弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史

2013年11月19日

日本は過去とどう向き合ってきたか


著者  山田 朗 、 出版  高文研

歴史から学ぶということは、私たち人間にとってきわめて大切なこと。なぜなら、人間は、自分自身以外の体験以外から学ぶことのできる唯一の動物だから。
 なるほど、そのとおりですね。でも、学びたくない人、過去に目をそむけたい人が残念なことに少なくありません。
一時的に「日本人の誇りを傷つける」ような事象であっても、それを直視し、そうした事象の後始末や、今後の歴史に生かす試みを主体的にできることこそ、真の人間の「誇り」ではないか。人間の「誇り」とは、いたずらに過去の歴史の「栄光」を自画自賛することで得られるものではなく、歴史を直視することを土台にして過去の負の遺産を克服しようとすることから生まれてくるもの。
 1993年8月の河野談話は慰安婦が強制連行されたことは述べていない。ところが、安倍首相は、あたかも強制連行があったことを認定したように描き、それは事実確認だと高言する。ひどい話ですね。安倍首相の認識の軽さは厳しく批判されるべきです。
 1995年8月の村山談話についても、安倍首相は気にくわないもののようです。
 「侵略という定義については、これは、学会的にも国際的にも定まっていないと言ってもいい」
 しかし、これは事実として誤っています。侵略の定義は国連でなされて定着しているのです。
 靖国神社は、現在は東京都知事が認証した単独の宗教法人である。戦前は、陸軍省と海軍省が協同で所管する、きわめて特殊な、国家の戦争政策と切り離せない神社だった。神社の運営費は陸軍省の予算から出され、社域の警備には憲兵があたっていた。
 靖国神社は、天皇の軍隊としての一体性を構築するための日本軍にとって不可欠な機関であり、次の「英霊」をつくるための国民に対する精神教育の場でもあった。
 日本側にアジアの植民地を解放しようなどという考えがなかったことは、台湾や朝鮮などの古くからの植民地を「解放」しよう(独立させよう)と考えたことがなかったことからも明らかである。
死亡した人の死の意味を「犬死に」(意味のない死)のままにするのか、それを意味ある死にするのかは、生き残った人や後世の人の行動にかかっている。
 もし私たちが再び多くの戦死者を出すような事態を招いてしまえば、私たちは戦死者の死を意味のないものにしてしまうことになる。
 わずか190頁ほどの薄い本ですが、とっても内容の濃い本でした。
(2013年9月刊。1700円+税)

2013年11月 7日

近代日本の官僚

著者  清水 唯一郎 、 出版  中公新書

私も高校生のころ、なんとなく漠然と官僚を志向したことがありました。官僚って、世のため、人のために何かしてあげることができるのではないかというイメージをもっていたからです。もちろん、今では官僚なんて、ならなくて大正解だったと思っています。いえ、官僚のなかにも心底から世のため、人のために何かをしようとしている人がきっといるとは思っています。でも、恐らく主流は、時の政権に迎合している人、むしろ政権にごまをすりつつ、政権を操作するのを得意にしているような人たちなのでしょう。私には、そんな役割はできませんし、したくもありません。かといって、非主流派で、悶々とした日々を過ごしてストレスから病気になるというコースにいるのも嫌ですよね。
 この本は明治維新のあとに誕生した日本の官僚システムを追跡し、解明した労作です。
 1868年(慶応4年)1月17日、新政府は、初めての人材登用策となる徴士制度を発表した。それは、諸藩の藩士はもちろん、在野までを含めた全国の有能な人材を発掘し、身分にかかわりなく登用するもので、行政各課の運営を担うとされた。徴士の俸給は新政府が支払うとし、月給500円という破格の待遇が示された。そして、参与として迎えられた。
 採用された徴士の大半は下級藩士であったから、同時に身分秩序の破壊でもあった。
 採用された徴士は600人以上。鹿児島、高知、福井、名古屋、広島、それに熊本、鳥取、宇和島、佐賀。それ以外では山口が突出し、岡山、金沢、大垣が多かった。
 明治政府を軌道に乗せたのは、元勲たちのもとで大量に登用された徴士たちだった。彼らこそ、新しい時代の要請によって生まれた維新官僚だった。
初めての官吏公選は、1869年(明治2年)5月に行われた。この開票には、明治天皇が立会した。
 6名の参与には、大久保、木戸、副島、東久世、後藤、板垣が当選した。官吏公選の真意は、諸侯の勢力を押さえ、維新官僚の政治的自由を確保して、その政策に正当性をもたせることにあった。
 1870年(明治3年)7月、大学南校についての布告が発せられ、全国から300人あまりの青年が皇居のほとりに参集した。
 年間170両という重い負担にもかかわらず各藩が青年を送り出したのは、他藩との競争意識からだった。人材輩出の競争におくれをとることは許されなかった。
 その一人に、宇和島藩の穂積陳重(ほずみのぶしげ)がいる。
 大学南校には、北は北海道の松前藩から南は鹿児島藩まで、全国261藩のうち259藩から310人が参集した。藩の代表という重荷を背負っての競争は落伍者を生んだ。とくに、年長者や家格の高いものに脱落が目立った。漢学の教養が深いものにとって、英語やフランス語の入門編があまりに幼稚にうつった。しかし、若い学生や身分の低い学生にとっては素直に新しい学問に向き合うことができた。6畳か8畳の相部屋で、押入の上段が書斎として使われた。
 1873年(明治6年)272人が政府派遣で留学していた。
 1873年(明治6年)の政変によって、内務省が誕生した。また、この政変のあと、官僚制度が変革された。
 そして、1885年、政府は太政管制を廃し、総理大臣を長とする内閣制度を発足させた。
 1888年(明治21年)の第1回の文官試験が実施された。原敬は、政党政治家になる前、15年ものあいだ官僚として腕をみがいていた。
 1893年(明治26年)、高等文官試験が始まった。10月1日の朝7時半に出頭した受験生は144人。9時45分に試験が始まり、10時半に終了する。迅速作文試験が5日間あり、これに合格すると、10月15日、本番の筆記試験が始まる。これが、4日間、続く。そして、口述試験が11月15日の朝7時半から昼まであった。
 高等文官試験の合格者は1893年の6人から、37人、50人、54人と順調に増加し、日露戦争(1904年)あとまでは50人前後で推移していた。
戦前の官僚たちは志があればこそ、政党に参加していった。しかし、その勢いはあまりに熾烈であり、政権の交代もあまりに頻繁であった。安定と連続をもって旨とする行政は、彼らが理想としたはずの政党政治によって幾度となく寸断された。その結果、彼らのあいだには、期待とともに政党政治への不信感が刻み込まれていった。政党政治への不信感は、その後、官僚出身者を中心とする政権を現出させた。政党政治の負の側面を記憶に深く刻んだ彼らは、近代日本の発展が政党と官僚の協働によってもたらされたことを忘却していた。
 政党と官僚は協働の関係にあるというのは、今も正しい観点ではないかと思います。
 官僚をまるでダメと言いつつ、実は裏で、こっそり官僚に操作されている自民党、そして過去の民主党政権の失敗をくり返してはいけないように、かつて官僚を志向していたこともある私は痛切に思います。
(2013年4月刊。920円+税)

2013年10月30日

抗日霧社事件をめぐる人々

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版

1894年の日清戦争で清国は日本に敗れ、翌1895年(明治25年)、台湾は日本に割譲され、台湾は日本帝国主義の植民地になった。
台湾統治の初期、日本人は自信満々で、すごく高ぶっており、横暴な征服者の態度で台湾に君臨し、台湾人や原住民を奴隷か牛や馬のようにみていた。
 1930年、モーナ・ルーダオが人々を率いて「霧社事件」をおこし、日本植民地政府の強権政治に反抗した。モーナ・ルーダオの地位は、暴動を起こして日本人を殺害した事件の首謀者というものから、歴史に名をとどめる「抗日烈士」へと変わった。
 ところが、同じ「霧社事件」で集団自殺をとげた花岡一郎、花岡二郎とその家族の歴史的な地位は、いまだ正視されず、評価もされていない。
 モーナ・ルーダオたちは1911年(明治44年)、日本内地観光に送り出され、4ヶ月にわたって、日本の政治経済そして文化教育の施設を見学した。見学させられたのですね。
 霧社事件のとき、抗日志士たちは、自分たちが学んでいたころの校長や教師を殺しただけでなく、日ごろ慈愛の心で治療してくれた公医の志柿源治郎医師の生命まで奪った。このことは、日本人に対して、抗日の人々がいかに深い恨みをいだいていたかをはっきりと表している。
 セクダッカ人は、祖先は白石山のポソコフニという神木から発祥したと固く信じており、大木で首吊り自殺をすれば、その霊は祖霊の住むところへ帰ることができると信じていた。
 また、死んだときに顔が天を向いていると美霊になれないとも信じていた。だから、花岡二郎以外の20の死体は、みな「蕃布」でおおわれていた。これは二郎が最後に首を吊ったことも示している。
 さらに、花岡一郎夫妻は、和服を着て切腹自殺をしていた。
 この霧社事件のとき、司法の裁きを受けて処罰された「反抗蕃」は一人もいない。みな警察官個人の手で極刑に処せられた。しかも、その死体は、ひそかに埋められてしまった。これらは、いずれも日本人の恥である。本当に、そうですよね。ちっとも知りませんでした。これほどの日本人の悪業を・・・。
 日本人警察官の小嶋源治は霧社事件で次男を失ったが、同時に「反抗蕃」の子ども、中山清を助けた。
 小島は強権統治者の化身であり、冷酷心と残忍な手段をつかう「人殺し」であった。そして、「保護蕃収容所」の襲撃を命じた。同時に、小島に助けられた中山清は勉強に励んで医師となり、ついには台湾省議会の議員にも当選している。そして、この中山清は高永清となり、戦後日本の1979年に小島源治と宮城県で再会した。この小島源治は、1983年(昭和58年)に、宮城県で亡くなった。このとき98歳だった。
 霧社事件では、抗日6部落のセイダッカは、1236人いたのが、最終的にはわずか259人となった。8割もの人々が戦死、自死、逮捕監禁されて亡くなった。そして、強制移住されたあと、210人になってしまった。
 日本の台湾統治における悲劇を調べあげた画期的な3部作が、この本で完結したのです。ぜひ、関心のある人はお読みください。
(2001年11月刊。1714円+税)

2013年10月23日

日本兵を殺した父

著者  デール・マハリッジ 、 出版  原書房

前に『沖縄・シュガーローフの戦い』(ジェームス・H・ハラス、光人社)を紹介しました。
 1945年5月12日から18日までの1週間にわたって繰り広げられた沖縄の首里防衛戦、その西端にある、名もない丘をめぐる争奪戦で、アメリカ第6海兵師団は2000名をこえる戦死傷者を出した。
 最終的に丘を占領するまでに、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗し、戦死傷者は500名をこえた。この中隊は2回も全滅したことになる。
 今は、那覇市おもろまち1丁目6番地で、頂上部分には給水タンクが設置されています。モノレール「おもろまち」駅前にあります。
 この本は、ピュリツァー賞作家が父親の死んだあと、その戦友たちから戦争体験を聞き出していったものです。
 アメリカ軍も、太平洋戦争のなかで、
 「敵の捕虜にはなるな。敵を捕虜にもするな」
 としていたという話が出てきます。実際、降伏した日本兵を次々に射殺していったようです。そうなると、日本兵も死ぬまで戦うしかありません。必然的に戦闘は双方にとって激烈なものになっていきました。
 グアム島にいた日本兵の集合写真が載っています。140名もの日本兵は元気そのものです。そして、まもなく、その全員がヤシ林のなかで死んでいったのでした。そのなかの一部の兵士の顔が拡大されています。今もよく見かける、いかにも日本人の青年たちです。その顔をじっと見つめると、こんなところで死にたくなんかないと訴えかけている気がします。
 生き残った元兵士に著者が質問した。シュガーローフ・ヒルの戦術について、どう思うか・・・。
「あれは馬鹿げた戦いだった。やっちゃいけないことばかりだった。オレたちは何度も疑問に思ったよ。あんな丘、迂回していけばいいじゃないかと。周囲に陣地を張って、24時間監視して孤立させればよかったんだ。そうしたら、もっと大勢が助かったよ」
そうなんですよね、まったく、そのとおりです。
アメリカ軍に1万2000人の死者と3万6707人の負傷者を出し、2万6000人をストレスで苦しめた。
「オキナワという無謀すぎる賭け」について、こんな疑問がある。
 「なぜ、これほど多くの戦死傷者が出たのか。それは防げなかったのか。戦術に致命的な誤りがあったのではないか。そもそもオキナワは、どうしても必要な目標だったのか。近くの小さい島々を短期間で占拠したほうが、深刻な損耗はなかったのではないか」
 仮に全長100キロあまりの島を北から3分の2まで制圧できたのであれば、残りは包囲するだけで、日本軍は飢えて戦えなかっただろう。
 アメリカ軍の地上戦死傷者の大半は、島南部にある日本軍の拠点に無謀な正面攻撃を繰りかえし、疲弊した結果、出たものである。だが、日本軍を自ら築いた防塞に閉じ込めることもできた。直接的な強襲にばかり頼る旧来の手法から離れる必要があった。
 日本がアメリカとやろうとしてゲーム、正面対決に、ニミッツ提督はまんまと乗ったのだ。これに対して、マッカーサーの戦略と戦術は、多くのアメリカ兵を生きてアメリカ本国に帰還させるうえで、大いに貢献した。
 海軍主導で戦った沖縄戦の甚大な被害にトルーマン大統領は衝撃を受け、マッカーサー支援に傾いていった。海軍は連合国軍最高司令官にニミッツを推していた。ニミッツは憤然としてAP通信記者にこう語った。
 「死傷者がどれだけ出ようとも、完遂させねばならない任務がある。あれは不手際でも、大失敗でもなかった」
 しかし、著者はニミッツを厳しく批判します。沖縄戦は、あんな戦いでなくても良かったはずだ。ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人15万人、日本兵11万人、アメリカ兵1万2000人以上の犠牲を引きおこした。そして、著者の父親も沖縄の戦場での脳損傷の後遺症を一生引きずったのです。
 1950年生まれの著者による太平洋戦争体験記(聴取録)です。アメリカ軍のとった戦術について批判があることを私は初めて知りました。
(2013年7月刊。2500円+税)

2013年10月16日

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

著者  加藤 陽子 、 出版  朝日出版社

東大教授が中学生・高校生の20人に向けて近代日本史を熱く語っている本です。とても分かりやすく、しかも切り込む視点が鋭いので、思わず引きこまれてしまいます。
国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来なら見てはならない夢を擬人的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らないという危惧があり、教訓とすべき。
 日本国憲法を考えるときも、太平洋戦争における日本の犠牲者の数の多さ、日本社会が負った傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要だ。巨大な数の人が死んだあとには、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となるのは真理である。
戦争は、国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとる。
 相手国がもっとも大切だと思っている社会の基本秩序、これを広い意味で憲法と呼んでいる。これに変容を迫るものこそが戦争なのだ。
ジャン・ジャック・ルソーは、戦争とは相手国の憲法を書き換えるものと喝破した。
 アメリカは、戦争に勝利することで、最終的には日本の天皇制を変えた。
イギリスの歴史教授E・H・カーは、歴史とは現在と過去との間に尽きることを知らぬ対話だと言った。
 田中正造は、日露戦争について反戦論、非戦論で、はっきりした立場をとった。ところが実は、日清戦争には賛成している。のちに足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴状を出した田中正造は、日清戦争について、「良い戦争だった」と書いていた。
 日露戦争に関して、ロシアの学者は、どちらが戦争をやる気だったかという点で、ロシアの側により積極性があったとしている。戦争を避けようとしていたのは、むしろ日本で、戦争をより積極的に訴えたのはロシアだという。
日露戦争(1904年)の前の1900年に山県内閣は衆議院選挙法を改正した。直接国税15円以上を納付するという制限から、10円以上にして、5円下げた。その結果、45万人だった有権者が98万人となった。そして、1908年の選挙の時には158万人になっていた。
 また、1900年の山県内閣の選挙法改正によって、被選挙権は基本的に納税資格が不要とされた。それまでは地主議員ばかりだった国会に実業家や新聞記者などが登場するようになった。
 1933年(昭和8年)、熱河侵攻作戦という、最初はたいした影響はないと考えられていた作戦が、実のところ国際連盟からは、新しい戦争を起こした国と認定されてしまう危険性をはらんでいた作戦だったことが衝撃的に明らかにされてゆく。天皇も首相も苦しむが、除名や経済制裁を受けるよりは、先に自ら連盟を脱退してしまえ、という考えの連鎖によって日本の態度は決定された。
 日本近代史の歴史を若い学生、生徒とともに考える絶好の本です。最後まで面白く読めます。
(2013年3月刊。1700円+税)

2013年9月29日

日本人警察官の家族たち

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版

1930年10月に発生した霧社事件シリーズの第2弾です。
日本人は相対的に優勢な文化で山地を統治し、タイヤルの人々は野蛮ですべてに劣っているとして、タイヤルの風俗習慣を短期間のうちにやめさせようとした。ところが、この深く根づいた風俗習慣は、タイヤルの人々が長期にわたって形成してきたものである。日本人がこれらの習慣を強制的に、力づくで排除しようとしたことが、対立と恨みの感情を生み出した。
 タイヤルの人々に対する過酷な使役がたびかさなり、そのうえ日本人警察官がタイヤルの人々を牛馬のようにみなして、殴る蹴る、鞭打つといったことをしたために、タイヤルの人々の民族としての恨みがつもりかさなって、霧社事件の原因となっていった。
 霧社事件で殺害された日本側の最高責任者は佐塚愛祐警部だった。現場にいたものの助かった、その娘・佐塚佐和子は、コロンビアレコード専属のスター歌手になり、歌謡曲「蕃社の娘」や「南の花嫁さん」で、よく知られた。
佐塚佐和子のブロマイドが紹介されていますが、ふくよかな美人です。
 霧社事件のあと、日本に住むようになった佐和子は、第二次世界大戦のあとは歌の世界から身をひいて、横浜で音楽教室を開き、日本人と結婚した。
 そして、佐和子の母、佐塚愛祐の妻ヤワイ・タイモはタイヤルの人々が日本人をののしるとき、彼女は日本人の妻だった。日本人がタイヤルの人々をののしるとき、彼女はタイヤル人だった。ヤワイ・タイモは何も言わずにこの事実を受け入れた。
 佐塚愛祐は45歳で祖国のために身を捧げたが、遠く台湾霧社に住むタイヤルの親族は、50年たった今でも、佐塚愛祐がタイヤル人をほんとうに文明と開化へと導いたのかどうか、確信をもてないでいる。というのは、タイヤルの人々は、佐塚愛祐を、日本が台湾を統治していたころの強権の化身であり、歴史の在任であるとみているからである。
 この本は、日本当局が強権的な植民地政策をとったとき、それを現地で担った人々の悲劇を、その後の家族の生きざまを通じて明らかにしています。
 たくさんの写真によって、誇り高きタイヤル族の人々と、その生活をしのぶことができます。
(2000年8月刊。2095円+税)

2012年12月30日

二つの祖国の狭間に生きる

著者  長谷川 暁子 、 出版  同時代社

戦前、日本軍が中国へ侵略していたとき、日本人女性が重慶からラジオで日本兵に反戦を呼びかけていました。その日本人女性の名前は長谷川照子。
 日本軍は昭和13年(1938年)、反戦放送の声が長谷川照子であることを突きとめ、「嬌声売国奴」と決めつけ、大きく報道した。
 「お望みとあらば、私を裏切り者と読んで下さってもけっこうです。私はすこしも恐れません。むしろ私は、他民族の国土を侵略するばかりか、なんの罪がない難民の上に、この世の地獄を現出させて平然としている人たちと、同じ民族であることを恥とします」
 この照子の言葉は、まことにそのとおりだと思います。しかし、すごいですよね、これが戦前の若き日本人女性の言葉なのですから・・・。
 長谷川照子は、鹿地亘(かじわたる)が主宰した「在華日本人反戦同盟」の活動にも力を注ぎ、日本語訓練班をつくり、対日宣伝技術指導を担当した。日本兵捕虜教育所にも足を運び、講演したり、捕虜たちと話しあっていた。
 長谷川照子は、山梨県に土木技師の父親の次女として生まれ、奈良女子大(奈良女
高師)国文科に学んだ。そして、エスペラントを学ぶなかで、日本の東北大学に留学していた劉仁と知りあい、結婚した。この劉仁という男性は、写真もありますが、大変なハンサムで成績優秀でした。
 そして、ふたりで中国に渡ったのです。戦後1947年に、長谷川照子は医師のミスから35歳の若さで亡くなり、あとを追うようにして劉仁も死んでしまいました。母が亡くなったとき10ヵ月だった著者は、兄とも生き別れ、苦難の道を歩みます。それでも、革命烈士の子どもとして生活は保障されていました。
 しかし、中国はやがて毛沢東が理不尽な奪権闘争を始め、大動乱の時代に突入します。日本人の子どもとして差別され糾弾されるという苦難を味わいますし、信頼し、頼りにしていた人々が文化大革命のなかで糾弾され、迫害されるのです。
 このなかでも、著者は勉強を続け、中国社会で生きのびていきます。その苦難の歩みを読むと涙がとまりません。
 著者は戦後の日本に長谷川照子の遺児として招待され、やがて日本に留学し、ついには日本の国籍を取得し、日本の大学で教壇に立ち、中国人留学生の世話をする側にまわるのでした。
現代日本と中国史を体現した女性の歩みとして、息つく間もなく一心不乱に読み通し、読了したときには、今日は充実した日だったと朝から思ってしまったことでした。
この本も尊敬する内田雅敏弁護士のすすめで読みました。ありがとうございました。
(2012年10月刊。2800円+税)

2012年12月27日

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」

著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  文芸春秋

アメリカ軍は、日本軍は卑劣な戦法を使うから気をつけろと内部で教えていました。
 おとりの兵士が夜間に忍び寄って軽機関銃を乱射する。物陰から狙撃する。地雷や仕掛け爆弾を死体にまで仕掛ける。さまざまな奸計をつかってアメリカ軍をあざむこうとする。
 日本軍といえども、敵の機関銃には、機関銃で対抗することにしていた。実は、小銃は白兵格闘戦のとき以外には、ほとんど重要視されていなかった。
 実際には、満州事変の時点からすでに、夜襲の難しさは認識されていた。1932年の満州事変の時点で、日本陸軍にも、「装備劣等」な中国軍の陣地に対する夜襲すら難しいのに、装備優秀な外国軍相手のそれが果たして成功するのか、そういう疑問を抱く者がいた。
 1937年の上界戦線では、戦場で技量優秀だったのは中国軍狙撃兵のほうだった。その狙撃兵は優秀で、とくに我が指揮官・監視者の発見・狙撃はいずれも迅速。我が死傷者の多くはこれによるものだった。この狙撃兵は遮蔽が良好で、位置の発見がすこぶる困難であった。
日本軍には、ドイツ軍などのような狙撃兵を特別に養成する学校はなかった。ある日本軍兵士の回想によると、実弾射撃で5発に3発は標的に当たると、狙撃兵になることを上官から勧められた。
 中国の戦場で、中国軍兵士が死んだふりや偽りの降伏、便衣による民間人へのなりすましという行為が横行した。これを日本軍がとりいれて、後にアメリカ軍から卑怯だと非難されるようになったのは歴史の皮肉である。
 1939年に起きたノモンハン事件では、日ソ両軍は当初は同じような歩兵の突撃戦法をとっていた。ところが、不利と分かってソ連軍は即座に戦法を変更するという柔軟性があった。
 1944年4月段階で、日本軍の戦訓マニュアル上では、日本軍の「劣勢かつ火力装備の不足」が公言されており、アメリカ軍基地を突破する「良法」はもはや存在しなかった。つまり、打つ手なし、だった。
何もしないとアメリカ軍の物量に蹂躙される。だから、アメリカ軍の弱点を曝露させることが必要だというものの、実はアメリカ軍には本質的弱点らしき弱点はないことが日本軍にも痛いほど分かっていた。
 当時の日本で唯一豊富に使えた人命という資源の乱費を前提として戦法を組み立てた。
突撃には勇敢な歩兵も地雷を極度に恐れた。なぜか?
 その理由は地雷の残酷さにある。小銃弾の死は眠るがごとく壮烈で神々しい。これに対して、地雷の死は、あまりに酸鼻である。死体の有り様が、銃弾によるそれと比べて、あまりにも無惨である。弾丸に当たって死ぬのはよいが、地雷で死ぬのは嫌だ。
 セブ島の日本軍も後の硫黄島と同じように水際防衛を放棄し、内陸部の地下陣地にこもった徹底抗戦を意図していた。セブ島の山中いたるところに横穴を掘り、貯蔵庫もつくって、補給なしに3年間は大丈夫といわれていた。横穴は、土木機械がないのに、本格的に要寒化されていた。
 第二次大戦における日本軍の戦法の実際を具体的に検証した本でした。
(2012年7月刊。1600円+税)

2012年12月18日

戦場へ征く、戦場から還る

著者  神子島 健 、 出版  新曜社

日中戦争、15年戦争に駆り出された兵士たちを描いた火野葦平、石川達三などの小説を手がかりとして、兵隊になることの意味を考えた本です。500頁という若手学者の意欲あふれる大部な研究書です。
 多くの日本人にとっての戦争とは、あくまで故国から遠く離れた場所で起こる事件と認識されていた。これは、アメリカにとってのイラクやアフガニスタンでの戦争と同じですよね。
兵隊作家と呼ばれた火野葦平は軍部による言論統制の最前線にいた。自らの作品が直属の上官から検閲を受けたばかりか、報道班員として新聞記者たちの記事を検閲する側にも立った。軍の報道部の制限は、
① 日本軍が負けているところを書いてはならない。
② 戦争の暗黒面を書いてはならない。
③ 戦っている敵は憎々しく、いやらしく書かねばならない。敵国の民衆も同じ。
④ 作戦の全貌を書いてはならない。
⑤ 部隊の編成と部隊名を書いてはならない。
⑥ 軍人を人間として書いてはならない。小隊長以上の軍人は沈着冷静な人格として描かなければならない。
⑦ 女のことを書いてはならない。
というものであった。
ストレスによって兵の志気が下がったり訓練に支障があっては軍も困る。そのため、兵営でも戦地でも、兵士たちの士気を再生産する必要がある。日本軍においては、それは基本的に酒と「女」の二つだった。日本軍は、兵士たちへの慰安として政敵搾取の対象としての「女」しか与えなかった。だからこそ、「慰安所」という言葉が、一般的な娯楽ではなく、性奴隷のいる場所に対して使われた。命令に服従し続ける兵士にとって、女性を「抱く」という行為は、主体性を回復するという幻想を味わうことのできる行為であった。
虐殺体験のある日本兵は帰国してから、その体験を語ろうとしない。それは、語れば、必ず平和な日常から異常な過去の戦場に連れ戻されるから。
 家には、血の感覚からあまりに遠い家族がいる。その記憶によって、自分が支配されてしまう。そうした事態を避けるためには、事実をたんたんと語る方法をとらざるをえない。罪悪感を感じていないというより、罪悪感を必至に麻酔されていると考えた方がよい。
兵士の一挙手一投足まで厳しい軍紀で管理しようというのは、基本的に日本軍が外征軍であったことに起因する。
 あれだけの力を持った旧帝国陸海軍が敗戦によってごくあっさり解体されたのは、ほとんどの兵が主体的に武器をとっていたのではないことを意味する。なーるほど、そういうことでしょうね。
内部では降伏文書に軍が調印する前に、少なからぬ兵士たちが故郷へ帰り始めた。これは、本当は脱走罪に該る行為である。軍内部から崩壊が始まったのである。
 日本が降伏したとき、日本の総兵力は720万人。陸軍が550万人(内地に240万人、外地に310万人)、海軍170万人(内地に130万人、各地に40万人)。
 1945年9月末に内地部隊の8割以上の復員が終了し、10月末までに完了した。
 ちなみに終戦時に朝鮮出身の軍人・軍属は24万2千人,
台湾出身は20万7千人だった。敗戦時に海外にいた日本軍人は350万人(中国大陸に200万人)、彼らが日本に再統合されていったのが、戦後の日本社会である。
 火野葦平は若松の沖仲士(ごんぞう)の新分の息子である。早くから文学に興味をもち早稲田大学英文科に入学した。そして、徴兵されて福岡歩兵24連隊に入った。そこで、マルクス・エンゲルスなどの著者をこっそり読みはじめた。それが発覚したものの中隊長の好意で憲兵隊送りにはならなかった。兵隊に入っているうちに、父親が勝手に大学に退学届けを出していたため、早稲田大学は中退となった。
 1930年ころまでは、火野がその一人であったように、軍隊内でもマルクス主義が根強い支持を得ていた。
 戦前の日本では、戦争に批判的な人々のあいだでは、特定の人への信頼が崩れるだけでばく、他者への信頼そのものが危惧にさらされた。危ないと見なされるかつての友人とのつきあいを避けつつ、世間的には危険とは見られない人々と、内心はどうであれ、戦時社会のタテマエのなかで当たり障りのない会話をするようなつきあいばかりになっていった。それは常に自分自身の内面をさらけ出さないような意識を保つ必要があることを意味する。
 再び日本がこんな社会にならないように頑張らなくてはいけませんよね。大変な労作だと思いました。
(2012年8月刊。5200円+税)

2012年11月28日

朝鮮人強制連行

著者   外村 大 、 出版   岩波新書 

 亡父が「三井」の労務係として戦前、朝鮮から朝鮮人を連行してきたことがあるだけに、この問題には目をそらすわけにはいきません。
戦前の朝鮮では、上からの教化はかなりの困難を伴っていた。ラジオは都市の富裕層が聞くだけ、新聞を読む人も少ないなかでマスメディアによる宣伝の効果はあまり期待できなかった。そこで、朝鮮総督府が主として依拠した情報宣伝の手段は講演会や、警官・官吏の主催する座談会・紙芝居だった。
 翼賛組織が整備されたあとも、朝鮮民衆の総力戦への積極的な協力はなかった。
 日本国内の炭鉱では、労働力不足であり、増産を担うべき十分な労働力を集めることができずにいた。炭鉱の労働条件が重化学工業などに比べて劣っていたからである。
 商工省は当初より朝鮮人の導入に賛成だった。しかし、内務省は1939年4月の時点でも賛成していなかった。戦後における失業問題や民族的葛藤からくる治安への影響を心配していたと推察される。
 朝鮮総督府は、送り出した朝鮮人を炭鉱労働として使うことに不満をもっていた。これは炭鉱の労務管理に不安を抱いたからだろう。しかし、消極論は、日本内地の炭鉱での労働力不足という現実の前に押しきられてしまった。
 朝鮮では、専門的な労務需給の行政機構が貧弱であり、結局、個別の企業が朝鮮総督府から許可を得て、地域社会に入って募集するという方法で動員計画の割当を充足しようとしていた。
これは亡父の語ったことに合致します。「三井」労務係として、まず京城にある総督府に行き、それから現地に行き、労働者を列車で連れてきたということでした。
 1939年度に関しては、積極的に募集に応じようとする朝鮮人が多数いた。これは、未曾有の旱害にあい、多くの離村希望者が出現していたことによる。
 これまた、亡父の語った話と同じです。無理矢理ひっぱってきたのではないと弁解していました。食べられない状況では日本に渡らざるをえなかったのです。
 新聞に広告をのせても、ラジオで宣伝しても、それは大部分の農民には届かない。字の読めない農民がたくさんいた。
 当局の政策を逆手にとって、日本内地に移動しようとする朝鮮人もいた。日本に動員されてきた朝鮮人の逃亡は少なくなかった。そして、労働争議や、日本人との衝突事件が多発した。
朝鮮人労務動員政策は。問題なしに生産力拡充や企業経営にプラスの効果をあげたとは言いがたい。動員計画によって日本内地に送り出された朝鮮人は、炭鉱に多く配置された。炭鉱に62%、金属鉱山に11%、そして、土木建築が18%、工場その他8%となっている。
 1940年9月の調査時点で6万5千人の朝鮮人のうち18.5%、1万2千人が逃走している。結局、70万人の朝鮮人が日本内地に配置された。
 戦後、1959年時点で、21万人が日本に残っていた。
在日の存在を考えるうえで欠かせない本だと思いました。
(2012年3月刊。820円+税)

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