弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年2月 5日

三川坑を語り伝える~炭塵爆発編~

社会


(霧山昴)
著者  ・  出版  三川坑に慰霊碑を建てる会

 死者458人、一酸化炭素(CO)中毒患者839人という大災害となった三池炭鉱三川坑の炭塵爆発が起きたのは1963年(昭和38年)11月9日午後3時12分でした。私は大牟田市内の延命中学校3年生で、ドーンという大きな音を聞き、やがて遠くに黒い煙が雨雲のように黒雲となって立ち上がるのを校舎の3階から眺めました。すぐには何が起きたかは分かりませんでしたが大変なことが起きたようだという予感はしました。
この本によると、三池労組と新労組とが別々に慰霊碑を建てていたのを、今度、一つにした立派な慰霊碑を建立したそうです。とても良いことです...。
 この本には事故で亡くなった父親の顔を見た子供の感想が紹介されています。
「棺の中を見ると、親父は優しく美しい顔をしていた」
 「父の身体は傷もなく、赤くなった顔が酒に酔っているようで、触れた冷たさで『死んでいる』と実感した」
 「白いはこにお父さんがねむっているようにして、はいっておられました。歯を4本ぐらいだして、わらっているような顔をしておられました」
 「いつも優しい元気な父が、ただ、ねむったようにしていた」
 この大事故について、三井鉱山が出した声明は次のように書かれていた。「炭塵大爆発というのは、全山爆発になりやすい。それが458人の死者にとどまったのは、むしろ三池炭鉱の保安が良かったことの証明である。したがって、石炭合理化政策の姿勢をなんら変えることはない」(西日本新聞 1963年11月13日)
これはひどい。ひどすぎます。資本の論理というのは、これほどまでに冷酷なのですね...。呆れるというより、心底から怒りを覚えました。
そして、合同葬儀のとき、栗木幹(くりき・かん)社長は次のように言った。「会社にぺんぺん草がはえようとも、(遺族の)皆さんのことは一生面倒をみる」
実際には、まともな補償もなく遺族・患者は冷たく放り出されて今日に至っています。三池炭鉱の坑内労働というのは、すべてを機械にまかせるわけにはいきません。三川坑の場合は採炭現場は地下500メートルほど地下にあります。真っ暗闇の世界です。亡くなった458人の全氏名と当時の年齢が紹介されていますが、20代が1割、44人もいます。残念無念だったことと思います。
 三池大争議が終わって、会社が保安を軽視したことがこの大災害につながったものとされていますが、まさしくそのとおりでしょう。57年前の出来事ではありますが、決して忘れてはいけないものだと思います。
 118頁の小冊子ですが、ずしりという重たさを感じました。
(2020年11月刊。500円+税)

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