弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史

2012年10月21日

緒方竹虎とCIA

著者   吉田 則昭 、 出版    平凡社新書 

 消費税の増税(5%から10%へアップ)を決めるとき、朝日も毎日も大新聞は一致して早く増税を決めろと一大キャンペーンをはりました。「不偏不党」の看板をかなぐり捨てて政権与党と同じことを言うマスコミは異様でした。
戦前の朝日新聞を代表する記者として活躍し、戦後は保守政治家となった緒方竹虎の実態を明らかにした新書です。日本の政治家の多くが戦後一貫してアメリカ一辺倒だったことを知ると、哀れに近い感情がふつふつと湧いてきます。
 緒方竹虎は、4歳のときから福岡で育っているので、福岡は故郷と言える。
戦後の緒方竹虎についていうと、CIAの個人ファイルのなかに、5分冊、1000頁もあって、日本人のなかでは群を抜いて多い。児玉誉士夫、石井四郎、野村吉三郎、賀屋興宣、正力松太郎などの個人ファイルがある。
 CIAは、緒方竹虎に「ポカポン」、正力松太郎に「ポダム」というコードネームをつけていた。この「ポン」というのは、日本をさすカントリーコードであることが判明した。
 緒方竹虎に対するアメリカ側の士作は1955年9月以降、「オペレーション」、ポカポンとして本格化し、実行された。
 日本の保守政治家の多くがアメリカのエージェントだったというのを知るのは、同じ日本人として、寂しく悲しいことです。表向きは日本人として愛国心を強調していたのに、裏ではアメリカに買収されてスパイ同然に動いていたなんて嫌なことですよね。
(2012年5月刊。780円+税)

2012年10月 7日

天一 ・ 一代

著者   藤山 新太郎 、 出版    NTT出版 

 面白い本です。車中で夢中になって読みふけっていました。奇術を見るのが大好きな私ですので、ゾウが消えた、あのイリュージョンはどんな仕掛けだったのだろうか・・・。両手の親指をしばったまま、目の前にある棒を通過させる技は一体どうなっているのか。不思議でなりません。
 でも、同じ芸をずっと見せられ続けていると客はあきが来る。それをカバーするのが話術だ。ここらあたりの説明は、なるほどなるほど、人間の微妙な心理をよくとらえていると感心します。
 大がかりな仕掛けだけでは、決して興行としてはうまくいかないというのです。そこでは、巧みな話術と人間性で勝負するというわけです。ふむふむ、そうなのか・・・。
この本は明治期に活躍した松旭天一の波瀾万丈の生涯をよくよく調べて紹介しています。すごいんです。日本で成功して、アメリカに渡り、そこで苦労して成功すると、今度はヨーロッパに渡って大成功をおさめます。ちょうど日露戦争のころ。日本人ってどんな人種なのか知りたい、見てみたいというヨーロッパの人々の好奇心にこたえることにもなって興行は大成功。そして、日本に帰国して、あの歌舞伎座で上演して画期的に成功したのでした。なにしろ持てる財産(1億5000万円)全部を投げ出してしまったというのです。そして、それを全国巡業で取り戻したというから、さすがです。
芸人にとって名前は重要だ。不遇な芸人は、とにかく卑屈な名前や洗練されていない名前をつける。大きくなる芸人は初めから大きい名前をつける。
 天一は、実子は誰も奇術師にせず、養子のみを奇術師にして、天二と名付けた。
 天一の声は太い胴間声で、実によく台詞が通った。天一は穏やかで丁寧な言葉づかいをしたから、多くの地位ある人に支持された。天一は、カイゼル髭を生やし、大礼服を着、堂々たる姿勢、綺麗な言葉づかい、舞台のマナーの良さがあった。
仕掛けの道具を入手しただけでは観客の心はつかめない。奇術師自身が立派で大きくなければ観客は呼べない。
 水芸の前半は、ひょうきんな芸を見せる。後半には、表情をほとんど入れず、堂々と構えたシリアスな演技に切り替える。まるで神々が無心に遊んでいるような天上の世界を見せようとした。そのため、天一は、表情を取り去り、まるで全能の神のごとく、何ら思い入れをせずに淡々と演じる。すると観客は、水芸を見ているうちに、どんどん高みに昇っていったような錯覚を覚え、日常を超越した世界に到達する。それは天一が生涯かけて表現したかった世界であり、この神々しい世界を当時の観客は絶賛した。
 奇術師が不思議を提供するだけで生きていけるのなら、その技のみに専念すればよい。しかし、現実には、それでは生きていけない。なぜなら、不思議は成功すればするほど観客に緊張を強いてしまう。緊張が連続すれば観客は疲れてしまい、奇術を見ることが楽しみにつながらない。そうなると、奇術は芸能として失格だ。そこで、奇術師は不思議を強調しつつ。冗談を言い、寸劇を演じ、緊張を和らげる。実は笑いはマッチポンプなのだ。奇術師は不思議を演じ、緊張を強いながらも、笑いで目先を変え、別の世界に連れ出し、緩和を提供する。こうすることが息長く観客に愛される秘訣なのだ。変な職業である。
 ここが分からず、不思議ばかり見せ続ける奇術師は恵まれない結果に終わる。もっともギャグの多すぎる奇術師もいけない。初めからおしまいまで馬鹿馬鹿しいと、すべてが嘘くさくなる。まず、観客が本気にならないことには奇術は成功しない。十分に不思議がらせて、そのうえで観客が入り込む余地を残しておく、ここのさじ加減が難しい。天一は、そこがうまかった。
 大きな成功をつかむためには、よい観客層を集めなければならない。よい観客はよい劇場にしか来ない。
 日本の奇術が目ざしていたものは演劇であった。日本の奇術は、歴史的にも、なぜそうなのか、なぜそう演じるかの背景をつくりあげている。演劇をみるのと同じように人物と情景を掘り下げて語っていく。
 天一は、弟子の誰にでも奇術を教え、隠すところがなかった。天一は弟子の長所を見つけ出すのがうまかった。その結果、数々の弟子が育ち、松旭斎の一門は天一の没後100年の今日に至るまで繁栄している。弟子たちの努力によって一座は引退間際まで大入りを続け、天一は有終の美を飾ることができた。
 天一は明治45年(1912年)、59歳で病死した。直腸がんだった。
 奇術に少しでも関心のある人には、こたえられない一冊です。
(2012年7月刊。2300円+税)

2012年9月25日

ミッドウェー海戦(第2部)運命の日

著者   森 史朗 、 出版   新潮選書  

 下巻の冒頭は、日米両空軍の航空線の模様が、あたかも実況中継されているかのような迫力があります。飛行機乗りたちの心理描写、生の声まで記述されていますので、その場に居合わせているかのようです。
 「本日、敵機動部隊、出撃の算なし」
 なんと、のどかな敵情判断だろう。このように著者は厳しく弾劾しています。こんな甘い状況判断によって、日本海軍は完膚なきまでに叩きのめされたのでした。まさに、日本海軍トップの状況判断には致命的な誤りがありました。
 二つのアメリカ空母グループが北方方向からひそかに接近し、その前段として味方の攻略船団が発見され、B17型爆撃機によって空爆を受けた。ミッドウェー基地からの反撃は必至であり、行方の分からないアメリカ軍機動部隊が突如として姿をあらわすかもしれない。それにしても、ずいぶん緊張感を欠いた信令だ。
この大胆な、甘すぎる情勢判断は、過去半年にわたる連戦連勝気分による油断の頂点たるものであり、アメリカ海軍の戦意を軽んじきった驕りの気分に満たされている。
向かうところ敵なし。自信過剰の南雲司令部は、それゆえ警戒心を忘れていた。
 南雲中将は、決して自分から判断を下さない将官であった。水雷船のエキスパートでありながら、航空戦指揮は不得意だとして指揮をすべて航空参謀にゆだねる、他人まかせの一途な頑固さがあった。未知の分野には手を出さず、得意な分野だけ大事にする守旧型のリーダーである。そして、革新による変化をひどく恐れ、臆病なところがある。
 日本軍のゼロ戦対策として、アメリカ軍は「サッチ戦法」を編み出した。当時37歳のジョン・S・サッチ少佐が考えついたもの。ゼロ戦に対抗するには、日本機の特異な単機格闘戦法ではなく、2機ずつのペアが縦列を組み、同高度、同一方向で二列に並んで飛行する。そして、戦場では、互いに円を描いて位置を変え、それぞれのペアが相手ペアの後方に注意を払う。ゼロ戦が後方から接近すると、反対側のペアが素早くターンして攻撃にむかう。この二機ずつのペアが互いに交叉しあうことから、サッチ・ウィーヴ戦法と名付けられ、ミッドウェー海戦以降のアメリカ海軍戦闘機の有力な戦法となった。日本側は何も気づかず、アメリカ軍機をお得意の戦機格闘戦に引き込んで、かえって逆襲され、手痛い目にあった。
 日本軍の艦船はアメリカ軍飛行機に次々にやられていった。この状況を見て、南雲長官も草鹿参謀長も黙然として、事態への対応がまったく出来ない。源田実参謀の頭の中は真っ白になった。真珠湾以来、世界最強とうたわれた第一航空艦隊司令部は、その内実は強固な戦闘集団ではなく、組織的にもろい、危機管理能力が皆無にひとしい集団であることを曝露してしまった。
 南雲司令部は、機能喪失状態に陥った。被弾してから、軽巡長良に司令を移乗させるまでの20分間に、南雲中将は麾下の部隊に何の命令も発していない。草鹿参謀長も同様で、まったく石のように動かず、あとに「参謀長は泰然として腰をぬかした」とからかわれた。
アメリカ海軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーを装備して待ち受けており、日本海軍は準備不足、作戦発起の性急さ、人事異動による士気低下の悪条件のもとで戦闘に突入した。
 ミッドウェー海戦の推移を詳細に点検していくと、日本側の敗北の原因は技術的なものであった。南雲忠一中将を頂点とする司令部官僚たちは、戦闘にあたって冷静な判断力と臨機応変の対応力、勇断や決定力の資質が欠けていた。いたずらに判断を先送りし、結果的には一般艦の主力三空母は1機の反撃航空機も送り出すことなく、乗員ともども海底に没した。涙をのんでミッドウェー沖に沈んでいった若き戦士たちの無念が思いやられてならない。
 日本海軍は、ミッドウェー海戦の敗北を極秘扱いとし、一切の戦訓研究を禁じた。アメリカ海軍は、詳細に研究した。
日本海軍の被害は空母4隻、重巡1隻沈没、重巡一隻損傷、搭載航空機285機を喪失した。そして、熟練の乗員のうち、艦戦39人、艦爆33組、艦攻37組、合計109組を喪い、著しく戦力を低下させた。
 アメリカ海軍は、空母1隻、駐遂艦1隻沈没、航空機147機を喪失した。
 これだけの大敗北を喫しながら、日本海軍は戦史から戦訓・戦術の反省点を学ばなかった。山本長官は、自ら、失敗から教訓を導き出す作業を封印してしまった。
 本来なら、関係者を集めて研究会をさせるべきだった。それをしなかった理由は、突っつけば穴だらけだし、今さら突っついて屍にむち打つ必要まではないと考えたことによる。そして、なぜ失敗したのかの責任論は封印されてしまった。そのうえ、敗戦の真相隠しが始まった。大本営発表は虚像にみちたものとなった・・・。
 無責任、そして嘘だらけ。いやですね。軍人の世界って・・・。まるで三流政治家ではありませんか。
(2012年5月刊。1750円+税)

2012年9月20日

ミッドウェー海戦(第一部、知略と驕慢)

著者   森 史郎 、 出版    新潮新書 

 1942年(昭和17年)6月、南雲忠一中将の指揮する航空母艦4隻、山本五十六大将の乗る戦艦大和を中心とする総計145隻の日本艦隊がミッドウェー島攻略を目ざして進攻した。このミッドウェー海戦で日本海軍は大敗、南雲艦隊は主力空母4隻を喪失し、山本大将は日本本土への退却を余儀なくされた。
 ところが、大本営は日本の大勝利と発表した。嘘とペテンで日本国民そして自らを騙し
続けたのです。この大敗北に至る経過が日米双方への丹念な取材をもとに詳細に明らかになっています。
山本五十六大将は、アメリカのハーバード大学に学び、駐米大使館付武官の経験をもっていた。
 アメリカが艦艇建造力において日本の4.5倍、飛行機生産力で6倍、鋼鉄生産力で10倍の力量を持つことを知る山本五十六は、緒戦の連続攻撃によってアメリカをたたきつぶすしか活路を見出せないという悲愴な覚悟を秘めていた。
 山本五十六の真意はミッドウェー島の攻略ではなく、さらに一歩進めたハワイ攻略作戦にあった。軍政家でもあった山本五十六大将は、ハワイ攻略によって戦術的な勝利だけでなく、早期講和の有力な条件として戦略的優位に立とうと企図していた。つまり、短期決戦、積極作戦のみが対米戦争を有利に導くという信念にもとづいている。
 山本五十六の絶大な信頼を背景として、ミッドウェー作戦計画は黒島亀人・首席参謀が強引に決定させた。計画立案から成立までわずか3週間あまりという荒っぽさだった。
 アメリカの巨大な生産力が動き出す前にアメリカ艦隊を再起できないまでに叩いておく。海軍軍令部総長の永野修身大将はしばしば次のように口にした。
 とにかく2年間は戦える。だが、3年目はもたない。
 長期戦になったら日本は敗れると言う認識で海軍軍令部の作戦当事者たちの認識は一致していた。しかし、実際には、アメリカ軍の積極的反攻は開戦して8ヵ月目のことだった。
 いつの時代でも、積極的好戦派は穏健派を追いやって舞台の主役に躍り出る。真珠湾攻撃いらい、海軍軍令部と連合艦隊司令部の位置が逆転した。宇垣参謀長以下の11人の連合艦隊司令部参謀が、軍令部第一課の職務を代行する強大な権限を有する組織に肥大化した。
 山本五十六は、ミッドウェー作戦の実施にあたって、傍観者の立場をとった。作戦実施中、なぜか山本は積極的な戦闘指導をおこなっていない。
金鵄(きんし)勲章は軍人にとって最高の名誉であり、神武天皇の東征神話にちなんで勲章に金鵄と古代兵器が形とられているのが特徴だ。当初は終身年金制だったが、昭和16年5月から一年下賜金となった。
アメリカ軍のニミッツは27人の海軍将官をとびこえ、海軍少将からいきなり大将に進級し、南西太平洋方面のマッカーサー軍をのぞく太平洋全域を支配する指揮官となった。ニミッツ大将は、司令部職員のなかでも、とくに情報参謀を重用した。
 これに対して山本大将には、耳となるような専門の情報参謀がいなかった。
日本海軍の「D暗号」がアメリカ軍によって解読されたのは、次の二つがきっかけだった。
 その一は、真珠湾攻撃のとき、墜落した日本軍の艦攻の電信席から半焼けの海軍呼出し符号表が発見された。
 その二は、昭和17年1月、オーストラリア沖に伊号124潜水艦が沈没し、艦内から暗号書と乱表数が発見、回収された。
 そして、日本軍はこれらの暗号表の回収可能性を軽く考えて、何の心配もしなかった。
 南雲忠一は、山本五十六よりは3歳下の55歳。熱狂的で、一歩もゆずらない東北人の頑固さが身上。闇雲に突進する一途さが買われていた。山本五十六は、この南雲を信頼していなかった。南雲機動部隊を率いた中心人物は、38歳の航空甲参謀源田実中佐だった。
 戦後は、自民党の参議院議員にまでなった、あの源田実です・・・。
ミッドウェー作戦にあたって、レーダーが装備されていたのは2隻のみで、第一線の機動部隊には搭載されていなかった。
 日本側は、隠密裡の攻撃に成功し、ミッドウェー島への攻略の意図が明確になるまで、アメリカ艦隊はハワイから出動して来ないと信じ込んでいた。
 恐るべく情報オンチです。そのうえ、日本側は、アメリカ軍を次のようにみくびっていました。
アメリカ軍の搭乗員の技倆は一般に低劣で、その戦力は日本海軍の6分の1、とくに雷撃はほとんどできないと判断される。日本機1機でアメリカ軍6機と対抗しうると考えていた。
 いま、ミッドウェー海戦を振り返ってみるのも意義がないわけではありません。
(2012年6月刊。1600円+税)
 休日の新宿を少し歩いてみました。まるで祭日の人出だと思っていると、本当に祭りもあっていました。もちろん、祭りのせいで人出が増えたとは思えません。
 平和な日本を象徴するように、穏やかな表情の老若男女が行きかっています。この日は、滅多に見ることのないテレビを朝からホテルで見ていました。中国の若者たちが日本企業のデパートや商店を襲撃し、火をつけて、商品を略奪している様子が画像で紹介されていました。気が滅入って、新宿にやってきたのでした。
 石原都知事のいつもの無責任な放言に端を発して、外交交渉を十分にしない打ちに国有化するなどという日本政府の愚策のつけを日本企業はいま払わされています。
 いつの世にも、古今東西、排外主義をあおる風潮がひとしきり盛んになり、あおられた若者が暴走します。
 冷静な評論を取り戻したいものです。お互いの言い分を主張しつつも平和的に共存していく道を探るしかないのですから・・・。

2012年9月12日

戦後史の正体

著者   孫崎 享 、 出版   創元社  

 戦後日本を、アメリカとの関係で、自主を志向するか、追随を志向するかで区分してみた面白い本です。それにしても、かの岸信介が、ここでは自主志向に分類されているのには正直いって驚きました。
 1960年の日米安保条約改定反対闘争にも新たな解釈がなされています。
 アンポ反対、キシを倒せ。これが当時のデモの叫びでした。そのキシがアメリカべったりというより、アメリカから自立を図ろうとしていたなんて、本当でしょうか・・・。
 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」を選択した。そして、「自主」を選択した政治家や官僚は排斥された。重光葵(まもる)、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄、細川護熙、鳩山由紀夫。そして、竹下登と福田康夫も、このグループに入る。
うひゃひゃ、こんな人たちが「自主」だったなんて・・・。
日本のなかで、もっともアメリカの圧力に弱い立場にいるのが首相なのだ。アメリカから嫌われているというだけで、外交官僚は重要ポストからはずされてしまう。
アメリカの意を体して政治家と官僚をもっとも多くの排斥したのが吉田茂である。吉田首相の役割は、アメリカからの要求にすべて従うことにあった。吉田茂は、GHQのウィロビー部長のもとに裏庭からこっそり通って、組閣を相談し、次期首相の人選までした。吉田茂が占領軍と対等に渡り合ったというイメージは、単なる神話にすぎず、真実ではない。
 「対米追随」路線のシンボルが吉田茂であり、吉田茂は「自主」路線のシンボルである重光葵を当然のように追放した。吉田茂は、自分の意向にそわない人物を徹底的にパージ(追放)していった。外務省は、「Y項パージ」(吉田茂による追放)と呼んだ。
 吉田茂は、大変な役者だった。日本国民に対しては、非常に偉そうな態度をとったし、アメリカに対しては互角にやりあっているかのようなポーズをとった。実際はどうだったのか?
日本がアメリカの保護国であるという状況は、占領時代につくられ、現在まで続いている。それは実にみごとな間接政治が行われている。間接政治においては、政策の決定権はアメリカが持っている。
 日本は敗戦後、大変な経済困難な状況だった。そのなかで6年間で5000億円、国家予算の2~3割をアメリカ軍の経費に充てていた。
 吉田茂はアメリカの言うとおりにし、アメリカに減額を求めた石橋湛山は追放されてしまった。アメリカは石橋湛山がアメリカ占領軍に対して日本の立場を堂々と主張する、自主線路のシンボルになりそうな危険性を察知して、石橋を追放することにした。
東京地検特捜部の前身は隠匿退蔵物資事件捜査部。つまり、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことだった。
アメリカが独裁者を切るときには、よく人権問題に関するNGOなどの活動を活発化させ、これに財政支援を与えて民衆をデモに向かわせ、政権を転覆させるという手段を使う。2011年のアラブの春、エジプトとチュニジアの独裁者を倒したときも、同じパターンだった。韓国の朴大統領暗殺事件も、その流れでとらえることができる。
岸信介は、1960年に新安保条約の締結を強行した。そして、CIAからの多額の資金援助も受けている。ところが、岸は対米国自立路線を模索していた。岸は駐留アメリカ軍の最大限の撤退をアメリカに求めた。
 1960年代のはじめまでにCIAから日本の政党と政治家に提供された資金は毎年200万ドルから1000万ドル(2億円から10億円)だった。この巨額の資金の受けとり手の中心は岸信介だった。そして、岸首相は中国との貿易の拡大にもがんばった。
ところが、CIAは岸を首相からおろして、池田に帰ることにした。日本の財界人がその意を受けて、岸おろしに動いた。
 そうなんですか・・・。池田勇人の登場はアメリカの意向だったとは、私にとってまったく予想外の話でした。
どんな時代でも、日本が中国問題で、一歩でもアメリカの先に行くのは、アメリカ大統領が警戒するレベルの大問題になる。
 ニクソン大統領の訪中を事前に日本へ通告しなかったのは、佐藤首相への報復だった。少しでもアメリカの言いなりにならない日本の首相はアメリカから報復された。
 田中角栄がアメリカから切られたのは、日中国交正常化をアメリカに先立って実現したから。キッシンジャーは、日ごろ、常にバカにしていた日本人にしてやられたことにものすごく怒った。
小泉純一郎は、歴代のどの首相よりもアメリカ追随の姿勢を鮮明に打ち出した。
アメリカの対日政策は、あくまでもアメリカの利益のためのもの。そして、アメリカの対日政策は、アメリカの環境の変化によって大きく変わる。
 アメリカは自分の利益にもとづいて、日本にさまざまなことを要求してくる。そのとき、日本は、どんなに難しくても、日本の譲れない国益については、きちんと主張し、アメリカの理解を得る必要がある。
 この本では、TPPもアメリカのためのものであって、日本のためにはならないことが明言されています。私も同じ考えです。
 戦後の日本史をもう一度とらえ直してみる必要があると痛感しました。あなたに一読を強くおすすめします。
(2012年9月刊。1500円+税)

2012年8月21日

未完のファシズム

著者   片山 杜秀 、 出版    新潮選書 

 第一次世界大戦そして戦前の日本について鋭い分析がなされていて驚嘆してしまいました。まだ40歳代の思想史を専門とする学者の本です。さすがは学者ですね。着眼点が違います。
 第一次世界大戦で、日本は中国の青島(チンタオ)にあるドイツ軍の要塞を攻略します。そのあとのドイツ軍捕虜が日本各地に収容所で暮らし、伸びのびと生活していたことは有名です。
 1914年、第一次世界大戦が勃発した。日本軍は9月より中国・青島のドイツ軍要塞の攻撃をはじめる。総攻撃開始は10月31日。ドイツ軍が白旗をあげたのは11月7日。1週間で陥落したことになる。
 日露戦争の旅順戦の経験から、歩兵を突撃させても堅固な要塞の前では屍の山を築くだけ。やはり、移動の容易な大口径砲、遠戦砲、破撃砲で、遠くから撃ちまくることにこしたことはない。45式24センチ榴弾砲は1912年に新採用されたばかりの大砲。28センチ砲は、24センチ砲より大口径だが、移動させるのに苦労するという難があった。
 青島は、日露戦争後の日本陸軍近代化のほどを試すための恰好の実験場となった。歩兵突撃の時代は既に終わった。
実は、この青島攻撃戦には久留米から師団が派遣されて大活躍したのでした。私の母の縁者が英雄として、登場してくるので少し調べたことがあります。私の母の異母姉の夫は中村次喜蔵という軍人でした。青島要塞攻略戦で名をあげ、なんと皇居で天皇に対して御前講義までしたのです。のちに師団長(中将)にまでなりましたが、終戦直後に自決(ピストル自殺)しています。偕行社(戦前からある由緒正しい将校の親睦団体です)に問い合わせると、その状況報告書が残っているとのことでコピーを送ってもらいました。そして、その報告書には地図までついていました。
 この中村次喜蔵は、陸軍大将・秋山好古の副官にもなっています。その足どりを調べているうちに、『坂の上の雲』が急に身近なものに感じられました。
青島戦は、何よりも火力戦だった。榴弾砲よりも一般に砲身が細くて長い、射程も伸びる大砲をカノン砲と呼ぶ。山砲とは、バラして人や馬で運べる大砲のこと。山にも担いでいって、頂上からでも撃てる。だから山砲だ。
 ドイツ軍の青島総督は、敗戦後、日本軍の長所は、大砲の射撃と斥候の明敏と塹壕つくりの巧妙なるにありと語った。
日露戦争のときの日本軍は、当時の工業生産力や資金力では、ロシアの大軍そして旅順の要塞を相手に撃ちまくれなかった。だから、人命軽視といわれても仕方のない、やみくもな突撃に頼った。ところが、1914年の青島では鉄の弾が足りた。
この青島戦役で、日本は新しい戦争をした。近代戦は物量戦でしかあり得ないことを大々的に世界に証明してみせた。世界大戦は物量戦で、総力戦で、長期戦で、科学戦なのだ。
 ところが、日本軍は、その後、兵隊や兵器や弾薬が足りなくてあたりまえ、それでも戦うのが日本陸軍の基本だと完全に開き直ってしまった。
 玉砕できる軍隊をつくること自体が作戦だった。玉砕する軍隊こそが「もたざる国」の必勝兵器だった。玉砕できる軍隊を使って、実際に玉砕を繰り返してみせれば、勝ちにつながる。つまり、玉砕は、作戦指導部の無策の結果、兵を見殺しにすることではなく、勝利のための積極的な方策なのだ。
うへーっ、とんでもないことを真面目な顔をして言うのですよね。おお、クワバラ、クワバラという感じです。助けてくださいよ。これでは誰のために戦争するか分からないですね。兵隊を見殺しにして、権力者だけはぬくぬくと助かるということなのでしょうが・・・。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年7月15日

人間・昭和天皇(下)

著者  髙橋  紘  、 出版   講談社

 下巻は戦中・戦後の昭和天皇の歩みをたどります。
 戦中、国民が疎開するより早く、皇族は安全な地へ疎開しはじめていたことを、この本を読んで初めて知りました。
日米開戦前の1941年(昭和6年)7月ころから皇族の避難先を選定しはじめた。そして、学習院の疎開は1944年、一般人より2ヶ月も早い5月に始まった。
 昭和天皇は、あらゆる意味で孤独だった。陸士(陸軍士官学校)でも海兵(海軍兵学校)でも学んだことはなく、兵営生活も軍艦に乗り組んだこともない。自分のまわりに上司も部下をもつこともなかった。
 両親から早くに離されて大きくなり、心を許して語りあう友もいない。生涯、身のまわりには自分より下の位の人ばかりだ。
 昭和天皇は、終戦時に45歳そして皇后43歳、皇太子は13歳だった。天皇は働き盛りだった。昭和天皇は、酒をたしなまなかった。お酒の練習もしたが、やはり合わなかった。
戦後、アメリカは占領コストを考えて昭和天皇を利用することにした。昭和天皇の命令によって700万余の兵士は武器を捨て、軍隊は解散した。そのおかげで数十万のアメリカ兵が死傷することがなかった。
 1946年の日本占領費用は6億ドルかかったが、1945年に40万人をこえた連合軍兵士が1946年には20万人と減らすことができた。
1946年元旦の人間宣言はアメリカ軍(CIE)が発想し、原文を書いたものだった。昭和天皇の国内巡幸もCIEの作戦だったが、大成功をおさめた。
 戦後、昭和天皇の退位論が出た。裕仁という天皇個人はどうでもよく、皇統を維持して国体を護っていくことが宮廷派の基本的な考えだった。しかし、昭和天皇が退位することは、反共の砦としたいアメリカやマッカーサーの構想をつぶすことになり、戦略的に天皇を守ってきた意味がなくなってしまう。
 中曽根康弘は天皇退位論を唱えた。昭和天皇は戦争責任について、何の表明もせずに生涯を終えた。それで、いつまでも責任が問われ、「永久の禍根」となった。
 昭和天皇の人間としての生々しい実際を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。2800円+税)

2012年6月30日

帝の毒薬

著者   永瀬 隼介 、 出版   朝日新聞出版

 戦後まもなくの日本の東京で、銀行員12人が一挙に毒殺されるという前代未聞の殺人事件が発生しました。いわゆる帝銀事件です。死者12人、重体4人という大惨事が白昼に都心で起きたのですから、日本全土を震撼させたのは間違いありません。
 つかわれた毒は青酸カリ化合物。遅効性のものです。16人全員にゆっくり飲ませて、まもなくバタバタと死んでいったのでした。即効性の青酸カリではそんなことはありえません。だから、毒性を扱い慣れていなければ、素人でできる犯罪ではありません。なにしろ、犯人自身も実演しているのです。もちろん、自分の分は安全なようにトリックを使ったのでしょう。結局つかまったのは平沢真通という画家でした。
画家にそんな芸当ができるはずもないのに、いったんは自白させて、有罪・死刑が確定したのです。死刑執行にはならず、いわば天寿をまっとうしました。もちろん、刑務所のなかで、です。
 では、いったい誰が犯人だったのか。この本は、七三一部隊関係者しかあり得ないというのを前提としています。
 七三一部隊は、中国東北部、当時の満州で中国人などを拉致してきて人体実験していました。マルタと呼び、医学レポートでは「猿」とも書いたのでした。日本人のエリート医学者たちです。東大や京大の医学部出身で、そのトップは軍医中将にまでなりました。石井部隊とも呼ばれました。戦後日本では医学部教授にカムバックし、ミドリ十字などを設立して、その中枢におさまったのでした。
 みんな墓場まで秘密を持っていけ、と石井軍医中将は戦後、命令しました。
 帝銀事件の「真相」を小説のかたちで明らかにした本として読みすすめました。
 松川事件と同じく、アメリカ占領軍の関わりのなかで、秘密文書が掘り起こされないと、本当の真相は明らかにはならないのだろうなと思いながら読了しました。気分の重くなる470ページという大作でした。
(2012年3月刊。2300円+税)

2012年5月 6日

秀吉の朝鮮侵略と民衆・文禄の役(下)

著者   中里 紀元 、 出版   文献出版

 この下巻では、秀吉の朝鮮侵略のとき日本軍がいかに残虐なことをしたのか、おぞましい事実が明らかにされています。後の日清戦争(1894年)のときにも明妃虐殺をはじめ非道いことを日本軍はしましたが、その300年前にも同じように日本軍は残虐非道を働いていたのでした。
 文禄の役で、日本軍は朝鮮全道を支配していたのではなく、全羅道には駐留することが出来なかった。これは現地の義兵の抵抗が強かったということです。
 日本軍のなかでも加藤清正の残虐ぶりは軍を抜くようです。
 加藤清正は朝鮮二王子を捕まえていた。朝鮮軍の応援にやってきていた明軍は朝鮮二王子の返還もふくめて講和交渉に来た。その明軍の使者の面前で王子の従者の一人である捕虜の美女をはりつけにして槍で突き殺してしまった。それを見た明の使者や供の者が恐れおののいたと清正の高麗陣覚書に誇らしげに書かれている。朝鮮・明では、この残虐行為によって、清正は鬼と呼ばれた。
 日本軍は朝鮮・明軍と戦うときは兜の下の面当しや背に負った色とりどりの小旗、そして日本刀を日の光にあてギラギラと輝かせて相手を恐怖させる戦術をとった。
 天下様たる秀吉の威光をもってしても、朝鮮に渡る船の水夫・加子の逃亡を止めることは出来なかった。日本民衆の漁民の抵抗と朝鮮民衆の一揆の抵抗とが一致して秀吉の朝鮮侵略は半年あまりで挫折した。
 小西行長、宋、平戸松浦の1万5千の兵が守る平壌城に対して明軍の総大将・李如松は、明軍と金命元の朝鮮軍をあわせる20万の大軍で迫った。日本軍は明軍の攻撃によく耐え奮闘したが、1万5千のうち5千人ほどしか残らなかった。そして、小西軍は平壌から敗走した。このことは、日本軍の将兵に大きな衝撃を与えた。
 明軍が小西軍を敗走させた最大の原因は、食糧不足だった。釜山から兵糧が届かなくなっていた。
秀吉は、徳川家康や前田利家と軍議を重ねたが、家康や利家は名護屋在陣の10万をわけて朝鮮へ渡海させることは出来ないと主張した。それは、薩摩で反乱が起きたように、国内でまた反抗が起きたとき、弾圧する軍事力を残すためだった。秀吉は朝鮮へ将軍を出すことも出来ず、くやし涙を流した。
秀吉は、自分への絶対服従を再確認するため、三名の大名を処罰して、日本軍の士気を引き締めた。この三大名とは、豊後の大友義統(よしむね)、薩摩和泉の島津又太郎、そして、上松浦(唐津)の波多三河守親(ちかし)である。
 フロイスは、日本軍の兵士と輸送員をふくめて15万人が朝鮮に渡り、そのうち3分の1にあたる5万人が死亡したと報告している。この5万人のうち、敵に殺された者はわずかで、大部分は、労苦、飢餓、寒気そして疾病によって亡くなった。
 第一軍の小西行長軍は、65%の人員が減少した。第二軍の加藤軍は1万人が渡海して4千人が消えてしまった。
恐るべき侵略戦争だったわけです。よくぞ調べあげたものです。清鮮での虎退治で有名な加藤清正がこんなに残虐なことをしていたとは、知りませんでした。
(平成5年3月刊。15000円+税)

2012年5月 5日

巨大戦艦「大和」全軌跡

著者   原 勝洋 、 出版   学研

 大艦巨砲主義の頂点に立つ「大和」は、巨大主砲9門、発砲時の衝撃に耐え、船体の53.5%の主要部のみに防御を集中する「集中防御」を採用した。艦幅が広く、喫水の浅い、速力を出すには不利な船型をした船艦だった。それでも、「大和」は最高時速50キロを発揮した。「大和」型戦艦の建造について山本五十六・航空本部長は次のように反対した。
 「巨艦を造っても不沈はありえない。将来、飛行機の攻撃力はさらに威力を増し、砲戦がおこなわれる前に飛行機によって撃破されるから、今後の戦闘では、戦艦は無用の長物になる」
 まことに至言です。その言葉のとおりになりました。ところが、当時の海軍首脳部は、航空攻撃の威力について「実践では、演習どおりにはいかない」と考え、山本航空本部長の反対意見を押し切った。
 海軍軍令部は、アメリカと量で競争することはできないのでアメリカより前に巨大戦艦を建造し、射程の長い砲を搭載し、アウトレンジで敵が決戦距離に入る前に先勝の端緒を開くという、質で対抗する考え方を強調した。
 主砲40センチ砲の一門の製造に要した鋼塊重量は725トン、鍛錬重量は417トンで、仕上がり重量は166トンだった。
 発射速度は30秒に一発。弾丸を一発発射するのに、29.25~30.5秒かかる。「大和」が9門の主砲を一斉に同一舷、同方向に向かって発砲したときには、8000トンの反動力が生じる。
 「大和」の艦艇からから最上甲板までの船体の高さは6階建てのビルに相当した。「大和」に立ち入った者は、誰一人として、この巨艦が沈むとは思わなかった。
 昭和17年11月のソロモン海戦のころまではアメリカ軍もレーダー操作に不慣れだった。しかし、翌18年7月のころには、アメリカ軍の夜戦能力は射撃用レーダーの進歩と射法の改良によって急速に向上していた。同年11月には、日本海軍はアメリカ軍のレーダー射撃に太刀打ちできなくなっていた。
 大本営発表では勇ましい「戦果」をあげているということだったが、実はアメリカ空母はすべて健在という正しい情報を得ていた第14方面軍もいた。ところが、参謀本部の瀬島龍三少佐が正しい情報を握りつぶしてしまった。
 瀬島龍三については、今なおその崇拝者が少なくありませんが、こんなことをしていたのですね。許せませんよね。
 結局のところ、「大和」はその9門の主砲をまったく活用することがないまま無数の航空攻撃の下に撃沈させられてしまったのでした。
 「大和」の性能そしてその最期に至るまでを、アメリカ軍の記録をも掘り起こして刻明に解明した貴重な本です。宇宙戦艦ヤマトとちがって、ここには「男のロマン」はないというしかありません。
(2011年8月刊。2300円+税)

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