弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年5月21日

私は八路軍の少年兵だった

日本史(戦前)・中国


(霧山昴)
著者 藤後 博巳 、 出版 岡本企画

著者は1929(昭和4)年生まれですから、1945年の終戦時は15歳。
関東軍の兵士とともにシベリア送りにされようとしたところを少年だからとして免れたのに、今度は八路軍に協力させられ、いつのまにか、その兵士となって中国各地を転戦し、ついには朝鮮戦争にまで従軍させられそうになったという経歴の持ち主です。
幸い、1955(昭和3)年に日本へ帰国し、その後は、日本で日中友好運動に従事してきました。実は、私の叔父(父の弟)も同じように終戦後、八路軍と一緒に何年間か行動していました。
八路軍は「パーロ」と呼ばれた、今の中国人民解軍のこと。第二次国共合作(国民闘争と中共軍の合体)によって、国民党政権が、赤軍を「国民革命軍第八路軍」と呼ぶようにした。第八番目の部隊という意味。そして、日本敗戦後、八路軍は「連軍」に編成された。連軍(八路軍)は、中国内でアメリカの支援を受けた国民党軍と内戦を始めた。
このとき、八路軍は、「三大規律、八項注意」ということで、高い規律を守り、中国の民衆から絶大な支持を得て、武器に優れ、人員も多い国民党軍を圧倒していった。
著者たち元訓練生たちは、中国の革命戦争のために「留用」ということで参加させられた。連軍(八路軍)は人材不足のなかで国民党軍との戦いで苦戦を強いられていたので、日本人技術者の協力が必要だった。分野別では医療関係が際だって多く、続いて鉄道・電気技術者。医師やエンジニアが不足していた。衛生人員だけで3千人をこえた。
日本人の「参軍」は受動的・後向きで、進歩的・積極的なものではなかった。著者も、生活のためには連軍に従うほかなかった。そして、連軍担架兵として100人ほどの日本人と一緒に八路軍に組み込まれた。16歳のとき。少年兵としての好奇心は強かったが、内心では八路軍・中共への反発心も非常に強かった。
著者は第四野戦軍に配属されたが、司令官はかの有名な林彪だった(1971年にモンゴルへ逃亡しようとして失敗し、死亡)。
当初は、日本人たちは八路軍の兵士たちとよくケンカしていたとのこと。やがて、分散配置されて、兵士に溶けこんでいったようです。
著者は、凍傷でやられてハルピン近くの病院に入院したところ、そこの医師・看護婦のほとんどが日本人だったとのこと。
1万人ほどの日本人が中国の内戦に深く関わっていたようです。そう言えば、国民党軍に組み込まれた日本軍の部隊もありましたよね...。
そして、朝鮮戦争が始まってから、中国人民志願軍のなかに日本人兵士が少なくとも300人、1000人近い人数だったと推定されているとのこと。これは知りませんでした。
著者は1955年に12年ぶりに日本に帰国しました。26歳になっていました。
著者は92歳。お元気のようです。叔父も90歳をはるかに超えて、長生きしました。中国では粗食だったようですが、それがためにかえって頑健になるのでしょうか...。
(2020年1月刊。1000円)

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