弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年9月15日

日本軍の治安戦

日本史(近代)

 著者 笠原 十九司 、 岩波書店 出版 
 
 ひき寄せて寄り添ふごとく刺ししかば声もな立てなくくづをれて伏す
 夜間、敵の中国軍陣中に潜入、遭遇した中国兵を抱え込み、自分の体重をかけて帯剣で突き刺し、腸をえぐるようにして切断する。中国兵は呼び声をあげる間もなく崩れるように即死する。
 このように人を殺している瞬間をうたった歌は、日本短歌史のなかでも類を見ない。これは、戦後短歌の代表的歌人である宮柊二の『山西省』という歌集におさめられている。
宮は、銃剣による中国兵の刺殺に慣れていた。
うむむ、なんということでしょうか・・・・。言うべき言葉も見当たりません。
落ち方の素赤き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ
これまた、すごい歌です。これから八路軍(中国共産党の軍隊)の根拠地のある山村に夜襲をかけ、村民ふくめて皆殺しにしてやろうという短歌なのです。よくぞ、こんなことを短歌によんだものですね・・・・。
中国軍民の死者1000万人という被害者の規模について、日本人には想像できないし、受け入れがたい数字だと思っている人が多い。その主な理由は、中国侵略戦争の期間に、日本軍が中国各地でどのような加害行為・残虐行為をおこなったかについて、あまりにも事実を知らないからである。その典型が、華北を中心とする広域において、中国民衆が、長期間にわたってもっとも甚大な被害をこうむった三光作戦の実態がほとんどの日本人に認識されていないことである。
日中戦争において、中国大陸には、いつも日本軍に対する二つの戦場が存在した。中国では、この二つを正面戦場(国民党軍戦場)と敵後戦場(共産党軍戦場)と呼んでいる。日本軍は正面戦場では中国の正規軍であった国民政府軍と正面作戦を展開し、後方戦場では共産党勢力を中心とする八路軍・新四軍・抗日ゲリラ部隊が日本軍に対してゲリラ戦を展開した。
日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中・華南に拡大させるのに積極的役割を果たした。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立・齟齬があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する、下克上の風潮が強かった。
軍部の暴走を天皇は追認し、むしろ激励する役割を果たした。国家の重要政策・戦略を最終決定した天皇臨席の御前会議は文字どおり会議であって、常設ではなく、戦争の最高指導機関とされた大本営や大本営政府会議も、軍事、外交・経済政策を統合して強力に指導する機能はなかった。しかも、戦争指導は、天皇の統帥権を利用した軍部の集団指導体制になっていたが、国家主権者であり、軍隊の統帥権をもつ天皇は「神聖にして侵すべからず」とされる存在であり、政治や軍事の責任を負わない仕組みになっていたから、天皇に近い軍中央の高級エリートほど天皇を騙(かた)って責任を問われず、回避できる構造になっていた。天皇制集団無責任体制と呼ばれるゆえんである。
富永恭次第一部長(小将)は参謀本部内の下克上の風潮を代表する軍人であり、熱狂的な興奮にかられて武力行使による仏印進駐を主張して独走した。東京からハノイへ出かけ、自分の命令をあたかも参謀総長の命令であるかのように装って、南支那方面軍参謀副長の佐藤賢了大佐とともに第五師団を動かして日本軍の北部仏印進駐を強行した。
ノモハン事件のときには、血気にはやる辻政信少佐(作戦参謀)や服部卓四郎中佐ら作戦参謀のソ連軍の戦力を軽視した作戦指導により、4ヶ月にわたる死闘が続き、2万人もの死傷者を出した。このようにして関東軍を引きずり無残な大敗を招いた実質的な責任者である辻政信は、敗北を導いた責任と罪を前線の連隊長以下になすりつけ、自決を強要した。
辻や富永のような、異常ともいえる強烈な個性と迫力をもった参謀エリートが、常に積極攻勢主義を唱えて周囲を引きずり、陸軍の方針決定に大きくかかわっていた。このようなことは、まさに天皇制集団無責任体制においてこそ可能だった。
1940年当時、中国に派遣されていた日本軍は65個師団、85万人に達していた。これは日本の動員力の限界に達していた。これだけの兵力を中国大陸に投入しても、日中戦争の膠着状況を打開できなかった日本の戦争指導当局は、ヒトラーの率いるナチス・ドイツの電撃作戦の予期以上の進展に引きずられた。
1940年8月から10月にかけての第一次、第二次の百団大戦という大攻勢による日本軍の被害は甚大だった。八路軍による百団大戦で甚大な被害を受けた北支那方面軍は、対共産党軍認識を一変させ、反撃と報復のための大規模なせん滅掃討作戦を展開した。
中国農民が中国共産党の指導を受け入れ、これを指示させたのは日本軍の報復の脅威だった。共産党は、日本軍を直接経験しなかった地域では、ゲリラ基地を建設できなかった。すなわち、日本の侵略による破壊と収奮が、北方中国人の政治的な態度を激変させたのである。華北の農民は、戦時中、共産党の組織的イニシアチブにきわめて強い支持を与え、共産党のゲリラ基地は華北の農村で最大の数を記録した。
多くの中国人は、言わないけれど、日本軍のしたことを決して忘れてはいない。
百団大戦は、北支那方面軍の八路軍に対する認識を一変させ、それまでの治安工作を重点にした治安作戦(燼滅掃討作戦)重視に転換させる契機となった。
共産党軍それ自体の軍事力はたいしたことないが、治安攪乱の立体は、共産主義化した民衆であり、これが主敵であるとみなすに至った。ここに抗日根拠地、抗日ゲリラ地区の民衆を主敵とみなして、殺戮、略奪、放火、強姦など、戦時国際法に違反する非人道的な行為をしてもかまわないという治安戦の思想と方針が明示されることになった。
日本軍の治安戦が統治の安定確保とは正反対の結果をもたらし、未治安地区を治安地区に拡大するどころか、略奪・破壊・殺戮など日本軍の蛮行によって生命・生活が極度の危険に追い込まれた中国農民が、共産党・八路軍の工作に応じて協力し、さらには抗日ゲリラ闘争に参加していったのは当然のことであった。
香川照之が熱演した中国映画『鬼が来た』は、まさにこの状況を活写していました。
大変勉強になる本でした。いつもながら著者の博識と迫力には感嘆します。 
(2010年5月刊。2800円+税)

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