福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史

2012年12月30日

二つの祖国の狭間に生きる

著者  長谷川 暁子 、 出版  同時代社

戦前、日本軍が中国へ侵略していたとき、日本人女性が重慶からラジオで日本兵に反戦を呼びかけていました。その日本人女性の名前は長谷川照子。
 日本軍は昭和13年(1938年)、反戦放送の声が長谷川照子であることを突きとめ、「嬌声売国奴」と決めつけ、大きく報道した。
 「お望みとあらば、私を裏切り者と読んで下さってもけっこうです。私はすこしも恐れません。むしろ私は、他民族の国土を侵略するばかりか、なんの罪がない難民の上に、この世の地獄を現出させて平然としている人たちと、同じ民族であることを恥とします」
 この照子の言葉は、まことにそのとおりだと思います。しかし、すごいですよね、これが戦前の若き日本人女性の言葉なのですから・・・。
 長谷川照子は、鹿地亘(かじわたる)が主宰した「在華日本人反戦同盟」の活動にも力を注ぎ、日本語訓練班をつくり、対日宣伝技術指導を担当した。日本兵捕虜教育所にも足を運び、講演したり、捕虜たちと話しあっていた。
 長谷川照子は、山梨県に土木技師の父親の次女として生まれ、奈良女子大(奈良女
高師)国文科に学んだ。そして、エスペラントを学ぶなかで、日本の東北大学に留学していた劉仁と知りあい、結婚した。この劉仁という男性は、写真もありますが、大変なハンサムで成績優秀でした。
 そして、ふたりで中国に渡ったのです。戦後1947年に、長谷川照子は医師のミスから35歳の若さで亡くなり、あとを追うようにして劉仁も死んでしまいました。母が亡くなったとき10ヵ月だった著者は、兄とも生き別れ、苦難の道を歩みます。それでも、革命烈士の子どもとして生活は保障されていました。
 しかし、中国はやがて毛沢東が理不尽な奪権闘争を始め、大動乱の時代に突入します。日本人の子どもとして差別され糾弾されるという苦難を味わいますし、信頼し、頼りにしていた人々が文化大革命のなかで糾弾され、迫害されるのです。
 このなかでも、著者は勉強を続け、中国社会で生きのびていきます。その苦難の歩みを読むと涙がとまりません。
 著者は戦後の日本に長谷川照子の遺児として招待され、やがて日本に留学し、ついには日本の国籍を取得し、日本の大学で教壇に立ち、中国人留学生の世話をする側にまわるのでした。
現代日本と中国史を体現した女性の歩みとして、息つく間もなく一心不乱に読み通し、読了したときには、今日は充実した日だったと朝から思ってしまったことでした。
この本も尊敬する内田雅敏弁護士のすすめで読みました。ありがとうございました。
(2012年10月刊。2800円+税)


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2012年12月27日

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」

著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  文芸春秋

アメリカ軍は、日本軍は卑劣な戦法を使うから気をつけろと内部で教えていました。
 おとりの兵士が夜間に忍び寄って軽機関銃を乱射する。物陰から狙撃する。地雷や仕掛け爆弾を死体にまで仕掛ける。さまざまな奸計をつかってアメリカ軍をあざむこうとする。
 日本軍といえども、敵の機関銃には、機関銃で対抗することにしていた。実は、小銃は白兵格闘戦のとき以外には、ほとんど重要視されていなかった。
 実際には、満州事変の時点からすでに、夜襲の難しさは認識されていた。1932年の満州事変の時点で、日本陸軍にも、「装備劣等」な中国軍の陣地に対する夜襲すら難しいのに、装備優秀な外国軍相手のそれが果たして成功するのか、そういう疑問を抱く者がいた。
 1937年の上界戦線では、戦場で技量優秀だったのは中国軍狙撃兵のほうだった。その狙撃兵は優秀で、とくに我が指揮官・監視者の発見・狙撃はいずれも迅速。我が死傷者の多くはこれによるものだった。この狙撃兵は遮蔽が良好で、位置の発見がすこぶる困難であった。
日本軍には、ドイツ軍などのような狙撃兵を特別に養成する学校はなかった。ある日本軍兵士の回想によると、実弾射撃で5発に3発は標的に当たると、狙撃兵になることを上官から勧められた。
 中国の戦場で、中国軍兵士が死んだふりや偽りの降伏、便衣による民間人へのなりすましという行為が横行した。これを日本軍がとりいれて、後にアメリカ軍から卑怯だと非難されるようになったのは歴史の皮肉である。
 1939年に起きたノモンハン事件では、日ソ両軍は当初は同じような歩兵の突撃戦法をとっていた。ところが、不利と分かってソ連軍は即座に戦法を変更するという柔軟性があった。
 1944年4月段階で、日本軍の戦訓マニュアル上では、日本軍の「劣勢かつ火力装備の不足」が公言されており、アメリカ軍基地を突破する「良法」はもはや存在しなかった。つまり、打つ手なし、だった。
何もしないとアメリカ軍の物量に蹂躙される。だから、アメリカ軍の弱点を曝露させることが必要だというものの、実はアメリカ軍には本質的弱点らしき弱点はないことが日本軍にも痛いほど分かっていた。
 当時の日本で唯一豊富に使えた人命という資源の乱費を前提として戦法を組み立てた。
突撃には勇敢な歩兵も地雷を極度に恐れた。なぜか?
 その理由は地雷の残酷さにある。小銃弾の死は眠るがごとく壮烈で神々しい。これに対して、地雷の死は、あまりに酸鼻である。死体の有り様が、銃弾によるそれと比べて、あまりにも無惨である。弾丸に当たって死ぬのはよいが、地雷で死ぬのは嫌だ。
 セブ島の日本軍も後の硫黄島と同じように水際防衛を放棄し、内陸部の地下陣地にこもった徹底抗戦を意図していた。セブ島の山中いたるところに横穴を掘り、貯蔵庫もつくって、補給なしに3年間は大丈夫といわれていた。横穴は、土木機械がないのに、本格的に要寒化されていた。
 第二次大戦における日本軍の戦法の実際を具体的に検証した本でした。
(2012年7月刊。1600円+税)


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2012年12月18日

戦場へ征く、戦場から還る

著者  神子島 健 、 出版  新曜社

日中戦争、15年戦争に駆り出された兵士たちを描いた火野葦平、石川達三などの小説を手がかりとして、兵隊になることの意味を考えた本です。500頁という若手学者の意欲あふれる大部な研究書です。
 多くの日本人にとっての戦争とは、あくまで故国から遠く離れた場所で起こる事件と認識されていた。これは、アメリカにとってのイラクやアフガニスタンでの戦争と同じですよね。
兵隊作家と呼ばれた火野葦平は軍部による言論統制の最前線にいた。自らの作品が直属の上官から検閲を受けたばかりか、報道班員として新聞記者たちの記事を検閲する側にも立った。軍の報道部の制限は、
① 日本軍が負けているところを書いてはならない。
② 戦争の暗黒面を書いてはならない。
③ 戦っている敵は憎々しく、いやらしく書かねばならない。敵国の民衆も同じ。
④ 作戦の全貌を書いてはならない。
⑤ 部隊の編成と部隊名を書いてはならない。
⑥ 軍人を人間として書いてはならない。小隊長以上の軍人は沈着冷静な人格として描かなければならない。
⑦ 女のことを書いてはならない。
というものであった。
ストレスによって兵の志気が下がったり訓練に支障があっては軍も困る。そのため、兵営でも戦地でも、兵士たちの士気を再生産する必要がある。日本軍においては、それは基本的に酒と「女」の二つだった。日本軍は、兵士たちへの慰安として政敵搾取の対象としての「女」しか与えなかった。だからこそ、「慰安所」という言葉が、一般的な娯楽ではなく、性奴隷のいる場所に対して使われた。命令に服従し続ける兵士にとって、女性を「抱く」という行為は、主体性を回復するという幻想を味わうことのできる行為であった。
虐殺体験のある日本兵は帰国してから、その体験を語ろうとしない。それは、語れば、必ず平和な日常から異常な過去の戦場に連れ戻されるから。
 家には、血の感覚からあまりに遠い家族がいる。その記憶によって、自分が支配されてしまう。そうした事態を避けるためには、事実をたんたんと語る方法をとらざるをえない。罪悪感を感じていないというより、罪悪感を必至に麻酔されていると考えた方がよい。
兵士の一挙手一投足まで厳しい軍紀で管理しようというのは、基本的に日本軍が外征軍であったことに起因する。
 あれだけの力を持った旧帝国陸海軍が敗戦によってごくあっさり解体されたのは、ほとんどの兵が主体的に武器をとっていたのではないことを意味する。なーるほど、そういうことでしょうね。
内部では降伏文書に軍が調印する前に、少なからぬ兵士たちが故郷へ帰り始めた。これは、本当は脱走罪に該る行為である。軍内部から崩壊が始まったのである。
 日本が降伏したとき、日本の総兵力は720万人。陸軍が550万人(内地に240万人、外地に310万人)、海軍170万人(内地に130万人、各地に40万人)。
 1945年9月末に内地部隊の8割以上の復員が終了し、10月末までに完了した。
 ちなみに終戦時に朝鮮出身の軍人・軍属は24万2千人,
台湾出身は20万7千人だった。敗戦時に海外にいた日本軍人は350万人(中国大陸に200万人)、彼らが日本に再統合されていったのが、戦後の日本社会である。
 火野葦平は若松の沖仲士(ごんぞう)の新分の息子である。早くから文学に興味をもち早稲田大学英文科に入学した。そして、徴兵されて福岡歩兵24連隊に入った。そこで、マルクス・エンゲルスなどの著者をこっそり読みはじめた。それが発覚したものの中隊長の好意で憲兵隊送りにはならなかった。兵隊に入っているうちに、父親が勝手に大学に退学届けを出していたため、早稲田大学は中退となった。
 1930年ころまでは、火野がその一人であったように、軍隊内でもマルクス主義が根強い支持を得ていた。
 戦前の日本では、戦争に批判的な人々のあいだでは、特定の人への信頼が崩れるだけでばく、他者への信頼そのものが危惧にさらされた。危ないと見なされるかつての友人とのつきあいを避けつつ、世間的には危険とは見られない人々と、内心はどうであれ、戦時社会のタテマエのなかで当たり障りのない会話をするようなつきあいばかりになっていった。それは常に自分自身の内面をさらけ出さないような意識を保つ必要があることを意味する。
 再び日本がこんな社会にならないように頑張らなくてはいけませんよね。大変な労作だと思いました。
(2012年8月刊。5200円+税)


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2012年11月28日

朝鮮人強制連行

著者   外村 大 、 出版   岩波新書 

 亡父が「三井」の労務係として戦前、朝鮮から朝鮮人を連行してきたことがあるだけに、この問題には目をそらすわけにはいきません。
戦前の朝鮮では、上からの教化はかなりの困難を伴っていた。ラジオは都市の富裕層が聞くだけ、新聞を読む人も少ないなかでマスメディアによる宣伝の効果はあまり期待できなかった。そこで、朝鮮総督府が主として依拠した情報宣伝の手段は講演会や、警官・官吏の主催する座談会・紙芝居だった。
 翼賛組織が整備されたあとも、朝鮮民衆の総力戦への積極的な協力はなかった。
 日本国内の炭鉱では、労働力不足であり、増産を担うべき十分な労働力を集めることができずにいた。炭鉱の労働条件が重化学工業などに比べて劣っていたからである。
 商工省は当初より朝鮮人の導入に賛成だった。しかし、内務省は1939年4月の時点でも賛成していなかった。戦後における失業問題や民族的葛藤からくる治安への影響を心配していたと推察される。
 朝鮮総督府は、送り出した朝鮮人を炭鉱労働として使うことに不満をもっていた。これは炭鉱の労務管理に不安を抱いたからだろう。しかし、消極論は、日本内地の炭鉱での労働力不足という現実の前に押しきられてしまった。
 朝鮮では、専門的な労務需給の行政機構が貧弱であり、結局、個別の企業が朝鮮総督府から許可を得て、地域社会に入って募集するという方法で動員計画の割当を充足しようとしていた。
これは亡父の語ったことに合致します。「三井」労務係として、まず京城にある総督府に行き、それから現地に行き、労働者を列車で連れてきたということでした。
 1939年度に関しては、積極的に募集に応じようとする朝鮮人が多数いた。これは、未曾有の旱害にあい、多くの離村希望者が出現していたことによる。
 これまた、亡父の語った話と同じです。無理矢理ひっぱってきたのではないと弁解していました。食べられない状況では日本に渡らざるをえなかったのです。
 新聞に広告をのせても、ラジオで宣伝しても、それは大部分の農民には届かない。字の読めない農民がたくさんいた。
 当局の政策を逆手にとって、日本内地に移動しようとする朝鮮人もいた。日本に動員されてきた朝鮮人の逃亡は少なくなかった。そして、労働争議や、日本人との衝突事件が多発した。
朝鮮人労務動員政策は。問題なしに生産力拡充や企業経営にプラスの効果をあげたとは言いがたい。動員計画によって日本内地に送り出された朝鮮人は、炭鉱に多く配置された。炭鉱に62%、金属鉱山に11%、そして、土木建築が18%、工場その他8%となっている。
 1940年9月の調査時点で6万5千人の朝鮮人のうち18.5%、1万2千人が逃走している。結局、70万人の朝鮮人が日本内地に配置された。
 戦後、1959年時点で、21万人が日本に残っていた。
在日の存在を考えるうえで欠かせない本だと思いました。
(2012年3月刊。820円+税)

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2012年10月21日

緒方竹虎とCIA

著者   吉田 則昭 、 出版    平凡社新書 

 消費税の増税(5%から10%へアップ)を決めるとき、朝日も毎日も大新聞は一致して早く増税を決めろと一大キャンペーンをはりました。「不偏不党」の看板をかなぐり捨てて政権与党と同じことを言うマスコミは異様でした。
戦前の朝日新聞を代表する記者として活躍し、戦後は保守政治家となった緒方竹虎の実態を明らかにした新書です。日本の政治家の多くが戦後一貫してアメリカ一辺倒だったことを知ると、哀れに近い感情がふつふつと湧いてきます。
 緒方竹虎は、4歳のときから福岡で育っているので、福岡は故郷と言える。
戦後の緒方竹虎についていうと、CIAの個人ファイルのなかに、5分冊、1000頁もあって、日本人のなかでは群を抜いて多い。児玉誉士夫、石井四郎、野村吉三郎、賀屋興宣、正力松太郎などの個人ファイルがある。
 CIAは、緒方竹虎に「ポカポン」、正力松太郎に「ポダム」というコードネームをつけていた。この「ポン」というのは、日本をさすカントリーコードであることが判明した。
 緒方竹虎に対するアメリカ側の士作は1955年9月以降、「オペレーション」、ポカポンとして本格化し、実行された。
 日本の保守政治家の多くがアメリカのエージェントだったというのを知るのは、同じ日本人として、寂しく悲しいことです。表向きは日本人として愛国心を強調していたのに、裏ではアメリカに買収されてスパイ同然に動いていたなんて嫌なことですよね。
(2012年5月刊。780円+税)

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2012年10月 7日

天一 ・ 一代

著者   藤山 新太郎 、 出版    NTT出版 

 面白い本です。車中で夢中になって読みふけっていました。奇術を見るのが大好きな私ですので、ゾウが消えた、あのイリュージョンはどんな仕掛けだったのだろうか・・・。両手の親指をしばったまま、目の前にある棒を通過させる技は一体どうなっているのか。不思議でなりません。
 でも、同じ芸をずっと見せられ続けていると客はあきが来る。それをカバーするのが話術だ。ここらあたりの説明は、なるほどなるほど、人間の微妙な心理をよくとらえていると感心します。
 大がかりな仕掛けだけでは、決して興行としてはうまくいかないというのです。そこでは、巧みな話術と人間性で勝負するというわけです。ふむふむ、そうなのか・・・。
この本は明治期に活躍した松旭天一の波瀾万丈の生涯をよくよく調べて紹介しています。すごいんです。日本で成功して、アメリカに渡り、そこで苦労して成功すると、今度はヨーロッパに渡って大成功をおさめます。ちょうど日露戦争のころ。日本人ってどんな人種なのか知りたい、見てみたいというヨーロッパの人々の好奇心にこたえることにもなって興行は大成功。そして、日本に帰国して、あの歌舞伎座で上演して画期的に成功したのでした。なにしろ持てる財産(1億5000万円)全部を投げ出してしまったというのです。そして、それを全国巡業で取り戻したというから、さすがです。
芸人にとって名前は重要だ。不遇な芸人は、とにかく卑屈な名前や洗練されていない名前をつける。大きくなる芸人は初めから大きい名前をつける。
 天一は、実子は誰も奇術師にせず、養子のみを奇術師にして、天二と名付けた。
 天一の声は太い胴間声で、実によく台詞が通った。天一は穏やかで丁寧な言葉づかいをしたから、多くの地位ある人に支持された。天一は、カイゼル髭を生やし、大礼服を着、堂々たる姿勢、綺麗な言葉づかい、舞台のマナーの良さがあった。
仕掛けの道具を入手しただけでは観客の心はつかめない。奇術師自身が立派で大きくなければ観客は呼べない。
 水芸の前半は、ひょうきんな芸を見せる。後半には、表情をほとんど入れず、堂々と構えたシリアスな演技に切り替える。まるで神々が無心に遊んでいるような天上の世界を見せようとした。そのため、天一は、表情を取り去り、まるで全能の神のごとく、何ら思い入れをせずに淡々と演じる。すると観客は、水芸を見ているうちに、どんどん高みに昇っていったような錯覚を覚え、日常を超越した世界に到達する。それは天一が生涯かけて表現したかった世界であり、この神々しい世界を当時の観客は絶賛した。
 奇術師が不思議を提供するだけで生きていけるのなら、その技のみに専念すればよい。しかし、現実には、それでは生きていけない。なぜなら、不思議は成功すればするほど観客に緊張を強いてしまう。緊張が連続すれば観客は疲れてしまい、奇術を見ることが楽しみにつながらない。そうなると、奇術は芸能として失格だ。そこで、奇術師は不思議を強調しつつ。冗談を言い、寸劇を演じ、緊張を和らげる。実は笑いはマッチポンプなのだ。奇術師は不思議を演じ、緊張を強いながらも、笑いで目先を変え、別の世界に連れ出し、緩和を提供する。こうすることが息長く観客に愛される秘訣なのだ。変な職業である。
 ここが分からず、不思議ばかり見せ続ける奇術師は恵まれない結果に終わる。もっともギャグの多すぎる奇術師もいけない。初めからおしまいまで馬鹿馬鹿しいと、すべてが嘘くさくなる。まず、観客が本気にならないことには奇術は成功しない。十分に不思議がらせて、そのうえで観客が入り込む余地を残しておく、ここのさじ加減が難しい。天一は、そこがうまかった。
 大きな成功をつかむためには、よい観客層を集めなければならない。よい観客はよい劇場にしか来ない。
 日本の奇術が目ざしていたものは演劇であった。日本の奇術は、歴史的にも、なぜそうなのか、なぜそう演じるかの背景をつくりあげている。演劇をみるのと同じように人物と情景を掘り下げて語っていく。
 天一は、弟子の誰にでも奇術を教え、隠すところがなかった。天一は弟子の長所を見つけ出すのがうまかった。その結果、数々の弟子が育ち、松旭斎の一門は天一の没後100年の今日に至るまで繁栄している。弟子たちの努力によって一座は引退間際まで大入りを続け、天一は有終の美を飾ることができた。
 天一は明治45年(1912年)、59歳で病死した。直腸がんだった。
 奇術に少しでも関心のある人には、こたえられない一冊です。
(2012年7月刊。2300円+税)

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2012年9月25日

ミッドウェー海戦(第2部)運命の日

著者   森 史朗 、 出版   新潮選書  

 下巻の冒頭は、日米両空軍の航空線の模様が、あたかも実況中継されているかのような迫力があります。飛行機乗りたちの心理描写、生の声まで記述されていますので、その場に居合わせているかのようです。
 「本日、敵機動部隊、出撃の算なし」
 なんと、のどかな敵情判断だろう。このように著者は厳しく弾劾しています。こんな甘い状況判断によって、日本海軍は完膚なきまでに叩きのめされたのでした。まさに、日本海軍トップの状況判断には致命的な誤りがありました。
 二つのアメリカ空母グループが北方方向からひそかに接近し、その前段として味方の攻略船団が発見され、B17型爆撃機によって空爆を受けた。ミッドウェー基地からの反撃は必至であり、行方の分からないアメリカ軍機動部隊が突如として姿をあらわすかもしれない。それにしても、ずいぶん緊張感を欠いた信令だ。
この大胆な、甘すぎる情勢判断は、過去半年にわたる連戦連勝気分による油断の頂点たるものであり、アメリカ海軍の戦意を軽んじきった驕りの気分に満たされている。
向かうところ敵なし。自信過剰の南雲司令部は、それゆえ警戒心を忘れていた。
 南雲中将は、決して自分から判断を下さない将官であった。水雷船のエキスパートでありながら、航空戦指揮は不得意だとして指揮をすべて航空参謀にゆだねる、他人まかせの一途な頑固さがあった。未知の分野には手を出さず、得意な分野だけ大事にする守旧型のリーダーである。そして、革新による変化をひどく恐れ、臆病なところがある。
 日本軍のゼロ戦対策として、アメリカ軍は「サッチ戦法」を編み出した。当時37歳のジョン・S・サッチ少佐が考えついたもの。ゼロ戦に対抗するには、日本機の特異な単機格闘戦法ではなく、2機ずつのペアが縦列を組み、同高度、同一方向で二列に並んで飛行する。そして、戦場では、互いに円を描いて位置を変え、それぞれのペアが相手ペアの後方に注意を払う。ゼロ戦が後方から接近すると、反対側のペアが素早くターンして攻撃にむかう。この二機ずつのペアが互いに交叉しあうことから、サッチ・ウィーヴ戦法と名付けられ、ミッドウェー海戦以降のアメリカ海軍戦闘機の有力な戦法となった。日本側は何も気づかず、アメリカ軍機をお得意の戦機格闘戦に引き込んで、かえって逆襲され、手痛い目にあった。
 日本軍の艦船はアメリカ軍飛行機に次々にやられていった。この状況を見て、南雲長官も草鹿参謀長も黙然として、事態への対応がまったく出来ない。源田実参謀の頭の中は真っ白になった。真珠湾以来、世界最強とうたわれた第一航空艦隊司令部は、その内実は強固な戦闘集団ではなく、組織的にもろい、危機管理能力が皆無にひとしい集団であることを曝露してしまった。
 南雲司令部は、機能喪失状態に陥った。被弾してから、軽巡長良に司令を移乗させるまでの20分間に、南雲中将は麾下の部隊に何の命令も発していない。草鹿参謀長も同様で、まったく石のように動かず、あとに「参謀長は泰然として腰をぬかした」とからかわれた。
アメリカ海軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーを装備して待ち受けており、日本海軍は準備不足、作戦発起の性急さ、人事異動による士気低下の悪条件のもとで戦闘に突入した。
 ミッドウェー海戦の推移を詳細に点検していくと、日本側の敗北の原因は技術的なものであった。南雲忠一中将を頂点とする司令部官僚たちは、戦闘にあたって冷静な判断力と臨機応変の対応力、勇断や決定力の資質が欠けていた。いたずらに判断を先送りし、結果的には一般艦の主力三空母は1機の反撃航空機も送り出すことなく、乗員ともども海底に没した。涙をのんでミッドウェー沖に沈んでいった若き戦士たちの無念が思いやられてならない。
 日本海軍は、ミッドウェー海戦の敗北を極秘扱いとし、一切の戦訓研究を禁じた。アメリカ海軍は、詳細に研究した。
日本海軍の被害は空母4隻、重巡1隻沈没、重巡一隻損傷、搭載航空機285機を喪失した。そして、熟練の乗員のうち、艦戦39人、艦爆33組、艦攻37組、合計109組を喪い、著しく戦力を低下させた。
 アメリカ海軍は、空母1隻、駐遂艦1隻沈没、航空機147機を喪失した。
 これだけの大敗北を喫しながら、日本海軍は戦史から戦訓・戦術の反省点を学ばなかった。山本長官は、自ら、失敗から教訓を導き出す作業を封印してしまった。
 本来なら、関係者を集めて研究会をさせるべきだった。それをしなかった理由は、突っつけば穴だらけだし、今さら突っついて屍にむち打つ必要まではないと考えたことによる。そして、なぜ失敗したのかの責任論は封印されてしまった。そのうえ、敗戦の真相隠しが始まった。大本営発表は虚像にみちたものとなった・・・。
 無責任、そして嘘だらけ。いやですね。軍人の世界って・・・。まるで三流政治家ではありませんか。
(2012年5月刊。1750円+税)

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2012年9月20日

ミッドウェー海戦(第一部、知略と驕慢)

著者   森 史郎 、 出版    新潮新書 

 1942年(昭和17年)6月、南雲忠一中将の指揮する航空母艦4隻、山本五十六大将の乗る戦艦大和を中心とする総計145隻の日本艦隊がミッドウェー島攻略を目ざして進攻した。このミッドウェー海戦で日本海軍は大敗、南雲艦隊は主力空母4隻を喪失し、山本大将は日本本土への退却を余儀なくされた。
 ところが、大本営は日本の大勝利と発表した。嘘とペテンで日本国民そして自らを騙し
続けたのです。この大敗北に至る経過が日米双方への丹念な取材をもとに詳細に明らかになっています。
山本五十六大将は、アメリカのハーバード大学に学び、駐米大使館付武官の経験をもっていた。
 アメリカが艦艇建造力において日本の4.5倍、飛行機生産力で6倍、鋼鉄生産力で10倍の力量を持つことを知る山本五十六は、緒戦の連続攻撃によってアメリカをたたきつぶすしか活路を見出せないという悲愴な覚悟を秘めていた。
 山本五十六の真意はミッドウェー島の攻略ではなく、さらに一歩進めたハワイ攻略作戦にあった。軍政家でもあった山本五十六大将は、ハワイ攻略によって戦術的な勝利だけでなく、早期講和の有力な条件として戦略的優位に立とうと企図していた。つまり、短期決戦、積極作戦のみが対米戦争を有利に導くという信念にもとづいている。
 山本五十六の絶大な信頼を背景として、ミッドウェー作戦計画は黒島亀人・首席参謀が強引に決定させた。計画立案から成立までわずか3週間あまりという荒っぽさだった。
 アメリカの巨大な生産力が動き出す前にアメリカ艦隊を再起できないまでに叩いておく。海軍軍令部総長の永野修身大将はしばしば次のように口にした。
 とにかく2年間は戦える。だが、3年目はもたない。
 長期戦になったら日本は敗れると言う認識で海軍軍令部の作戦当事者たちの認識は一致していた。しかし、実際には、アメリカ軍の積極的反攻は開戦して8ヵ月目のことだった。
 いつの時代でも、積極的好戦派は穏健派を追いやって舞台の主役に躍り出る。真珠湾攻撃いらい、海軍軍令部と連合艦隊司令部の位置が逆転した。宇垣参謀長以下の11人の連合艦隊司令部参謀が、軍令部第一課の職務を代行する強大な権限を有する組織に肥大化した。
 山本五十六は、ミッドウェー作戦の実施にあたって、傍観者の立場をとった。作戦実施中、なぜか山本は積極的な戦闘指導をおこなっていない。
金鵄(きんし)勲章は軍人にとって最高の名誉であり、神武天皇の東征神話にちなんで勲章に金鵄と古代兵器が形とられているのが特徴だ。当初は終身年金制だったが、昭和16年5月から一年下賜金となった。
アメリカ軍のニミッツは27人の海軍将官をとびこえ、海軍少将からいきなり大将に進級し、南西太平洋方面のマッカーサー軍をのぞく太平洋全域を支配する指揮官となった。ニミッツ大将は、司令部職員のなかでも、とくに情報参謀を重用した。
 これに対して山本大将には、耳となるような専門の情報参謀がいなかった。
日本海軍の「D暗号」がアメリカ軍によって解読されたのは、次の二つがきっかけだった。
 その一は、真珠湾攻撃のとき、墜落した日本軍の艦攻の電信席から半焼けの海軍呼出し符号表が発見された。
 その二は、昭和17年1月、オーストラリア沖に伊号124潜水艦が沈没し、艦内から暗号書と乱表数が発見、回収された。
 そして、日本軍はこれらの暗号表の回収可能性を軽く考えて、何の心配もしなかった。
 南雲忠一は、山本五十六よりは3歳下の55歳。熱狂的で、一歩もゆずらない東北人の頑固さが身上。闇雲に突進する一途さが買われていた。山本五十六は、この南雲を信頼していなかった。南雲機動部隊を率いた中心人物は、38歳の航空甲参謀源田実中佐だった。
 戦後は、自民党の参議院議員にまでなった、あの源田実です・・・。
ミッドウェー作戦にあたって、レーダーが装備されていたのは2隻のみで、第一線の機動部隊には搭載されていなかった。
 日本側は、隠密裡の攻撃に成功し、ミッドウェー島への攻略の意図が明確になるまで、アメリカ艦隊はハワイから出動して来ないと信じ込んでいた。
 恐るべく情報オンチです。そのうえ、日本側は、アメリカ軍を次のようにみくびっていました。
アメリカ軍の搭乗員の技倆は一般に低劣で、その戦力は日本海軍の6分の1、とくに雷撃はほとんどできないと判断される。日本機1機でアメリカ軍6機と対抗しうると考えていた。
 いま、ミッドウェー海戦を振り返ってみるのも意義がないわけではありません。
(2012年6月刊。1600円+税)
 休日の新宿を少し歩いてみました。まるで祭日の人出だと思っていると、本当に祭りもあっていました。もちろん、祭りのせいで人出が増えたとは思えません。
 平和な日本を象徴するように、穏やかな表情の老若男女が行きかっています。この日は、滅多に見ることのないテレビを朝からホテルで見ていました。中国の若者たちが日本企業のデパートや商店を襲撃し、火をつけて、商品を略奪している様子が画像で紹介されていました。気が滅入って、新宿にやってきたのでした。
 石原都知事のいつもの無責任な放言に端を発して、外交交渉を十分にしない打ちに国有化するなどという日本政府の愚策のつけを日本企業はいま払わされています。
 いつの世にも、古今東西、排外主義をあおる風潮がひとしきり盛んになり、あおられた若者が暴走します。
 冷静な評論を取り戻したいものです。お互いの言い分を主張しつつも平和的に共存していく道を探るしかないのですから・・・。

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2012年9月12日

戦後史の正体

著者   孫崎 享 、 出版   創元社  

 戦後日本を、アメリカとの関係で、自主を志向するか、追随を志向するかで区分してみた面白い本です。それにしても、かの岸信介が、ここでは自主志向に分類されているのには正直いって驚きました。
 1960年の日米安保条約改定反対闘争にも新たな解釈がなされています。
 アンポ反対、キシを倒せ。これが当時のデモの叫びでした。そのキシがアメリカべったりというより、アメリカから自立を図ろうとしていたなんて、本当でしょうか・・・。
 多くの政治家が「対米追随」と「自主」のあいだで苦悩し、ときに「自主」を選択した。そして、「自主」を選択した政治家や官僚は排斥された。重光葵(まもる)、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄、細川護熙、鳩山由紀夫。そして、竹下登と福田康夫も、このグループに入る。
うひゃひゃ、こんな人たちが「自主」だったなんて・・・。
日本のなかで、もっともアメリカの圧力に弱い立場にいるのが首相なのだ。アメリカから嫌われているというだけで、外交官僚は重要ポストからはずされてしまう。
アメリカの意を体して政治家と官僚をもっとも多くの排斥したのが吉田茂である。吉田首相の役割は、アメリカからの要求にすべて従うことにあった。吉田茂は、GHQのウィロビー部長のもとに裏庭からこっそり通って、組閣を相談し、次期首相の人選までした。吉田茂が占領軍と対等に渡り合ったというイメージは、単なる神話にすぎず、真実ではない。
 「対米追随」路線のシンボルが吉田茂であり、吉田茂は「自主」路線のシンボルである重光葵を当然のように追放した。吉田茂は、自分の意向にそわない人物を徹底的にパージ(追放)していった。外務省は、「Y項パージ」(吉田茂による追放)と呼んだ。
 吉田茂は、大変な役者だった。日本国民に対しては、非常に偉そうな態度をとったし、アメリカに対しては互角にやりあっているかのようなポーズをとった。実際はどうだったのか?
日本がアメリカの保護国であるという状況は、占領時代につくられ、現在まで続いている。それは実にみごとな間接政治が行われている。間接政治においては、政策の決定権はアメリカが持っている。
 日本は敗戦後、大変な経済困難な状況だった。そのなかで6年間で5000億円、国家予算の2~3割をアメリカ軍の経費に充てていた。
 吉田茂はアメリカの言うとおりにし、アメリカに減額を求めた石橋湛山は追放されてしまった。アメリカは石橋湛山がアメリカ占領軍に対して日本の立場を堂々と主張する、自主線路のシンボルになりそうな危険性を察知して、石橋を追放することにした。
東京地検特捜部の前身は隠匿退蔵物資事件捜査部。つまり、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差し出すことだった。
アメリカが独裁者を切るときには、よく人権問題に関するNGOなどの活動を活発化させ、これに財政支援を与えて民衆をデモに向かわせ、政権を転覆させるという手段を使う。2011年のアラブの春、エジプトとチュニジアの独裁者を倒したときも、同じパターンだった。韓国の朴大統領暗殺事件も、その流れでとらえることができる。
岸信介は、1960年に新安保条約の締結を強行した。そして、CIAからの多額の資金援助も受けている。ところが、岸は対米国自立路線を模索していた。岸は駐留アメリカ軍の最大限の撤退をアメリカに求めた。
 1960年代のはじめまでにCIAから日本の政党と政治家に提供された資金は毎年200万ドルから1000万ドル(2億円から10億円)だった。この巨額の資金の受けとり手の中心は岸信介だった。そして、岸首相は中国との貿易の拡大にもがんばった。
ところが、CIAは岸を首相からおろして、池田に帰ることにした。日本の財界人がその意を受けて、岸おろしに動いた。
 そうなんですか・・・。池田勇人の登場はアメリカの意向だったとは、私にとってまったく予想外の話でした。
どんな時代でも、日本が中国問題で、一歩でもアメリカの先に行くのは、アメリカ大統領が警戒するレベルの大問題になる。
 ニクソン大統領の訪中を事前に日本へ通告しなかったのは、佐藤首相への報復だった。少しでもアメリカの言いなりにならない日本の首相はアメリカから報復された。
 田中角栄がアメリカから切られたのは、日中国交正常化をアメリカに先立って実現したから。キッシンジャーは、日ごろ、常にバカにしていた日本人にしてやられたことにものすごく怒った。
小泉純一郎は、歴代のどの首相よりもアメリカ追随の姿勢を鮮明に打ち出した。
アメリカの対日政策は、あくまでもアメリカの利益のためのもの。そして、アメリカの対日政策は、アメリカの環境の変化によって大きく変わる。
 アメリカは自分の利益にもとづいて、日本にさまざまなことを要求してくる。そのとき、日本は、どんなに難しくても、日本の譲れない国益については、きちんと主張し、アメリカの理解を得る必要がある。
 この本では、TPPもアメリカのためのものであって、日本のためにはならないことが明言されています。私も同じ考えです。
 戦後の日本史をもう一度とらえ直してみる必要があると痛感しました。あなたに一読を強くおすすめします。
(2012年9月刊。1500円+税)

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2012年8月21日

未完のファシズム

著者   片山 杜秀 、 出版    新潮選書 

 第一次世界大戦そして戦前の日本について鋭い分析がなされていて驚嘆してしまいました。まだ40歳代の思想史を専門とする学者の本です。さすがは学者ですね。着眼点が違います。
 第一次世界大戦で、日本は中国の青島(チンタオ)にあるドイツ軍の要塞を攻略します。そのあとのドイツ軍捕虜が日本各地に収容所で暮らし、伸びのびと生活していたことは有名です。
 1914年、第一次世界大戦が勃発した。日本軍は9月より中国・青島のドイツ軍要塞の攻撃をはじめる。総攻撃開始は10月31日。ドイツ軍が白旗をあげたのは11月7日。1週間で陥落したことになる。
 日露戦争の旅順戦の経験から、歩兵を突撃させても堅固な要塞の前では屍の山を築くだけ。やはり、移動の容易な大口径砲、遠戦砲、破撃砲で、遠くから撃ちまくることにこしたことはない。45式24センチ榴弾砲は1912年に新採用されたばかりの大砲。28センチ砲は、24センチ砲より大口径だが、移動させるのに苦労するという難があった。
 青島は、日露戦争後の日本陸軍近代化のほどを試すための恰好の実験場となった。歩兵突撃の時代は既に終わった。
実は、この青島攻撃戦には久留米から師団が派遣されて大活躍したのでした。私の母の縁者が英雄として、登場してくるので少し調べたことがあります。私の母の異母姉の夫は中村次喜蔵という軍人でした。青島要塞攻略戦で名をあげ、なんと皇居で天皇に対して御前講義までしたのです。のちに師団長(中将)にまでなりましたが、終戦直後に自決(ピストル自殺)しています。偕行社(戦前からある由緒正しい将校の親睦団体です)に問い合わせると、その状況報告書が残っているとのことでコピーを送ってもらいました。そして、その報告書には地図までついていました。
 この中村次喜蔵は、陸軍大将・秋山好古の副官にもなっています。その足どりを調べているうちに、『坂の上の雲』が急に身近なものに感じられました。
青島戦は、何よりも火力戦だった。榴弾砲よりも一般に砲身が細くて長い、射程も伸びる大砲をカノン砲と呼ぶ。山砲とは、バラして人や馬で運べる大砲のこと。山にも担いでいって、頂上からでも撃てる。だから山砲だ。
 ドイツ軍の青島総督は、敗戦後、日本軍の長所は、大砲の射撃と斥候の明敏と塹壕つくりの巧妙なるにありと語った。
日露戦争のときの日本軍は、当時の工業生産力や資金力では、ロシアの大軍そして旅順の要塞を相手に撃ちまくれなかった。だから、人命軽視といわれても仕方のない、やみくもな突撃に頼った。ところが、1914年の青島では鉄の弾が足りた。
この青島戦役で、日本は新しい戦争をした。近代戦は物量戦でしかあり得ないことを大々的に世界に証明してみせた。世界大戦は物量戦で、総力戦で、長期戦で、科学戦なのだ。
 ところが、日本軍は、その後、兵隊や兵器や弾薬が足りなくてあたりまえ、それでも戦うのが日本陸軍の基本だと完全に開き直ってしまった。
 玉砕できる軍隊をつくること自体が作戦だった。玉砕する軍隊こそが「もたざる国」の必勝兵器だった。玉砕できる軍隊を使って、実際に玉砕を繰り返してみせれば、勝ちにつながる。つまり、玉砕は、作戦指導部の無策の結果、兵を見殺しにすることではなく、勝利のための積極的な方策なのだ。
うへーっ、とんでもないことを真面目な顔をして言うのですよね。おお、クワバラ、クワバラという感じです。助けてくださいよ。これでは誰のために戦争するか分からないですね。兵隊を見殺しにして、権力者だけはぬくぬくと助かるということなのでしょうが・・・。
(2012年3月刊。2800円+税)

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