弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年9月30日

俺の後ろに立つな

社会

 著者 さいとう・たかお、 新潮社 出版 
 
 大学生のころ、私も『ゴルゴ13』を愛読していました。といっても、買っていたのではなく、寮内のまわし読みの恩恵にあずかっていたのです。白戸三平の「カムイ外伝」も夢中で読んでいました。最近は、とんとご無沙汰しているのですが、1968年に連載が始まってから、今日まで1回も休みなしで続いているというのです。
これはすごいですね。寅さん映画を上まわります。なぜ、そんなことが可能なのか? その秘訣は、分業を取り入れた「さいとう・プロダクション」にあります。この本は、その実情を語ってくれます。その発想、そして企画を40年にわたって実行し続ける力は偉大です。
著者は19歳のとき(昭和30年)、大阪でデビューした。ときあたかも、貸し本ブームの時代。そして、昭和32年に東京に進出。手塚治虫たちがトキワ荘に集まって活動していたころのこと。そして、分業化に早くも挑戦した。その一連の作業の流れは次のとおり。
まず、脚本担当は時代の潮流からテーマをすくい上げ、それに沿った資料をかき集め、そこから物語を紡ぎ出していく、それを俎上に脚本担当と構成担当が徹底的に検証し、脚本を完成させる。構成担当は、その脚本をどういうようなコマ割で展開し、演出するかを搾り出す。それが出来上がると、いよいよ絵を描くのだが、作画担当も、それぞれに人物担当、背景担当と役割が決まっている。スタッフそれぞれが得意なパートを分担するわけだから、それぞれの才能を十分に生かした力強い作品が望めることになる。すべてが共同作業となるため、それなりのチームワークは欠かせないが、完成時には一人作業ではとうてい味わえない達成感がある。マンネリ化を引き起こさないよう、脚本は外注化する。
すごい発想ですよね。マンガを分業化し、チームで描くというのは・・・・。よほど中心にすわる人の力が大切なのではないでしょうか。
 映画と劇画の違い。劇画のコマ割りは二重構造、つまり作品に二重の効果をもたらすという独自の特徴がある。劇画の場合、一つずつのコマ割りの前に、見開きごとの展開を考えなければならない。最後のコマに工夫を要する。次の見開きページに興味をもたせるために、つなぎのシーンで終わらせるといった仕掛けが必要なのである。
 「007シリーズ」の映画を劇画化するとき、著者はそれを読んだことがなかった。原作に引きずられないためである。小説のボンド像が見えてしまうと、劇画として小さくまとまってしまう。そのことを恐れた。なーるほど、そうなんですか・・・・。
 登場人物作りは大切。いくら面白い脚本ができてもキャラクターづくりに失敗すると、面白くなくなる。そして、主人公の名前が決め手。名前は、その性格に大きく影響する。「ゴルゴ13」のゴルゴとは、キリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘。「13」は、キリスト最後の晩餐で13番目の席にいたユダヤにまつわる数字だ。そこからイメージをふくらませ、あのキャラクターは出来上がった。私も「小説」を書いていますが、ネーミングには苦労しています。名は体をあらわします。イメージは大切ですからね。
 「ゴルゴ13」とは、できるだけ距離を置いて描くように気をつけた。そして、距離を置いていって、どんどん台詞を減らしていった。
 なまじ知識のあるものを道具立てにした劇画は描かない。知識がある分、常識から逸脱した発想が浮かんでこなくなるから。ふむふむ、これって、とても逆説的なことですよね。でも、なんとなく分かりますね・・・・。
これだけ描いてきてもネタに困ったという覚えは一度たりともない。そもそも物語と言うのは、シェイクスピアが書き尽くしてしまっている。それだけに余計なことには手をださない。我々はパターン化されつくした物語にどう味付けし、枝葉をつけるのか、それだけ考えて作業を進めたら事足りる。つまりは、アレンジだ。
それは、音楽も一緒で、旋律のパターンに限りがあって、どれも似たり寄ったりなのだが、リズムをちょっと変えるだけで、不思議なほど、別物に聞こえる。物語も、このアレンジには際限なく、これからもたくさんの作品が誕生するはずだ。
「ゴルゴ13」は身近な出来事の延長線にあるのだが、舞台を国際化すると、スケール感が加わり、スリリングな物語に変身、読者は手に汗して、その成り行きに固唾を呑む。脚本担当と著者の仕事は、そのいかにも現実にありそうな話をアレンジすること、奇想天外なストーリーでありながら、現実にあっても不思議ではない話であることが作品にリアリティーを与える。
シェークスピアが出てくるところは、恐れいりましたという感じです。大変示唆に富む本でした。さすがは読ませる(見せる)プロです。

(2010年6月刊。1300円+税)

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2010年9月29日

日本の教育格差

社会

 著者 橘木 俊詔、 岩波新書 出版 
 
 日本では高卒と大卒との間で、賃金格差が目立っている。しかし、日本は、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスそして韓国と比較すると、学歴間の賃金格差がもっとも小さい。日本が1.60であるのに対して、アメリカは2.78、イギリス2.60、韓国2.33、フランス1.92、ドイツ1.85なのである。このように、国際比較では、日本は学歴による格差が小さく、むしろ平等度の高い国家といえる。
 へへーん、そうなんですか・・・・。ちょっと信じられませんでしたね。
上場企業の役員のうち、名門大学出身は50%弱であり、非名門大学出身者が過半数いる。上場企業の役員になる道は、非名門大学出身者にも、それなりに開かれている。たしかに、企業では、実力本位のはずです・・・・。
 短大・大学進学率は、1960年から1975年までの15年間に、10%から40%まで急激に上昇した。そして、1975年ころに上昇率が止まる。ところが、1995年あたりから再び大学進学率は上昇し、現在は50%を少しこえた水準で落ち着いている。これは主として女子の短大・大学進学率の上昇が要因である。
 18歳人口の半数以上が短大・大学に進学している国は、アメリカと日本くらいで、世界中にそんなに多くない。
国立大学の授業料は年に56万円。私立大学では、文系で70万円、医・歯で300万円ほど。そのため、親の経済状況が子どもの大学進学の決定に大きな影響を与えており、国公立と私立のどちらかに進学するかにも影響を及ぼしている。私のときは、年に1万
2000円の学費でした。寮費も同じです。
 公立学校で子どもが学ぶことは悪いことではないというのが著者の考えです。人間社会の縮図を子どものころから体験することは、子どもの人間形成にとって貴重な体験となるからである。私自身は市立の小・中学校そして県立高校、国立大学というコースをたどっています。中学校は団塊世代でしたから、1学年13クラス、1クラス50人。傷害事件を起こして少年院へ送られた同級生が何人もいました。ツッパリグループは隣の中学校の生徒とのケンカが絶えませんでしたが、生徒数が多いこともあって、私自身は、いつものほほんと学校で生活していました。いじめもあっていたのでしょうが、一クラスに50人以上もいると、あまり気にせずに生きていけたのです。同質の生徒ばかりが集まるのは、勉強と成績維持のためにはいいかもしれませんが、人間の幅を狭くするのではないかという心配もあると思います。いかがでしょうか・・・・。
 日本は公教育費支出がOECD諸国のなかで最低。それは、日本では教育は私的財とみなす考え方が支配的だから。つまり、教育の利益を受けるのは教育を受ける個人だという考え方が根強い。大学などの高等教育段階において、日本の公的教育支出は
4689ドル。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスでは9000ドルをこえているのに、日本は、その半分程度でしかない。
 家計への直撃度は、日本の大学は5ヶ国中で一番高い。日本は突出して家庭に教育費負担を強いている国である。ヨーロッパでは多くの国で授業料は無償であり、大学に国が多額の支出をしている。日本は大学の授業料が高いうえに、奨学金制度もきわめて貧弱である。日本の奨学金は7000億円。アメリカでは、なんと13兆円である。しかも日本の奨学金制度は無利子から有利子となり、総額も減少するなど、財政難から後退し続けている。私も月3000円の奨学金をもらっていて、弁護士になって数年して返済を終えました。
 思い切って少人数学級にして、学力の高い子も低い子も、今以上に指導の行き届いた教育を受けさせる。そのことが、それぞれの学力を高めることになる。
 そうなんです。コンクリートより人なんですよね。人間への投資を高めてこそ、日本という資源の乏しい国が浮揚することのできる唯一の道だと私も確信します。大変示唆に富んだ、いい本でした。
 司法修習生に給与が支払われていた制度が廃止され、貸与制になろうとしています。日弁連は給与制の廃止を止めさせようと頑張っています。人間を大切にするためには、まずはお金が必要です。ゼネコンのためにしかならないような空港や新幹線、ムダの典型である戦車やヘリ空母などをつくるのを止めたら、すぐに実現できることなんです。ぜひぜひ、流れを人間本位に変えましょうよ・・・・。
(2010年7月刊。800円+税)
 ネコヤナギの木が根元から腐れ、倒れ掛かって残念ですが掘り起こして片付けました。幹を切ると、空洞になっていて、たくさんのアリが棲みついていました。ノコギリを手にしていると、怒ったアリが腕に噛みついてきて、痛い思いをしてしまいました。棲みかを襲われてアリが怒るのも無理はないのですが、こればかりは仕方ありません。数日後、アリ軍団はどこかへ姿を消してしまいました。
 いま、庭にはピンクの芙蓉の花、そして淡いクリーム色のリコリスの花が咲いています。芙蓉のほうは、酔芙蓉も咲き始めました。朝のうち真白で、午後から酔ったように赤くなっていく花です。
 リコリスはヒガンバナ科です、今年は猛暑が続いて万寿社下の赤い花は咲き遅れているようです。稲刈りも間近となりました。

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2010年9月28日

国際弁護士

司法

 著者 桝田 淳二、日本経済新聞出版社 出版 
 
 今から20年近く前(1992年)、48歳の日本人弁護士がアメリカに渡り、ニューヨークで事務所を構え、渉外弁護士としてスタートした。その苦難の道が描かれています。なかなかに読ませる内容の本です。
 いま(2010年7月)、日本にいる外国の弁護士(外国法事務弁護士)は347人である。これって意外に少ないですよね。
 著者は、1970年にコロンビア、ロースクールに留学し、2年数ヶ月間ニューヨークに残り、アメリカの法律事務所で研修した。
アメリカでは、弁護士依頼者特権が認められていて、弁護士と依頼者とのあいだの法的な相談に関するコミュニケーションは証拠開示の対象にならない。ところが、弁護士であっても専門家証人として接するときには、この特権は適用されないので、注意を要する。つまり、弁護士から意見書を法廷に出してもらったときには、弁護士依頼者特権は放棄したものとみなされる。そこで、自分たちが相談し、訴訟で代理人になってもらう弁護士には意見書を書いてもらってはいけない。
 ディスカバリーは、いかに大変か。また、イーディスカバリーについては専門業者を雇う必要がある。弁護士依頼者特権を生かすためには、何かあったときには、まず何をおいても弁護士との相談を始めることが必要である。弁護士に相談をするまでに検討された事項は、ディスカバリーによって、すべて相手方の弁護士にもっていかれて、検討される。
デポジションはビデオに撮られる。
アジア系少数民族が多くいるニューヨーク、カリフォルニアその他においては日本人をふくむアジア系少数民族へのアフリカ系アメリカ人の偏見は非常に強い。そこで、日系企業が陪審裁判にかけられたら、不利な判断がなされることを覚悟しておく必要がある。したがって、陪審裁判になる可能性があるときには、早期に和解で決着することがきわめて望ましい。結果として、クライアントにとって、何がビジネス的にベストの解決であるかを常に考えるべきなのである。
アメリカの裁判所の法廷における口頭弁論は、むしろ裁判官の質問に答えるためのもの。口頭弁論の時間は厳しく管理されていて、時間になると、自動的に赤いランプが点灯する。裁判官から厳しい質問が次々に出されるので、どんな質問にも即答できるように準備しなければならず、徹夜するなど、大変なことが多い。
 絶えずクラスアクションの種を探している弁護士と法律事務所がいる。プレインティプローヤーという。被害者側の原告の立場に立って大企業を訴える弁護士がアメリカでは非常に活発に活動している。アメリカには訴訟印紙の制度はないので、簡単に巨額を請求する訴訟を提起できる。プレインティプローヤーの法律事務所も非常に大型化し、何百人もの弁護士がいる法律事務所がある。非常に複雑で大型のクラスアクションを提起して、莫大な弁護士報酬を得ている。豊富な経験と高度の専門知識を有している。そのなかの老舗の弁護士たち4人が、違法なキックバックをもらって有罪となり実刑を課されたことも起きた。
 州の裁判所の裁判官は選挙で選ばれるため、一般に州民に有利な判断をする傾向がある。そのため、日本企業がアメリカの州裁判所でえられたときには、なるべく連邦裁判所で審理してもらえるよう移送申立する。
 アメリカは原告天国で、日本は被告天国である。日本では損害賠償を求めても、損害額の認定が困難で時間がかかり、認定額もアメリカに比べて30~40分の1程度でしかない。アメリカは訴訟期間が短いだけでなく、判決も日本より弾力的である。
良い弁護士は、依頼者の話をよく聞き、依頼者が本当に望むことを十分に理解し、それを実行してくれる弁護士。忙しくない弁護士は通常優秀でないから、仕事が多くなく、忙しくない。忙しい弁護士は優秀であるから、いつも忙しい。だから、むしろ忙しい弁護士を選任するべきなのである。そして、1時間あたりのレートの高い弁護士をつかうほうがずっと良い結果を生む。この点は、私もまったく同感です。私が不祥事を起こしたら、知りあいの忙しい弁護士に依頼します。それなりのペイを支払って・・・・。
すべてをアメリカ的に考え、アメリカ流にすすめていく弁護士は、日本企業には決してふさわしくない。なーるほど、ですね。
 著者はアメリカで月300時間も働いていたそうです。土・日もなく、早朝から夜中の2時、3時まで働いていたというのです。これでは健康を害してしまいますよね。こればかりはマネしたくありません。
著者は、日本の若手弁護士よ、もっと国際的にも活躍せよ、とゲキを飛ばしています。なるほど、そうなんでしょうね。大変勉強になりました。
 
(2010年8月刊。2400円+税)
 秋の名月をベランダに出て、じっくり天体望遠鏡で観察しました。大変な猛暑がいつまでも続いていましたが、このところ一気に涼しくなりました。ベランダに出て夜空にぽっかり浮かぶ月を眺めていると、本当に心が安らかな気分になります。どうしてこんなに丸いのかしらん。空中にこんな重たい物体が浮かんで落ちてこないのはなぜかな。月世界の縞模様は、どうやってこんなに見事なのかな。世の中に不思議なことはたくさんありますが、宇宙の神秘にはつくせないものを感じますよね。
 金星の衛星が横一列に並んで3個見えました。天文台の大型望遠鏡で夜空を眺めてみたくなります。

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2010年9月27日

サラの鍵

世界(フランス)

 著者 タチアナ・ドロネ、 新潮クレスト・ブックス 出版 
 
 久しぶりに、読んでいる途中から涙が止まらなくなりました。沖縄からの飛行機のなかで読んでいましたが、隣の男性を気にせずハンカチで涙をしきりに拭いてしまいました。
 大変なストーリー・テラーだと驚嘆しました。あなたにも強く一読をおすすめします。
 第二次世界大戦が始まって4年目、1942年7月16日の早朝、パリ市内外のユダヤ人1万3152人が一斉に検挙され、パリ市内にあったヴェロドーム、ディヴェール(冬の自転車競技施設。屋内競技場)に連行され、押し込められた。そこには4115人の子どもたちも含まれていた。トイレも使えず、満足な食事も与えられないまま、6日間、この競技場に留め置かれたあと、彼らのほぼ全員がアウシュヴィッツに送られ、殺された。戦後、生還できたものは400人足らずでしかなかった。大人と違って、子どもたちは選別されることもなく、死に直行させられたのでした。
 誰が、この一斉検挙を企画し、実行したか。当時、パリはナチス・ドイツ軍に占領されていた。フランスのヴィシー政権は、ユダヤ人身分法を成立させるなど、ユダヤ人を迫害していた。この一斉検挙も、フランス警察が立案し、実行したのだった。
1995年7月16日、シラク大統領(当時)は、この事件について国家として正式に謝罪した。53年前に450人のフランス警官がユダヤ人の一斉検挙を行い、彼らを無残な死に追いやったことをはっきり認め、それを謝罪した。
 シラク大統領の演説を聞いて、この事件をはじめて知ったというフランス人も少なくなかった。1961年生まれの著者(当時34歳)もその一人だった。学校では教えられなかったこの事件を聞いてショックを受けた彼女は、もっと事件のことを知りたいと思い、調べはじめた。子どもたちのたどった悲惨な運命を決して埋もれさせてはいけないという使命感が膨らんでいった。そして、単なる歴史書ではなく、その悲劇を現代に生きる我々の胸によみがえらせ、我々のドラマとして共有しようと思った。その思いが見事に結実した小説です。
 この日、警官に連行される直前、10歳の少女サラは弟のミシェルを姉弟だけの秘密の納戸に隠し、鍵をかけた。「あとで戻ってきて、出してあげる。絶対に」と言って。しかし、サラは訳も分からないうちに強制収容所に入れられ、両親とも離れ離れにさせられた。パリの自宅に戻るどころではない。しかし、奇跡的にも脱走に成功し、ついにパリの自宅に戻ることが出来た。そして例の網戸を開けたときにサラが見たものは・・・・。 
 ユダヤ人一家を追い出したあと、「何も知らない」フランス人の家族がそこに移り住んでいます。そして、元の所有者であるユダヤ人の娘が登場したときに・・・・。
 過去の忌まわしい出来事を今さらほじくり返して何になるのか、そんなことは忘れ去ったほうがいいだけだ・・・・。
 フランス人の夫をもつアメリカ人ジャーナリストである主人公が事件を調べはじめると、そんな非難がごうごうと夫の家族から湧きあがってきます。それでも調査をすすめていと・・・・。いくつもの意外な展開があり、予断を許しません。次の展開を知りたくて、頁をめくる手がもどかしくなります。
 自分の親が若いときに何をしていたのか。これって、自分とはどういう存在なのか、それを考えるうえで欠かせないものではないでしょうか。10代のころの私は、恥ずかしながら、まったく親を凡愚の典型としか見ていませんでした。今思うと、顔から冷や汗が噴き出しそうです。30代になって、少しは親を見直しました。40代になったとき、親の生きざまをインタビューしはじめ(録音もしました)、その裏付け調査をして、生い立ちとして文章化していくなかで、日本の現代史が私にとって身近なものになりました。親を人生の先輩として評価することもできました。
 父の場合は、朝鮮半島から徴用労働者を日本へ連行するという、日韓・日朝関係では避けて通れない蛮行に、三井の「労務」担当として従事していたのでした。
 母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は第一次大戦中に青島(中国)にあったドイツの要塞攻撃に参加して手柄をあげ、かの有名な秋山好古(日露戦争のとき、騎兵を率いてロシア軍を撃破)の副官にもなり、終戦時には第112師団の師団長(中将)として満州で愛用の拳銃をもって自決したことまで分かりました。偕行社に調査を依頼して判明したのです。
 日本人は戦争被害者であると同時に加害者でもある。このことを親のことを調べていくうちに実感させられました。いずれも簡単な小冊子にまとめたところ、これを読んだ甥が感動したと言ってきました。
 父の弟は応召して中国大陸に渡り、終戦後は、八路軍に技術者として何年間か協力させられました。国共内戦のなか、満州を八路軍とともに転戦したのです。このことを調べるなかで、百団大戦とか国共内戦の実情などが身近なものになりました。
 日本は、歴史的事実に対して今なお率直に認めず、中国や朝鮮、韓国に対してきちんと謝罪していないと私は思います。むしろ、開き直ってさえいます。自虐史観とかいって事実直視を非難するのはあたりません。事実は事実として認め、過去の事実から現代に生きる我々は何を教訓として学び、今日に生かすべきか、もっと冷静な議論が必要に思います。
 あなたは、自分の親がその若いころ、何をしていたか、どんなことを考えていたか、ご存知ですか? それを知りたいと思いませんか。
ちなみに、私の亡父は大学生のころ法政大学騒動の渦中にいたようです。三木清がいたころのことです。私も東大「紛争」のとき、大学2年生でした(私は当事者の一人として、紛争とは呼びたくありません)。じっくり読んで、人生を考えてみるのに絶好な本です。
 
(2010年5月刊。2300円+税)

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2010年9月26日

偽金づくりと明治維新

日本史(江戸)

著者:徳永和喜、出版社:新人物往来社

 幕末の薩摩藩が倒幕の資金源として大々的に「ニセガネ」をつくっていたという説の真偽を追及した本です。どうやら本当のようですが、著者は通説の誤りもただしています。
 ニセガネづくりには家老の調所広郷(ずしょひろさと)は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通だった。
 薩摩藩は、幕府の許可を得て「琉球通宝」を鋳造した。そして、文字を変えた「天保通宝」を鋳造し、さらに二分金のニセガネを鋳造した。この二分金は純粋の金貨ではなく、金メッキした銀という意味で通称「天ぷら金」と呼ばれた。
 これを推進したのは島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬の死亡後に、安田轍蔵(てつぞう)が経済通の能力を生かして登用された。琉球通宝が幕府から許されたのは安田の小栗忠順などとの人脈を生かした尽力による。
 安田は、琉球通宝を鋳造し、その後に天保通宝を鋳造・流通させ、その資金をもって洋銀を購入し、さらには洋銀から国内流通の一分銀・一朱銀を鋳造するという壮大な構想をもっていた。これは、実体経済を知悉していた安田が開通場での洋銀精算に着目し、国内金銀貨幣と洋銀との交換比率から生じる差益を利用するという考えによるものであった。
 安田の考えによれば、1日に4000両をつくると、年の利益が64万両が確保できる。4年で256万両の利益を生む。これによって、領内海防のために沖瀬を築造し、大砲の備えも可能となる。
 ところが、この安田は途中で追放・島流しにあった。
 ニセガネ天保通宝の鋳造高は高められ、ついに一日に4000~5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、藩財政を補填した。
 イギリス艦隊に鹿児島湾を占拠され敗北したあと、ニセガネづくりはかえって盛大な事業展開となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された。
 安田が再登用され、薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用していった。
 琉球通宝は三井組で換金する仕組みであった。
 三井は幕末期に薩摩と組んでいたのですね・・・。さすが政商です。
 もちろん、明治新政府はこんな 地方のニセガネづくりを許すわけにはいきません。しかし、大久保利通は薩摩藩で自らニセガネつくりに関わっていたのですから、早く止めろと必死で薩摩藩を説得したようです。
 そんなことも知れる興味深い内容の本でした。
(2010年3月刊。2200円+税)

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2010年9月25日

西南の役・山鹿口の戦い

日本史(明治)

著者・発行 山鹿市地域振興公社  
 
西南の役における田原坂の戦いは有名ですが、田原坂は植木町にあります。実は、山鹿市でも激戦があったのです。この本は、山鹿市での戦いを紹介しています。
 明治10年2月、小倉第14連隊が南下を開始する。この隊長は乃木希典少佐。3個大隊全部で2034人。銃をエンピール銃からスナイダー銃へ切り換え、一度に南下するのではなく、順次、南下する。
 官軍は2月26日、熊本県の南関町に本営を設置した。博多にあった裁判所機能も南関に持ってきた。有栖川宮も南関へやって来る。
 山鹿市内は薩軍が支配していた。2月27日から3月20日までは平穏だった。
 その前、肥後藩の細川護久知事は減税を実施した。一般民衆は、明治維新になって生まれた、もっとも理想的で典型的な姿を熊本に見た。大減税をするし、その他いろんなことを刷新した。肥後藩は、明治3年から6年にかけてのたった3年間とはいえ、いい時期を送っていた。そして、明治10年、山鹿にコミューン自治政府が誕生した。普通選挙法で人民総代を選び、協同隊の隊長も、みんなで選んだ。民権派がコミューンをつくった。
なんと、なんと、山鹿は、日本最初の民権政治を実施したのです。
熊本の協同隊は薩軍とともに山鹿を支援すると、かねて抱懐する民権政治を実現せんとして、山鹿に民政を布いた。野満長太郎は選ばれて民政長官となった。長太郎は、薩軍とともに各地へ転戦したが、8月17日、降伏し投獄された。2年あまりのあと、放免され、それ以来、郷党の指導者として尊敬された。
熊本の協同隊は、ルソーの民約論に刺激されて集まった自由民権論者のグループだった。山鹿は日本最初の民主政治発祥の地と言える。
 うむむ、なんということでしょう。日本にもパリ・コミューンのようなものがあったとは・・・・。
 
(2002年2月刊。2000円+税)

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2010年9月24日

キンドルの衝撃

社会

著者:石川幸憲、出版社:毎日新聞社

 キンドルは今、アメリカで大ヒット商品になっている。2009年に200万台を売り切ったという。
 アマゾンは売り上げ実績を公表していないが、2010年には350万台と予想されている。キンドル関連の売上は14億ドル、アマゾンの総売上の4%になる。
 キンドルのモノクロ画面は紙と同じ反射型の表示なので、目に優しく、直射日光や暗い室内でも見やすい。一度表示されると電力を必要としない。LCD(液晶画面)に比べて電力消費が10分の1ですむ。キンドルは1週間の充電で2週間つかえる。
 キンドルは359ドルだったのを259ドルまで値下げした(2万6千円)。
 1000万人のアメリカ人が既にキンドルを持っているか、買おうと思っているという。
 アマゾンは、急成長したが、一時は6ドル以下にまで暴落したことがある。しかし、今では株価は134ドル、時価総額は581億ドルになる世界的企業となった。従業員も2万人をこえる。
 私は、本はやっぱり紙に印刷されたものを読みたい派です。この難点は、書庫が必要となることですが、それも楽しみでもあるのです。子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫につくり変えましたが、そこにジャンルごとに本を並べて、ときどき手にとってみるのは悦楽のひとときです。
 キンドル経由の新聞購読者の半分は、今まで新聞を購読したことのない人たちで、4分の1が紙の新聞をキャンセルしてキンドルに乗りかえ、残る4分の1は紙とキンドル版の両方を購読している。つまり、キンドルのおかげで新聞の購読者層は拡大しているのだ。
 したがって、紙がペーパーレスかという二者択一ではなく、紙もペーパーレスもともに共存する時代がしばらく続くと考えることが現実的である。
 私は断固として紙の新聞をよみたいと思っています。テレビを見ない私にとって、毎朝、郵便受けに入っている新聞を手にとって、その一面の大見出しによって、世間の動向を実感することができるのです。そんな私でも、いずれキンドルも利用することになるのでしょうか・・・。でも、そのとき年間500冊も読めるのか心配になります。
(2010年2月刊。1500円+税)

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2010年9月23日

誰かが行かねば、道はできない

社会

著者:木村大作・金澤 誠、出版社:キネマ旬報社

 私は映画大好き人間です。月に1本はみたいと思いますが、実際には3ヶ月に1本くらいなので、残念です。私の同期の大阪の弁護士(坂和章平弁護士)は、月に2本から3本は映画をみて、その感想文を何十冊もの本にまとめています。私は、そこまではしたくありません。別に映画評論家になろうという気はないのです。みたい映画だけをみて、素直に感動したいということなんです。
 この本は、『劔岳、点の記』という映画をみて感動したので、その監督についても少し知りたくなって読んだのでした。いやはや、芸術家というのは、大変な人種なんですね。弁護士にも変わりものは多いのですが、それに何倍も輪をかけています。
 木村さんの本職はキャメラマン。木村さんの考える撮影とは、決してファインダーをのぞいて映像をとることだけではない。木村さんは、よく、一番大事なのはセッティングなんだという。俳優がカメラの前に立って芝居をするとき、もっともいい状態を、その場にセッティングすることさえできれば、キャメラマンは本番で素直に撮ればいい。そのセッティングをするために、木村さんは、あらゆることを口に出す。ロケ地の選定、キャメラアングルと撮影の狙いに即した美術セットの建て込み、俳優が画的に映える衣裳の見たて、さらにはもっとも効率的な予算の使い方に至るまで、映画づくりのすべてに自分のエネルギーを投入する。
 黒澤明監督は、建物の影を地面に墨汁で描き出した。そうやって影を濃くすると、曇りのときでも晴れに見える。写ったものは、影が出ていれば晴れというイメージが見るほうにインプットされているから、晴れて見える。あとは、ライティングの工夫をすればよい。
 若いときには自分から何かをやっていかないと、のし上がれない。監督の言うままに、「はい、分かりました。アップですか」と撮っていたのでは、そのキャメラマン独自の価値観が見えてこない。
 現場は生きているんだから、言葉じゃ、どうしようもない。まずやってみせること。それと、曲げずに貫き通すこと。
 自然を撮るときには、あきらめたら負け。自分の勘を頼りに、忍耐力をもって、あとは神が我々の望む自然を恵んでくれることをひたすら待つしかない。
 黒澤明監督は、何かを表現しようと思ったら、その10倍描けばいい。そうすると、観客は、伝えたいことを認識してくれる。
 高倉健の革ジャンは70万円のもの。衣裳は本人が決める。背広の色はチャコールグレイ。ジャンパーはバラクーダ社のものと決まっている。
 すごい人がいるものですね。感嘆するばかりです。人間としての情熱を感じました。
(2009年6月刊。2400円+税)

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2010年9月22日

ロボット兵士の戦争

アメリカ

 著者 P.W.シンガー、 NHK 出版 
 
 クリックひとつで戦闘準備完了。戦場の3Dとは、危険(デンジャラス)、汚い(ダーティー)、単調(デュル)。3Dの環境を嫌がらず、効率よく任務を実行するのがロボットだ。人類はハイテクをつかって、リスクのない戦争をつくり出すことができるのか?
これはオビにある文句です。どうでしょうか、戦場をロボットで埋め尽くせるのでしょうか・・・・。
 無人偵察機プレデターは、2001年にはごくわずかだったが、2008年には5300機に達する。24時間もの滞空が可能なプレデターが発見・殺害したイラク武装勢力は、年間2400人にのぼる。このプレデターは、重さ510キロ、滞空時間24時間で、7900メートル上空を飛行できる。プレデターは一機450万ドル。ほかの軍用機に比べると割安。
イラクやアフガニスタンの上空を飛行する無人飛行機はアメリカ本土・ネバダ州にいるパイロットが操縦している。 うへーっ、ゲーム感覚で人殺しをしているんですね・・・・。
地上ロボットは、2003年のイラク侵攻作戦のときはゼロだったが、2008年末には1万
2000台がイラクで使われていた。戦争用ロボット事業は、年間60%も成長していて、
2008年には国防総省(ペンタゴン)との契約額が2億8600万ドルに達し、さらに3000台のマシンを供給することになった。2008年現在、イラクの地上で合計22種類のロボットシステムが活動している。
 イスラエルは、まもなくヒズボラを破ることはできないと気がついた。ヒズボラは国でもなく、イスラエルの国防予算の1%しか兵器等につかえる資金をもたない。しかし、ヒズボラは、攻撃前にイスラエル軍のコンピューターに侵入できたし、軍の無線システムにも侵入した。イスラエルのケータイ・ネットワークにまで入り込み、戦場にいるイスラエル軍の司令官や兵士が本土にかける電話を盗聴し、無線のコードネームなどの個人情報を手に入れた。
 ヒズボラは、戦力や規模という国家の強みを帳消しにする戦略を考え出し、独自のハイテクゲームで国家を負かすことさえできることを証明した。
 アルカイダは中央集権型の集団から世界中に「細胞」が広がる世界的な運動に進化している。テロリストは、新技術をさらに斬新かつ独創的につかって新兵を補充している。
 戦争ポルノは、戦闘の厳しい真実を隠しがちである。ほとんどの視聴者は、知人や同じアメリカ人がうつっている戦闘の映像を本能的に避ける。だが、名もない敵が死ぬ映像なら、平気で見る人が多い。
 戦争は、決して簡単にはいかない。戦争とは、そもそも複雑で厄介で予測がつかないものだ。たとえ無人システムが人間にとって代わることが増えても、この現状は変わらないだろう。無人システムによる誤認攻撃は、民間人の命を犠牲にするだけでなく、味方部隊に対しても起こりうる。
つまり、兵士を完全にロボットに代えることは出来ないのです。ロボット兵士の研究が進むほどに、誤爆の危険も増大すると思います。戦場のロボット化の実情を知ることができました。
(2010年7月刊。3400円+税)
 雑誌をめくっていたら、ネガをパソコンに取り込める器具が2万円で売られているのを見つけました。大量のネガアルバムをかかえて始末に困っていましたので、早速、通販に申し込みました。
 ネガを1枚1枚、手送りでSDカードに取り込んでいきますから、時間がかかります。それでも大学生時代、司法修習生時代そして結婚する前後のなつかしい写真が目の前にあらわれ、至福のひとときでもありました。
 今や、デジカメ時代になってしまいましたので、フィルムカメラ時代のネガは捨てるしかないかと、あきらめていました。こんなに便利な器具を発明したひとは偉いです。大いに感謝します。

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2010年9月21日

実見・江戸の暮らし

江戸時代

 著者 石川 英輔、 講談社 出版 
 
 江戸時代の日本は、どんな社会であったのか、幸いなことに、たくさんの絵が描かれているので、今の私たちにもかなりイメージをもつことができます。そうは言っても、もちろん、専門家による解説は不可欠です。
 江戸時代の女性は、結婚すると眉を剃り落とす地方が多かった。しかし、結婚しても、若いうちは眉を剃らない人がいたし、東北地方や長崎のように、眉を落とさない地方もあった。
未婚の娘にとって、振り袖の着物は、おしゃれ着であって日常のものではなかった。帯は、昔の人は、好きなように結んでいる。未婚、既婚を問わず、いろんな帯の結び方をしている。現代より、大きく、派手に結んでいる。
家で着物を着るのに裾を引くような着付けも珍しくはなかった。町人女性の風俗としても、裾を引くのは特別なものではなかった。当て布だけ、つけかえればいいようになっていた。
 江戸時代の家屋の室内には、家具がほとんどないという特徴がある。
 なーるほど、畳の上にソファーとか机とかはないのですね。もちろん、今のようにテレビもステレオもありませんしね。
 裏長屋は集合住宅である。現代のアパートと同じく、全体の入り口は一つしかなく、そこを閉め切れば出入りができなくなる。それが木戸だ。木戸の上の横板に、住民が表札をかねた看板を出していた。口入れ屋、祈祷師、山伏、医者、儒者、尺八の師匠、灸すえ所、易者、糊屋など、さまざまな職業がある。
江戸の庶民の食事が、飯と味噌汁とたくあんだけの素朴な内食で暮らしていたとは、とても思えない絵がたくさんある。
 江戸時代は、平和な時期が長く続いたおかげで料理も発達した。そのことは、さまざまな料理本が出ていたことでもわかる。
江戸の一般庶民は、あまり複雑な料理をしなかった。あるいは、出来なかった。なぜなら、住民の大多数の住む長屋の台所の設備が単純すぎたから。
 江戸では、外食も盛んだった。町内の半分は飲食店だった。屋台もたくさんあり、露店もあった。江戸でとにかく多かったのが、そば屋である。
 幕末期の江戸には、どんなに少なく見積もっても、番付に出るほどの料理茶屋が300店はあった。
八代将軍の徳川吉宗が日本の人口調査を行った享保11年(1726年)に、日本の人口は2650万人だった。ただし、正確には、3100万人とみられている。江戸時代の日本の総人口は3000万人から3200万人で安定していた。
 そして、江戸時代には、100万人から110万人が住んでいた。ところが、江戸府内の半分は農村だった。江戸の全部に裏長屋があったわけではないのですね・・・・。
 江戸にはたくさんの行商人がいた。まるで動くコンビニかスーパーマーケットのように、金魚、スズムシ、薬、メガネなど・・・・。今より、かえって便利だったかもしれない。
 江戸の庶民の日常生活がたくさんの絵とともに紹介されています。具体的なイメージをもって江戸の人々の生活を知ることの出来る楽しい本です。
 
(2009年12月刊。1400円+税)
 フランス語の授業を受けているときのことです。フランス人の講師から、なぜ日本人は社会問題でデモしたりしないのかという問題が出されました(もちろんフランス語で)。フランスでは、いま、サルコジ政府が年金受給年齢を60歳から引き上げようとしていることに対して、全国で何十万人という人の参加するデモ行進や集会が開かれています。ロマ(ジプシー)追放に対する反対の集会も起きています。
 日本では、そういえば集会やデモは見かけませんよね。日本人の生徒たちは顔を見合わせるばかりです。40年前に学生のころは、よくデモ行進もしていたのですが……。やっと私は、年越し派遣村のことを思い出しました。
 すると、講師が、沖縄ではやっているじゃないかと指摘しました。そうなんですよね、沖縄ではアメリカ軍基地反対で盛り上がっています。本土の私がダメなのですね。物言わぬ羊の群れになってしまたのでしょうか、私たち……。

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2010年9月20日

『偽史と奇書の日本史』

日本史

著者:佐伯 修、出版社:現代書館

 この本を読むと、日本人は古くから歴史を愛する一方で、歴史の偽造も好む民族なのではないかという気がしてきます。
歴史を愛するという点では、佐賀の吉野ケ里遺跡が発掘されるや、年間数十万人もの見物客が押し寄せますし、青森の三内丸山遺跡もすごい集客力を持っています。
そして、邪馬台国はやっぱり九州にあったという本を立て続けに2冊読んで、九州説を信奉する私は心躍る思いがしています。やっぱり、日本の文明は九州の地で発祥したのですよ・・・。
 偽書といえば、私にとっては、まず第一に戦国時代の裏話を描いたという『武功夜話』が衝撃的でした。なにしろ、昭和34年(1959年)に発見されたというものです。戦国時代の先祖の体験にもとづいて江戸時代に書かれたというものの、明治や昭和の知識にもとづいて書かれた記述があるという指摘があり、後世の偽作であることは間違いないようです。ところが、あまりにもよく出来ているため、これを事実としてたくさんの小説が書かれています。
 たとえば、津本陽『天下は夢か』、遠藤周作『男の一生』、秋山駿『織田信長』などです。私が最近読んだ本にも、この『武功夜話』を史実とする前提のものが何冊もあります。そのたびに、もっと勉強してよねと疑問を感じるのです。
 『武功夜話』を史実だとして紹介するのなら、少なくとも、これらの偽書説についての合理的な反論を示すべきではないでしょうか。
 もう一つは、『東日流外三郡誌』です。「つがるそとさんぐんし」と読みます。戦後も戦後、1975年(昭和50年)に、青森県五所川原市の和田氏宅の天井裏から古文書が発見されたという触れ込みでした。
古代の東北に、西の邪馬台国や大和朝廷とは別の王国があったという内容です。今やとんでもない偽書だったことは明らかですが、小説家の高橋克彦などが、これを事実として小説を書いたりして大反響を呼んだのでした。
 まことに日本人は古来より歴史を愛する民族なのだと思わせる、面白い本です。
(2007年4月刊。2300円+税)

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2010年9月19日

北帰行

司法(警察)

著者:佐々木譲、出版社:角川書店

 いつもの警察小説ではありませんでした。長編クライム・サスペンスと銘うった小説です。
 ロシアから送りこまれたヒットウーマンが大活躍します。といっても、次々にピストルで男たちを殺していくのを活躍と名づけるのは、少し気が引けます。
 暴力団がもちろん登場します。六本木を縄張りにしています。このところ、我が福岡でも拳銃発射事件が相次ぎ、しかも犯人もピストルも検挙・押収されていませんので、治安上の不安がつのります。
 警察には、もっと頑張ってほしいですし、私たちも、本気で暴力団依存体質から脱却すべきではないでしょうか。
 そのためには、大型公共土木工事優先の政治を転換する必要があります。大型公共土木工事が暴力団の喰いもの、最大の資金源であることを知らない市民が多すぎると思います。マスコミは、そのことをもっと大々的に、かつ、連続的に報道すべきではないでしょうか。
 先日の西部ガスへの連続発砲事件についての解説記事のなかで、工事受注額の1~5%を暴力団へ上納するシステムがあり、西部ガスがそれを拒否したことによる嫌がらせだという指摘はそのとおりだと思います。そんなこといって、おかしいでしょ。これは、みんなで声をそろえて、おかしい、許せないと叫ばないと、いつまでたってもなくならないと私は思います。
 だって、誰だって、自分一人がピストル向けられたら、何も言えませんからね。ともかく、この不景気な世の中で、ひとり暴力団だけがぬくぬくとしているなんて、とんでもないことですよ・・・。
 新潟、稚内に巣喰うコリアン系のロシアン・マフィアも脇役として登場してきます。
 今回は警視庁組織犯罪対策部は、後手後手にまわっていて、ほんの刺身のツマとしてしか登場しません。
 そんなことじゃあ、困るんだよな・・・。そう思わせる内容でした。
 車中で読みふけっているうちに終点に着いてしまいました。まだ読み終わっていませんでしたので、喫茶店に入って好きなカフェラテを飲みながら読了してしまいました。
 だって、結末がどうなったのか知らなくては、次へ仕事への頭の切り換えができませんからですね・・・。
(2010年1月刊。1800円+税)

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2010年9月18日

南アフリカらしい時間

世界(アフリカ)

著者:植田智加子、出版社:海鳴社

 しっとりした雰囲気に浸ることの出来る本です。列車に乗って1時間で読みきれず、目的地に着いてから、しばしホームで読みふけって、なんとか読了しました。
 先に「インビクタス」(NHK出版)を読んだばかりでしたので、27年間の囚人生活を過ごしたマンデラ大統領に親近感を抱いていたところ、なんと著者はマンデラ氏を鍼治療していたというのです。しかも、大統領になる前からのことでした。マンデラ氏の早朝散歩にも一緒につきあっていたというのです。
 マンデラ氏だけではありません。タンボ氏そして、シスルも、著者の患者だったというのですから驚きです。日本人女性が、南アフリカでも鍼灸師として活躍していたなんて、まったく信じられないことでした。
 この本は、日本人女性が妊娠して出産し、一人で子育てする生活が淡々と描かれています。いえ、実は「淡々」どころではありません。「子殺し」がよく分かる心境が語られているのです。でも、それに待ったをかけたのが現地の人々でした。アパルトヘイトに身をもって反対した人々たちが、さりげなく著者の子育てを支え、また、子だくさんのなかで育ちあっている子どもたちにも助けられたのでした。
 南アフリカの治安の悪さ、そしてストリート・チルドレンの子どもたちの様子も紹介されています。
 10年ほど前に雑誌に連載されていたものが最近になって単行本化されています。
 この本に登場してくる長男さんは、今はどこで何をしているのでしょうか・・・?
(2010年4月刊。1800円+税)

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2010年9月17日

邪馬台国の滅亡

日本史(古代史)

著者:若い敏明、出版社:吉川弘文館

 邪馬台国は九州にあったと無条件で信奉する私にとって、学者が「そのとおり!」と言い切ってくれる本を読むのは快感そのものです。
 著者は次のように断言します。
 古事記や日本書紀によれば、大和政権は景行天皇や仲哀(ちゅうあい)天皇の時代の二度にわたって九州に遠征している。
 女王卑弥呼が統治し、倭国に属していたことが、北部九州の地域が大和政権に服属したのは、その二度にわたる九州遠征のうちの後者、つまり仲哀天皇からその後の彼の后、神功の時期のことである。
 このように北部九州が最終的に大和政権に服属したのは、4世紀の中ごろをさかのぼらない時期であった。したがって、もし邪馬台国が大和王権であったとすれば、この時になって伊都国王が服属してきたのは不可解と言わざるをえない。
 このように考えれば、邪馬台国は畿内・大和でないことは、もはや明らかである。つまり、倭国とは、北部九州を中心とした一帯の、政治的まとまりを指すものであった。そして、著者は、うれしいことに、なんとなんと、筑紫の山門(やまと)に邪馬台国はあったというのです。ヤッホー!!
 神功皇后による山門の征服こそ、邪馬台国の滅亡にほかならない。
 『魏志倭人伝』によれば、倭国は30の国によって構成されていた。倭国とは、一種の連合国家であった。
 仲哀天皇は熊襲との戦争に敗北したあと死去した。玄界灘地帯を掌握しながらも、大和政権は内陸部の倭国中枢部を攻略しきれなかった。
 邪馬台国は、まさに大和政権に対抗する最後の抵抗の砦だった。
 その最後の砦が陥落したのは、仲哀天皇の死後、朝鮮から使者のやってきた367年から、大和政権が朝鮮に出兵する369年のあいだの出来ごとであった。
 卑弥呼の死後、120年ばかり後になって邪馬台国は滅亡した。そして、大和政権は引き続き朝鮮半島に出兵する。
 大和政権は、奈良盆地の農業共同体のなかから生まれてきたものではなく、九州からの征服によって形成されたものである。
 私より10歳も年下の学者ですが、大いなるエールを送ります。がんばってくださいね。
(2010年4月刊。1700円+税)

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2010年9月16日

レンタル・チャイルド

インド

 著者 石井 光太、 新潮社 出版 
 
 インドの悲惨な一断面が紹介されています。あまりにもおぞましくて、つい目を背けたくなります。それでも日本人青年が勇気をもって生命がけで突撃取材した結果の本ですので、ともかく最後まで読み通しました。超大国を目ざすインドの影の部分が掘り起こされている本です。
 浮浪児たちは路地の片隅で育ち、大人の暴力に怯えながら寂しさを紛らわすように薬物に手をだす。やがては依存症になり、その薬物を手に入れるために、さらにか弱い浮浪児を傷つけるようになる。その、どうしようもない負の連鎖の中で、子どもたちの手や足が一本また一本と切り落とされていく。通行人の同情をひくように障害者がつくられていくのです。なんということでしょう・・・・。
 ところが、警察が街頭から浮浪少年を追い出したあとにやって来たのは、ナイジェリアやコンゴなどアフリカ諸国からやってきた黒人である。彼らが替ってたむろするようになった。
 次のように、うそぶく男がいます。
街には、ヤク中の女や売春婦が捨てたガキが腐るほど転がっている。そんな赤ん坊を拉致してきて、ある年齢までは女乞食に貸し出して金もうけをし、その後は、身体を傷つけて一人で物乞いさせる。7歳か8歳になったら、女乞食なしでやった方が金になる。マフィアが子どもの目や足の自由を奪うのは、子どもたちが人の助けなしに生きられないようにするためだ。そうすれば、子どもたちは逃げようとせず、マフィアとともに暮らすしかなくなる。
 俺らにはガキが必要だ。奴らだって、俺らが必要だ。お互いに助け合って、うまく生きているんだ。
「パパは悪くないよ。ぼくが稼げなかったから、いけないんだ。悪いのは、全部ぼくなんだよ」
「あの男は、きみの目をつぶしたうえに、物乞いをさせ、今だって殴りつけたんだぞ。悪いのは、あいつに決まっているじゃないか」
「ぼくがいけないんだ。目を刺されたのは、ぼくが言うことを聞かない悪い子だったからなんだ。ちゃんと、お金を稼がないから、こんなことになったんだよ」
 「お願いだから、パパの悪口を言わないで。追い出そうなんて絶対に言わないでよ」
「こう考えないと、こんなところでは暮らしていけないのよ。生きていくためには、すべてを自分のせいだと思わなければいけないのよ」
なんという哀れな言葉でしょうか・・・・。この会話を読んだとき、私は子どもたちの心をここまで傷つけてよいものか、涙が止まりませんでした
(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年9月15日

日本軍の治安戦

日本史(近代)

 著者 笠原 十九司 、 岩波書店 出版 
 
 ひき寄せて寄り添ふごとく刺ししかば声もな立てなくくづをれて伏す
 夜間、敵の中国軍陣中に潜入、遭遇した中国兵を抱え込み、自分の体重をかけて帯剣で突き刺し、腸をえぐるようにして切断する。中国兵は呼び声をあげる間もなく崩れるように即死する。
 このように人を殺している瞬間をうたった歌は、日本短歌史のなかでも類を見ない。これは、戦後短歌の代表的歌人である宮柊二の『山西省』という歌集におさめられている。
宮は、銃剣による中国兵の刺殺に慣れていた。
うむむ、なんということでしょうか・・・・。言うべき言葉も見当たりません。
落ち方の素赤き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ
これまた、すごい歌です。これから八路軍(中国共産党の軍隊)の根拠地のある山村に夜襲をかけ、村民ふくめて皆殺しにしてやろうという短歌なのです。よくぞ、こんなことを短歌によんだものですね・・・・。
中国軍民の死者1000万人という被害者の規模について、日本人には想像できないし、受け入れがたい数字だと思っている人が多い。その主な理由は、中国侵略戦争の期間に、日本軍が中国各地でどのような加害行為・残虐行為をおこなったかについて、あまりにも事実を知らないからである。その典型が、華北を中心とする広域において、中国民衆が、長期間にわたってもっとも甚大な被害をこうむった三光作戦の実態がほとんどの日本人に認識されていないことである。
日中戦争において、中国大陸には、いつも日本軍に対する二つの戦場が存在した。中国では、この二つを正面戦場(国民党軍戦場)と敵後戦場(共産党軍戦場)と呼んでいる。日本軍は正面戦場では中国の正規軍であった国民政府軍と正面作戦を展開し、後方戦場では共産党勢力を中心とする八路軍・新四軍・抗日ゲリラ部隊が日本軍に対してゲリラ戦を展開した。
日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中・華南に拡大させるのに積極的役割を果たした。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立・齟齬があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する、下克上の風潮が強かった。
軍部の暴走を天皇は追認し、むしろ激励する役割を果たした。国家の重要政策・戦略を最終決定した天皇臨席の御前会議は文字どおり会議であって、常設ではなく、戦争の最高指導機関とされた大本営や大本営政府会議も、軍事、外交・経済政策を統合して強力に指導する機能はなかった。しかも、戦争指導は、天皇の統帥権を利用した軍部の集団指導体制になっていたが、国家主権者であり、軍隊の統帥権をもつ天皇は「神聖にして侵すべからず」とされる存在であり、政治や軍事の責任を負わない仕組みになっていたから、天皇に近い軍中央の高級エリートほど天皇を騙(かた)って責任を問われず、回避できる構造になっていた。天皇制集団無責任体制と呼ばれるゆえんである。
富永恭次第一部長(小将)は参謀本部内の下克上の風潮を代表する軍人であり、熱狂的な興奮にかられて武力行使による仏印進駐を主張して独走した。東京からハノイへ出かけ、自分の命令をあたかも参謀総長の命令であるかのように装って、南支那方面軍参謀副長の佐藤賢了大佐とともに第五師団を動かして日本軍の北部仏印進駐を強行した。
ノモハン事件のときには、血気にはやる辻政信少佐(作戦参謀)や服部卓四郎中佐ら作戦参謀のソ連軍の戦力を軽視した作戦指導により、4ヶ月にわたる死闘が続き、2万人もの死傷者を出した。このようにして関東軍を引きずり無残な大敗を招いた実質的な責任者である辻政信は、敗北を導いた責任と罪を前線の連隊長以下になすりつけ、自決を強要した。
辻や富永のような、異常ともいえる強烈な個性と迫力をもった参謀エリートが、常に積極攻勢主義を唱えて周囲を引きずり、陸軍の方針決定に大きくかかわっていた。このようなことは、まさに天皇制集団無責任体制においてこそ可能だった。
1940年当時、中国に派遣されていた日本軍は65個師団、85万人に達していた。これは日本の動員力の限界に達していた。これだけの兵力を中国大陸に投入しても、日中戦争の膠着状況を打開できなかった日本の戦争指導当局は、ヒトラーの率いるナチス・ドイツの電撃作戦の予期以上の進展に引きずられた。
1940年8月から10月にかけての第一次、第二次の百団大戦という大攻勢による日本軍の被害は甚大だった。八路軍による百団大戦で甚大な被害を受けた北支那方面軍は、対共産党軍認識を一変させ、反撃と報復のための大規模なせん滅掃討作戦を展開した。
中国農民が中国共産党の指導を受け入れ、これを指示させたのは日本軍の報復の脅威だった。共産党は、日本軍を直接経験しなかった地域では、ゲリラ基地を建設できなかった。すなわち、日本の侵略による破壊と収奮が、北方中国人の政治的な態度を激変させたのである。華北の農民は、戦時中、共産党の組織的イニシアチブにきわめて強い支持を与え、共産党のゲリラ基地は華北の農村で最大の数を記録した。
多くの中国人は、言わないけれど、日本軍のしたことを決して忘れてはいない。
百団大戦は、北支那方面軍の八路軍に対する認識を一変させ、それまでの治安工作を重点にした治安作戦(燼滅掃討作戦)重視に転換させる契機となった。
共産党軍それ自体の軍事力はたいしたことないが、治安攪乱の立体は、共産主義化した民衆であり、これが主敵であるとみなすに至った。ここに抗日根拠地、抗日ゲリラ地区の民衆を主敵とみなして、殺戮、略奪、放火、強姦など、戦時国際法に違反する非人道的な行為をしてもかまわないという治安戦の思想と方針が明示されることになった。
日本軍の治安戦が統治の安定確保とは正反対の結果をもたらし、未治安地区を治安地区に拡大するどころか、略奪・破壊・殺戮など日本軍の蛮行によって生命・生活が極度の危険に追い込まれた中国農民が、共産党・八路軍の工作に応じて協力し、さらには抗日ゲリラ闘争に参加していったのは当然のことであった。
香川照之が熱演した中国映画『鬼が来た』は、まさにこの状況を活写していました。
大変勉強になる本でした。いつもながら著者の博識と迫力には感嘆します。 
(2010年5月刊。2800円+税)

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2010年9月14日

訴訟に勝つ実践的文章術

司法

 著者 スティーブン・D・スターク、 日本評論社 出版 
 
 裁判所に提出し、裁判官に読んでもらう書面の書き方について、原則をじっくり教えてくれる本として、大変参考になりました。私も、さらにやさしく、分かりやすい言葉で準備書面を書くように努めたいと思います。
 裁判官は、テンポの速い世界で生活しているので、文書は急いで読むが、まったく読まないのかのどちらかなのである。文章を書きはじめる前に、何が言いたいかについて明快な考えがなければいけない。自分のすすむ方向をまっすぐに定めるためには骨子が役に立つ。
 そうなんです。私も、まずメモ的に骨子を書きなぐっておきます。それなしで筆まかせに書きすすめるということは、まずしません。メモは出来たら白紙に書きます。
 法律文書を書くときには、最初に結論を書くことが大切である。結論をあとで示すと、最後まで書面を読まないと何が言いたいのか分からないし、それが正しいのかどうかを確かめるために、何度も読み直さなければならなくなる。
 大切なことは、まず結論を書く。次に、第一印象は強烈な印象を残すことを忘れない。第三に、初めて読む人が簡単に読める、分かりやすい文章にすること。
第四に忙しい読書も理解力に乏しい読者も理解できること。
弁護士は、ふつう自分たちのことをプロの物書きとは考えていない。しかし、法律家は文筆の一種なのである。
そうなんです。私は、いつも、作家ではない、モノカキだと自称しています。
 文書の作成は孤独な作業である。だから、一日の一定の時間は一人になれるようにすることを確保し、それを日課とする。書くことは運動することに似ている。毎日の習慣にすることで、容易にできるようになる。
 この本の著者は口述で書面を作成すべきではないとしています。
口述で作成した文書には、似たような文章がくり返して出てくる。長い引用があったり、表現が大げさになりがちだ。書くという行為は、口述するというより、自分の中の声を聞くというもので、どちらかというと口述を受けるようなものだ。原稿を見返すときには、必ず印刷したうえで、読み手と同じ読み方をする。パソコンの画面で読むと、印刷したものを読むときより集中力が落ちて、見落としが多くなる。
事件の9割は感情で決まってしまう。自分が気に入った結論に説得力を持たせるため、理性をもって書いている。判例は、その事件に当てはまる理論そのものではなく、その理論を支持するものにすぎない。事実から議論が生まれることはあるが、議論から事実が生まれることはまず、ない。事実が大切なのである。裁判官は事実を知ることなく、判断することはできない。
そして、相手の主張や非難のすべてに一つひとつ答える必要はない。相手の悪口は言わない。相手をけなしたり、倫理的・道徳的な欠点に言及すればするほど、裁判官の目にうつる自分自身の品性をおとしめる危険がある。
注目してほしい文章に下線を引いて強調するのは良くない。そして、脚注は控え目にすべき。具体的で説得力のある見出しを工夫する。見出しは、法律文書の中で唯一、ユーモアをこめると、内容が正確である限り、若干の誇張が許される場所である。
陳述書は、弁護士の書く文書ではあるが、それに署名した人自身の言葉で書かれるべきである。
スピーチのときには、原稿を見ながら話してはいけない。また、結論を先に言ってもいけない。聴衆が話し手を知り、信頼するまでに一定の時間を要する。はじめのうちは自己紹介や個人的なエピソードをゆっくり話すなどして、聴衆が親しみ感じたころに、主題を切り出す。
スピーチの最重要部分は、法廷では講義をするように話すのではなく、一対一で会話するように話す。そして、話しながら動いてはいけない。自信をもって、落ち着いて、協力的な態度をとって話す。どんなに難しい質問をされても、しかめ面などせず、あたかもチャレンジを楽しんでいるかのように見せる。
話す準備ができても、2~3秒間は、沈黙する。聴衆に聞く準備をさせるためである。
280頁ほどの本で2800円というのは高過ぎるかなという気もしましたが、こうやって読んでみると、決して高いとは思えません。文章には多少の自信がある私ですが、大変勉強になり、考えさせられました。
(2010年6月刊。2800円+税)

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2010年9月13日

だれでも飼える日本ミツバチ

生き物

著者:藤原誠太、出版社:農文協

 セイヨウミツバチが大量死しているというニュースが流れるなか、日本在来の日本ミツバチは病気知らずで元気、しかも味わい深くて、一定の病気には薬効もあるというのです。
 そんなけなげな日本ミツバチを飼ってみよう。写真つきで紹介されていますから、私にも出来そうです。でも、やっぱり一度は現物を見てみたいなと思いました。
 日本ミツバチは野生種であり、人間に飼われているという意識はない。日本ミツバチは居住環境が良ければ居続けようとするが、あわないと思うとすぐに逃げ去ってしまう。
 日本ミツバチは病害虫に強く、甘み以外に酸味や複雑な香りもあって、古酒のような味わい。
 外勤の働き蜂が集めてきた花蜜は、貯蔵係の働き蜂に口移しされて巣房に蓄えられる。貯蔵係は、その後も口から出し入れを繰り返して、蜜中の水分を蒸発させて濃縮する。同時に、唾液中の酸素によって花蜜のショ糖がグルコースなどに変えられ、さらに有機酸も生成して、保存・貯蔵性の高い蜂蜜がつくられる。
 祖先がアジアの森林うまれの日本ミツバチは、木々の間をぬってジグザグ飛行するのが得意である。その行動範囲は西洋ミツバチよろ狭く、1~2キロ程度。集団行動よりも、単独行動による訪花が多く、いろんな樹木・草花から、こまめに蜜や花粉を集めてくる。
 日本ミツバチは、押しつぶされるとか、髪の毛に入って身動きとれなくなるなど、よほどのことがない限り、人を襲い、刺すことはない。
 女王蜂の寿命は、自然状態で2~3年。働き蜂の寿命は、成虫になって20~30日。オス蜂は女王蜂との交尾に成功すると、そのまま空で即死する。失敗して巣にもどっても冷遇され、追放されて野垂れ死にする。ミツバチ社会は女系社会なのである。無情です。オスは、どこの世界でも辛いものがあります。
 西洋ミツバチと比べて日本ミツバチは繊細で、脅えやすい。
 オオスズメバチが侵入してきたとき、西洋ミツバチは一匹ずつで迎え撃つため、次々に殺され全滅する危険が大きい。日本ミツバチは集団で迎撃する。何十匹が一斉に取り囲み、45度以上の熱で殺してしまう。ただし、10匹以上のオオスズメバチが侵入してくると、さすがに日本ミツバチもかなわない。
 群れの運営設計をしているのは女王蜂ではなく、働き蜂である。
 ミツバチは急激な温度変化に弱い。暑いときは水を汲んできて羽で風を送り、温度を調整し、常に34度に群内の温度を保っている。
 ミツバチは羽がぬれると起き上がれない。
 ミツバチを扱うとき、手の感覚を鋭くするため、基本的に手袋はしない。
 できる限り白いものを身につけ、髪の毛は帽子で隠す。昆虫は全般的に白い色に敵対反応が鈍く、ミツバチもあまり攻撃的にならない。逆に、ミツバチは黒色に反応する。ミツバチは乱視なので、比較的コントラストの強いものに反応する。
 ミツバチに刺されたら、ヨモギ汁を塗るとよい。
 女王蜂はセイヨウミツバチと交尾することがあるが、それは受精せず、オス蜂を多く生んでしまう。
 よくぞここまで観察したものです。感心しました。
(2010年7月刊。1700円+税)

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2010年9月12日

邪馬台国と狗奴国と鉄

生き物

著者:菊池秀夫、出版社:彩流社

 邪馬台国は、やっぱり九州にあった。九州(福岡)出身の私は、声を大にして日本全国に向かって叫びたいのです・・・。
 弥生時代末期の鉄器の出土状況は、圧倒的に九州が多い。権力の象徴ともいえる軍事力や農耕に使用されていた鉄器の普及は、弥生時代末期に急速に九州北部(福岡県)から中部(熊本県と大分県)に拡がった。そして、九州中部が北部を凌駕するほどにまでなった。
 弥生時代末期から古墳時代初期にかけて鉄器生産の技術が九州北部から畿内に拡がっていった。畿内では、弥生時代の末期に鉄器生産の技術はほとんどなかった。
 いろいろ考えあわせると、邪馬台国は山門郡瀬高町(現みやま市)にあった、ことになる。
 うむむ、これはいいぞ。なるほど。なるほど、そうなんだ・・・。思わず膝を打って、立ち上がったものです。
 弥生時代の九州には、鉄の武器をもつ強力な勢力が存在していた。これは、鉄器(武器)の出土数が九州は1726点(54%)、近畿は390点(12%)にもよる。
 大型の武器(鉄刀、鉄剣、鉄戈)は、北部九州に集中している。鉄刀の87%、鉄剣の77%が北部九州に集中している。
 弥生時代の末期、いわゆる古墳時代の前夜、九州には、大きく分けると5つの勢力が存在していた。九州北部のほとんどを支配していた卑弥呼の女王国連合の国々。熊本県北部の菊池川流域の勢力と熊本県中部の白川流域の勢力。大分県西部の大野川流域の勢力。宮崎県中部の勢力。そして、宮崎県中部の勢力は、後に畿内の大和王権となった。
 宮崎県中部の勢力が北に存在した狗奴国や女王国連合の国々を飛びこえて畿内へ移動したとは考えにくい。したがって、宮崎県中部の勢力も狗奴国の一員であり、狗奴国が女王国連合の勢力を破り、畿内へと移動したと考えるほうが自然である。
 著者は歴史を愛する素人ではありますが、鉄剣等の出土状況から邪馬台国を探るアプローチをするというところは、さすがゼネコン出身だけはあります。
(2010年2月刊。1900円+税)

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2010年9月11日

ソルハ

世界(アラブ)

著者:帚木蓬生、出版社:あかね書房

 著者の『水神』は福岡県南部を舞台とする感動的な本でした。今回は、ぐっと趣きを変え、遠くてアフガニスタンの地が舞台となっています。タイトルの「ソルハ」とは、アフガニスタンの言語の一つであるダリ語で「平和」を意味します。
 アフガニスタンのカブールに生活する、普通の庶民の家庭で育つ少女が主人公です。少年少女向けの物語ですが、実際には、私たち大人にも面白く読むことが出来ます。私も、最後まで一息で読み通しました。
 著者も恐らくアフガニスタンの現地に足を踏み入れたことはないと思うのですが、実際にそこで生活していたかのような臨場感にあふれています。その筆力は、いつもながら感嘆してしまいます。さすが、たいしたものです。
 そして、著者の優しい目線と柔らかい語り口にも、ほとほと感嘆します。
 今、アメリカはイラクから軸足をアフガニスタンへ移そうとしています。オバマ大統領はアフガニスタンへアメリカ軍の増派を決めていますが、それを批判した司令官を更迭してしまいました。アフガニスタンへ少々増派してもどうにもならないという現実を前にして、アメリカの支配層のなかにも隠しきれない矛盾があるわけです。
 他民族を力で抑え込もうとしても、うまくいくはずがありません。アメリカの野蛮な力の政策は必ずみじめに破綻すると思います。
 そうなんです。どこの民族だってプライドがあるのです。この本は、民族のプライドが子どものころより育まれている現実を思い出させてくれます。そんなアフガニスタンへ日本が自衛隊を派遣するなんて、とんでもないことですよ。武力の前にやることがあります。
 アフガニスタンで今もがんばっておられる、ペシャワール会の中村哲医師のがんばりには、本当に頭が下がります。ときどき西日本新聞に掲載されるアフガニスタンにおけるペシャワール会の活動ぶりに大きな拍手を送ります。最新のレポートは、砂漠で米づくりが出来たというものでした・・・。中村先生、安全と健康には、くれぐれもご注意くださいね。
 子どものころの気持ちを忘れそうになっているあなたに、強く一読をおすすめします。
(2010年4月刊。1400円+税)

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2010年9月10日

されど

朝鮮(韓国)

 著者 洪 盛原 、 本の泉社 出版 
 
 日本の植民地支配を受けていた朝鮮では、一人の人物が独立の志士として評価される時期があり、また民族反逆者として罵倒される時期もあるという複雑な様相をもたらすことが起きる。
 万歳事件とも呼ばれた1919年の3.1独立運動のころには、日本の帝国主義に対して命がけで戦っていた愛国的な独立運動の志士たちが、アジア・太平洋戦争の末期には日本の帝国主義者に積極的に同調して媚を売る親日派、民族反逆者に心変わりして、彼らに心を寄せていた後世の人たちに、裏切られたという惨めな思いを味わせることがある。
いやあ、これって厳しい現実をふまえると、しかも迫害した日本側の子孫として、なかなか難しいところですね・・・・。この本は、そのような歴史的事実をふまえ、現代に生きる我々は、そのような重たい歴史的事実をどう受けとめたらよいのか、このことを改めて問いかけるものとなっています。
日本の帝国主義支配に改めて反対した人物が、その後、どのような生活をしていたのか、その子孫は今どこで何をしているのか、そして先祖についてどう評価しているのか、巧みなストーリー展開でぐいぐいと読ませます。
ただ、日本の植民地支配が韓国の近代化に役立ったという「日本人の主張」については、たしかにそのようなことを声高に言いつのる日本人は少なくないと私も思いますが、決して多数派でもないと私は信じています。一国の主権を奪うことをそんなに簡単なものと考えたらいけないと思うからです。
それは、たとえばアメリカのおかげで戦後の日本は発展してこられたのだから、今なお首都・東京に広大なアメリカ軍の基地があるのは当然なんだというような論法でしょう。でもこれって、まったくすりかえの論理であって、私にはとうてい承服できません。
 戦中・戦後の日朝・日韓関係を考えるうえで貴重な素材が提供されたと思える、読みごたえ十分の小説です。
 
(2010年4月刊。2800円+税)

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2010年9月 9日

南アフリカの衝撃

世界(アフリカ)

 著者 平野 克己、日経プレミアシリーズ 出版 
 
 南アフリカの寒々とした実情が紹介されています。
サッカー・ワールドカップを成功させた南アフリカは、凶悪犯罪の発生率が群を抜いている。5000万人の人口のうち、毎年2万人が殺人事件で殺される。日本では600人なので日本の100倍だ。
 南アフリカには組織犯罪がはびこっていて、警察も腐敗している。警察官は一般公務員にくらべて薄給のうえ、毎年200人も殉職している。2008年には、犯罪組織から賄賂を受け取っていたとして、こともあろうに警察庁長官が逮捕された。この人は元国連大使で、警察庁長官時代にはインターポール(国際刑事警察機構)の総裁もつとめていた。逮捕される前には、ワールドカップの開催期間中は売春を合法化するよう主張していた。売春は犯罪組織の主要な収入源のひとつである。うひゃあ、なんということでしょう。信じられません。ただ、日本の警察庁長官も身分(収入)不相応の億ションに住んでいると指摘されたことがありました・・・・。
 南アフリカでは、授業ボイコットがアパルトヘイトへの抗議と考えられ、学校をドロップアウトする若者が続出した。アパルトヘイトが終わった今、彼らの多くは学校教育を受けていない、単なる無学歴者になった。労働経験がなく、労働意欲のないものも多い。民主化のために戦ってきたものの、民主化の恩恵を受けることはなく、多くが失業者か犯罪者となった。そんな人々が100万人から200万人もいる。
1750万人の労働人口のうち400万人が失業している。失業率は24%にもなる。
大量失業を生んだもう一つの原因は農業にある。アパルトヘイト体制化で黒人から土地を奪ったため、黒人農村が消滅してしまった。
うまく立ち回ったものだけが望外な報酬を手にするという社会では、相互信頼のかわりに嫉妬が発火するだけ。狡猾と嫉妬が生み出すものは、汚職と犯罪だ。
 南アフリカには1300人の日本人が生活している。日本とアフリカの経済関係は南アフリカに集中してきた。日本は、プラチナ、マンガン、クロム、バナジウムを南アフリカから輸入している。
 日本で販売されているベンツやBMWの多くは南アフリカ製である。南アフリカの自動車製造は、国の基軸的産業になっている。 
2000年以降、中国のアフリカ攻勢はすさまじい。1990年代にはアフリカ大陸全土で5万人といわれていた中国人は、今や75万人といわれる。中国製品は、アフリカのどんな国にもありふれている。なかでも一番、中国人の多いのが南アフリカだ。少なくとも20万人の中国人が住んでいる。だから、犯罪被害にあう中国人も多く、2005年に22人だったのが、2006年には14人が殺害された。
 中国から南アフリカに進出している企業は30社だが、南アフリカから中国へ進出した企業は300社もある。
 南アフリカという国を少しばかり知りました。やっぱり怖い国だなと、つい思ってしまいました。スミマセン・・・・。
 
(2009年12月刊。850円+税)
 フランスには回転ずしまで進出しているのですね。ちっとも知りませんでした。パリのカルチェラタンには、漢字で「寿司」と書いた店がありますが、なかは回転寿司でした。
 デイジョンで泊まったホテルの隣にも、小さな回転寿司の店がありました。こちらは立派そうなカウンターでしたから、高級回転寿司の店のようです。
 リヨンには、町のあちこちに見かけました。
 魚、そして寿司は、健康に良いという評価がフランスで定着しているのでしょう。値段も安いですしね。

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2010年9月 8日

アメリカと戦争

アメリカ

 著者 ケネス・Jヘイガン、イアン・Jビッカートン、 大月書店 出版 
 
 日本語版序文に次のように書かれています。
 海外での軍事的冒険主義へのさらなる加担を拒否した日本人の人々の思慮深さは、われわれを非常に勇気づけている。
 ええーっ、これって日本人をほめ過ぎでしょう。正直いって、私はそう思いました。でも、この本の著者は、なんとアメリカ合衆国海軍士官学校名誉教授であり、海軍大学校の教授なのです。決して冗談とか茶化して言っているのではありません。
 戦争は、あなたが望むときに始めることができる。しかし、戦争は、あなたの望みどおりには終わらない。なんと、これは、かの有名なマキャヴェリの言葉なのです。そして、アメリカの始めた戦争が、ベトナムでもイラクでも、まったくこのマキャヴェリの言葉どおりに推移していることが、この本のなかで明らかにされていくのです。大変明快な主張です。
 さらに、アナン国連事務総長(当時)の言葉も紹介されています。
 戦争とは、政治的手腕や想像力の破壊的失敗、すなわち享受すべき平和的政治手段を選択肢から強制的に排除するものにほかならない。
 なーるほど、そうなんですね・・・・。
 アメリカ合衆国についての神話の一つは、平和的な民主主義国家であるアメリカ合衆国が軽率かつ不正に戦争に突入したことは一度もないというもの。しかし、アメリカ人は、国益上、必要であれば、武力行使をいとわないことを示してきた。
 戦争とは、国家の指導者の行う最も重大な決定であるのみならず、まったく先の予測のできない冒険的なものである。戦闘が思いどおりに終結する確実な見込みは存在しない。アメリカ軍は、独立以来、これまで海外で250以上もの軍事行動を起こしてきた。すなわち、一年に一度以上、戦争を遂行してきた。
 18世紀のアメリカ独立戦争のとき、13植民地の構成員250万人のうち、半数近くがイギリス王国に忠誠を示していた。実際に武器をとった推定6万人の王党派と、ほとんどすべての植民地で求められた、革命派の大義に対する忠誠を拒絶した人々は捕えられ、強制収容所に監禁され、厳しく罰され、追放されたあげく、土地や財産をすべて没収された。かれらは、戦争が終わったとき、イギリス領カナダへ逃げ去った。
 19世紀の南北戦争は、戦争を率いた指導者の見通しをはるかに凌駕して、まったく意図していなかった結果を生み出した。南北戦争における戦死者数は、おそらくアメリカ合衆国が遂行したあらゆる戦争の戦死者を合計した統数を超越している。1860年のアメリカ総人口の2%、60万人が戦死した。
 南北戦争はイデオロギー戦争でもあった。両軍の志願兵は、自分たちは自由のために戦っていると信じていた。この信念こそが、戦争を残虐なものし、勝利を達成するまで戦争終結を遅らせることになった。戦争の長期化には、予期されたことでも、意図されたことでも、まったくなかった。当初は誰も、この戦争から徹底的な総力戦と化し、これほどまでに長期化するとは考えていなかった。
 南北戦争は、アメリカ合衆国が軍事的に無限の潜在力をもつ国家であるという信念を増長させ、美化することになった。大統領として、また軍の最高司令官として、リンカーンはかつてないほど直接的に戦争遂行上の役割を一個人として担うことになった。
 第一次世界大戦において、アメリカ軍の参戦にはわずか19ヶ月間にすぎなかったが、死者11万6000人、負傷者23万4000人をふくむ総計36万人という犠牲者を出した。
 アメリカ合衆国にとって、第一次世界大戦の結果は、国内においても全面的に期待はずれのものだった。
 第二次世界大戦の圧倒的ないとせざる結果とは、この戦争が平和とはいえない一つの平和を生み出したことである。戦争は終結せず、ただ戦闘が終了しただけだった。
 第二次世界大戦から出現したのが、米ソ両国が代理国家に戦争と死を肩代わりさせて世界中でおこなった数え切れない局地戦を生み出す、核軍拡大競争によって膠着した45年間にわたる冷戦だった。原爆を投下した目的の一つがソ連を抑止するための威嚇だったなら、それは惨めにも失敗したのだ。
 冷戦は、武装した大規模な戦闘という意味での戦争ではなかった。冷戦とは、幻想の戦争であり、真実をあいまいにするような常套句の応酬をともなうイデオロギー対立だった。朝鮮戦争は、全面戦争というより、公然と布告されなかったものの、「警察行動」にほかならなかった。
 朝鮮戦争のもっとも意図せざる劇的な結果とは、アメリカ合衆国が決定的な勝利を手にすることができなかったことである。
ベトナム戦争の第一の、そしてもっとも明白な意図せざる結果は、アメリカ合衆国にとっての恥辱にみちた敗北にほかならない。ベトナム戦争は、この大統領を思いがけず破滅させただけでなく、ジョンソン大統領の「貧困との戦い」や「偉大な社会」という抗争にも終止符をうつことになった。巨額の戦費が引きおこしたインフレ、戦争中に起こった行政権力の乱用や市民的自由の侵害行為は、1960年代後半から70年代初頭の全米に、分裂、暴力的抗議活動、不安を生み出した。
 ベトナム戦争の残虐さは、国内における戦争への支持を損なうことになり、1965年には、早くも学生が中心の強力な反戦抗議運動が登場することになった。
著者は、最後に次のように力強く呼びかけています。
 いまこそ、大幅に軍事費を削減し、武力行使よりもむしろ真剣な交渉に従事し、荒廃した社会的・経済的インフラの再建を図るべきなのだ。戦争においてアメリカ合衆国が生み出した意図せざる結果を調査することによって、戦争はおろかであり、無駄であることを示した。ひとたび、この見解が認められたら、戦争以外の手段が無限に可能となる。
 まことにそのとおりです。本当に心からの拍手を送ります。すばらしい教訓と呼びかけにみちあふれた本です。じっくり読む価値のある本として、おすすめします。
(2010年6月刊。2800円+税)

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2010年9月 7日

東中光雄という生き方

司法

 著者 関西合同法律事務所、 清風堂書店 出版 
 
 特攻隊から共産党代議士へ、というサブタイトルのついた本です。東中(ひがしなか)光雄というと、弁護士というより代議士という印象が強いのですが、なんとゼロ戦ファイターであり、特攻隊の隊長だったというのです。そのころの凛々しい写真もありますので、間違いありません。軍国少年は海軍兵学校(海兵)に入り、海軍航空隊に入ってゼロ戦に乗り、教官にもなって、特攻隊に志願したというのです。そんな経歴の青年が、戦後は大学に戻って法学部から弁護士となり、人民の立場に立つ弁護士として頭角をあらわしていくうちに共産党の国会議員になり、30年間、代議士をつとめて引退したのでした。
 これだけでもすごい経歴ですよね。
 そして、奈良の薬師寺の名物管主として高名だった高田好胤(こういん。故人)師と小学生のころに同級生で、寺の修行のために勉強のできない高田師に勉強を教えていたというのです。なんだか不思議な取りあわせですね・・・・。
東中光雄は、当時、「一高、三高、陸士、海兵」と並び称された難関中の難関校に挑戦し、見事に合格した。 海兵を卒業したあと、筑波航空隊に小尉としてつとめ、1945年3月には中尉となった。千歳空港での飛行訓練のとき、乗っていたゼロ戦が故障した。東中中尉は、火災を起こさないよう燃料を使い切って着陸を決断した。数十分も上空を飛んだあと、片足しか出ない機体で、無事になんとか着陸した。
いやはや、なんとも度胸がすわっていますよね。たいしたものです。ほかにも、雲の上で、上下左右みな真っ白という状況におかれ、気がついたときには地面に向かって真っ逆さまという状態になっていたのを機体を立て直して事なきをえたという、心の震えるエピソードも紹介されています。
 特攻隊の募集があったのは1945年6月。20歳の東中中尉は「大熱望」と書いて上官に手渡した。内心は、仕方ない、やるしかないという気持ちだった。
 8月15日の玉音放送を聞いたときには、残念だという気持ちとほっとしたという気持ちが入りまじっていた。海軍兵学校67期(昭和14年卒業)から70期(昭和16年卒業)までの戦死率は60%をこえる。
 戦後、東中光雄は同志社大学に入学した。ところが、卒業の時点で、公職追放令にひっかかり、希望する教師や言論界への道が閉ざされた。そこで、やむなく弁護士を目指すことにした。体力勝負の滅茶苦茶な勉強をして一年たらずで司法試験に合格し、1949年4月に司法修習生(第3期)になった。この年は、7月に下山事件と三鷹事件、8月に松川事件といった謀略事件が相次いで発生した。
 1951年、東中光雄は弁護士となり大阪弁護士会に登録した。先輩の加藤充弁護士から、「絶対に敵の土俵にはいらない」「敵の土俵でケンカしない」ことを教えられた。1954年に独立して東中法律事務所を開設した。
 東中光雄の弁護スタイルの特徴であった、社会的正当性を法的正当性に高めるには、交流や実践を通じて若い弁護士たちに浸透していった。法律の条文形式上は困難に見える主張でも、社会的に正当であれば、とことん主張する。法的に勝ち目を見出すのが難しくても、現実的かつ妥当な解決に持ち込む、こうした観点で、弁護士たちの実践が交流され、点検された。
 そして東中法律事務所は事務所創立20周年を機会に名称を関西合同法律事務所に改めた。このあと、東中代議士の活躍ぶりが紹介されています。今の小選挙区制ではさすがに困難だと思いますが、中選挙区制のもとで、10期連続して当選したというのですから、それだけで感嘆してしまいます。日本共産党の議席が衆議院だけで38議席もあり、多くの弁護士議員が活躍していたのでした。東中代議士はロッキード事件、ダグラス・グラマン事件、リクルート事件、金丸信不正蓄財事件などなどで大活躍した。
 小沢一郎の政治献金事件なども、国会での追及が甘すぎると考えている私にとって、東中代議士のような存在は本当に必須不可欠なものだと痛感します。弁護士になってから、そして代議士としての活躍部分についても、もう少し読みものにしてもらえたら、さらに読みやすく、感動的な本になったのでは・・・。そんな注文はありますが、今なお86歳で、お元気の東中弁護士に大いに学びたいと思いました。
 読んで元気の出る本として、おすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)
 フランスの大都市には、貸自転車システムが整備されています。今回パリだけでなく、ディジョンでもリヨンでも待ちのあちこちに貸自転車が並んでいるのを見ましたし、実際、人々が自転車を走らせていました。
 都心部にこれ以上、車を侵入させたくない、また、渋滞で身動きとれないときに自転車は便利ですよね。
 観光客もクレジットカードがあれば利用できるようですが、その仕方も分かりませんから挑戦はしませんでした。
 なにしろ車は多いので、見知らぬ街での自転車の利用は、いささか危険を伴います。

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2010年9月 6日

私は虫である

生き物

著者:熊田千佳慕、出版社:求龍堂

 すごい絵です。生き物が躍動している、その瞬間が、実に細かく絵になっています。静止しているのではありません。飛翔中のカブトムシが、さながらの姿で描かれています。感嘆するばかりです。
 童話の挿絵の原画もあります。ファンタジーの世界が目の前に現出します。そんな絵を98歳までずっと描き続けた著者の言葉ですから、含蓄に富む言葉が多く、胸に響きます。
さっと読めますし、読んでよかったなと素直に思える本です。
 身のまわりにあるものに愛を感じ、美しさを感じ、楽しいひとときを持ち、生活の中に豊かな感性を持つことが本当のゆとりである。
 古来、日本人は、花鳥風月を愛する心を持ち、豊かな感性を持った生活をしていた。そこには本当にゆとりがあった。ゆとりとは作るべきものではなく、自ずからできるものである。
 物をよく見て、見つめて、見きわめる。そして、線を確認して鉛筆を走らすという画法を身につけた。
 17、8のとき、将来、小さい人たちのために仕事をするには、体だけでもピュアにしておこうと思って、それでお酒と煙草はのむまいと決めた。
 うへーっ、煙草は、ともかくとして、お酒まで絶たなくても良かったのでは、と思いました。
 いつも芸の仕事も他のことも、八分のペースを土台にしている。集中力を八分のペースですすめる。十のペースの力を八のペースの中で集中する。残った二の力は芸のゆとりにする。なーるほど、そういうことなんですね・・・。
 自然そのものがアートなんだから、こつを本当になくして、無心で入ってしまえばいい。そうしたら、そのままのものが出てくる。
 花の香りは花の命の香り。花の絵の究極の目的は、その花の香りの描写である。すなわち、花の命の描写である。うむむ、なんという言葉でしょう。言い放しにしないところがすごいですね。
 雑草という言葉は使わない。どんな小さな花でもみんな名前を持っている。どんなものを見ても、それぞれの美しさを持っている。
 虫と同じ目の高さにならないと、虫の本当の姿は見えない。だから腹ばいになる。
 そうやって気づいた。虫は僕であり、僕は虫である、と。人間様がいちばんえらいような顔をしているけれど、虫から見れば、所詮は同じ生き物。動物でも植物でも、根は一緒。この地球の上で共生している存在であり、お互い大切な存在なのだ。
 著者は野外でスケッチしないというのです。これには、さすがに驚きました。頭の中に、その姿を焼きつけておいて、家に帰ったらすぐに描きとめておくのです。
 うへぇ、これって、並の人間にはとても出来ないことです。さすが、ですね。
 活き活きとした緑や花のある家は、お金のあるなしではなく、幸せな、ゆとりある家庭を築いている。こんな論評があります。たしかに、そうは言えるのではないでしょうか。
 最後に、著者のペンネームの由来を聞いて笑ってしまいました。なんと、千人の佳人に慕われるように名付けたというのです。それでは、私も同じペンネームにしなくてはいけませんね・・・。
 著者の描いた絵の現物をじっくり眺めたいと思いました。
(2010年4月刊。1200円+税)
 フランスでは超高級レストランはともかくとして、人々は、ともかく店の外で飲食するのを好みます。
 カフェーもてんないより、歩道に引き出したテーブルで、通行人を眺め、自らも見られながら、ゆっくりコーヒー、ビール、そしてグラスワインを楽しんでいます。
 食事も、外の席から埋まっていきます。テラスのテーブルは、少し離れているだけで、ほとんど相席感覚です。
 なぜか虫がきません。蚊やハエに悩まされたことはほとんどありません。
 そして、不思議なことに、ウェイターもウェイトレスも客の出した勘定をろくに数えずに「メルシー」と言って受け取ります。もちろん、おつりをもらいたいときにはお釣りをくれます。このおうようさが不思議でなりませんでした。

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2010年9月 5日

物質のすべては光

宇宙

著者:フランク・ウィルチェック、出版社:早川書房

 究極の感覚強化装置は、考える精神である。考える精神は、世界にはもっといろいろなことがあって、多くの点で目に映るものとは異なるということに気づかせてくれる。
 世界についての重要な事実の多くは、わたしたちの感覚に直接とび込んでは来ない。
 今や、物質と光は、まったく別のものという古い考え方は捨て去られた。
 たとえば、質量保存の法則は成り立たない。電子と陽電子が光速に近い速度で衝突すると、出てくるものは、入ってきたものより3万倍も重いことになる。
 すなわち、質量は実際に保存されない。質量は存在の根底ではない。
 E=mc2は、実際には静止している孤立した物体にしか当てはまらない。
光の粒子、つまり光子は、質量がゼロである。それなのに、光は重力によって曲がってしまう。光子のエネルギーはゼロではなく、重力はエネルギーに作用する。
 光子は電気的に中性である。光子は、互いに大々的に反応しあうことはまったくない。 超伝導体の内部では、光子は質量を持っている。超伝導体のなかで速度を落とした光子は、本当の質量を持っている粒子と同じ運動方程式に従う。
 宇宙の質量の大半(95%)は、電子、光子、クォーク、グルーオンから出来ているのではない。二つの種類がある。ダーク・マターとダーク・エネルギーと呼ばれている。これらの物質は、検出されるレベルで光を吸収することはなく、光を放出するところも観察されていない。
 ダーク・エネルギーは、よく分からない存在だ。まるで時空の本質的な属性であるかのように、完璧に均一に広がっていて、いたるところで、また過去から未来にわたって、同じ密度のようだ。
 ダーク・エネルギーは、負の圧力を及ぼす。さいわい、ダーク・エネルギーは、宇宙全体の70%を提供していた。ただ、その密度は水の密度の7×10-30倍しかなく、また、その負の圧力が相殺するのは、普通の大気圧の1兆分の1でしかない。
 分かった気にはさせてくれますが、とても難しい内容の宇宙に関する本です。それでも、宇宙の広大さに思いをはせて、楽しく、分からないなりに読みとおしました。
(2010年4月刊。2300円+税)

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2010年9月 4日

裸は、いつから恥ずかしくなったか

日本史(江戸)

 著者 中野 明、 新潮新書 出版 
 
 日本人は江戸時代まで、男も女も人前で裸であることになんのためらいもなかった。風呂は混浴があたりまえだった。明治政府が外国からの批判を受けて禁止してから裸は恥ずかしいものとされ、今や逆説的に見せる下着が流行している。ところが、ドイツなどには、今も混浴サウナがあって、旅行した日本人が驚いている。
 なーるほど、と思う指摘ばかりでした。混浴風呂と言えば、私が小学生の低学年のころ、父の田舎(大川です)に行くと、集落の共同風呂があり、入り口こそ男女別でしたが、なかの浴槽は男女混浴でした。昭和30年代の初めのころです。そして、私が司法試験を受けていたころ(1970年代はじめ)、東北一人旅をしたとき、山の温泉は混浴が普通でした。昼間、私が一人で温泉に入っていると、山登りを終えた女子高生の一団がドヤドヤとにぎやかに乱入してきたので、慌ててはい出した覚えがあります。
私は残念ながら体験していませんが、ドイツやオーストリアでは、サウナに男も女も皆すっぽんぽんで堂々と入っているそうです。驚いた日本人女性がその体験記をブログでいくつも紹介しているとのことです。
江戸時代の銭湯が男女混浴であることに驚いた外国人によるレポートが図入りでいくつも紹介されています。ただし、江戸幕府は何度も禁令を出していたようです。天保の改革のとき、水野忠邦も混浴を厳しく禁じました。これって、7歳になったら男女席を同じくしない、どころではありませんよね。
 そして、夕方になるとタライで水浴びします。若い女性が素っ裸になって道路に面したところで水浴びしているのを、通りかかった外国人が驚嘆して見ていたのでした。
 人前での行水や水浴ばかりか、そもそも日本人は、性器を隠そうとする意識がきわめて低かった。そして、当時の日本人は、裸体を公然と露出していても貞操が危うくなることはなかった。要は、裸体とセックスの結びつきがきわめて緩やかだったのである。
 当時の日本人にとって裸体は、顔の延長のようなものであり、日常品化されていた。明治4年、裸体禁止令が出された。外国人の目を政府が気にしてのことである。
 明治9年、裸体をさらして警察に検挙された者が東京だけで2091人にのぼった。
 明治政府による裸体弾圧以降、日本人は裸を徐々に隠すようになる。この結果、日本人に裸体を隠す習慣が根づいていった。しかし、それには予期しない副作用があった。
 裸体を隠すことで、女性の性的魅力を高めてしまった。明治政府の裸体弾圧は、セクシーな日本人女性を形成するための一大キャンペーンになったのである。
 そもそも日本人は、現代でいうパンツをはく習慣はなかった。まして、ブラジャーをやである。男性は褌、女性は腰巻である。
 下着の一部を見せる現代の女性の行為は、現代社会が下着を隠す社会だからこそ成立するのである。そして、下着を隠す習慣が生まれることで、女性は裸体を五重に隠すようになった。現代の日本人の常識って、案外、底の浅いものだったんですね。
 
(2010年5月刊。1200円+税)

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2010年9月 3日

昭和天皇、側近たちの戦争

日本史(近代)

著者:茶谷誠一、吉川弘文館

 昭和天皇をめぐって、さまざまな思惑が微妙にすれ違い、天皇自身の意思も必ずしも貫徹してはいなかったという実情が詳細に、また実証的に明らかにされていて、大変面白く、興味深く読みました。著者はまだ30歳台の若手研究者です。学者ってやっぱりすごいなと思いました。
 遅くとも1946年1月までに、マッカーサーをはじめとするGHQは、日本占領統治の円滑化のために天皇制を利用することを決め、アメリカ本国にもその意見を伝えていた。つまり、GHQとアメリカ政府の日本占領統治方針として、天皇制の存続と昭和天皇の在位(退陣させないこと)が申し合わされていた。
 しかし、天皇の周囲には、天皇を戦犯・罪人として裁くべきだという声があり、少なくとも退位させようという声も強かった。
 昭和天皇は、即位直後から「統治権の総攬者」としての地位を自覚し、天皇大権の取り扱いについても、自分の意思を無視した恣意的な運用に厳しい目を向けていた。1927年に田中儀一内閣がおこなった中央・地方の官吏異動につき、天皇は牧野内大臣に対して反対の意思をもらした。
 張作霖爆殺事件が起きたのは1928年6月4日のこと。関東軍の謀略計画によってひき起こされた。翌1929年6月、田中儀一首相が張作霖事件の最終報告のため参内して昭和天皇に拝謁した。昭和天皇は、牧野内大臣らとの手はずどおり、田中首相に前回の上奏内容と矛盾していると叱責し、田中首相からの再説明を拒否して拝謁を打ち切った。結果として、田中内閣は総辞職した。
 牧野グループによる輔導の結果、積極的な政治介入の姿勢を見せる昭和天皇は、田中首相を叱責して内閣総辞職に至らしめるという事態までひき起こしたのである。
 田中首相叱責事件によって、天皇の政治意思の表明や親裁が抑制されていた大正時代とは異なり、あらためて天皇の意思が政局に重大な影響を与えることが各政治勢力に認識させる契機となった。そのため、天皇の意思と異なる政治思想や政策を抱く政治勢力からは、天皇の君徳輔導にあたる側近、とくに牧野グループへの批判が噴出するようになった。
 1930年7月のロンドン条約批准の際の惟幄(いあく)上奏阻止問題により、軍部や右翼から牧野内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら天皇側近を批判する声が高まった。側近を批判する人々にとって、牧野や鈴木は、天皇の政治意思を独占し、自分たちに都合のよい聖意を形成させていると認識されていた。1930年代を通じて激化する側近攻撃は、いよいよ本格化のきざしを見せていった。
 1935年、国内では、天皇機関説排撃運動とそれに連動した天皇側近への排斥運動がおこっていた。なかでも、在職歴の長い牧野内大臣と美濃部達吉の師であった一木枢密院議長への批判が激しく、いわゆる重臣ブロック排撃が叫ばれた。
 牧野が内大臣の辞位を決意した背景には、軍部や右翼勢力になすすべなく追随していく時局への憂慮と側近間の意見対立から、それを阻止できないみずからの無力と孤立を感じていたことにある。
 1935年12月、牧野が内大臣を辞任した。これは昭和天皇にとっても衝撃であった。天皇は裁可したあと、声をあげて泣いた。
 1937年、日中戦争が勃発したあと、天皇は重要な外交問題が発生すると、御前会議の招集を主張することがあった。しかし、湯浅内大臣は、天皇の親裁や政治責任の波及という問題を避けるため、御前会議ではなく、閣議に親臨という形式にこだわった。失敗したときの責任追及が天皇に及ばないようにしたいということである。
 即位以来、天皇の大権意識は強く、輔弼(ほひつ)者による勝手な大権の行使には厳しい目を向けてきた。日中戦争以降も、天皇は輔弼者の施政に一任していたわけではなく、天皇大権にかかわる事柄には、とくに注文をつけ、適切な処理を求めていた。
 天皇は、防共協定強化問題に限らず、1939年5月から8月の平沼内閣総辞職までの期間において、天津租界封鎖事件と日英会談、ノモンハン事件、ナチス党大会への寺内寿一元陸相の派遣問題など、自身の信条とする強調外交路線に反する陸軍の行動全般について、不信感をいだいていた。
 天皇や湯浅内大臣の陸軍批判は痛烈となり、7月5日、天皇は板垣陸相に対し、陸軍内部の下剋上風潮や幼年学校からの軍事教育の偏重、板垣陸相の能力にまで言及しながら詰問した。湯浅内大臣は、陸軍は乱脈で、もうとても駄目だ、国を滅ぼすものは陸軍じゃないか、と憤慨していた。逆に、陸軍内では天皇の政治意思や権威が軽視されていた。
 天皇を、タテマエはともかく、ホンネでは単に利用できればいいと考えていた軍部。天皇に失敗した政策の責任が波及しないように汲々としていた側近など、さまざまな思惑が交錯していたことが、この本のなかで生き生きと描かれていて、大変勉強になりました。
(2010年5月刊。1700円+税)
フランスで日本のマンガが大人気であることを知り、大変驚きました。
 ディジョンの中央郵便局の前にはマンガ専門の小さな店があります。そこには日本のマンガ(もちろん、フランス語です)しか置いてありません。実は、2年前にエクサンプロヴァンスでも同じような店を見つけたのでした。ディジョンの店で私は『神の滴』を1冊買い求めました。フランス語にもワインの勉強にもなると考えてのことです。
 そして、中央郵便局の近くの大きな書店の2階にもマンガのコーナーがあり、そのなかには「少女」の棚までありました。こまやかなマンガのストーリーが好まれているようです。

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2010年9月 2日

防衛融解

社会

 著者 半田 滋、 旬報社 出版 
 
 自衛隊ウォッチャーの第一人者が自衛隊の現状、そしてアメリカ軍の果たしている実際の役割を事実に即して具体的にリポートしていて、大変、目を開かせられる本です。一人でも多くの人に読んでもらいたいと思いました。
 太平洋戦争後もアメリカ軍による占領状態を保障し、基地の地代のために働く2万5000人の基地従業員(日本人)の給料負担はもちろん、アメリカ軍が公用だけでなく私用で使った水道光熱費まで、全額、日本人の税金で負担する。これが日米安保条約である。
 たとえば、首都・東京にある横田基地にアメリカ軍の将官がアメリカから飛来する。このとき、日本政府は、許可していないし(アメリカ軍は許可をもらう必要がない)、その将官が誰かも知るすべがない。アメリカ軍は、日本政府の許可なく、どんな航空機でも横田基地に離着陸させることができる。このように首都のど真ん中に主権の及ばないアメリカ軍基地があり、アメリカ軍の管理する空域(日本の飛行機は逆にアメリカ軍の許可なしには飛べない)の広がる日本は、まともな国だろうか。
 そうですよね。これでは、日本が独立国家だなんて恥ずかしくて、とても言えません。これからもずっと今のままにしていいなんて私は思いません。あなたはどうですか・・・・?
 5兆円もの軍事費がなかなか削減されません。陸上自衛隊においては、活動経費が削られてしまったため、富士山のふもとにある演習場まで移動するのに高速道路が使えず、一般道路を走ります。そこで、トイレ休憩にはドライブインを使うしかありません。ジュースやガムを隊員が購入して、トイレを使わせてもらっています。
ところが、陸上、海上、航空の三自衛隊は目玉となる大型兵器の購入は認められている。海上自衛隊は、1200億円もするヘリ空母の建造が認められた。陸上自衛隊は新型戦車16両、157億円が認められた。航空自衛隊は、ミサイル防衛(MD)システムである。MDシステムには終わりがない。すでに8500億円を投じたが、今後もアメリカへ次々にお金を支払わなければいけない。なぜか? 著者は、自衛隊が高額な武器を買い続ける理由の一つに、高級自衛官の退職後の天下り先の確保をあげています。ええっ、これって、ほとんど汚職そのものではないでしょうか・・・・。国民を守るためというより、高級制服幹部たちの「老後」の生活を守るために莫大な私たちの税金がつぎ込まれるなんて、許せませんよ。
 防衛費の配分比率は、陸海空で1,5対1対1に事実上、固定化されている。金額でいうと、陸が1兆7000億円、海が1兆1000億円、空も1兆1000億円。これって、おかしいですよね。こんなところで固定比率があるなんて、ありえないでしょう。軍事費って、本当に利権の対象でしかないことがよく分かります。ところが、表向きは国民を守るためにはどうしても必要だというのです。騙されてはいけませんよね・・・・。
 普天間基地問題についての著者の指摘にも目を見開かされました。
 アメリカにとって沖縄は、中国に対抗する最前線基地なのである。沖縄の基地建設は、受注をめぐる地元企業同士の争いだけでなく、本土の巨大企業対、沖縄の地元企業との戦いでもある。そして普天間基地の移設については、アメリカのゼネコン(ベクテル社)そして沖縄最大のゼネコン(國場組)がからんでいる。辺野古地区への移設案を検討するときには、沖縄の建設業者が受注できる工法が求められていた。
なーんだ、住民の意思とか利便性という前に、建築会社の意向のほうが優先しているのですね・・・・。なんということでしょうか。
 日本の安全にはアメリカの駐留が不可欠というのは、神話であって、現実の話ではない。日本は1999年に周辺事態法を制定した。この法律によると、台湾や朝鮮半島が有事になったときには、それに参戦したアメリカ軍が日本の飛行場や港湾など、戦争に必要な日本の施設をつかうことを認めている。つまり、周辺有事になれば、アメリカ軍は日本中の自衛隊や民間の施設を自由に使えるのである。
海兵隊が着上陸侵攻作戦をしたのは1950年9月の朝鮮戦争における仁川上陸作戦が最後である。それは今からもう60年も前のこと。今や、強襲掲陸艦に乗り込み、海岸から上陸して敵地に切り込む着上陸侵攻の戦争形態自体が起こりえない。海兵隊は存在そのものが問われる危機的状況に陥っている。緊急展開なら、アメリカ本土にある第一、第二海兵遠征軍のほうが沖縄の第三海兵遠征軍より早く敵地に進出できる。見た目の距離と実際の移動時間は比例しない。
 沖縄にいる第三海兵遠征軍の価値は、唯一、海外に展開していることに尽きる。これを「抑止力」と呼ぶのは、ほめすぎ以外の何ものでもない。
うひゃあ、そ、そうなんですか・・・・。
アメリカ軍海兵隊がグアムに移転する経費の半額を日本政府つまり私たち日本人の税金で負担する。既に2009年度に346億円、2010年度に468億円が支払われた。日本は、グアムに2320億円もかけて、アメリカ将兵のための住宅を建設する。大佐級だと一棟で6300万円という超高級住宅である。日本に住んだこともないアメリカ兵の家族のために、なぜ日本政府が住宅を提供する必要があるのか。いやはや、日本政府って、とんだ巨額のムダづかいをしています。これが例の「事業仕分け」の対象にならないなんて、いったいどういうことでしょうか。プンプンプン。
ところが、逆に、自衛隊がアメリカに行って、演習場を借りて訓練すると、使用料を支払わなければならない。数十億円にもなる。
日本にあるアメリカ軍の駐留経費の7割も日本政府が負担する。物見遊山でドライブするアメリカ兵の高速道路料金も日本が負担する。
ああ、なんということでしょう。これが日米安保条約だなんて・・・・。許せません。腹の立つことばかりですが、目をそらすわけには行きません。あなたも、ぜひ読んでみて下さい。

(2010年7月刊。1500円+税)

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2010年9月 1日

ラ米取材帖

アメリカ

 著者 伊高 浩昭、 ラティーナ 出版 
 
 はじめ、この本のタイトルの意味が分かりませんでした。ラテン・アメリカを「ラ米」としたのです。つまり南アメリカのことです。もっと分かりやすいタイトルをつけてほしいですよね。
 1967年以来、48年間に及ぶラテン・アメリカ取材の記録が一冊の本にまとめられています。まさしく現在のラテン・アメリカは今昔の感があります。かつての反共・軍事独裁政権は、いまや、どこの国にも存在せず、対米自主外交というより、反米傾向が強くなっています。これは、それだけアメリカがこれまで無茶苦茶なことをやってきたことの反動、裏返しなのだと思います。
 アルゼンチンでは、肉と言えば、牛肉を意味する。でなければ羊肉だ。豚肉や鶏肉は常識では肉に入らない。肉は、すべて炭焼きか特殊なオーブンでのあぶり焼きで、ステーキは脂身か赤みの中に溶け込むように長時間かけて焼く。口に入れると、とけてしまいそうに軟らかい。パリージャの珍味は、特別注文の牛の睾丸である。
軍隊のないコスタリカの話がもっとも興味をひきます。
 軍がなければ、外交に攻撃性がなくなる。他国からも警戒されない。外交が不備でも軍が強いからといった誤った安心感を人民に与えることがなくなる。戦争は起こりえない。軍がなかったから戦争にならなかった。軍がなければ、仮想敵国がなくなり、他国の軍縮を促すことになる。武器生産国から武器禁輸の圧力をかけられなくなる。武器が手元にあれば使いたくなるだろう。なければ使えないし、使わない。武器よ、さらばだ。
 軍隊を廃止した最大の利点は、国の富を社会開発にまわせること。教育や福祉にまわせる。
 軍はクーデターの道具だから、軍がなければ、軍事独裁はありえない。
 軍という武装した政治的圧力団体が消えれば文民社会だけになり、真の対話が成り立つ。社会正義の理念をもとに合意が生まれ、これが政策になる。平和教育が説得力をもつ。軍があれば、平和教育は鈍る。
 国内総生産(GDP)の10.7%を教育と保健にまわし、政府の存在価値を示している。兵士ゼロの社会では、人民の生活が良くなる。一人あたりGDPは、他の中米諸国の2倍以上で、非識字率は4%と最低になっている。
 平和ボケって非難されることの多い日本ですが、コスタリカの話って実に説明力がありますよね。
 キューバにいたチェ・ゲバラが、なぜ今もって世界中で抜群の人気を誇っているのでしょうか? 著者の考えは、次のとおりです。死後40年もチェはなぜ、これほどまでに人気があるのか。答えは、正義に欠ける現代社会が、いぜんとして、いや、ますます正義の実現のために不正義と戦い抵抗する象徴であるチェを理想的価値の体現者として必要としているということだろう。
 最近にもチェ・ゲバラを主人公とする映画が出来て、みましたが、それほど現代社会には不正義が目に見える形ではびこっているのですよね・・・・。
ベネズエラのチャベス大統領は新しい社会主義をめざしています。明らかに反米主義です。そして、この本は、その陰の面も指摘しています。
 カラカスをはじめ、都市部では凶悪犯罪が激発し、政官界では国際原油価格の高騰で入る、潤沢な「あぶく銭」をかすめとる腐敗が蔓延している。巷での凶悪犯罪と当局者の腐敗は、明らかに社会を劣化させている。これでは革命基盤まで腐食してしまわないか心配になってしまう・・・・。
 南アメリカの歴史とその断面を知ることの出来る本です。
 
(2010年5月刊。1905円+税)
 フランス旅行の楽しみは何ですかと訊かれ、私はすぐに美味しい料理が食べられることです、と答えました。農業国フランスは、食を大切にしています。食材も味付け、盛り付けも本当に心が配られていて、美味しいのです。人生を大切にするということは食を大切にすることなんだなと実感させられます。
 リヨンのホテルからタクシー20分で(30ユーロ)ポール・ボキューズに行ってきました。三つ星レストランとして、世界に名高いところです。食事中にマダムが挨拶にまわってきました。
 ここでは、コース料理ではなく(食べきれないのを心配して)、クネルとリ・ド・ヴォーを注文しました。クネルは白身魚のすり身ゆでたもので、はんぺんに似た食感です。リ・ド・ヴォーは仔牛の胸腺肉で、少しとろっとした肉です。ワインは少しだけはりこんでヴォーネ・ロマネの赤にしました。そしてデザートはスフレにしました。いやあ、さすがに実に美味しかったですよ。

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