弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年7月21日

帝都衛星軌道

著者:島田荘司、出版社:講談社
 携帯電話をつかうと、瞬時に、そのエリア基地局が判明する。基地局から電話までの距離も百メートル単位で割り出せる。そして、電話番号、契約者もすぐに分かる。
 ふーん、そういう世の中なんですね・・・。犯罪捜査につかわれるのはよしとしても、それ以外にもつかわれている気がしてなりません。
 Nシステムだって(今はTシステムというのもあるそうです。その違いがよく解りませんが・・・)、はじめは犯罪捜査のみということでしたが、そうでない使われ方をしたケースがいくつも明らかになっています。警察を信用するわけにはいきません。
 この本には、途中でせこい寸借詐欺のような欺しの手口のあれこれが具体的に紹介されています。人の善意、盲点をついた悪どい詐欺です。読んでいるうちに、いやな気分になってきました。でも、実は多いんですよね。弁護士として悪徳商法を毎日のように扱っていて、本当にそう思います。
 後編には、日本の裁判の仕組みが次のように紹介されています。
 日本の裁判官がいかに威張っていて、乱暴で、理屈の解らない人たちであるか・・・。
 殺人というものは、そして一度これを犯した者がどんな異常な心理状態に突き落とされ、永遠に精神をさいなまれ続けるか。戦争ならまだしも、平時のことなんですから。
 後編には前編の謎ときがありますが、ここで紹介するわけにはいきません。それより、東京の地下についての話を紹介します。日比谷公園の地下に巨大な貯水槽があるというのは、私も聞いたことがありました。戦前からあって、秘密の地下施設だったそうです。
 東京の地下鉄の駅に使い勝手の悪いのが多いのは、既にあった軍施設を無理に廃物利用しているから。千代田線の霞ヶ関駅は元海軍の防空壕だった。
 皇居を防衛するために皇居の周囲に環状に設置されていた地下要塞群の跡。それを結んでつくられたのが、現在の東京の地下鉄なんだ。そうだったんですか、そう言われると大手町駅なんかひどいものですよね。まるで迷路です。いったい自分がどこにいるのか、さっぱり分からなくなってしまいます。

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日曜日ピアジェ、赤ちゃん学のすすめ

著者:開 一夫、出版社:岩波科学ライブラリー
 わが家に赤ちゃんがいないのがとても残念に思えます。昔は身近にいたのですが・・・。孫も果たしてできるのやら、という状況ですので、残念でたまりません。
 というのも、この本には赤ちゃんをめぐる楽しい実験がいくつも紹介されているからです。ぜひやってみたいと思っているのですが・・・。さし絵がまた、とてもいいのです。いかにも愛くるしい赤ちゃんそのものです。
 たとえば、赤ちゃんにベロ(舌)を出してみせます。普通の顔とベロを出すのと交互にくり返して見せます。赤ちゃんはいったいどんな反応をするでしょうか。
 赤ちゃんは、大人のように自分のベロを出してくれるのです。あたりまえのようですが、これって単なる反射行動ではないのです。鏡も見ないで、相手の動作と同じ行動ができるというのが、実はすごいことなんです。うーん、そうなのか・・・。
 次の実験は、まず初めの1分間は笑顔で赤ちゃんに話しかけます。次の1分間は静止顔です。声は出さずに、じっと赤ちゃんの顔を見つづけるのです。怒った顔でも悲しい顔でもなく、あくまで普通の顔です。そして、最後の1分間で、笑顔になって話しかけます。
 さあ、途中の静止顔に赤ちゃんはどう反応するでしょうか。
 赤ちゃんは静止顔を見たくないため、顔をそむけたり、むずがったりするそうです。これは赤ちゃんにはコミュニケーション能力があることを意味します。うーん、本当でしょうか。たしかめてみたいものです。この赤ちゃんは、生後2ヶ月から8ヶ月くらいまでです。
 次の実験は結果が意外でした。対象の赤ちゃんは生後9ヶ月から12ヶ月です。赤ちゃんの前にハンカチを2枚、別々に置いておきます。少し中央にふくらみをもたせます。そして、どちらかのハンカチの下におもちゃを隠すのです。赤ちゃんがハンカチを取ってオモチャを手にしたら、ほめてあげます。そこで、実験です。今度は別のハンカチの下におもちゃを隠します。赤ちゃんの見ている前で隠すのです。
 さあ、赤ちゃんはどちらのハンカチを取るでしょうか・・・。なあーんだ、そんなのあたりまえじゃないか。おもちゃを隠した方のハンカチを取るに決まっているだろ。見てたんだから・・・。
 ところが、ところが、赤ちゃんは最初に隠したハンカチを取るというのです。えーっ、ウッソー、ウソでしょ。そう叫びたくなります。学者が何度も追試したそうですが、結果は変わりませんでした。これについては、赤ちゃんにとって、対象は見えていなくても存在しつづけるという対象の永続性概念をもっていないからだと説明されています。つまり、対象が見えなくなることは、もうそこには存在しないと赤ちゃんは考えるのです。それにしても不思議ですよね。
 3歳ころまでの赤ちゃんの記憶は人間誰でも思い出すことができません。つまり、3歳児までの赤ちゃんは、それ以上の年齢の人間とは違った存在なのです。そこに赤ちゃん学が存在する根拠があります。うーん、人間って奥の深い存在なんだ・・・。

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真実と正義のために

著者:諫山博さんを語るつどい、出版社:福岡第一法律事務所
 諫山博弁護士の追悼文集です。諫山弁護士は2004年11月27日、82歳で亡くなられました。1949年に九大の哲学科を卒業し、1951年から福岡市内で弁護士をしてこられました。司法修習3期です。1972年から衆議院議員を4年間、1986年から参議院議員を6年間つとめられ、国政でも日本共産党の議員として大活躍されました。
 この本の表紙は諫山弁護士の精悍そのものの写真になっています。わたしも一度だけ刑事事件をご一緒しました。公選法違反事件(戸別訪問事件)でした。
 諫山弁護士は公訴権濫用論を初めて提起した弁護士として有名です。
 林健一郎弁護士が、諫山弁護士は膏薬弁論とペニシリン弁論というたとえで問題提起していたことを紹介しています。次のような言葉です。
 私はしみじみ考えます。弁護士は膏薬貼りの弁論に甘んじてはいけない。社会の表面に吹き出たものにいくら膏薬を貼ってみても、できたものの根がなくなるわけではない。ふきでものの根を絶つ弁論、膏薬貼りの弁論ではなく、ペニシリン注射的な抜本的な弁論、これはまさに政治の仕事ではないのか、これが私の心境です。
 すごい指摘です。刑事事件(ほとんど国選弁護です)を扱うなかで、まさにここにある膏薬貼りの弁論しかできていないことを恥ずかしく思いました。といっても、なかなかペニシリン注射的な弁論というものを考えつきません。
 諫山弁護士は大の甘党でした。小泉幸雄弁護士が一緒に外出したとき自分の分と思っていた梅が枝餅を食べられてしまったという、ほほえましい思い出を書いています。
 椛島敏雅弁護士は諫山弁護士から諭された言葉を紹介しています。
 弁護士は法廷では臆してはいけない。傍聴人に分かりやすい言葉で、大きな声で弁論するようにしなさい。ぼそぼそと小さな声で発言すると、当事者が不安がります。
 まことにもっともな指摘です。
 諫山弁護士は公安警察と果敢にたたかいました。古くは菅生事件です。現職警察官が駐在所を爆破して共産党に責任をなすりつけ、逃亡した事件です。犯人の戸高公徳警部補は、発覚後も警察内部で異例の大出世をとげました。警察の体質を露呈しています。
 また、公安調査庁の共産党スパイ盗聴事件のときには現場で摘発しています。
 「語るつどい」のとき、仁比聰平参議院議員が諫山弁護士の三池争議における活躍を紹介しながら、心温まる挨拶をしたのも大変印象にのこりました。

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2006年7月20日

陣屋日記を読む

著者:成松佐恵子、出版社:雄山閣
 いやあ、日本人って、本当に記録を残すのが大好きなんですねー。もちろん、私もその一人なのですが・・・。まあ、おかげで江戸時代の人々の暮らしが実によく分かります。
 奥州守山藩なんて言われても、まったくピンときませんよね。それもそのはずです。石高わずか2万石。藩士は200人ほどで、お城もない。元禄13年(1700年)に成立し、幕末まで170年のあいだ存続した。所在地は現在の福島県郡山市。水戸藩の支藩です。守山陣屋に定詰(じょうづめ)の藩士は10人にもみたなかった。
 この守山陣屋に御用留(ごようどめ)と呼ばれる陣屋日記が、なんと143冊も残っているのです。郡奉行サイドでしたためた郡方政務日誌といえる内容なのです。これを学者の指導を受けた素人が解読していき、一冊の本をまとめたわけです。本当にすごいことです。日本人って偉大なんですね・・・。
 守山藩の藩主はずっと江戸にいて、参勤交代の義務はなかった。そこで、江戸と守山陣屋のあいだでは御用状と呼ばれる書面が頻繁にやりとりされている。
 郡奉行にとって人口減少の著しい領内の農村対策が最大の課題だった。
 郡奉行の下に位置するのは目付で、なぜか頻繁に交代している。化政期20年間に13人が入れ替わり江戸から着任した。
 郡奉行が借用金に関する不正が発覚して捕縛され入牢の身となり、結局領外追放という厳しい処分を受けたこともあった。
 庄屋は守山藩では、すべて陣屋が任命した。世襲でもあった。たまに「役儀不当」として罷免されることもあった。
 治安維持に関してみると、博打が全国的に流行していて、文化年間に3回も老中触れが出されている。守山藩でも文政年間に12回も摘発があった。しかし、十分な取締効果はあげていない。
 それでも守山陣屋わずか10人の武士で6000人もの領民を支配していけたのは、村役人を通じての間接統治があったからこそ。
 陣屋日記で紹介されているなかで注目すべきは訴訟沙汰の多さです。
 文化文政におこされた訴訟11件のうち、8件が他領より訴えられ、そのうちの6件のべ24人が個人的な金銭債務で訴えられている。利息つき無担保の、いわゆる金公事(かねくじ)である。金公事のほかにも、川筋を上流の村が閉め切ったため不漁になった下流の村が訴え出たり、神社の神職間の紛争もおきている。
 日本人は実は昔から訴訟(裁判)が好きだったことが、この本からも分かります。といっても、江戸時代には判決にいく前に調停(内済)させられることが多かったのです。扱人(あつかいにん)と呼ばれる第三者が介入して話をまとめようとします。
 農民が集団で村を抜け出して水戸本藩に越訴(おっそ)しようとしたり、他領(二本松藩)に駆けこんだりしています。決して百姓はおとなしくはなかったのです。
 庄屋が商用と称して領外へ出かけることも多くありました。その期間も2〜3ヶ月から最長6ヶ月もあったのです。年に4、5回、多いときには10回もありました。
 湯治や参詣を目的とした外出も多かったようです。1回30日ほども温泉に湯治に行っていました。三斗小屋に26日間行ったというのが記録に出てくるのを見て、私の大学時代の4泊5日の夏合宿をなつかしく思い出しました。
 守山藩には、文化文政の20年間に90歳に達した者が男12人、女21人いました。養籾(やしないもみ)2俵(9斗)が生涯わたされることになっていた。およそ一人一年分の食い扶持にあたる。要するに、90歳になったら老後の心配はしなくてよいということなのです。今の日本はどんどん福祉の切り捨てがすすんでいて、老後の不安が高まっています。週刊誌に「高齢者の税金が10倍。これが小泉政治の本質」という記事が出ていました。まさしくそのとおりです。年寄りを大切にしない社会では日本も長いことありません。
 欠落(かけおち)は守山藩では草隠(くさがくれ)と呼ばれていた。文化期の9年間に1年に平均10件、21人が草隠人が出ていた。村でなにかの不祥事をおこすとお寺に駆入り救いを求めるということが次第に習慣化していた。
 面白いですね。このようにして江戸時代の実相がどんどん分かっていくのですね。江戸時代は決して暗黒の世紀ではなかったのです。

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2006年7月19日

トム・クランシーの空母

著者:トム・クランシー、出版社:東洋書林
 現代のニミッツ級空母は、4.5エーカーに集積されたアメリカの小都市に相当する。いつでも一日に700海里以上も移動でき、完全な医療支援、機械整備、ジェット・エンジン試験室、給食活動、コンピューター支援、発電その他を提供できる。
 一隻の空母は60〜70億ドルの価値をもち、6000人以上を雇っているビジネス体であるが、従業員の平均年齢は21歳以下である。
 一個の空母戦闘群に国は200億ドルの資産を投入する。乗艦している1万人の兵士に食事、給与、医療を提供しなければならず。その運用・維持に年10億ドルの費用がかかる。現在、アメリカは12個の空母戦闘群の維持を計画している。通常、2〜3個の空母戦闘群が前方展開している。
 空母には離艦する航空機に速度を与えるカタパルトがある。これは基本的に蒸気動力ピストンである。キャデラックを1キロ先まで飛ばす力がある。
 空母に着艦するのは難しい。2階の窓から白鳥を飛びおりさせ、地面上の郵便切手を舌で見つけ出すことに匹敵する。
 作業が適切なら、20秒から30秒おきに1機を空母に着艦させることができる。
 冷戦時代には、毎年10万人の新兵を採用していた。平和な現在でも毎年5万人ほどを必要としている。新兵募集の目標は、高校卒業が95%、うち65%の知能指数がクラスの最上位にあることとしている。
 1970年代半ばから、空母には男女別々の寝台設備とトイレの区画をもつよう改造された。今では、女性まで殺人マシーンに組み込まれているのですね。
 ニミッツ級空母には6000人が乗る。空母要員として士官155人、水兵2890人、航空要員として士官365人、下士官2500人が乗っている。
 また、ジェット燃料9000トンと爆弾・爆薬・ミサイルを2000トン積んでいる。
 F14・トムキャットは全長19.1メートルの複座・双発の戦闘機である。そして、写真偵察ができる。前方と下方を見るカメラ、航空機の両側を水平線から水平線まで撮影するパノラマ・カメラ、航空機の直下を掃査する赤外線スキャナーをつんでいる。デジタル・カメラとなっているので、飛行中に空母に解像度の高い画像を送ることができる。写真をとって情報士官が確認するまで5分しかかからないシステムで、これは移動目標を迅速に攻撃するために必要な情報を戦闘群指揮官に提供できる。
 トムキャットの最大の欠点は、購入と維持に要する巨額の費用である。
 アメリカ軍の原子力空母の日本寄港が日常化しつつあることを私は大変危惧しています。日本は本当に独立国家といえるのか、根本的な疑問を感じるのです。
 横須賀基地に原子力空母ジョージ・ワシントンが2年後に配備されようとしています。これはアメリカ軍の世界的規模での再編の一環です。アメリカ国防省が今年2月に発表した国防計画の見直しによると、航空母艦や戦略原潜・攻撃型原潜の60%をアジア向けに太平洋に集中配備するということです。横須賀基地への原子力空母の母港化は、そのカナメをなすものです。
 過去の海軍は海上の戦争だけを考えていればよかったが、グローバリゼーションがすすんだ現在では、陸上の作戦に全面的に関わらなくてはいけない。つまり、海から陸上に攻撃をしかけ、大陸のなかにまで軍事的支配を広げることが海軍の中心目標になっている。
 また、石油節約のため、原子力推進艦船をアメリカはさらに重視している。なにしろアメリカ政府機関全体の一日の石油消費量33万バレルの90%をこす30万バレルをアメリカ軍がつかっているのです。
 アメリカ軍の世界戦略にどっぷり組みこまれている日本ですが、それが強まれば強まるほど、戦争に巻きこまれる危険は高くなります。おーいやだ、いやだ。私は絶対にいやです。やっぱりヤンキー・ゴーホームです。

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2006年7月18日

レンタルお姉さん

著者:荒川 龍、出版社:東洋経済新報社
 訪問して引き出そうとする相手が、仮に「ノー」だと拒んだとしても、それが100%の「ノー」だとは限らない。相手が口にした「ノー」のなかにも、いまの生活ではいけないという危機感にもとづいた、30%のイエスが隠れているかもしれない。そんなイエスを信じてがんばる。30%のイエスを、創意工夫で40%、50%へと大きくしていく。それがレンタルお姉さんの仕事だ。
 レンタルお姉さんという語感からは、何かいやらしいイメージを抱かせそうになりますが、これはまったくそういうものではありません。ニートとも呼ばれる若者たちを家庭の外へ、実社会の中へひっぱり出そうという仕事なのです。
 レンタルお姉さんたちは何かの資格をもったカウンセラーや医療関係者ではない。フツーの20代、30代の女性たち。レンタルお姉さんは、ともかく相手の言い分を受けとめる。受けとめることで相手を尊重する。けっして相手を否定しない。
 レンタルお姉さんの仕事は、ニートの若者と交流して、彼らが自宅に引きこもる生活をやめさせること。そして就学や就労に向けて新たな行動を起こさせること。それは、手紙、電話そして訪問という順序ですすめられる。最初に本人に会うまでに3ヶ月から半年。ひきこもりをやめさせ、新たな生活を始めさせるのに半年というのがひとつの目安となっている。手紙は手書きが原則。メールもダメ。
 彼らに社会に出るための練習段階として、NPO法人(ニュースタート)が運営する「若者寮」に入ることをすすめる。ここで同じような経験をもつ若者たちと共同生活をし、仕事・体験をしてもらう。寮生活は平均1年3ヶ月。最長2年。卒業生は、この7年間で500人をこえる。
 ただ、レンタルお姉さんと本人の関係が悪化してしまうこともある。あのレンタルお姉さんだけは絶対に許せないと、徹底して毛嫌いされることすらある。だけど、ひきこもり生活をやめさせ、新たな生活を始めさせることが彼女たちの仕事だから、ときには悪役に徹しなければならない。自分が嫌われても、本人の危機感をあおって家の外へと踏み出させる。
 訪問先の相手と仲良くなることは得意でも、引き出す相手に嫌われたくないと思う人では、レンタルお姉さんはつとまらない。
 自宅に引きこもって感情の起伏さえない生活を送っている若者が怒ったら、それは全身のありったけの感情を総動員して相手にぶつける最大限の自己表現。ひとつの前向きなシグナルととらえる。
 ところが、56歳のひきこもりも相手としている。もちろん、もはや若者ではない。本ニートと言うしかない。30年間も、家にとじこもっている人がいる。
 引きこもり生活が長くなると、表情を失っていく。まるで能面のような顔になった若者もいる。他人と話して喜怒哀楽の感情をつかう機会がないから。感情が退化すれば、表情も消える。声を出して話す必要がなくなるから、声も極端に小さくなる。言葉がうまく出てこなくなる若者もいる。私も司法試験の受験勉強を部屋に閉じこもって、一日中ほとんど人と話をしない生活をしていて、失語症になってしまったと心配したことがあります。つい、それを思い出してしまいました。
フリーターは213万人。ニートは64万人と推定されている。
 若者といっても、会社員経験のある20代、30代のニートが最近ふえている。退職型ニートと呼ばれる。30代は対応が難しい。この退職型ニートは社会人経験があるため、プライドも高く、自分をニートと一緒にするなと強く拒絶する。リストラや退職などの挫折体験と就職できないことへの焦りなどもあって、かなり精神的に屈折していることが多い。
 レンタルお姉さんは、訪問先の親とは極力コミュニケーションをとらない。
 親は、子どもの言動の揺れにふりまわされず、毅然とした態度をとる必要がある。しかし、たとえば、本人の意思を尊重するフリをして、父親として進路に迷う息子の方向づけをするという責任を負うことなく、問題を先送りしている親が多い。子どもと同じで親自身も孤独。親戚や近所づきあいもあまりない。世間体はあるので、子どもがニートだということを隠したい気持ちは強い。
 レンタルお姉さんが子どもを引き出しにかかれば、親はニートの子どもを家から押し出そうとする必要がある。その両方の働きかけがないと、ニートのひきこもり生活をやめさせるのは難しい。
 ニートの親の多くが、勤務先やパート先以外の社会との接点をあまりもっていない。会社と家との往復だけで、ろくに近所づきあいもない。親である前に、一人の人間として、自分の人生を楽しくネットワークやノウハウがとても乏しい。親自身があまり楽しそうに人生を生きていない。子育ては失敗が許されないもの、と考えている親が意外に多い。親子ともども失敗への許容範囲がとても狭い。
 ニートとは、実は親たち自信の問題でもある。だから子どもがニートになって自宅にひきこもると、親も相談できる人がいなくて、家族全員が社会から簡単にひきこもってしまう。うんうん、なるほど、そういうことだったのですね。よくわかりました。
 現代日本社会の実相がよく分かる本でした。
 街路樹でセミが鳴きはじめました。庭に早くもアキアカネが飛んでいます。日曜日、いつもより早起きして仏検(準一級)の口頭試問を受けてきました。いつも緊張します。5分前にペーパーを渡されます。2問あって、うち一問を選んで3分間スピーチをします。一問は、このところ子どもの虐待が起きているのをどう考えるかでした。こちらはパスして、二問目の勝ち組・負け組についてどう考えるかと選びました。メモをとらずに頭のなかで3分間スピーチをまとめるのって本当に難しいんですよ。昨年はまるでダメでしたが、今年はトツトツと話して、なんとか試験官と対話らしき格好はつきました。10分足らずのやりとりですが、たっぷり一日分の仕事をした気分になりました。

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2006年7月14日

三日月が円くなるまで

著者:宇江佐真理、出版社:角川書店
 神田堀に架かる栄橋を渡ると久松町だった。
 この出だしで、江戸の町並みと人々の営みにスィーッと引きずりこまれてしまいます。函館市に生まれ、今も同地に住む(?)団塊世代の著者の鮮やかな筆力で心地よく江戸の暮らしを味わうことができます。
 古道具屋と薬種屋を兼ねる紅塵堂(こうじんどう)に下宿することになった25歳の刑部小十郎の話が展開していきます。といっても、藩主の汚点を雪(そそ)ぐために指名された庄左衛門の助太刀をする役目です。決して気のすすむ役目ではありません。入居そうそう、主の娘に笑われて、小十郎は気を悪くします。でも、この娘、口は悪くても案外に気だては優しそうなのです。
 行雲流水(こううんりゅうすい)の心持ち、だとか、床見世(とこみせ、商品を売るだけで人の住まない店)だとか、見知らない言葉が頻出するのも時代物ならではです。
 小十郎は曹洞宗のお寺で特訓を受けることになります。東司の作法を真先に教えこまれます。
 東司に就いたら蒲(かま)でこしらえた草履に履き替え、衣の端をもってかがんで用を足す。汚してはいけない。声を上げてもいけない。はなをかんだり唾を吐いてはいけない。落書きしてはならない。歌ってはならない。
 用を足したら、また草履を履き替え手洗い場で備えつけの灰を手にとり、三度洗う。次に、土を水に点じて三度洗う。さらにサイカチの実の粉を取り、水桶に浸して丁寧に洗う。都合七度。
 次は行鉢と呼ばれる食事の作法。応量器と呼ばれる五鉢ひと揃いになった食器を使用する。応量器には、畳を濡らさないようにする水板と鉢単と呼ばれる敷物がついている。そして、サジやハシと一緒に袋に収められる。
 私も一度だけ永平寺を訪れたことがあります。春のことだったと思いますが、木立の奥深くにありました。そこで、食事やトイレの作法のことを聞かされたことを思い出しました。真理を究めるにも、まずは形から入るということのようです。
 小十郎たちは、結局、仕返しに失敗します。庄左衛門は責任を取らされ、市中引きまわしのうえ、獄門となりました。武士の身分を離れて浪人になっていたからです。
 引き廻しの行列は、小伝馬町の牢屋敷から江戸橋、八丁堀、南伝馬町、京橋、札ノ辻まで行って引き返し、赤羽橋、溜池、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷へ向かい、上野、浅草、蔵前を通り、馬喰町から牢屋敷へ戻る行程だった。
 小十郎は、それでも運よく処分を免れ、ついには恋する町娘と晴れて結婚できました。
 江戸時代の結婚も、その気になればかなり融通無げのところがあったようです。武家と養子縁組すればよかったのです。いつもかつも四角四面に江戸の人々が生きていたと考えるのは正しくありません。

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旅と交遊の江戸思想

著者:八木清治、出版社:花村書房
 文化元年(1804年)、筑後国は福嶋町(八女市)の作右衛門一行19人が伊勢神宮へお参りに出発しました。72日間の旅です。伊勢神宮だけではありません。厳島神社、金比羅宮、高野山、京都・奈良の神社仏閣もこまめにまわっています。
 そして、40年後の天保14年(1843年)にも、今度は同じ福嶋町の清九郎一行17人が、ほとんど同じ順路で68日間の旅をしています。順路ばかりでなく、途中に立ち寄った社寺、高野山の宿院、京都・大阪の宿泊先などもほとんど共通しています。つまり、規格化・画一化された観光旅行のコースが設定されていたのです。
 そして、天保6年(1835年)には、筑前国須川村の古賀新五郎重吉以下総勢76人に及ぶ一行が、ほぼ似た順路で68日の旅行をしています。
 いずれも旅行日記が残っていて、道中、どこで何を食べたのかまで記録されているのです。伊勢神宮は信仰から娯楽へと性格を変えていたと著者はみていますが、まったくそのとおりでしょう。
 2月から4月にかけての農閑期とはいえ、2ヶ月もの旅行を20人とか70人の集団で農民がしていたという事実に圧倒されてしまいます。
 元禄時代に日本に滞在していたドイツ人医師ケンペルは、自らの見聞にもとづいて、日本人について「他の諸国民と違って、彼らは非常によく旅行する」と書いています(「江戸参府旅行日記」)。
 貝原益軒は福岡藩士でしたが、江戸へ12回、京都へ24回、長崎へ5回も出向いています。旅人益軒と呼ぶのは、ぴったりの言葉です。益軒にとって旅は楽を得る方法であり、とかく旅行は辛いものという考えとは無縁でした。
 文人墨客の遊歴は、体のよい出稼ぎだったという評価があるそうです。文化人たちは、全国を旅行して、地方の富裕な人々から家宝の鑑定を依頼されたり論語を講義して謝礼をもらっていたのです。

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人間らしく、誇りをもって働きたい

著者:三上礼次、出版社:自治体研究所
 私も韓国には何回か行ったことがあります。といっても、いつも弁護士会同士の交流で行ったもので、実は釜山だけなのですが・・・。
 その釜山にある労働組合の委員長が2003年10月に工場内のクレーンで首吊り自殺しました。労組委員長が自殺するなんて珍しくないんだそうです。この本によると、韓国では労組委員長の自殺が相次いでいるというのです。ちっとも知りませんでした。
 韓国の社会には、これまで長いあいだ、労働争議で会社側が蒙った被害額を、労働者個人に賠償させるために告訴するという悪習がある。会社側は損害賠償請求と仮差押を労働組合弾圧の手段として乱用しており、損害賠償請求額は560億ウォン、仮差押額は790億ウォンにのぼる。
 訴訟に負けた労働者は、労組の資産はもとより、労働者の賃金や家屋敷まで取り上げられる。自殺した労組委員長は、財産を差押えられ、労組指導者として労働者の利益を守れない状況に追い込まれていた。ほかにも労組委員長が焼身自殺を図った例が紹介されています。日本では想像もできない事態です。
 少し前、国鉄が国鉄労組に対して巨額の損害賠償請求の裁判を起こしたことはありましたが、労組委員長の個人責任が問われたことはなかったように思います。
 韓国でも、日本と同じように、大量の非正規労働者がいて、大きな社会問題となっています。韓国と日本は、司法界も似ていますが、こんなところも同じなんですね・・・。
 非正規労働者は、政府の公式統計で労働者全体の32%、460万人いる。労働界の方では780万人いるとみている。ここ2年のあいだに100万人が増えた。銀行業では10人に3人以上が非正規。造船や流通業界では、非正規職の方が正規職の人数を上まわっている。
 近くて遠い国、韓国の実情を少し知ることができました。本文は50頁たらずの薄さです。さっと読めますので、一読をおすすめします。

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わが真葛物語

著者:門 玲子、出版社:藤原書店
 只野真葛(ただのまくず)という江戸時代後期の女流文人を紹介した本です。一見ペンネームのようですが、本名です。父親は仙台藩江戸詰の医師であった工藤平助で、田沼意次に「赤蝦夷風説考」を献上し、自ら蝦夷奉行になれるかと期待したこともある人です。これは、田沼の失脚で夢と消え去りました。
 江戸に生まれた真葛は、仙台藩士の只野伊賀行義(つらよし)に嫁ぎ、35歳で仙台に下りました。寛政9年(1797年)のことです。夫のすすめから著作活動に入り、「みちのく日記」などを書き、代表作の「独考」について滝沢馬琴の批評を求めました。馬琴は手厳しい批判をしたようですが、これは彼女を高く評価していたということです。
 当時の女性にとって、大名の奥御殿に勤めることは、広く世間を見て、自分の教養・才能を活かし活躍できる最上の場だった。真葛も16歳のとき、仙台藩の御殿に上り、伊達夫人に仕えています。
 江戸時代にも多くの女性が文章を書いているが、女性の作品が刊行されることは、ごく稀であった。真葛は松島に遊んで紀行文を書いたが、その前に2人の女流俳人が紀行文を書いた。九州筑後出身の諸九尼(58歳)と長門の菊舎尼(30歳)であった。昔も今も、ほんとうに日本女性は旅行好きなのですね。
 「独考」は、たしかにかなりユニークな内容です。
 儒教の教えというのは、昔からご公儀がご政道に専用と定められているので、真の道だと思われがちだが、実は人のつくった一つの法に過ぎず、唐国から借りてきたもの。いわば表向きの飾り道具であって、小回りのきかないことは街道を引く車に似ている。家の内のことは、もっと融通無碍の、人情にそった処理法がある。
 人の心は性器を根源として体中にはえひろがるので、男女が逢いあう結婚というものは、心の根源たる性器を結合して勝劣を決めるのである。
 ここでは男女の性交渉(セックス)を、男女間の勝劣の観点でとらえています。セックスを正面から論じているのに驚かされますが、少しずれているように思います・・・。
 武家が町人より借りたお金は、結局、また利子を背負ってふくらんで、貸した町人のところへ帰っていく。そして、お金の尽きた武士たちは仕方なく町人に頭を下げ、お金を借りて日々を送り、利を取られたうえに、町人に卑しめられるのこそ無念である。
 このように、真葛は武家の立場に立ち、町人を敵と見ていたのです。これに対して馬琴は町人の立場から批判を加えています。江戸時代の人々の思索の深まりを感じることのできる本です。

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2006年7月13日

鈴木敏文の統計心理学

著者:勝見 明、出版社:日経ビジネス人文庫
 セブン・イレブン名物の毎週水曜日の東京本社会議の様子が紹介されている本です。全国から1400人ものOFC(店舗経営相談員。オペレーション・フィールド・カウンセラー)を集めて、毎週毎週、鈴木敏文会長が直接話しかけるというのです。毎週、何をそんなに話すことがあるのか、それが気になって読みました。
 セブン・イレブンの本社は今は移転しましたが、これまでは浜松町近くにありました。今は四ッ谷駅の近くにあるそうです。
 鈴木会長は、話の区切り区切りで、OFCたちに向かって、「みんなわかったね」「約束してくれるね」と念を押す。そのたびに「わかりました」のかけ声があがる。
 鈴木会長は、われわれの競争相手は同業他社ではなく、最大の競争相手は目まぐるしく変化する顧客ニーズであるといい、外資も脅威と考えていない。
 鈴木会長は他店見学をしてはいけないという。今や、もの真似の時代ではないからだ。
 今の日本は多様化の時代というけれど、実は、そうではない。明らかに画一化の時代であり、ますますその傾向は強まっている。みんなが同じ商品に殺到する。
 なるほど、そうなんですよね。多様化どころか、画一化。これが現代日本の困ったキーワードです。個性を生かして、てんでんバラバラというんじゃないのです。
 絶えず仮説を立てて先を見通す努力を怠るべきではないという指摘があり、なるほど卓見だと感心しました。たしかに過去の体験にこだわっていたら、世の中のはやい変化についていけないでしょう。
 ところで、鈴木会長は、「社内では本を読むな」が口癖だといいます。えーっ、そんな、ひどい・・・。そう思いました。ただ、それはハウツー本の類は読むな、ということなので、少し安心しました。そんなものは過去のことをまとめているだけで、新しい時代に向かっては何の約にも立たない。ということなんです。そう言われたら、たしかに・・・、という気もしてきます。
 イトーヨーカードーは、10年前までは2000坪の店舗がもっとも売場効率が良かった。ところが、今は、2倍の4000坪クラスがもっとも利益を上げている。
 セブン・イレブンの顧客の来店頻度は、週2〜3回が31%、週4〜5回と毎日来店をふくめると、週2回以上のお客が63%になる。そんな来店頻度の高いお客にとって、Aランクの商品は、それだけ飽きやすいということ。なーるほど、ですね。それにしても、コンビニに毎日行くなんて人の気がしれません。心の寂しい人なんでしょうね、きっと。
 鈴木会長は、講演に原稿を用意しないという。重要会議でも事前に資料を読まず、テーマも聞かないという。先入観がなく白紙で直観を働かすためだという。そういうこともあるのでしょうか・・・、私にはとても理解できません。
 セブン・イレブンのお客に中高年の比率が高まっている。50歳以上が22%もいる。
 セブン・イレブンで扱う商品は、年間7割が入れ替わる。うーん、なんだか、大変なことですね。若者だけでなく、中高年も寂しい生活を送っている人が、それだけ増えていることなんでしょう。でも、コンビニって、どこでも人間同士のふれあいはありませんよね。若い店員のかけ声はありますが、あれもいかにもマニュアル(教則本)どおりで、嘘っぽくてソラゾラしい気がしてなりません。

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2006年7月12日

チャイナハンズ

著者:ジェームズ・R・リリー、出版社:草思社
 中国にいたCIAの工作員がキッシンジャーの代理人となり、ついには中国駐在のアメリカ大使にのぼりつめたというのに驚いてしまいました。まことにアメリカというのは謀略を愛する国なのですね。ゾッとします。
 著者は山東半島で生まれたアメリカ人です。父親がスタンダード石油の中国駐在社員だったからです。そして、CIAの要員だったので、この本もCIAから内容のチェックを受けたことが付記されています。
 著者たち一家は1926年に青島に住むようになりました。ええ、チンタオ・ビールで有名な、あの青島ですよ。当時、1万5000人の日本人が青島にいて牛耳っていたそうです。日本人というのは、商人と実業家です。少年の目からみても、外国勢力のなかでは、日本の野望がもっとも貪欲に見えたようです。
 著者はアメリカの大学に進学します。イエール大学です。このイエール大学はアメリカ戦略情報局(OSS)の創設に一定の役割を果たしました。OSSがCIAに改編されたときも、その中核にイエール大学は卒業生を送りこんでいます。
 CIA工作員になった著者は中国で秘密作戦に従事します。毛沢東の共産党が勝利したあと大陸に残った160万人の国民党軍を支援することです。台湾から空路で中国人工作員を満州に送りこんだこともあります。しかし、見事に失敗しました。
 金門、馬祖両島に中国は砲撃しはじめた。この二つの島には、台湾側の軍事基地とCIAが協力してすすめていた中国本土への秘密作戦の発動拠点が置かれていた。私が小学生のころのことですから、今でも記憶に残っています。すぐにも戦争が始まってしまうような暗い雰囲気を子ども心にラジオのニュースに感じ、不安が高まりました。
 少年時代の体験から、中国人は概して外国人に酷い目にあった体験から傷つきやすく、ちょっとしたことで激昂する性格を持ち、国際社会に訴える能力があり、人心操作術が得意な人々である。著者はこのように考えています。
 中国人が歴史体験で深く傷ついているからといって、排外主義を見逃してしまうということにはならない。著者の職業的アプローチは、このように中国という国と、その意図を一定の距離を置いて観察することだ。
 著者は1979年8月に、CIA本部から情報殊勲章を授与されました。それは北京にCIA支局を開設したことを評価したものでした。そして、1986年11月に、著者は駐韓大使として韓国に赴任しました。全斗煥大統領から廬泰愚大統領へ替わろうとする時期です。与党の党大会にもアメリカ大使として出席してにらみをきかせました。大韓航空機が空中爆破され、犯人の一人である金賢姫が捕まった1987年11月も駐韓大使でした。
 そして、1989年3月、中国大使に任命されたのです。4月から天安門広場での民主化デモが始まりました。まさしく激動する中国に赴任したわけです。
 中国のサハロフとも呼ばれていた天体物理学者である方励之をアメリカ大使館内に13ヶ月間も匿(かくま)っていたことを明らかにしています。方夫妻は医療棟を住居にしていたとのことです。
 先日の仏検(準一級)の結果が分かりました。75点で合格していました(基準点は 70点。120点満点)。自己採点のとおりでした。今度の日曜日に口頭試問があります。3分前に問題文を渡され、2問のうち一問を選び、3分間スピーチをします。そして、そのあと4分間、フランス人の試験官と問答するのです。これまで1勝2敗です。思うようにスピーチできません。頭のなかを単語がぐるぐるまわってしまうのです。それでも、がんばってみます。

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2006年7月11日

憲法「私」論

著者:水島朝穂、出版社:小学館
 著者の講演を私も聞いたことがありますが、きわめて明快で、説得力がありました。
 自衛隊がイラクへ持っていった重装備には驚かされます。
 84ミリ携行式無反動砲。これはカール・ダスタフといい、スウェーデンのFFV社が開発した。従来の無反動砲には、発射後に後方へ噴出する火炎が大きくて、うしろにいる味方は注意を要し、命中しないと敵の格好の餌食となるという欠点があった。そこで、目立ちにくく、確実性が高く、使いやすいということで導入された。
 110ミリ個人携帯対戦車弾。パンツァーファウストというドイツ製の使い捨て成形炸薬弾。これは化学エネルギーで戦車の装甲に高熱・高圧の爆風を当て、穴を開けて内部を破壊する武器。300メートルの距離から700ミリ以上の装甲板を貫通することができる。
 軽装甲機動車。ライトアーマーと呼ばれ、最高速度100キロで、高機動車より装甲が厚く、対戦車ロケットなどの発射も可能。
 96式装輪装甲車。クーガーと呼ばれ、12.7ミリの重機関銃または96式40ミリ擲弾銃をのせるもの。最高時速100キロで、通常は四輪駆動で走り、オフロードでは八輪駆動へ切り替えができる。コンパクトタイヤを使用しているので、火力脅威のなかを高速で人員を輸送できる。
 このように機動力と火力を大幅にアップしており、明らかに戦闘行動を想定している。
 私は、これらの映像を北海道の佐藤博文弁護士から送ってもらって、パワーポイントで拡大して見ました。すごい迫力です。自衛隊がイラクへ戦争をしかけに出かけたことがよく分かりました。憲法違反の行為だと、つくづく実感します。
 陸上自衛隊は8月までにイラクを撤退するようですが、航空自衛隊のほうは逆に増強されるのです。アメリカ軍が戦死者を減らすために、地上戦より航空戦重視に切り替えるのに符丁をあわせた行動です。いつまで、どこまで日本政府はアメリカの言いなりになるのでしょうか。まったくやり切れません。
 ちなみに、毎日新聞のコラムによると、毎日新聞がイラクから自衛隊が「撤退」と記事にかいたら、けしからんという抗議がとんできたそうです。「退」の字は「敗退」をイメージさせる。だから、小泉政府は「撤退」を「撤収」と言っているのだ・・・。そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。でも、アメリカ軍がイラクの人々に勝っていないのですから、その目下の同盟軍である日本の自衛隊が「勝てる」わけがないことは自明の理です。「戦う」前から「敗けている」ことは事実でしょう。少なくとも、私は、そう思います。もちろん、戦わないほうが断然いいのです。
 著者はいろんな歴史グッズを収集しています。私も講演のときに見せてもらったことがあります。なんと自衛隊の地雷まで入手したというのです。どうなっているんでしょうね。自衛隊の武器保管は大丈夫なのでしょうか。アメリカ軍の地雷探知機も持っているそうで、写真で紹介されています。手榴弾もあるそうです。最近、暴力団員の国選弁護人になりましたが、暴力団の武器庫には、それこそ手榴弾から機関銃まで大量にそろっているというのです。恐ろしいことです。
 武器は決してオモチャではありません。これまで人を殺したことのない自衛隊は果たして軍隊として役に立つのか、アメリカ軍は疑っているそうです。いいえ、それでいいんです。人を殺すのに慣れてしまったアメリカ人なんて、人間の顔をした狼にすぎないんです。と言ったら、狼が怒りだすのではないでしょうか。オレたちは無闇やたらな殺生はしない・・・、と。殺したり、殺されたりすることのない世の中にしたいものです。つくづく、そう思います。

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2006年7月10日

まる儲け!

著者:大田 勝、出版社:角川ワンテーマ21新書
 成功している化粧品会社の社長の苦労話です。どんな化粧品なのか、実は、まったく知らないのですが、書いてあることに共感を覚えましたので、紹介します。
 出る杭は打たれるが、出すぎれば認められる。たった一度の人生、かけがえのない人生なのだから、言いたいことは言い、思うように生きたいものだ。
 基礎化粧品なんか要らない。洗顔が基本だ。25歳はお肌の曲がり角。だから基礎化粧品で肌に栄養を与えてあげないと、老化が早まってしまうなんていう化粧品業界のコマーシャルは根拠がない。
 新陳代謝や皮膚呼吸がスムースに行われ、皮脂が十分に分泌されていれば、皮膚の表面には皮脂や汗が混じりあった皮脂膜が形成され、バリア機能が働く。つまり、皮膚は上部になり、アレルギーなどの外敵にも負けにくくなる。肌には何よりもまず、洗顔が大事なのである。皮膚の角質層に届くのは、せいぜい保湿成分であり、皮膚の奥深くに栄養が吸収されることなどありえない。これは皮膚学の常識だ。皮膚に栄養を供給するには、口から食べるしかない。
 長年クリームやら美容液を肌に与え続けてきたため、肌が本来分泌すべき皮脂を、もう十分に足りているから分泌する必要はないだろうと勘違いさせる。過剰な手入れによって肌本来の機能まで失いかけているのだ。
 大衆に説得は無用。大衆は、まわりくどい説明の一部始終を辛抱強く聞いてくれるほどヒマではない。うーん、たしかにそうなんでしょうね・・・。でも、そこをなんとか乗り切らないと・・・、とつい思ってしまいます。
 大衆の目線でモノを見、生活感を忘れないこと。心に訴えなければ、成果は望めない。
 サラリーマンを15年以上続けた人は、無理をせず、そのままサラリーマンでいたほうがいい。脳細胞がすっかりサラリーマンになってしまっている。脳細胞の危機管理能力は衰えている。経営に必要な勘が働かなくなっている。無駄なことはしないのが、私のモットー。実は、わたしもそうなんです。
 赤信号で左右を見て安全を確認して渡る人は多い。しかし、赤信号で待つくらいの余裕はもっておきたいもの。赤信号は誰に向かっても危険を知らせるサインであり、これに用心するのは当たり前。しかし、人生の不幸は、実は青信号のときに迫っていた危機に気づくのが遅れたために起こるものだ。自分自身の目と耳で、安全をしっかり確認してから確実な一歩を踏み出す。社会のルールなどに依存せず、まずは自分を信じて歩き出す。それが自信というもの。自信は、依存を捨てた心にしか芽生えない。
 どうしようもないことに、くよくよ悩まない。これも、わたしと同じです。といっても、放っておくとくよくよしたくなりますので、気分一新を図る工夫が必要です。わたしの場合は、それは本を読むことです。本の世界に没頭していけば、くよくよしていたことなんか、きれいさっぱり忘れることができます。
 日本は、消費者一人あたりの化粧品消費額が世界トップ。市場規模はアメリカに次いで世界第2位。実は、日本の国内化粧品市場はここ何年も伸びていない。しかも、そのなかで、アメリカやヨーロッパの外国製品がじわじわとシェアを拡大し、1兆7000億円の市場の16%は海外製品が占めている。
 親が子どもに教えてやるべきことは、義務感ではなく、好奇心の大切さだ。わたしも、本当にそうだと思います。世の中って、知らないこと、不思議なことだらけですからね・・・。そう思いませんか。いつのまにか57歳になってしまったわたしは、毎日毎日、ええーっ、世の中ってこうなってるのか、と新鮮な驚きを感じています。
 きのう(9日)、セミの鳴き声を今年はじめて聞きました。ヒマワリも一つだけですが大輪の花を咲かせています。庭はヒマワリとコスモス畑になってしまいました。エンゼルス・トランペットが淡いピンクの花を咲かせ、芙蓉も枝をぐんぐん伸ばしています。いよいよ梅雨が明けて夏到来です。

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2006年7月 7日

カメの文化誌

著者:ピーター・ヤング、出版社:柏書房
 亀が2億2500万年も生きながらえてきたということを初めて知りました。ツルは千年、亀は万年といいますが、亀一族の歴史が、そんなにも古かったとは、驚きです。
 亀がこんなに長く生き残ったのは、外骨格、身体をしまいこむ骨質の甲羅をもっていたから。これは長い時間をかけて進化した。はじめは肉を保護するため、ウロコが生えた。このウロコ板が外からの脅威に対応して大きくなり、最終的につなぎあわさって、今のような甲羅ができた。そして、背中と胸の皮膚や筋肉は機能が衰え、萎縮して、骨と甲羅が接触するようになった。ついには体内の骨の大半が、現在の骨の外被と融合し、首と尾の骨が自由に動く状態で残った。
 亀は冷血動物、性格には変温動物のため、体温を維持するのは周囲の環境を頼りとする。亀は温暖な環境に生息する。オーストラリア・ニュージーランドにはいない。
 ゾウガメの強みのひとつは、首と脚を伸ばして寄生虫を外にさらし、鳥についばんでもらうこと。
 亀は冬眠する。野生の状態で6〜10週間、最長で6ヶ月間、亀は飲まず食わずで生き、静止状態の四肢は、そのまま。冬眠に入る数週間前に摂食を停止し、老廃物を一掃して体内で腐敗をおこさないようにする。冬眠のあいだ、亀は水分を行って来も摂取しない。
 亀は基本的に声を出さない。例外的にオスは交尾のクライマックスで歓喜のあまり、口を開いて、金切り声をあげる。ええーっ、本当でしょうか・・・。
 ある女性が1.6キロも離れた場所に引っ越した。飼っていた亀を一緒に連れていくのを忘れていたところ、7年後に、新居に現れたという。信じられません・・・。
 イギリスだけでも、100年間に1000万頭をこえる亀が輸入された。しかし、輸入されて1年をこえて生き延びたのはわずか100万頭だとみられている。
 イスラム教では亀の肉を食べるのは禁じられている。しかし、亀の卵は食べてもよい。ふつうの亀の寿命は30〜50年。しかし、つい先日死んだガラパゴス亀のように175歳の誕生日を元気に迎えた亀がいることも間違いありません。
 福岡城のお濠に、大小とりどりの亀が群がって、よく日なたぼっこをしています。人間も、亀のおおらかさに学びたいものですよね。

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となり町戦争

著者:三崎亜記、出版社:集英社
 不思議な雰囲気の戦争物語です。いえ、日常生活に戦争が入ってくると、このようにして戦争は身近なものになっていくのでしょうか・・・。
 たとえば、本日の戦死者12人。町の掲示板にこう書かれるのです。いま警察署の正面掲示板に「本日の交通事故による死者○人」と書かれているのと同じです。
 市役所の職員の手になる小説だということです。道理で、職場の情景描写が実にリアルです。主人公は戦略特別偵察業務従事者に町長から任命されます。要するに、交戦状態にある隣り町の様子をスパイとして探ってこいということです。
 それでも、日常生活は、戦争が始まったとは、とても思えないほどの単調さと平穏のなかで続いています。まさに、現代日本の状態です。
 次第に1日の戦死者は増え、53人にもなります。やはり、見えないどこかで戦争がたたかわれているのです。ちょうど、イラクと日本の関係のようです。アメリカのイラク侵略戦争に日本は全面的に加担し、重装備の自衛隊までくり出しました。しかし、日本人の毎日の生活には、イラク戦争はまったく見えてきません。
 僕は、異国の、名も知らぬゲームの競技盤の上にいた。香西さんの弟が、佐々木さんが、主任が、おかっぱの男が、そして多くの死んでいった兵士たちが、盤上の駒として並べられていた。それぞれの駒は何者かによって定められた道筋どおりに動かされ、今は役目を終えて、石のように動きを失っていた。それは勝ち負けを目的としたものではなかった。そしてゲームですらなかった。
 これが、戦争なんだね。
 これが、戦争なんですよ。
 イラクの戦場に出かけた自衛隊員は5500人をこえました。幸い、今のところ一人として殺されることなく、またイラク人を殺したこともありません。日本の自衛隊員が一人死ぬと、2億5000万円の一時金と月70万円ほどの年金が出る特別支給がなされることが、小泉純一郎の一声で決まっていました。この発動がなかったのは、なによりです。でも、報道によると、日本に帰ってから自殺した自衛隊員が3人いるそうです。やはり、イラク派遣がどこかで心身の変調をもたらしたのでしょうね・・・。

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江戸庶民の楽しみ

著者:青木宏一郎、出版社:中央公論新社
 三代将軍家光が江戸城内の大広間で町人向けの「お能拝見」のイベントを催したというのです。そんなこと初めて知りました。寛永11年(1634年)のことです。この年、江戸の主な町の町人を江戸城内の庭に集めて銀5000貫を配るということもしています。もちろん、町人の人気取りのためです。町人といっても全員ではなく、江戸に20年以上居住した世帯主であることという条件があったそうです。もらった町人は町総出で大騒動のお祝いをしました。そりゃあ、そうでしょう・・・。
 「お能拝見」は、観世、金春、宝生、喜多の四座の能役者が総出演し、午前8時から夜9時まで昼夜入れ替え制で、酒や折詰も支給されました。そして、町人は無礼講状態だったというのです。将軍の前だからって、町人がコチコチだったというのではなかったんですね。なんだかイメージがまるで違いますよね。
 尾張藩の下屋敷で、御町屋なるものをつくって将軍たちが町人ごっこをしていたというのにも驚かされます。御町屋というのは、宿場町を再現したものです。現代のテーマパークですね。小田原宿と呼ばれていたそうですが、南北に36の町屋が140メートルの長さの町並みを連ね、本陣、旅籠屋、米屋、酒屋、菓子屋、本屋、植木屋、鍛冶屋などが忠実に再現されていた。ここには本物の町人は1人もいかなったが、将軍たちは庶民の日常を疑似体験できた。将軍家斉は、この御町屋が気に入り、再三たずねていた。ただし、外聞があるので、鷹狩りのついでに立ち寄るという形で、裏門から入り、裏門から出ていった、というのです。
 ベルサイユ宮殿にあるプチ・トリアノンを思い出しました。マリー・アントワネットが村を再現して遊んでいたというものです。洋の東西を問わず、支配層は庶民の気ままで自由な生活にあこがれて、同じような遊びを考えるんですね。
 天保の改革にとりくんだ水野忠邦が失脚したあと、寄席が自由化された。江戸に66軒あったのが、とたんに700軒になった。寄席芸人が800人もいた。すごいですね。当時の江戸の人口を考えたら、これって大変な人数ですよ。江戸時代は日本全体で人口3000万人ですからね。江戸に100万人いたとしても、今の東京の10分の1です。
 さらに、相撲取り(力士)がストライキを決行したこともありました。ええっー、まったく知りませんでした。嘉永4年(1851年)に、相撲の人気が高まり、力士の志願者が増えた。しかし、取組数がふえないので相撲を取れない者の不満が爆発し、それを支援する力士が回向院念仏堂に立てこもった。相撲の観客数は、一場所10日で5万人をこえていた。このように、江戸時代、庶民はおおらかに楽しく生活していたようです。
 日米条約を結ぶためにアメリカから日本にやってきて、伊豆の下田に3年近く滞在して日本の庶民の生活を隅々まで見ていたハリスは次のように述べています。
 人々は楽しく生活しており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちが良い。世界のどんなところよりも、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはないだろう・・・。
 そうなんです。今の日本の方が異常なんです。みんな、仕事のし過ぎですよ。あなたは、どうですか・・・。

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2006年7月 6日

革命のベネズエラ紀行

著者:新藤通弘、出版社:新日本出版社
 いま南アメリカが大きく変わりつつあります。反米政権が次々と誕生しているのです。
 チリに出来た社会主義を目ざすアジェンデ政権がアメリカの謀略によってピノチェト司令官によって倒されたのは1973年のことです。ところが、今や、ベネズエラだけではなく、ブラジル、ボリビア、ウルグァイ、アルゼンチン、ガイアナがアメリカの帝国主義的支配にノーをつきつけています。メキシコの大統領選挙でも左翼が健闘中です。
 この本は、ベネズエラですすめられている政治変革の実情と問題点を具体的に明らかにしながら、大変読みやすい現地紀行文となっています。
 1960年代に西田佐知子が歌った「コーヒー・ルンバ」がベネズエラの曲だとは知りませんでした。ベネズエラの人口は2510万人。混血(メスティソ)66%、白人22%、黒人10%、先住民2%。国民の2〜3割を占める富裕層には白人が多く、7〜8割を占める貧困層は混血、黒人、先住民。
 ベネズエラには美人が多いそうです。この24年間の世界の三大美人コンテストで、ミスユニバースを4回、ミス・ワールドを5回、ミス・インターナショナルを3回、合計12回も一位を受賞した。小学校から高校まで美人コンテストがあるという。そして、キューバと同じく、野球が国技となっている。日本のヤクルトのペタジーニ、西武のカブレラがベネズエラ出身。
 ベネズエラの憲法は五権分立となっている。ええーっ、何のこと。三権分立じゃないの。いったい、あと二つは何なの・・・。立法、司法、行政のほかに、ここでは市民権力と選挙権力というのがあるのです。市民権力というのは分かる気がしますが、選挙権力って聞いたこともありません。市民権力には、オンブズマン制度もふくまれます。選挙権力の独立性は、ラテンアメリカで不正選挙が日常化していることによります。
 ベネズエラとキューバは、契約を結んでいます。キューバは3万人の医師をベネズエラに派遣しています。その見返りにベネズエラは年間530万トンの石油をキューバへ供給するのです。これはキューバの年間石油消費の55%にあたります。
 ベネズエラは文盲を一掃し、今また奇蹟計画をすすめています。13万人の視覚障害者(主として白内障患者)をキューバに送って視力を回復させるのです。
 チャベス大統領は、与党の議長と書記長を兼任しています。ただし、その与党は大会も定期的に開かれず、党規約も発表されず、まだ政党の体をなしていません。
 ベネズエラ共産党は1960年代に4万人の党員がいたものの、武装闘争を放棄したキューバ共産党と激しい論争し、ソ連からの資金援助も受けて自主路線を確立できず、1990年はじめに壊滅した。いま再建されて国政選挙で15万票をとるまでになった。
 ベネズエラでは、大土地所有が発達している。その農地を配分しようとして、大土地所有者から強力な抵抗にあっている。この2年間で180人もの農民リーダーが殺されている。
 チャベス大統領は社会主義を唱えている。しかし、国有化すればうまくいくというのは間違いだと著者は主張しています。
 キューバ国営企業の非効率、労働規律の低さ、生産性の低さを長いあいだ見てきた者として、国有化して、はたして現実経済が効率的に機能するか、疑問だとしています。
 現在のチャベス政権の弱点は何か?
 それは、汚職と官僚主義である。在任中に私腹を肥やさないものは馬鹿だといわれる風潮がある。政府高官になると、家族、親類縁者が寄ってたかって、特権にあずかりたいと集まってくる。ラテンアメリカの汚職はどこもひどい。コスタリカでは、90年代の大統領が3人も汚職で逮捕された。
 こんな大変な状況のもとで、チャベス大統領は1998年の大統領選以来、10連勝を記録しています。その元気な息吹が伝わってくる本でした。

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2006年7月 5日

裏社会の日本史

著者:フィリップ・ポンス、出版社:筑摩書房
 「ル・モンド」の日本特派員をつとめるフランス知識人が日本のやくざと貧苦の人々について書いた本です。ここまで日本の文献を読みこんでいるのかと感嘆してしまいました。
 著者は、住民の大半が定住農民であった日本において、旅人は恐怖と猜疑の目で見られた、と書いていますが、私は最近そうではなかったのではないかと考えています。日本人は、昔から自由気ままに旅行するのが大好きな、好奇心旺盛の民族だったという説が最近では有力です。それを裏づける旅行記が数多く存在するからです。日本人の旅行ブームは昔からあったと考えるべきです。そんなに一朝一夕に民族性が変わるはずはありません。
 そういう異論もありますが、著者の指摘は大半あたっていると私は思いました。
 1872年。東京には5万6000人、大阪には1万6000人の車夫がいた。人力車の車夫である。もと駕籠かきであった人々が車夫に転職した。彼らは貧民窟の住人でもあった。
 東京都はホームレスの人数を公表していない。民間の統計では、1998年に東京23区に1万2000人のホームレスがいた。山谷の住民8000人のうち、2500人が高齢のホームレス。
 賭け事の世界には掟がある。組の親分とその手下との間には、もうけの分配について、厳格な原理が存在している。頭に60%、手下に40%である。
 旅順や大連など、遼東半島南部にあった日本租界は、1906年から日本政府の管轄下にあり、日本人やくざの界隈となっていた。雇われていた中国人やくざは1930年代初めに23万人もいた。
 現代日本では、権力の舞台裏で暗躍する黒幕の仲介により、やくざと極右と保守陣営とが結びついている。政治とやくざの癒着はすっかり定着している。九州新幹線を建設するについても、自民党の有力政治家と暴力団が手をつないでゼネコンから大金をせしめ、三者もちつもたれつの関係にあると見られています。ところが、マスコミはまったくこの実態を報道しません。
 敗戦直後の東京には370のテキヤの組があり、7000人の親分と2万人のメンバーがいた。1963年、暴力団は5300のグループ、18万4000人いた。1996年、組は3120、メンバーは8万人。そのうち66%が三大暴力団(山口組、住吉会、稲川会)に所属していた。
 山口組は上納金システムをとっている。関西の16組が月3億5000万円、中部地方が2億4000万円、関東の組が1000万円、北海道の組は3億5600万円。この上納金システムは、幹部らが非合法な事件に直接かかずらわなくてすむようにし、逮捕の危険を阻止するためのもの。また、この上納金により、系列下の組への組織の保護が保証される。暴力団の総売上は1兆3000億円で、その3分の1の4530億円は、覚せい剤の取引によるもの。
 警視庁の統計によると、やくざの60%が中流家庭に、40%が恵まれない層に属する。80%は義務教育をこえる教育をうけていない。多くは失踪の癖があり、また不和を抱えた家庭の出身である。日本のやくざのかなりは被差別マイノリティ出身である。
 野村證券は稲川会に巨額の融資をした。
 佐川急便は、京都の暴力団会津小鉄会と結び、政治家にお金をバラまいた。
 日本の社会の隅々にまで暴力団がはびこっていることを弁護士として実感する毎日です。彼らにちょっとでもたてつくと、チンピラヤクザが鉄砲玉になって飛びかかってくるというのは決して大ゲサな話ではありません。そんな現実をマスコミが紹介しないものだから、少なくない日本人がノホホンとして、ホラー映画で恐怖心を味わっているのです。そんな映画を見なくったって、恐怖はあなたのすぐ隣りにあるのですよ。私は、そう教えてやりたいのですが・・・。

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2006年7月 4日

テレビと権力

著者:田原総一朗、出版社:講談社
 活字メディアとは醒めたメディアで、読者は冷静に読む。テレビは、声、怒鳴り方、目の光り方、表情、身ぶり、手ぶりと、あらゆる表現手段を総動員して、視聴者に訴えるメディアで、言葉は表現のワン・オブ・ゼムに過ぎない。テレビでは、山崎拓、小泉純一郎が、顔を晒し、怒りを満面に込めて、唾を飛ばさんばかりの口調で、海部首相の傀儡ぶり、その無惨なまでの軽さ、経世会の傲慢さを、これでもか、これでもかと糾弾する。
 活字メディアでは、論理がすべてだが、テレビでは論理でさえ、ワン・オブ・ゼムなのだ。ここに新聞とテレビの大きな差異がある。
 活字メディアでは、言葉としてつじつまがあっていればよいのだが、テレビでは言葉としてつじつまがあっていても、全身の反応が矛盾を露呈させてしまう。
 著者は、60年の安保改定反対運動を次のように批判します。
 実は、岸安保は吉田安保を、よりアメリカと対等の条約に近づけようと図っての改正、つまり改善だったのである。
 私は、これに大きな違和感を覚えました。これは、要するに、あくまで安保条約を是としたものです。それを前提として、ベターかベストか選べというものだと思います。まさしく悪魔の選択です。そこには、安保条約をなくせ、という視点は、そもそも欠落しているのです。「よりアメリカと対等となる」という論理は、アメリカの従属を前提としています。私は、こんな奴隷根性を拒否します。
 著者は、テレビの世界で生き続けていくための条件は三つある、と言います。一つは、一定程度の視聴率をとること、二つは視聴者から一定程度の評価を受けること、三つは、スポンサーに降りられないことです。そのためには、企画力と実現力がすべて、です。
 ところで、私は久しぶりに「一定程度」という言葉にぶつかりました。これは、私が大学生になった、今から30年以上前の学生運動家の口癖のような用語です。私には、ものすごく違和感がありました。著者が今も、その学生運動用語を引きずってつかっていることに驚いてしまいました。
 著者が松下幸之助に取材した話が面白いので少し紹介します。
 部下を抜擢するとき、頭のよし悪しは関係ない。むしろ、頭のいい人物はダメ。小ざかしいよりは鈍な人物の方がいい。健康も関係ない。健康に自信のある人は社長が先に立って走るから、よくない。誠実も関係ない。人間は誠実にもなるし、不誠実にもなる。それは経営者の問題だ。その人間に期待して、もっている能力をどんどん使ってやると、その人間はいやでも誠実になる。会社から評価されたら、会社への忠誠心が湧き、誠実にもなる。では、何なのか?
 松下は、運です、運のない人はあきまへん、これが第一です、と答えた。そして、それは顔を見たら分かるという。
 愛嬌のない人間はあきまへんわ。明るい魅力、それがないと人間あきまへん。社長が暗い、愛嬌のない顔をしていると、その下で働く社員がみな暗くなる。みんな評論家みたいに、後ろ向きの批判ばかりするようになる。ところが上司に愛嬌があって前向きだと、みんな前向きの提案をするようになる。
 なーるほど、そうなんですね・・・。いい話を聞きました。みなさん、いかがですか。
 最近、日本経団連の会長になったキャノンの御手洗冨士夫は23年間もアメリカに住んでいた。ところが、御手洗はアメリカ的経営はダメで、日本式がいいと主張する。御手洗は、一番が従業員の生活の安定、二番目が株主への利益の還元、三番目が社会貢献、四番目が持続的発展をするための自己資本をうみ出すこと。今も、これをちゃんと実行してくれているのでしょうか・・・。
 どうして日本は宴会・接待が多いのか。その理由は二つある。
 会社のなかで、あるいは取引先とトラブルが起きたとき、日本では、まあ一杯ということで、料理屋や飲み屋で酒をくみかわしながら話をつける。アメリカでは、すぐに弁護士を呼んで訴訟にもちこむ。料理屋をもうけさせるか、弁護士をもうけさせるのかの違いである。アメリカのビジネスは、徹底して質つまり付加価値の勝負だ。日本では、義理と人情と浪花節が生きている。
 私の娘は田原総一郎なんて大嫌いだと言います。いつも偉そうに威張りくさっていて、しかも、自民党を陰に陽に応援するから、とても好きになれないというのです。私も同感と言いたいところですが、テレビをまったく見ない私は、幸いにも田原総一郎のいやな面も見なくてすむのです。

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2006年7月 3日

ジェーン・フォンダ

著者:ジェーン・フォンダ、出版社:ソニー・マガジン
 ジェーン・フォンダというと、わたしにとってはアメリカの勇敢な反戦女優というイメージです。ただし、彼女の出た映画を見た覚えはありません。この本は驚きの連続でした。まさに衝撃の書です。
 私の人生の大きな特徴は、変化が多く、しかもその変化に連続性がないことである。私は社会、家庭、職業という人生の大切な部分で人の目を気にせず、いつも成功よりまず努力することを念頭において生きてきた。なるほど、この本を読むと、それが実感として伝わってきます。
 子どもの私は父(ヘンリー・フォンダ)の関心を勝ちとるために本心を隠す習慣を身につけてしまっていた。完璧に、もっと完璧に。私には、それができた。私は悲しみの隠し方を父から教わった。
 性的虐待が子どもに及ぼす影響を調べてわかったことは、悪いのは性的虐待をした大人のほうであることをまだ理解できない年齢の子どもたちは、トラウマとなるその経験を自分が悪いからだと思いこんでしまう現実がある。この罪悪感を背負いこむことで、少女はことあるごとに自分を責め、自分の体を憎み、その埋め合わせに自分の体を完璧なものにしなくてはと思いこむ。そして、この感情は母から娘へ受け継がれることがある。
 性的虐待を受けてきた子どもは、自分には性的な価値しかないと思いこむ。そして、この思いこみは、よく青春期の派手な性的関係となって表われる。ときとして、性的に虐待されてきた子どもたちは奇妙な輝きを放っているように見えることがある。それは性的なエネルギーがあまりに早い時期から彼らの人生に押し入ってくるからだ。男性は、明かりに引き寄せられる蛾のように性的虐待や近親相姦の犠牲者である女性たちに引きつけられていく。
 父親のヘンリー・フォンダは14歳のとき父親と一緒に黒人レイプ犯が民衆からリンチを受けて殺されるところを目撃した。その黒人の男は留置場から引きずる出され、市長と保守官の立ち会いのもと街灯の柱に吊された。もちろん、何の手続もなしに。そして、群衆の銃弾男の体を蜂の巣にした。一部始終を黙って見ていたヘンリー・フォンダは家に帰ってからも何も言わなかった。これが「十二人の怒れる男たち」などに反映した。
 ヘンリー・フォンダは、人種差別と不公正は悪であり、決して許されるべきではないという固い信念を抱いていた。
 ジェーン・フォンダは父から愛され、母からは愛されていないと思ったそうです。
 私は母の虚ろな眼差しに凍りついた。この人は私を愛していない。本当の愛とは心を込めて相手を見返すことであって、何かのついでに偶然ぼんやり視線を向けることではない。うむむ、すごい。感受性が鋭いんですね。
 ヘンリー・フォンダは、アメリカにマッカーシー旋風が吹き荒れていたとき、これを共産主義の名を借りた魔女狩りとみなし、テレビを蹴飛ばしたこともあった。
 ジェーン・フォンダはずっと過食症でした。14歳のとき、決して太っていなかったのに、女としての完璧な肉体をパワーや成功と同一視するようになった。友人から大食いして吐くという方法を教えられた。
 呼吸はセックスの最中のように速く、恐怖に駆られたときのように浅くなった。食べる前にミルクを飲む。それは、まず胃にミルクを入れておくと、後で吐くのが楽になるからだ。太るということは死にも等しいことだ。食べること自体が気分を高揚させ、心が鼓動する。食べ尽くすと、食べたものが体に定着してしまう前に出してしまわなければという強迫観念に襲われる。
 アルコール依存症と同じで、拒食も過食も現実を拒絶する病気だ。ただ、アルコール依存症と違い、過食を隠すのは難しいことではない。一日せいぜいリンゴを少し、かたゆで卵をひとつ食べるのが精一杯だった。ジェーン・フォンダが摂食障害から解放されたのは、40代になってからのこと。
 ジェーン・フォンダは18歳のとき、1年間も処女を捨てようとがんばったのですが、結局うまくいきませんでした。3人のボーイフレンドと喪失の一歩手前まで行ったものの、どうしても最後まで行き着けなかったのです。リラックスできなかったからです。
 ジェーン・フォンダは、役者になるための演技指導を受けました。単に親の七光りではいやだったからです。マリリン・モンローも一緒で、彼女は熱心な受講生でした。
 手にもっているコーヒーカップの熱さや重さといった実際の感覚を数分の演技であらわすセンスメモリーというものを受けました。これは、感覚を研ぎすまし、集中力を高めるものでした。
 冷たいオレンジジュースの入っているはずのグラスに指をあて、目を閉じた。感覚が研ぎすまされ、すべての雑念が消えていくのをじっと待つ。指先に冷たさが感じられるようになると、目を開け、ゆっくりグラスを持ち上げる。グラスの重さが手に感じられるようになるのを待ってグラスを口に持っていくと、舌の味蕾がその甘酸っぱい液体に目覚めた。初めて役者にしか分からない感覚を経験していた。観客が見ているステージで演技しているのに、その瞬間、たった一人だった。
 キミには才能がある。指導していた演劇専門家からこう評価され、ジェーン・フォンダに自信をつけたのです。
 人間はリラックスしていなければ実力を出せない。俳優にとって、肉体は楽器なのである。俳優にとってもうひとつ重要な課題は、いかにしてインスピレーションを得るか、だ。
 ジェーン・フォンダは乳房を大きくしようと思って整形外科医に胸を見せて、もっと大きくしたいと言った。すると、その医者は、キミはどうかしてるね。バカなことは忘れて家に帰りなさいと彼女を叱った。えらい医者ですね。
 ジェーン・フォンダが反戦活動をするようになったのは、彼女がフランスに何年間か生活して共産党への偏見が少なかったこともあるようです。一般のアメリカ人とちがって、共産主義に対する恐怖感を持っていなかった、としています。そして、彼女のフランス語はスウェーデン人と間違われるほどきれいだということ。うらやましい限りです。
 マーロン・ブランドはブラック・パンサー党を支持していたとのこと。ジェーン・フォンダも保釈金を集める活動に短期間かかわっていた。それで、FBIのファイルに彼女はのったのです。常に尾行されるようになりました。政府の諜報活動の標的とされ、電話はずっと盗聴されていました。ジェーン・フォンダの盗聴記録はブレジネフの発言と同じウエイトをもってニクソンやキッシンジャーが読んでいました。
 ここまで自分の気持ち、身体のこと、セックスのことが書けるのか、読んでいて、うむむと、つい唸ってしまいました。さっと感情移入して、頁をめくる手がもどかしいほどでした。これは上巻です。下巻が待ち遠しい・・・。

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2006年7月31日

きみのいる生活

著者:大竹昭子、出版社:文芸春秋
 いやあ、とっても面白い本でした。あの日頃嫌われもののネズミが、こんなにも人間に似た動物だったなんて、ちっとも知りませんでした。
 パソコンのパーツを買いに行った夫が、目ざすパーツを見つけられずに、帰り道にマウスではなく本物のスナネズミをペットショップで買ってきたのです。そのスナネズミのしぐさの可愛いらしいこと。まるで人間そっくりなのに、ついつい笑ってしまいます。
 漢語に鼠牙雀角(そがじゃっかく)という言葉があるそうです。まったく知りませんでした。ネズミの歯とスズメのくちばしという言葉ですが、訴訟沙汰を意味します。費用がつもりつもって家が破産するさまを、ネズミの歯やスズメのくちばしが壁を屋根を傷めるさまになぞらえた言葉です。弁護士である私にとっては、少し複雑な心境になります。
 初代クロは、著者が畳に座っていると、そばにやってきて、「ねえ、ちょっと」と言いたげにその膝に手を置く。いかにも人恋しそうな様子で、足とちがって手が気持ちを伝えるものであることを伝える。
 寝そべっているときとは違って、好きなことに集中しているときの目はピカピカと光り、動きは躍動感にあふれて生き生きしている。上手だねえ、とほめようものなら、ますます得意そうになる。「目を輝かせる」という表現があるが、目の動きと意識の関係に文字どおりの意味があるのに感銘する。初代クロは、感電してあっけなく死んでしまいました。本箱の裏にもぐりこんで電気のコードをかじってしまったのです。
 二代目のクロを飼いました。性格がまるで初代と違うのです。たとえば初代はパンが大好きでしたが、二代目はまったく無関心でした。初代のクロは無鉄砲で、自分の思うように動かないと気がすみませんでした。二代目クロは用心深く、いろいろな予測を立てながら慎重に行動します。
 このスナネズミはモンゴル生まれです。「動物のお医者さん」に出てくるネズミだそうですが、私は読んだ覚えがありません。私は本が好きですから、子どもたちにもたくさん絵本をよんでやりました。ネズミの出てくる絵本は何冊もあります。いわむらかずおの「14ひき」シリーズ(童心社)の絵もいいですよね。「のばらの村のものがたり」シリーズはイギリスの絵本です。家庭内のこまごまとした食器類などもよく描けています(講談社)。斎藤惇夫の「冒険者たち・・・ガンバと15ひきの仲間」(岩波書店)は、珍しいことにドブネズミのガンバが主人公です。男の子のたくましさを感じました。子どもたちに読み聞かせた本は、今も大事に全部とってあります。押し入れなんかでなく、居間のすぐ身近なところに置いています。孫でもやってきたら、また読んであげようと思うのですが。
 三代目モモは、鏡の前をとおるときには、必ず立ち止まって自分の姿を眺めいる。自分を美しいと感じているらしい。毛づくろいにも念が入っている。まず手先で口のまわりを丹念にふく。しだいに範囲を広げて顔ぜんたいをなでつけ、次に頭を下げて両手を首のうしろにもっていき、毛をはらう。まるで人間がシャンプーしているときの格好にそっくりだ。
 しらばくれる、という感情は動物にもあって、悪いことをしたあとには、決まって、しらっとした顔をしている。
 三代目モモは、マッサージされるのを好んだ。自分でマッサージしてもらいところを指示する。こる場所は人もネズミも変わらない。やめると、つむっていた目をパチッとあけて、もう終わり?という顔をする。なんと・・・!
 三代目のモモは老衰で死んだ。スナネズミの寿命は3年。
 そのあと、つがいのスナネズミを飼って、とたんににぎやかになりました。一匹一匹がとても性格が違うのですが、それを著者はよく観察していて、笑わせますよ。
 新しいことを試してみるのは、つねに女なのです。
 ごはんが苦手のネズミがいます。あのネバネバした感触がダメなのです。チーズも食べるのと食べないのがいます。いやー驚きです。
 アポ計画で生物衛星にスナネズミも乗ったそうです。
 ネズミも心身症にかかる。イジメにあうと、太ったからだがみるみるうちにしぼみだし、毛のつやもなくなり、このまま衰弱して死ぬ日も間近いとまで思われた。
 最高時には13名(匹ではありません)のスナネズミを飼った観察記録です。写真もあり、飽きない面白さです。集団で飼うと、また違った意味で人間臭くなるというのも一興です。
 きのう(日曜日)の早朝、母が亡くなりました。93歳ですので、天寿をまっとうしたと思います。父は25年前に亡くなりました。母の伝記を読みものにするのが途中となっていますので、これから完成をめざします。時代背景をふまえて人の一生をあとづけるというのは自己認識がとても深まります。蝉がうるさく鳴く真夏の一日でした。

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2006年7月28日

わが名はヴィドック

著者:ジェイムズ・モートン、出版社:東洋書林
 1817年にヴィドッグの12人の部下は、811人を逮捕した。殺人者15人、窃盗犯341人、古買屋38人、脱獄囚14人、監獄に戻らない者43人、詐欺師46人。
 ヴィドッグは、警察につとめているのに、本人は1796年の文書偽造事件の有罪判決が生きていて、指名手配中であった。
 ヴィドッグは、パリ警視庁の特捜班長に任命された。給料は6000フラン。
 ヴィドッグは、1832年、世界初の探偵事務所を設立した。年会費20フラン、面接一回につき5フランという料金だった。
 私立探偵を頼んだ依頼者からその法外な値段を聞いて驚いた弁護士は多いと思います。なにしろ1週間、浮気相手の尾行追跡で300万円支払ったというのは珍しくありません。
 ヴィドッグの私立探偵としての仕事の多くは借金の取り立てでした。
 1847年、ヴィドッグの探偵事務所は閉鎖された。
 ヴィドッグは、犯罪者や容疑者の肉体的特徴を記録したカードの集積を始めた。まだ指紋がつかわれていない時代である。
 ヴィドッグはバルザックの大犯罪者ヴォートランの原型であり、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」のジャヴェール警部とジャン・ヴァルジャンの両者のモデルでもある。そして、シャーロック・ホームズの好敵手アルセーヌ・ルパンのモデルでもある。
 犯罪者が警察の側にまわり、部下にも元犯罪者をたくさん集めて、犯罪者の検挙で成績を上げるという話です。

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モナ・リザの罠

著者:西岡文彦、出版社:講談社現代新書
 実は「ダヴィンチ・コード」は本も映画も見ていないし、読んでいないのです。といっても、ルーブル美術館で本物のモナ・リザの絵は何回か見ましたし・・・。
 ルーブル美術館からモナ・リザの絵が盗まれ(1911年)、2年後にイタリアのフィレンツェで発見されたということを初めて知りました。
 中国や日本の山水画が11世紀にその表現を完成していたのに、ヨーロッパでは「モナ・リザ」の時代でもまだ風景画という概念そのものが存在していなかったという指摘に驚かされました。それまでは人間のドラマの背景に過ぎず、風景それ自体を絵画の主題にすることはなかったのです。
 ところで、この本を私が紹介しようと考えたのは、実はモナ・リザの絵のことではなく、次のような指摘があったからでした。
 本が面白く読めたというのは、本を読んだのではなく、本で世の中が、世の中を見る自分が読めたということ。つまり、単に本の内容が読めても、そんなことは面白くもなんともない。本当に面白い本や学問というものは、それを学ぶことによって、世の中や自分自身のことが「読める」ようなもののことなのだ。それまで漫然と眺めていた社会の様相が、その本を読むことで、突然に明瞭に理解できるからこそ本を読むわけで、本の内容ばかり詳しくなって、世の中のことも自分自身のことも見えていないようでは、学問でもなんでもないということ。
 これは、なかなか鋭い指摘だと私は思いました。大量の本を読み続けている私にとって、それは自分と人間社会を知る作業なんだといつも自覚させられるのです。

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ユダの福音書を追え

著者:ハーバート・クロスニー、出版社:ナショナル・ジオグラフィック
 私はキリスト教の旧約聖書も新約聖書も読んだことがありませんので、ユダの福音書についても、実はまったく分かりません。無神論者の私ですが、苦しいときの神頼みは昔も今もしています。この本は、ユダは裏切り者ではなかったことが判明した古本が見つかったという表題にひかれて読みました。
 発見・復元・解読を追った衝撃のドキュメント。オビにはこう書かれています。なるほどそのとおりなのですが、素人にも分かりやすく肝心の福音書の要点をもっと説明してほしかったというのが率直な感想です。その点が物足りないため、この本全体がまがいものなのでは・・・、という疑いすら払拭しきれません。
 ユダといえば、イエスの弟にもユダ・トマスがいたそうです。知りませんでした。
 「ユダの福音書」におけるユダは、イエスに特別扱いされる選ばれた弟子だ。イエスは自分に忠実なこの弟子に、皆を導くあの星がおまえの星だと告げている。イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡すようユダに求めたのは、ほかでもないイエスその人だった。イエスは誠実な弟子であるユダに約束する。おまえの星、ユダの星は天に光り輝くだろう。
 これまでとは異なるイエカリオテのユダの像が浮かび上がる。裏切り者というより、むしろ他の弟子たちから抜きんでた特別な存在だ。
 イエスの生きた時代に続く百年のあいだに書かれたことを考慮すると、この福音書は初期段階のキリスト教信仰やその多彩な活動について、これまでにない味方を提供する衝撃的な書だ。
 「ユダの福音書」に裏切りという題材が登場しないのは、ユダが主を裏切っていないからである。むしろユダはイエスの望みをかなえたのだ。ユダは弟子のなかでも抜きんでた存在であり、他の弟子たちの影は薄い。ユダは、成就のためにイエスが選んだ道具だった。
 イスカリオテのユダは、イエスに愛された弟子であり、かけがえのない親友だったのだ。このように書かれていますが、どうなんでしょうか・・・。この本の評価を、どうぞ教えてください。

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2006年7月27日

最後の錬金術師、カリオストロ伯爵

著者:イアン・マカルマン、出版社:草思社
 本名ジュゼッペ・バルサモ。1743年にシチリア島のパレルモで生まれた。カリオストロ伯爵と名乗り、10年にわたってヨーロッパ中を巡り、魔術の技を見せ、貧しい人々を癒し、エジプト派フリーメイソンの支部をいくつもつくった。フランス大革命の直前の1785年にバスティーユに投獄され、詐欺の疑いは晴れたが、1789年にローマの異端審問官に捕らわれ、1795年に死んだ。
 カザノヴァはカリオストロを激しくねたんでいた。ロシアのエカテリーナ女帝は絞め殺したいと思っていた。ゲーテは憎しみのあまり気も狂いそうなほどだった。フランスのルイ16世は危険な革命家として迫害した。マリー・アントワネットはダイヤの首飾り事件に巻きこんだカリオストロを死ぬまでバスティーユに閉じこめておきたいと望んだ。
 彼が無知なことを言うと、みな彼を賢いと考える。どんな言葉もまともにしゃべれないから説得力があると言う。けっして自分を説明しないから人々が理解する。話し方やふるまいが粗野なので高貴だと信じる。どこから見ても嘘つきに見えるから誠実だと思われる。これはカザノヴァの評です。これって、どこか現代日本にいるインチキ宗教家のことにぴったりですよね。知性が簡単に目をくらませてしまうんです。いえ、あのグル一人のことをさしているんではありません。ワンフレーズ首相も同じではありませんか。
 啓蒙の時代とされている時代に、知性も美も魅力もない人間が、権力のある貴族、位の高い聖職者、ヨーロッパの一流の思想家たちの大部分をだまし、あるいは眼をくらますことがどうしてできたのだろう。
 いかさま師のなかのいかさま師。だましのもっとも驚異的な見本。太って、ずんぐりして、不快な顔。喉にぜい肉がつき、鼻は低く、脂ぎって、貪欲さと、好色さと、雄牛のような頑固さがあり、恥を知らぬあつかましい顔だ。
 カリオストロの時代は理性の時代ではなかったとトマス・カーライルは主張する。カリオストロを特別な人間にしたのは、彼が時代の要求と憧れにすばらしい声を与えたということだ。
 宗教裁判所はフリーメイソン運動を魔術よりも憎むべき犯罪だと考えていた。1738年には、すでにフリーメイソンを死罪によって禁ずるローマ教皇勅書が出されていたし、それ以来、何度かの勅書でそれが確認されていた。
 教皇クレメレス13世とその後継者たちは、フリーメイソンの秘密主義が気に入らず、裕福で権力のあるカトリック教徒のあいだに広まっていることで脅威を感じていた。
 フリーメイソンって、ローマ教皇から公認されるどころか、死罪でもって禁圧されていたんですね・・・。

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2006年7月26日

昭和三方人生

著者:広野八郎、出版社:弦書房
 三方(さんかた)とは、馬方(うまかた)、船方(ふなかた)、土方(どかた)の三つの職種を経験したという意味です。
 著者は船方、土方そして戦前の三池炭鉱などでの生活をずっと日記につけていたのです。プロレタリア文学運動にも参加していました。炭鉱生活26年のあと、万博景気にわく大阪で再び土木作業に従事しました。
 明治40年(1907年)に長崎県大村市に生まれ、1996年(平成8年)に福岡市で亡くなっておられます。
 戦前、佐賀の農家には農耕馬が必ずいました。私の父のいた大川もそうでした。そこでは競走馬の飼育も手がけて収入源としていました。馬は今とちがって身近な存在だったのです。
 船員時代にプロレタリア作家として有名な葉山嘉樹の知遇を得て、「文芸戦線」や「労農文学」などのプロレタリア文学運動の機関誌に詩や小説を投稿しています。
 土方をしながら「改造」を読んでいたというのですから、たいしたものです。
 昭和12年3月15日の日記に、こう書いてあります。「改造」を読み、新聞を見ると、いくらか世の中が分かるような気がする。時代は、ますます暗鬱な方に流れていくようだ。満州事変以来、大衆はこの嫌な空気の中で、もがいているのだ。
 同じ年の10月、佐賀にあった杵島炭鉱で坑夫として働きはじめました。夏目漱石の「坑夫」を読んでいます。どうして種を手に入れたか、よくこれほど実感を出したものだと感心した。しかし、しちくどいような漱石的臭味がくっついているので、鼻について仕様がなかった。内部から坑夫の生活を描いていない。これはただ見聞記といった感じがした。
 鋭い感想文ですね、まいりました。12月14日に南京陥落祝賀の旗行列が昨日あったと書かれています。
 ただやたらに沸き立つ人々の態度をみて、自分の心は訳もなく空虚を感じるのはどうしたことだろう。非国民だと罵られても仕方がない。
 あの南京大虐殺を日本人は知らずに旗行列して喜び浮かれていたのです。戦争から帰ってきた兵隊の話を聞くと、もう沢山だと言いたいぐらい残虐なことを並べたてるので、憂鬱になった、とあります。
 昭和13年2月から三池炭鉱で働きはじめました。24時間で1万トンの出炭記録をつくったころのことです。出炭記録にみんなの目がいくと、とたんに事故が多くなったということも記録されています。
 軍事講演を聞きに行ったとき、安井少尉が実戦談を語ったが、そのなかで、戦地の住民がいかにみじめであるか、戦争というものが避けられるものなら、平時、どんな苦痛を忍んでもいいことを痛感した、と語ったそうです。なるほど、ですね。
 「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」、ジイドの「狭き門」を読んだりしていますが、そのうちに独ソ戦が始まりました。
 駅へ入営兵の見送りに出かけることも多くなりました。
 坑内労働は肉体疲労がすごい。労働の余暇に肉体が要求するのは食欲と睡眠。精神生活の入りこむ余地はない。しかし、そうは言いつつ、休みの日に梅見に出かけたりしています。
 労働者の日記も、続けていると歴史を語るものになることを実感させられた本でした。

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2006年7月25日

満州国皇帝の秘録

著者:中田整一、出版社:幻戯書房
 まったく期待せずに読みはじめた本ですが、案に相違して、すこぶる興味深い内容の本でした。著者はNHKプロデューサーとして、現代史を中心に歴史ドキュメンタリー番組の制作に長く携わってきたそうですが、大変いい本を出されたと敬意を表します。満州国の一面の実情がよく分かりました。
 関東軍司令官は毎月3回、1のつく日、1日、11日、21日に満州国皇帝を訪問し、日本の政策の方向、日本政府の目的と意向を知らせていた。もちろん、これは満州国の最高機密事項であり、絶対に外部に漏れてはならないもの。ところが、これが記録され外部に漏れていたのである。その内容がこの本で紹介されているのです。
 外部とは日本の外務省のことです。新京にあった日本大使館の外交官たちの間には関東軍に対する不満と反感がみちていた。軍部の独断専行に対する危機意識と無力感との狭間で外務省は苦悩していた。そのため、危険を冒してでも本省に極秘情報を送ろうとする、現地外交官の決断と大胆な行動があった。
 形式は、在満大使館の参事官あるいは一等書記官から本省の東亜局長にあてて送ったもので、「半公信」と扱われた。半分は公の文書、半分は私信。だから、大使の決済を受けなくても本省にあてて送ることができる。つまり、大使である関東軍司令官の目にふれずに生え抜きの外交官同士の半ば私信として本省へ送られた。
 そして関東軍司令官はすべて大使という肩書きにされている。これは外務省の内部の問題だというわけである。関東軍司令官に関する情報を漏らしたわけではないので、軍事機密の漏洩にはあたらないという高等論理である。
 1934年3月、溥儀は満州帝国皇帝に即位した。この即位にあたって関東軍は、溥儀が清朝の皇帝即位の正装である竜袍を着用することを認めなかった。溥儀は満州国の皇帝であって、大清国皇帝の復辟ではない。したがって、満州国陸海軍大元帥正装を着用すべきだと関東軍は押しつけた。溥儀は納得しない。満州建国を利用して清朝復辟を狙っていた溥儀とその一族郎党にとって、皇帝即位の儀式は、対外的にもその意志を表明する千載一遇のチャンスだった。
 ようやく両者のあいだで妥協が成立した。祭壇では竜袍を着て即位したことを天に報告し、つづいて宮殿内では陸海軍元帥の正装で即位式典を行った。
 溥儀は1935年に日本を訪問することにした。この狙いは関東軍が関東州や満鉄のように日本政府の監督下に満州国はおかない、関東軍が満州国を直接に統治するということであった。
 溥儀は訪日のとき親しく歓迎されたことから大きな錯覚をした。日本の天皇の威光を借りて満州国における肯定の権威を高めるられるという幻想を抱いた。もちろん、そうはならなかった。天皇を利用すれば関東軍をおさえることができると思ったのである。しかし、現実には、満州国官僚の人事ひとつも皇帝の思うようにはならなかった。すべて関東軍司令官の指図によった。
 溥儀には何人もの女性(妻)がいましたが、性的不能者であったようです。といっても男性(若者)はいたようです。溥儀は、清朝皇帝の幼年時代、宮仕えの年増の女性にもてあそばれ、その特異な体験のため女性に対するトラウマに陥っていたということのようです。
 この厳秘会見録の送り先は、外務大臣、外務次官と東亜局長の3人だったが、外務大臣を軍人が兼任したときには、大臣ははずされた。
 記録をしていた林出賢次郎は日本政府内部と軍との人事抗争のなかで、1938年、突然解任された。そのとき、内地に記録をひそかに持ち帰ったものが残っている。林出は溥儀から大変信用されていたが、日本に帰ってからは天皇の中国語通訳として戦後の1948年までつとめていた。
 満州国の内情を知るうえで一級の資料だと思いました。よくぞこのような貴重な資料が残っていたものです。溥儀と歴代の関東軍司令官との生のやりとりが大変興味深いものでした。

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2006年7月24日

フランス反骨変人列伝

著者:安達正勝、出版社:集英社新書
 フランスの国王に公式寵姫(ちょうき)なるシステムがあったことを初めて知りました。フランスについては、言葉とともに長く勉強してきたつもりでしたが、やはりまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
 フランスには日本や中国のような後宮はない。なぜなら、キリスト教が王妃の子にしか王位継承権を認めないので、後宮をもうける大義名分がない。そのかわり、国王は正式な愛人を一時期に一人だけもっていいことになっていた。
 この公式寵姫は日陰の花ではない。外国大使を引見し、宮廷舞踏会や宴会を主催する公式の存在だ。むしろ王妃は、寵姫の陰に隠れるような地味な存在でしかなかった。
 マリー・アントワネットは例外。夫のルイ16世は一人の愛人ももたない希有の国王で、公式寵姫がいなかった。だから、王妃のマリー・アントワネットが公式寵姫の役割も兼ねることになった。その分、マリー・アントワネットは民衆の反感も買ってしまったわけです。
 この本で紹介されているのは、ルイ14世に妻を寝取られたモンテスパン侯爵です。モンテスパン侯爵は当時としては非常に珍しいことに恋愛結婚し、妻を熱烈に愛していました。その妻が公式寵姫となったとき、ルイ14世にあえて公然と逆らってしまったのです。どうなったか?
 臣下はすべて自分の楽しみに奉仕しなければならない。王国でもっとも美しい女性を愛人とすることは自分の義務である。これがルイ14世の考えだった。自分に不快感を与えた以上、侯爵の行為は不敬罪にあたる。モンテスパン侯爵は田舎に引っこみ、妻は死んだとして自分の領地内全域に葬儀馬車を走らせた。
 モンテスパン侯爵夫人はルイ14世との間で8人の子どもを産みました。ところが、5歳年長のマントノン侯爵夫人に公式寵姫の座を奪われてしまったのです。公式寵姫は永遠のものではありません。それで、モンテスパン夫人は夫のもとに帰ることを願いました。しかし、夫は受け入れず、修道院で過ごすことになります。そしてモンテスパン侯爵はルイ14世の宮廷に復帰しました。なんとも微妙な人間心理です。
 次にギロチンによる死刑執行を職業としていたサンソン家の6代目です。死刑存続派は世の中に多いわけですが(私は廃止派です)、6代目サンソンは確固とした死刑廃止論者でした。6代目のアンリ・クレマンは生涯に111人を処刑しました。フランス大革命のときの4代目は、なんと1年あまりで2700人もの人間の首を落としたのです。
 死刑制度は宗教と自然の法に反する。殺人は殺人によって罰せられてはならない。担当した100人以上の死刑囚のなかで、処刑の恐ろしさに震えあがっていたのはたった1人だけ。罪を自覚せず、何の反省もしていない人間を処刑するのは動物を殺すに等しい。本人に罪を自覚させ、罪を償う機会を与えるべきだ。
 死刑執行人は人々から感謝されない。どころか、忌み嫌われ、差別されている。死刑判決には喝采しても、その判決を執行する人間には侮蔑と恥辱を投げつけるのだ。これは論理的矛盾、馬鹿げた偏見だ。我々の仕事は超人的な努力を要するが、決して報われることはない。恥辱のなかで生き、汚辱のうちに死ぬ。なるほど、と思いました。
 よく雨が降ります。九州南部の洪水のひどさは大変です。北部の方はそうでもありません。蝉が鳴けないのが気の毒なほどです。雨が止んだら一斉に蝉が鳴きはじめるのを聞いて、彼らも大変だと思いました。なにしろ一週間のうちに子孫を残すために配偶相手をみつけいけないのですのですから・・・。食用ヒマワリがたくさん咲いています。

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