弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年4月21日

「弁護士の平成」(会報第30号)

司法


(霧山昴)
著者 会報編集室 、 出版 福岡県弁護士会

 「合格者3000人」を日弁連が受け入れた経緯、そして、福岡県弁護士会は法曹人口問題について、どのような考え、取り組んできたのか、作間功弁護士の論稿は力作です。増員反対論者からすると、間違っている、とんでもないという非難を浴びるのでしょうが、福岡県弁は、足を地に着けて議論してきたこと、福岡出身の日弁連副会長も福岡の議論を受けて奮闘してきたこともよく分かる内容になっています。

福岡は法曹人口増に積極的
 「法曹人口について、日弁連が理事会、関連委員会等で議論を進める中、当会も常議員会をはじめとして様々な形で議論を行ったが、その基本的スタンスは、法曹人口増について各地の弁護士会では反対論・慎重論が相当数あったのに対し、一貫して『相当数の増員やむなし』というものであった。もちろん、当会の弁護士の中にも弁護士人口増に反対する者は一定数いたが、少数にとどまった。
 『三者協議』において法務省から『基本構想』として示された合格者数を回数制限付きの現状の500人から700人にする案(甲案、乙案、丙案)に関しても、当会は、人数については異論がなかった。700人以上でも構わないという意見も有力に主張された。
 当会が合格者増に賛成した理由は次のとおりである。①現在の検事不足は極めて深刻であるところ、合格者の増加によって任官者の増加が期待できる、②弁護士、裁判官についても国民の基本的人権の擁護と社会正義を実現するという使命を果たすうえで必要な人口が確保されているとは言えない、③弁護士が国民に対して未だ十分に身近な存在となりえていない、④裁判官不足による訴訟遅延、など」(168頁)

「法曹人口は不足」が共通認識
 「当会が法曹人口増に積極的にあったのは、当会の意見をリードする有力な会員の多くが、当時、当会の行っていた活動によって法曹人口は不足しているという共通認識をもつようになり、そうした意見が中堅・若手会員の間にも広がっていたからである。
 具体的には、第1に、当会が設置した法律相談センターの存在である。第2に、1990(平成2)年、大分県弁護士会とともに全国に先駆けて創設した当番弁護士制度である。逮捕・勾留された被疑者に接見に行く弁護士を毎日割り振らなければならないのだから、一定数の弁護士のいることが不可欠であった。当時の県下の弁護士数は443人。現在の3分の1である。さらに当初は、被疑者から要請があれば赴く制度であったが、やがて要請があって初めて赴くのではなく、新聞記事に載った刑事事件については全て弁護士が接見に行く必要があるのではないかという観点から、会が派遣要請を担当弁護士に行うものとする制度として構築し、一層多くの担当弁護士の確保が必要となっていった。
 弁護士過疎地解消の必要性を多くの会員が感じるようになり、そのためには弁護士数の増員が何よりも必要であるとの見解が当会内で共通認識となっていったのである。
 他の弁護士会の相当数が、弁護士増をもたらす法曹人口増は弁護士に経済的な痛手をもたらすということを最大の理由として反対するなか、当会の意見は視点を弁護士ではなく国民におく点で、その正当性は明らかであったと言うべきであった」(68~69頁)

日弁連における福岡県の存在感
 「こうした当会の認識は、当会出身の日弁連会長や同理事を通して日弁連にも影響を及ぼし、日弁連執行部内での意見をリード・後押ししていった。
 1994(平成6)年7月の日弁連理事会では、当会の国武会長兼日弁連理事は、当面漸次1000人まで増加させるべきであるという意見書を提出した。
 同年12月の日弁連臨時総会。総会に出席していた国武会長ほか当会の会員は、会員から提案された『800人』関連決議案につき、日弁連執行部提案の『改革案大綱』を骨抜きにするものとして、敢然と反対した。
 1995(平成7)年7月の日弁連理事会では日弁連執行部は、前年の関連決議の取扱いに苦慮していた。日弁連理事会の大勢は増員反対であった。こうした中、当会の福田玄祥会長兼日弁連理事と永尾廣久副会長兼日弁連理事は、法曹三者につき相当数増員させるよう努力すべきである、現行2年間の統一修習を前提に、当面5年間は毎年800人程度、2000(平成12)年度から1000人程度の修習を可能とするよう修習地の拡大、施設の充実等の準備に着手すべきである、等の意見を述べた。
 同年11月の日弁連臨時総会で土屋執行部は前年12月の臨時総会の『800人関連決議』の方針を変更し、1000人決議を提案した。同年8月頃、日弁連に政府の方から800人に固執した場合の行く末(弁護士自治・強制加入制度の見直し、弁護士法72条問題、等の議論の本格化)についての情報が入り、日弁連執行部が方針転換をした結果と言われている。当会の意見と同一の数字となったのである。臨時総会では、前年度の800人関連決議を是とする立場からの意見も強く出される中、当会の田邉宜克会員は、『法曹人口の増加は、司法改革を実現していくうえで最も必要な条件の一つであり、増員反対論は司法改革の流れに反する。成算のない玉砕論であってはならない』との意見を述べた。採決の結果、1000人とする執行部案が可決された」(69~70頁)

弁護士増がもたらしたもの
 「弁護士増は多くの弁護士に所得減少をもたらした。弁護士の経済的苦境を伝えるニュースに接した高校生やその家族は、・・・、弁護士になったとしても高い収入が得られる保証はない、となれば、多くの者は法学部に進学して、弁護士になろうという気持ちにはならないであろう。法曹志望者が減少した原因のひとつに、司法試験合格者増があると考えることは、間違いないよう思える。しかし、この点はさまざまな要因が重なっており、単純ではないというのも事実である」(76頁)
 「データを見る限り、弁護士が代理人に就任した事件数やその割合は、確実に増加したといえる。その限りで、『法の支配』が従前より広がったとは言いうる。
 また、2012(平成24)年に弁護士ゼロワン地区がいったんは、解消された。この点でも、『法の支配』は広がったと言いうる。弁護士ゼロワン地区がほぼ解消されたことは、国民にとってメリットであった」
 「事件数について言えば、劇的に増えているというわけではない。どのように考えたらいいのか」「・・・『人的基盤』が従前より格段に整備されたにもかかわらず、また審議会意見書で示された民事事件・行政事件改革にもかかわらず、事件数が増えていない点は、突き詰めれば『法の支配』が行き渡っていないということであり、大きな課題が残っていると言わねばならない」(78頁)

3000人増は妥当でなかったが・・・
 「3000人目標が妥当であったのか、法曹人口増のスピードはいかに、という問いに対しては、この目標が撤回されている以上、妥当ではなかった、ということになろう。しかし、これは結果論である。誰も当時適正な数字などわからなかったし、わかるはずもなかった。日弁連・弁護士会が自戒するとすれば、司法制度改革審議会の発足の前の1900年代に、穏便な法曹人口増について、国会議員、政府、労働団体、マスコミ、等々、すなわち国民の理解を得られなかったこと、および、その大きな要因は、大局的見地を欠き、弁護士エゴとして激しい批判に曝された1994(平成6)年12月の臨時総会における関連決議の採択にあり、日弁連に対する国民の不信を払拭し、弁護士自治等に対し、執拗に見直しを主張する外部からの協力な圧力に抗するために、日弁連が3000人を選択せざるを得ない状況を自ら作ってしまったことである。
 当会が1994(平成6)年の時点で合格者数を1000人まで増加させるべきであるという意見をまとめあげたのは、先見の明があったというべきである。今からみるとそれでもおとなしい数字であるが、当時の全国の弁護士会の動きからみると、当時の全国の弁護士会の動きからみると、圧倒的に少数であったなかでのその認識と決断は高く評価されるべきであり、その後の推移からすると、正しい判断であったと言える。惜しむらくは1994(平成6)年12月の日弁連
臨時総会関連決議を阻止できなかったことである」(79~80頁)

佐藤幸治氏と3000人
 前田豊弁護士が3000人の仕掛け人が佐藤幸治であったことを明らかにしている。
 「佐藤幸治氏が行政改革会議委員と司法制度改革審議会会長を兼ねたことはあまり知られていない。佐藤幸治氏は、行政改革会議の企画・制度問題小委員会主査であり、行政改革会議の最終報告の『行政改革の理念と目標』及び『内閣機能の強化』の起草者である。佐藤幸治氏は、行政改革会議の最終報告と司法制度改革審議会の意見書の両方を起草している。
 行政改革会議の最終報告と司法制度改革審議会の意見書に共通するキーワードは、『この国のかたち』、『公共性の空間』、『統治主体・統治客体』、『人権又は基本的人権』、『日本国憲法』、『法の支配』、『規制緩和』、『国際社会』などである。これは行政改革会議の最終報告と、司法制度改革審議会の意見書が共通のコンセプトによって書かれたことを示している。この点からも、行政改革会議の最終報告にもとづいて、司法制度改革審議会の意見書が書かれたことは明らかである」(85頁)
 「佐藤幸治氏が、司法制度改革審議会の初めから法曹人口は最低限3000人の合格者を送り出せるぐらいの体制を早急に作る必要があるとして審議会に臨んだことは広く知られていることではない。
 佐藤幸治氏は、3000人と合意形成することは、あらかじめ審議会の樋渡利次事務局長と相談し、橋本元総理はじめ行政改革以来のごく少数の関係者には集中審議で3000人を目指したいと伝えていた。そして、真議会でとにかく3000人を目指そう、そうならないと、あとの改革がおぼつかないから、ある意味では辞表をふところに入れて集中審議にのぞんだという。
 佐藤幸治氏は、青山善充東大副学長や中坊公平氏とともに司法試験合格者3000人の合意を形成させていったと考えられる。審議会の委員には合格者3000人を主張する委員は一人もいなかった。佐藤幸治氏は、合格者3000人の合意を形成するため、どのような方策をとったのだろうか。
 1999(平成11)年11月、司法試験制度改革協議会で合格者3000人を主張していた青山善充東大副学長を審議会に招いて、レクチャーを受けた。
 中坊公平氏は、同年4月、小渕内閣の内閣特別顧問に就任した。中坊公平氏は、同年8月、司法制度改革審議会における集中審議第一日目で合格者3000人を主張した」(86頁)
 弁護士会(日弁連)は、この3000人の流れに乗らざるをえなかったわけですが、それは作間弁護士が指摘しているとおり、マスコミ等の大合唱があったこと、弁護士自治・強制加入制度への強烈な揺さぶりがかけられていたことによるものです。弁護士会が主体的な判断のもとで3000人を選択した(できた)わけではなかったと思い返すことが無意味なこととは思えません。

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