がもっとも強大な勢力となっていた。
 琉球は中国の明王朝から異例とも言えるほど優遇されていた。朝貢回数と寄港地は無制限に認められ、三王をはじめ王弟・王叔・世子など、一国に複数の朝貢主体が認められ、大型海船が無償で供与され、航海のための人材スタッフまで派遣されていた。
 明朝は、海禁・海防制度を徹底する一方で、新興国の琉球を有力な交易国家に育てようとテコ入れを図った。
 グスクには銃眼が備わっていた。中国の築城ノウハウとともに、大砲がセットになって導入された。大型火器が古琉球に存在したのは確実である。
 当時の琉球人は、大量の日本刀を東南アジアにもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していた。
 大砲も刀もあって、島津軍と戦ったというわけです・・・!!
 南九州の島津家も、内部は一枚岩ではなく、総州家と奥州家との対立が深まり、全面戦争へと発展していった。やがて、奥州家の島津元久が三ヶ国守護となり、島津本宗家として領国を支配した。
 しかし、その後も、島津氏は薩摩・大隅・日向三ヶ国に分かれて混乱を続け、琉球にまで支配を及ぼすのは不可能であった。分裂し混乱していた薩摩半島の中枢部を島津氏がようやく支配下に置いたのは1550年、南九州三ヶ国の統一は1578年。そこから九州全土に覇権を及ぼすまで、わずか10年であった。
 そして、そこに豊臣秀吉が登場する。1585年10月、秀吉は島津義久に対して、大友との戦闘を停止させ、さもなくば必ず御成敗に及ぶと通告した。
 島津は、秀吉を「由緒のある家柄ではない成り上がり者(由来無き仁)」として反発した。島津家は鎌倉時代から続いている名門守護家であった。
 秀吉は、30万人分の食料と馬2万匹の飼料1年分を調達し、九州遠征軍25万人が九州に上陸した。その圧倒的兵力の差から、ついに島津氏は秀吉に屈服した。そして、琉球は、秀吉の次なるターゲットの一つとして狙われた。
 琉球王尚寧は1589年、秀吉に使節を送った。琉球が京都の中央政権と公式に接触したのは室町時代以来、100年ぶりのこと。
 琉球にとって明朝は忠誠を誓うべき宗主国であった。琉球は明との関係を維持するために、明に敵対しようとする日本への経済的依存を深めざるをえなかった。
 使節の派遣により従属国として見なされた琉球は、明侵攻の動員体制のなかに否応なく組み込まれようとした。
 秀吉は、朝鮮と琉球に軍を分ければ兵が足りなくなり、琉球での戦いが長引けば朝鮮での作戦の妨げになるとして、亀井慈矩(因幡の大名)の琉球侵攻を中止させた。
 琉球が秀吉へ送った進上物はあまりにお粗末で、石田三成は「笑止」として問題視した。しかも、軍役7000人、食料10ヶ月分と借銀返済を無視していた。
 そのとき、島津義久・久保親子は、「日本一の遅陣」という失態を犯していた。
 秀吉による明侵攻情勢を最初に明に通報したのは琉球だった。
 「朝鮮が明を裏切り、日本軍とともに攻め込んでくる」と知らせたのだ。明は朝鮮に疑惑を抱き、まず朝鮮に対して防御を固めた。これは、対日戦における明と朝鮮の連携に大きな影を落とした。疑心暗鬼のなか、明と朝鮮は、秀吉の軍勢を迎え撃つことになるのだ。
 不意を突かれ、戦闘準備の整わない朝鮮軍は、日本軍の火縄銃と鋭利な日本刀、戦国時代を通じて戦いに明け暮れた高練度の武士たちの前になすすべもなく、敗退を重ねた。
 1609年、島津軍は琉球に侵攻した。総数3000人の軍勢であった。これには困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍していた。
 島津軍は、銃砲7、弓1と、圧倒的に鉄砲が多かった。
 琉球王国にも数千人規模の軍事組織が存在していた。しかし、弓500張、銃200挺と弓が多い。琉球の主力兵器は弓であった。
 沖縄島の周囲はサンゴ礁で囲まれていて、どこでも船が着けるわけではない。島津軍船は80隻もの大船団である。那覇港口には鎖を張って、防御が固められていた。
 そこで、中部の大湾で上陸し、陸路、那覇を目ざした。海路から侵入しようとした島津軍は阻止されたが、陸路からの島津軍の主力部隊は首里に迫ってきた。
 琉球軍は、接近戦で百戦錬磨の島津軍兵士にかなうはずもなかった。琉球王国にも軍事組織はあった。しかし、戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかったため、用兵面において劣り、島津軍の動きに対して臨機応変に対処できなかった。つまり、実戦に対応する力を欠いていた。
 1610年、琉球王尚寧は駿府城大広間で、大御所徳川家康と対面した。家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁寧に待遇した。将軍への謁見を意味する「御対顔」というのは、天皇の勅使や徳川御三家待遇と同じであり、琉球国王がいかに丁重に扱われたか分かる。
 なーるほど、そういうことだったのですか・・・。琉球王国の実情と初めて詳しく知ることが出来ました。ありがとうございます。
(2009年12月刊。2500円+税)
 お隣の奥さまからウドをいただきました。お吸い物と鶏肉と一緒に、そして、ウドの皮を細切りにしてキンピラゴボウ風にと、3通りに調理していただきました。シャキっとした歯触りで、爽やかな味です。ただ、キンピラゴボウ風は少しえぐみも残りました。季節の味覚をじっくり楽しみました。

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2010年5月 6日

彼らは戦場に行った

アメリカ

著者:石山永一郎、出版社:共同通信社

 2001年10月から2008年4月までにアフガニスタンかイラクに展開したアメリカ兵90万人のうち30万人は帰国してから退役軍人病院で何らかの治療を受けた。うち
4割の12万人は、機能性または心因性による脳神経系の問題を抱えて治療を受けている。
 2005年の退役アメリカ兵の自殺者は少なくとも6256人で、一般民間人の2倍。20代前半でみると、4倍。自殺未遂者は年間1万人以上。アフガン・イラク帰還兵のうち121人が、アメリカで殺人を犯して逮捕された。その被害者の3分の1は妻、恋人、父母そして自分の子など「身内」である。
 アメリカ全土にホームレスとして路上で夜を明かす人が1日平均100万人いて、その4割が退役軍人である。
 イラク・アフガン帰還兵の離婚率は、8割に近い。夫が別人のように変わってしまったという妻たちの嘆きが聞かれる。理由もなく妻を殴り、子どもを叩く。帰国して家から一歩も出れない者、うつ病に陥っている人も多い。
 軍隊に入るサインをすると、一時金が2万5千ドル支給される。志願兵への除隊したあとの奨学金は最高7万2千ドル(最近、引き上げられた)。
 アメリカ兵の死傷者の比率は、第二次大戦のとき、死者が39%、朝鮮戦争で24%、ベトナム戦争では27%だった。これがイラク・アフガンでは10%以下。イラクでは  2008年までに6万人、アフガンでは8千人のアメリカ兵が負傷した。これには、「心の病」は含まれていない。
 一方、死亡したイラク人は、少なくとも15万1千人。
 アメリカが費やした費用は、公式には1兆ドル(100兆円)と言われるが、実際には3兆ドルを下まわらないとみられている。
アメリカ軍の下請としてイラクで働く民間軍事会社の要員は1万5千人から3万人。 フィジーから、5千人以上の男たちがイラクへ出稼ぎに行った。1万人以上という推計もある。フィジー人の仕事が一番危険なのに、給料は一番安い。アメリカ人の月給は1万2千ドル。これは4倍。南アフリカ人は白人が8千ドル、黒人が5千ドル。
 フィジーの85万人の国民のうち、イラクだけで5千人、PKOを含めると数万人が戦地経験をもつ社会では、軍の発言力だけが強くなり、民主化は進まない。クーデターが頻発する根もそこにある。今も軍事独裁が続いている。
 なーるほど、そういう余波もあるんですね・・・。
 アメリカ軍のイラクそしてアフガニスタンへの侵略・進出は、確実にアメリカ社会を内側から腐蝕させていっているようです。オバマさん、しっかりしてくださいな。アフガニスタンへの侵攻なんてやめるべきですよ。
(2010年2月刊。1500円+税)
 アイリスの黄色の近くにキショウブの花が咲き始めました。似ていますが、良く見ると違います。花弁が全体に丸くて、優しく垂れているのがキショウブです。そのうち肥後ショウブも咲いてくれることでしょう。

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2010年5月 5日

月華の銀橋

日本史(江戸)

著者 高任 和夫、 出版 講談社

 荻原重秀と言えば、貨幣を改鋳して幕府の財政を好転させつつ私腹を肥やした悪の権化というイメージを抱いていました。この本は、その荻原を主人公にしているだけあって、決して極悪人などではなく、幕府の破たんした財政の立て直しのために日夜奮闘した実務官僚であると訴えています。荻原重秀の対極にあったのが新井白石です。
 新井白石は、大坂商人として高名な河村瑞賢の知遇を得ていた。同じ豪商でも、紀伊國文左衛門や奈良屋茂左衛門のように、吉原で狂ったように散財することはなかった。
 重秀は、将軍綱吉の時代に出世していった。綱吉は、面命(めんめい)と称して、面前に当事者を呼び出し、自ら新たな人事をすすめていった。重秀は32歳のとき、勘定吟味役として老中に直結し、将軍の意向を体現する者となった。
 禄高は200石の加増を受けて、750石取りとなった。
 重秀は佐渡金山に派遣され、佐渡奉行を22年間もつとめた。
 慶長小判には金が8割4分、慶長銀には銀が8割ふくまれている。改鋳にあたっては、それぞれ6~7割ほどに減らす。それは幕府直轄の銀山の産出量の減少にある。
 慶長小判2枚で、新たな小判を3枚つくれる。これによって幕府の得られる出目(でめ。改鋳差益金)は450万両にのぼる。
 貨幣改鋳の裏話を聞いているような錯覚に陥りました。視点を変えて時代を捉えなおしてみたいと思いました。
 
(2009年11月刊。1800円+税)

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2010年5月 4日

剣岳・点の記

日本史(明治)

著者 新田 次郎、 出版 文春文庫

 映画を観ました。感動の大作というのは、こういう映画をいうのかと実感しました。すごい映画でした。ともかく、全篇を実地で撮影したというのですからね。大したものです。監督もすごいですけど、役者もすさまじいですね。
 人夫たちの食糧は自弁。米やミソ、副食物は自分で用意する。測量部の食糧は、米、ミソ、干鱈、わかめなどは共同購入する。缶詰は測量官が自費で購入した。
 測量隊は、酒を山の中に持ち込むことはなかった。
 特別なことがあって隊員を慰労するときには、氷砂糖の特配か多食に肉の缶詰を開けて振る舞った。
 陸地測量部につとめるのは、例外なく農家の出身であり、次・三男だった。つまり、測量官も、それを補佐する測夫も、はじめから天幕生活して歩いても文句を言わず、それに耐えられるような環境に育った者ばかりだった。
 陸地測量部が山岳会に勝って剣岳の頂上に立ってみたら、なんのことはない、初登頂ではなかった。修験者が頂上をきわめていて、その証拠を残していた。
 剣岳の初登頂は、明治40年のこと。観測は、技術ではなく、忍耐だった。忍耐の結果、ようやく晴れ間に巡り合って手早く観測して次の観測所に移動すると、山々は再び雲の中にあることが多かった。
 この本の著者である新田次郎は、64歳にして剣岳に初登頂したそうです。すごい勇気です。そして、体力もあったのですね。
 映画を観ていましたので、その興奮さめやらぬうちに一気に読破してしまいました。といっても、山の頂上を征服しようという気にはなりませんでした。私は寒さに弱いのです。ぬくぬく布団にくるまって、湯たんぽを抱いて寝ていたいです。

(2008年3月刊。686円+税)

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2010年5月 3日

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

社会

著者:水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子、出版社:文藝春秋

 タイトルを見ただけで何の本か、誰のことか分かった人は偉いですよ。私も、これらの娘さんのお父さんたちのマンガには子どものころ(大学生まで)大変お世話になりました。 ゲゲゲの鬼太郎って、初めのうちはすごく不気味なマンガでしたね。だって、墓場を舞台として、妖怪たちがゾロゾロ出てくるのですから・・・。天才バカボンにはまいりました。イヤミがシェーッと言って飛び上がるのは、大学生のとき、みんなでよく真似をしました。大学の寮で、みんなで回し読みしていたのです。『ガロ』なんかも人気でした。白土三平の「カムイ伝」も良かったです。百姓一揆が初めて具体的にイメージできました。そして、「火の鳥」など、手塚治虫には弁護士になってからも「ブラック・ジャック」など愛読しました。
 娘たちにかかると、偉大なマンガ家も顔色なし、です。案外、娘たちは父親のマンガは読まずに、他人のマンガを読みふけっていて、オヤジたちは、それを気にしていたというのも面白い事実です。
 赤塚不二夫の娘は、高校2年生のとき、パパの彼女と一緒に海外旅行に行ったことがあるといいます。さすがに、それを母親には隠していました。あるとき、それをバラしたら、母親は猛烈に怒って、「不二夫さん!」と電話で怒鳴った。赤塚不二夫は、このときちょうど、NHKの取材を受けていた・・・。あらあら、なんとしたことでしょう。かなりハチャメチャな生活だったようですね。
 「ブラック・ジャック」にでてくるピノコは、手塚の娘がモデル。ちょうど、小学生のときだった。
 水木は、人見知りだし、友だちも多くないし、お酒は飲めず、付きあいはよくない。会社でも家庭でも安心できないとダメ。
 父の偉大さは子どもにはなかなか見えてこないものなんだ。改めてそう思ったことでした。そして、久しぶりにマンガを心いくまで味わいました。それぞれのマンガも挿入されていて、とても楽しい本です。笑いながら、共感しながら、感嘆しつつ車中で一心に読みふけりました。なつかしくも楽しいひとときを過ごせました。ありがとうございます。
(2010年3月刊。1429円+税)

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2010年5月 2日

清水次郎長

日本史(江戸)

著者 高橋 敏、 出版 岩波新書

 幕末維新における博打の世界の実態を十分に堪能することのできる本です。
 次郎長親分も悠々と生きていたわけでは決してなく、殺し殺されの世界で幸運にも生き延びたこと、維新のとき政治に深入りしなかったことが延命につながったことなど、面白い記述にあふれています。
 清水次郎長は幕末から明治維新、近代国家の誕生まで変転止まない、血で血を洗う苛酷な大動乱の時代を生き抜き、74年の生涯を畳の上で大往生して閉じた、きわめて稀な博徒であった。若き日、博打と喧嘩の罪で人別から除かれ、無宿者となって以来、博徒の世界に入り、敵を殺しては売り出し、一家を形成、一大勢力を築いてしぶとく生き残った、いわば博徒・侠客の典型の一人である。
 徳川幕府発祥の地である三河国には、小藩が乱立し、網の目のように入り組み錯綜したため、警察力が弱体化し、模範となるべきところ、皮肉にも博徒の金城湯池になってしまった。
 博徒間の相関関係は、任侠の強い絆で結ばれているように見えるが、仁義の紐帯はもろく、常に対立抗争しては手打ちで休戦、棲み分けを繰り返す、実に油断も隙もない世界であった。
 博徒の実力の根底は、喧嘩・出入りに勝つ武力プラス財力にある。
 この点も今の暴力団にもあてはまるようですね。
 次郎長が並みいる博徒のなかで抜きんでていったのは、結果論になるが、立ちはだかる宿敵を次々に葬るか、抑えるか、時には妥協しても自派の勢力を拡大したからである。
 次郎長一家は、親分が一方的に子分を支配統制する集団ではない。個性的子分を巧みに次郎長が操縦している感がある。
 幕末、次郎長に食録20石を与えて家臣とするとの誘いがかかった。博徒が武士になれるという夢のような話である。しかし、これを次郎長は迷わずきっぱり拒絶した。
 このころ、次郎長は、かつての三河への逃げ隠れをパターンとする移動型から、清水港に根をおろし、東海地方ににらみを利かす定着型博徒に変容していた。
 次郎長の宿敵であった黒駒勝蔵は、尊王攘夷運動に加担していたにもかかわらず、明治4年になって、7年前の博徒殺害を理由として斬首されてしまった。
 次郎長は、明治維新を機に、無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。
 とびきり面白い、明治維新の裏面史になっています。 
 
(2010年1月刊。800円+税)

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2010年5月 1日

収容所に生まれた僕は愛を知らない

朝鮮

著者:申東赫、出版社:KKベストセラーズ

 北朝鮮にある14号政治犯収容所完全統制区域出身の若者を見たとき、別の完全統制区域で警備隊員をしていた人(同じ脱北者です)が次のように述べています。
 幼いころからの苛酷な強制労働の結果、右側の肩は曲がってしまっている。腕と手は、厳しい力仕事のせいでサルの腕のように非常に長くなり、内側に湾曲している。その体は、物を運ぶのに便利なように変形してしまった。こんな外形状の身体の特徴は、収容所の中で幼齢から強制労働をしなければ出来あがらない。
 北朝鮮の強制収容所には、2つの種類がある。一つは、ある程度の期間収容されたあと、一般社会に復帰できる「革命化区域」。もう一つは、一度入ると一生そこから出られない完全統制区域。革命化区域は、15号管理所のみで、残りは、すべて完全統制区域である。だから、完全統制区域の情報が外部にもれることは絶対になく、その中で何が起きているか誰も知ることができない。ヒトラーのユダヤ人絶滅収容所のようなものなのでしょう。
 収容者の7割は、なぜここに入れられたか、その理由すら知らないだろう。管理所に入れられた瞬間から、身内の消息であっても知らされず、身分証も全財産も没収されてしまう。独身者は寄宿舎で生活する。結婚しても、男は寄宿舎生活を続け、女だけに家が与えられ、子どもと生活する。
 仕事は1ヶ月に1度、毎月1日が休み。土曜とか日曜に休むことはない。
 食料は配給。その日のうちにすべて消化しなければならず、食糧を貯めておくことはいけない。食糧難なので、ヘビやネズミも食べる。ネズミは焼いて食べる。頭まで、骨をかじって食べ尽くす。ヘビより栄養価は高い。
 この14号収容所に5万人は生活している。収容所内では、メガネをかけることもできない。塩を除いて、すべて自給自足である。
規則に反したとき、たとえば、脱走したとき、盗んだとき、男女間の承認なき身体接触があったときには、即時に銃殺される。公開処刑場があり、収容所から逃亡を図った母と兄が処刑されるのを少年であった著者も一番前で見せつけられたのでした・・・。
収容所内での結婚は、当局の指示による表彰結婚のみ。いやと言えば結婚は許されない。収容所内に学校はあるが、教えられるのは国語と算数と体育だけ。学校に本はない。歴史を教えられることもない。
ここでは、金日成、金正日を賛美する教育もなかったようです。不思議ですね・・・。
高等中学校に進んでも本はなく、生活総括のノートがあるだけ。カエルを捕ったり、ヘビをつかまえて食べたりしていた。
強制収容所の囚人が集団的な抵抗ができないのは、何よりも統制が厳しいこと、収容者が自分は罪を犯してここにいると思っていることにある。
罪を犯した自分は、ここの規則に従うのが当然で、一生、命令されるままにおとなしく暮らすものと考えている。そもそも抵抗意識などない。収容所では、基本的に、人々を食べ物で統制する。
巻末に著者が知らなかった言葉の一覧表があります。驚くべきリストです。
可愛らしい、友好的、善良、純粋、楽観的、心が広い、素朴、平和、楽しい、うっとりする、明朗、快活、幸せ、十分・・・・。
今の日本の若者にも実感のともなわない言葉になってはいないのかと、おじさんは少しばかり心配なんですが・・・。
5万人も暮らしていたという収容所生活の、あまりに苛酷な日常生活が紹介されています。目をそむけたくなる現実です。よくぞ、こんなところから脱出できたものです。
(2008年3月刊。1600円+税)

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2010年5月31日

我が家にミツバチがやって来た

生き物

著者  久志 富士男   、 高文研 出版 
 
 とても面白くて、次の裁判を待つあいだに読みはじめたのですが、その裁判を延期にしてもらって読みふけりたい気分になったほどでした。
 なぜって、たとえばミツバチたちがヒマになったら、押しくらまんじゅうをしたり、隠れんぼをして遊ぶというんですよ。これにはさすがの私も驚きましたね。カラスがすべり台ですべって遊ぶというのは知っていましたが、ミツバチも遊ぶんですよ・・・・。
ニホンミツバチは不快なことがあると近くの人間に当たり散らす。たとえば、顔に体当たりする。また、砂糖水はまずいので、最後の非常食としてしか利用しない。なんていう話が満載なんです。セイヨウミツバチではなく、ニホンミツバチの話です。野生のミツバチたちのたくましさには、感嘆してしまいます。
これまでの蜂の巣からさる(分蜂)かどうかは、外勤蜂の過半数の意向で決まる。女王蜂が決めるわけではない。そして、個々のハチは行くのか残るのか、自分の意思で決めている。一度は出ると決めても、あとでやっぱり残ると思い直して戻ってくるハチもいる。うへーっ、これって、いかにも人間的ですね・・・・。
 最近では、田園地帯ではハチは生息できなくなっている。農薬のせいである。稲田や果樹園、それにゴルフ場の近くは避けなければいけない。大規模農場だと、100メートルくらい離れていても、ハチは1年以内に死滅する。
 風下で突然に農薬に襲われると、ハチたちは巣門に出て必死に扇いで農薬を押し返そうとがんばるが、力尽き、巣箱の内外でもがきながら次々に死んでいく。
巣の中にいる雄バチを居候として捕まえて殺すと、働き蜂の機嫌が悪くなり、そのあと人を警戒するようになる。ニホンミツバチは全体の繁殖を考えると、オス蜂も大事にすべきだ。
セイタカアワダチソウは年に2回、花を咲かせ、ミツバチに多大の貢献をしている。
 ミツバチはミツを取られても怒らないが、子どもを傷められると怒る。
人に慣れていても怒る。ミツは切り傷や火傷にすごく効く。外勤ハチは仕事がなくなると、お互いにダニ取りの羽づくろいをしたり、昆虫のくせに押しくらまんじゅうや隠れん坊をして遊ぶようになる。
 近くに強い勢力のハチ集団がいると、力の弱いハチ集団は、そのうちに戦い疲れて防戦しなくなり、女王蜂が殺され、自分たちは相手方に合流してしまう。
 雑木がなくなるとニホンミツバチは死滅し、ニホンミツバチが消滅すると農業は衰退する。この連鎖が見えないまま針葉樹の造林がすすめられてきた。
 ニホンミツバチは力ずくで従わせることはできない。本来は臆病な生き物である。とくに人が近くにいると、警戒を怠らない。ニホンミツバチと付き合うには、優しく接することである。そうすると、必ず信頼関係が生まれてくる。ニホンミツバチに近づくときには、挨拶を忘れてはいけない。
人間が巣箱の存在を忘れていても、ハチはいつも人間の存在を意識している。ときどき、指を番兵ハチに近づけたり、番兵ハチの脇腹をくすぐったりのスキンシップをしてやる。
ハチの羽音は、常に、そのときの気持ちを表現している。羽音が聞こえるときは、ハチは何かを言っている。繁殖期は、うれしいのか、羽音は朗らかで、温和だ。花蜜が豊富なとき、ミツが十分に貯まっているときも同じだ。
女王蜂が老齢で産卵が停止されると、王国に存亡の危機が迫り、どんな群れも荒くなる。これは女王が3年目に入る前後に起こりがちである。
ニホンミツバチは、オオスズメバチに襲われると、人に助けを求める。子どもがシクシク泣くような、か細い羽音で人の胸元をジグザグに飛んだり、人に止まったりする。「あいつらを追っ払ってください」と言っているようである。ま、まさか・・・・と思いました。
ニホンミツバチは、ミツの味がセイヨウミツバチと比べものにならないほど良い。ニホンミツバチは病気にかからず、ダニにもやられない。放任しても
元気に育つ。
 いやはや、もとは高校で英語の教師だった人のニホンミツバチを飼った体験にもとづく面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年4月刊。2000円+税)

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2010年5月30日

月のかぐや

宇宙

著者:JAXA、出版社:新潮社

 いやはや、すごい月の素顔です。これらの写真を見ないと損をしますよ。
 2009年6月、使命を果たして落下した月周回衛星「かぐや」。そこに搭載されていた各種のカメラが撮影した月の写真集です。
直径84キロメーターのクレーター(ティコ)の写真があります。すごいのは、上から見た写真だけでなく、横から見た写真まであることです。このクレーターは、今から1億年前に隕石が月面に衝突して出来たものです。ところが、表面はまるで新しいのです。地球のような大気がないからなのでした。
 「かぐや」は、1000万点以上のデータによる月の詳細地図をつくった。「かぐや」と地球をつなぐためリレー衛星「おきな」も活躍した。
 月世界は、昼と夜が2週間ずつ続く。赤道付近で昼はプラス120度。夜はマイナス  200度。苛酷な温度環境である。
 「かぐや」は月を周回しているため、少しでも重力(物質の引力)が異なる月面上空を通ると、高さが変動する。逆に、ふらつくと、その地点の重力が平均値よりも強いのか弱いのかが、はっきりしてくる。この場所ごとの重力の違いを「重力異常」と呼ぶ。
 月世界についてのたくさんの貴重な写真があって、ちっとばかり月を知った気になりました。やっぱりウサギが住むのは無理なのかな・・・。
(2009年12月刊。1300円+税)

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2010年5月29日

宮本常一が撮った昭和の情景(上・下)

社会

著者:宮本常一、出版社:毎日新聞社

 昭和30年(1955年)から昭和55年(1980年)まで、宮本常一が日本全国を駆けめぐって撮った写真の数々です。宮本常一の撮った写真10万枚には、相手を不快にし、怒らせるに違いない、一歩も二歩も踏み込まないと撮れないようなカットは1枚もない。
 旅に出るときの注意4ヶ条。
第1。汽車に乗ったら、窓から外をよく見る。田や畑に何が植えられているか、育ちは良いか。家は大きいか小さいか。瓦屋根か草葺きか。駅に着いたら、人の服装に注意せよ。駅には、どんな荷物が置かれているか。
第2。新しく訪ねた土地では、必ず高い所に上がって、方向を知り、目立つものを見よ。そして、目立つものを見つけたら、そこへ行って見ること。
第3。お金があったら、その土地の名物や料理は食べてみよ。暮らしが分かる。
第4。時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみること。
これを読んで、私は昨年5月に秋田県能代に行ったことを思い出しました。歩いて海岸近くの林に行き、そこにある散歩コースを歩いてみました。そして、夜は侘びしい町の居酒屋で食事をして、少しだけ能代の町の素顔を知った気分になりました。たしかに自分の足で歩いてみると、車で通過するだけでは見えないものが見えてきます。
不思議な魅力のある写真集だ。ほっとする温かさ。以前に眺めた気のする懐かしさ。この町、この村なら、行ってみたい。住んでみたいと思わせる落ち着き、静けさ、佇まい、このように感じる人が多いだろう。
まことにそのとおりです。昭和30年というと、私が小学校に上がる前のころです。近くに大きな炭鉱社宅がありました。大勢の子どもたちが群れをなしてメンコ(私はパチと呼んでいました)遊びをしていました。
父の郷里の農村地帯(大川市内)にいくと、大きな黒光りのするカマドがあり、混浴の共同浴場がありました。家は、どこもカヤぶきです。父の実家には白亜の土蔵も2つありました。昔は小屋で馬を飼っていたようです。
昔なつかしい写真のオンパレードです。幸いにして、私は父母たちの写真集を引き継いでいますので、少し整理してコンパクトな写真集にまとめてみようという気になりました。
(2009年6月刊。各2800円+税)

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2010年5月28日

殺劫(シャーチェ)

中国

著者 ツェリン・オーセル、 出版 集広舎

 チベットにおける文化大革命の実情を写真とともに解説した本です。
 チベットに駐屯していた中国軍士官が熱心なアマチュア写真家として、チベットでの文化大革命の進行過程を写真にとっていたのが、その子どもを通じて世間に知られるようになったのです。つまりは偶然の産物です。
 文化大革命は、団塊の世代である私が中学生のころに始まり、高校生の頃が最盛期で、大学生の頃には終息に向かおうとしていたように思います。といっても、その実情は日本によく伝わってこなかったので、いったい中国で何が起きているのだろうかと怪しみながら仲間うちで話していました。
 というのも、権力者ナンバーワンの毛沢東が、ナンバーツーの劉少奇を実権派として打倒するなんて、まるで理解しがたいことだったからです。
 日本では、文化大革命という文字面を妄信して賛嘆する人たちがいました。いわゆる毛沢東派です。私は大学生でしたが、なんだかウサン臭いものを感じていました。それも道理でした。要するに、失政を重ねて権力の座から落ちていた毛沢東が、もう一度権力を握ろうとして、自己の名声を唯一最大の武器として発動した権力闘争でしかなかったのです。つまり、その内実は文化革命でも何でもなく、単なる勢力争いでしかありませんでした。
 ところが、その被害たるや、甚大かつ深刻なものがあり、いまもって中国共産党はきちんと総括しきれていないという人が少なくありません。
 文化大革命によって、チベットでも寺院が破壊されようとしたし、実際に寺院は破壊され、教典は燃やされていった。しかし、国際世論から批判されるのを恐れた周恩来は、寺院への襲撃を必死になって止めた。そのとき、かつての貴族階級の人々が打倒対象となり、公開の場で大衆的な糾弾を受けた。
 この本には、その様子が生々しく写真とともに紹介されています。そして、糾弾される人だけでなく、写真にうつった糾弾していた人にも40年後のいま、取材しているのです。当時糾弾されていた人でも、現在は復活していまなお活躍しているひとが少なからずいます。
 そして、当時、激しく糾弾していた人が、今では、宗教信仰の世界に舞い戻っている。つまりは、180度の大変身を遂げたわけである。
 はじめ、革命は我々に素晴らしい生活をもたらしてくれるものと思っていた。たとえば、役人になれるし、金持ちにもなれると思いこんでいた。しかし、時間がたつにつれ、そんなことはないことに気がついた。そして、年齢をとればとるほど死に近づく。本当に申し訳ないことをしてしまった。まだ死なないうちに、急いで悔い改める。さもないと、死んで鳥葬場に運び込まれても、ハゲワシが食ってくれない。まったく情けないことになる。
 チベットでは、今も中国政府と揉めているようです。
 40年前のチベットの写真、そして最近のチベットの状況をうつした写真によって、チベットという国のイメージが湧いてきました。貴重な本と写真集です。
 
(2009年10月刊。4600円+税)

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