弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年5月 7日

琉日戦争1609

日本史(江戸)

著者:上里隆史、出版社:ボーダーインク

 大変面白い本でした。戦国時代から江戸時代はじめにかけて、島津氏が琉球に侵攻するまでの歴史状況がとても分かりやすく、また生き生きと描かれています。知らなかったことがたくさんありました。著者に感謝したいと思います。
 1609年(慶長14年)、薩摩の島津軍が琉球王国に侵攻した。首里城を包囲された琉球国王尚寧は降伏し、わずかな家臣とともに江戸へ連行された。
 琉球は14世紀後半から中国(明)の朝貢・冊封体制下にあった。
 15世紀はじめに沖縄島に統一政権を成立させ、海域アジア世界における交易活動によって繁栄した独立国家として存在していた。
 沖縄島は、北山(山北)、中山、山南(南山)の三つの大きな勢力(三山)に分かれて覇権を争っていた。首長は「按司」(あじ)、「世の主」(よのぬし)と呼ばれ、城塞(グスク)を拠点として割拠していた。三山の実態は、強固な「国」というよりは、按司を第一人者にいただく按司の連合体だった。14世紀には、中山がもっとも強大な勢力となっていた。
 琉球は中国の明王朝から異例とも言えるほど優遇されていた。朝貢回数と寄港地は無制限に認められ、三王をはじめ王弟・王叔・世子など、一国に複数の朝貢主体が認められ、大型海船が無償で供与され、航海のための人材スタッフまで派遣されていた。
 明朝は、海禁・海防制度を徹底する一方で、新興国の琉球を有力な交易国家に育てようとテコ入れを図った。
 グスクには銃眼が備わっていた。中国の築城ノウハウとともに、大砲がセットになって導入された。大型火器が古琉球に存在したのは確実である。
 当時の琉球人は、大量の日本刀を東南アジアにもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していた。
 大砲も刀もあって、島津軍と戦ったというわけです・・・!!
 南九州の島津家も、内部は一枚岩ではなく、総州家と奥州家との対立が深まり、全面戦争へと発展していった。やがて、奥州家の島津元久が三ヶ国守護となり、島津本宗家として領国を支配した。
 しかし、その後も、島津氏は薩摩・大隅・日向三ヶ国に分かれて混乱を続け、琉球にまで支配を及ぼすのは不可能であった。分裂し混乱していた薩摩半島の中枢部を島津氏がようやく支配下に置いたのは1550年、南九州三ヶ国の統一は1578年。そこから九州全土に覇権を及ぼすまで、わずか10年であった。
 そして、そこに豊臣秀吉が登場する。1585年10月、秀吉は島津義久に対して、大友との戦闘を停止させ、さもなくば必ず御成敗に及ぶと通告した。
 島津は、秀吉を「由緒のある家柄ではない成り上がり者(由来無き仁)」として反発した。島津家は鎌倉時代から続いている名門守護家であった。
 秀吉は、30万人分の食料と馬2万匹の飼料1年分を調達し、九州遠征軍25万人が九州に上陸した。その圧倒的兵力の差から、ついに島津氏は秀吉に屈服した。そして、琉球は、秀吉の次なるターゲットの一つとして狙われた。
 琉球王尚寧は1589年、秀吉に使節を送った。琉球が京都の中央政権と公式に接触したのは室町時代以来、100年ぶりのこと。
 琉球にとって明朝は忠誠を誓うべき宗主国であった。琉球は明との関係を維持するために、明に敵対しようとする日本への経済的依存を深めざるをえなかった。
 使節の派遣により従属国として見なされた琉球は、明侵攻の動員体制のなかに否応なく組み込まれようとした。
 秀吉は、朝鮮と琉球に軍を分ければ兵が足りなくなり、琉球での戦いが長引けば朝鮮での作戦の妨げになるとして、亀井慈矩(因幡の大名)の琉球侵攻を中止させた。
 琉球が秀吉へ送った進上物はあまりにお粗末で、石田三成は「笑止」として問題視した。しかも、軍役7000人、食料10ヶ月分と借銀返済を無視していた。
 そのとき、島津義久・久保親子は、「日本一の遅陣」という失態を犯していた。
 秀吉による明侵攻情勢を最初に明に通報したのは琉球だった。
 「朝鮮が明を裏切り、日本軍とともに攻め込んでくる」と知らせたのだ。明は朝鮮に疑惑を抱き、まず朝鮮に対して防御を固めた。これは、対日戦における明と朝鮮の連携に大きな影を落とした。疑心暗鬼のなか、明と朝鮮は、秀吉の軍勢を迎え撃つことになるのだ。
 不意を突かれ、戦闘準備の整わない朝鮮軍は、日本軍の火縄銃と鋭利な日本刀、戦国時代を通じて戦いに明け暮れた高練度の武士たちの前になすすべもなく、敗退を重ねた。
 1609年、島津軍は琉球に侵攻した。総数3000人の軍勢であった。これには困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍していた。
 島津軍は、銃砲7、弓1と、圧倒的に鉄砲が多かった。
 琉球王国にも数千人規模の軍事組織が存在していた。しかし、弓500張、銃200挺と弓が多い。琉球の主力兵器は弓であった。
 沖縄島の周囲はサンゴ礁で囲まれていて、どこでも船が着けるわけではない。島津軍船は80隻もの大船団である。那覇港口には鎖を張って、防御が固められていた。
 そこで、中部の大湾で上陸し、陸路、那覇を目ざした。海路から侵入しようとした島津軍は阻止されたが、陸路からの島津軍の主力部隊は首里に迫ってきた。
 琉球軍は、接近戦で百戦錬磨の島津軍兵士にかなうはずもなかった。琉球王国にも軍事組織はあった。しかし、戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかったため、用兵面において劣り、島津軍の動きに対して臨機応変に対処できなかった。つまり、実戦に対応する力を欠いていた。
 1610年、琉球王尚寧は駿府城大広間で、大御所徳川家康と対面した。家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁寧に待遇した。将軍への謁見を意味する「御対顔」というのは、天皇の勅使や徳川御三家待遇と同じであり、琉球国王がいかに丁重に扱われたか分かる。
 なーるほど、そういうことだったのですか・・・。琉球王国の実情と初めて詳しく知ることが出来ました。ありがとうございます。
(2009年12月刊。2500円+税)
 お隣の奥さまからウドをいただきました。お吸い物と鶏肉と一緒に、そして、ウドの皮を細切りにしてキンピラゴボウ風にと、3通りに調理していただきました。シャキっとした歯触りで、爽やかな味です。ただ、キンピラゴボウ風は少しえぐみも残りました。季節の味覚をじっくり楽しみました。

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