弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年9月25日

西南の役・山鹿口の戦い

日本史(明治)

著者・発行 山鹿市地域振興公社  
 
西南の役における田原坂の戦いは有名ですが、田原坂は植木町にあります。実は、山鹿市でも激戦があったのです。この本は、山鹿市での戦いを紹介しています。
 明治10年2月、小倉第14連隊が南下を開始する。この隊長は乃木希典少佐。3個大隊全部で2034人。銃をエンピール銃からスナイダー銃へ切り換え、一度に南下するのではなく、順次、南下する。
 官軍は2月26日、熊本県の南関町に本営を設置した。博多にあった裁判所機能も南関に持ってきた。有栖川宮も南関へやって来る。
 山鹿市内は薩軍が支配していた。2月27日から3月20日までは平穏だった。
 その前、肥後藩の細川護久知事は減税を実施した。一般民衆は、明治維新になって生まれた、もっとも理想的で典型的な姿を熊本に見た。大減税をするし、その他いろんなことを刷新した。肥後藩は、明治3年から6年にかけてのたった3年間とはいえ、いい時期を送っていた。そして、明治10年、山鹿にコミューン自治政府が誕生した。普通選挙法で人民総代を選び、協同隊の隊長も、みんなで選んだ。民権派がコミューンをつくった。
なんと、なんと、山鹿は、日本最初の民権政治を実施したのです。
熊本の協同隊は薩軍とともに山鹿を支援すると、かねて抱懐する民権政治を実現せんとして、山鹿に民政を布いた。野満長太郎は選ばれて民政長官となった。長太郎は、薩軍とともに各地へ転戦したが、8月17日、降伏し投獄された。2年あまりのあと、放免され、それ以来、郷党の指導者として尊敬された。
熊本の協同隊は、ルソーの民約論に刺激されて集まった自由民権論者のグループだった。山鹿は日本最初の民主政治発祥の地と言える。
 うむむ、なんということでしょう。日本にもパリ・コミューンのようなものがあったとは・・・・。
 
(2002年2月刊。2000円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー