弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年3月11日

シャオハイの満州

中国・日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 江成 常夫 、 出版 論創社

シャオハイとは、中国語で子どものこと。
日本敗戦時、中国東北部(満州)にいた日本人家族は軍隊(日本軍・関東軍)から見捨てられ、ソ連軍や現地中国の人々から激しい攻撃を受け、多くの人々が殺され、また集団自決して死んでいきました。そして、大勢のいたいけな日本人の子どもたちが中国大陸残されたのです。その子どもたちは日本人であることから、いじめられながら育ち、また、かなりたってから自分の親が日本人だったことを知らされ、機会を得て探しはじめます。しかし、何の手がかりもなかったり、日本の家族(親族)が死に絶えていたりして、みなが日本に帰国できたわけではありません。
そんな中国に残留していた日本人の顔写真がたくさん紹介しています。なるほど、日本人だよね、この顔は...と、納得できる顔写真のオンパレードです。
東京荏原(えばら)郷開拓団というのがあったのですね。今の品川区小山町の武蔵小山商店街商業組合を母体とした千人規模の開拓団です。1943年(昭和18年)10月に先遣隊が現地に入り、翌1944年3月から6月にかけて入植したのでした。千人が5回に分かれて入植しました。敗戦前年には日本の敗色も濃くなっていたわけですが、それにもかかわらず、東京から満州に千人もの日本人が渡っていたというのは驚きます。
電灯はなく、ろうそくを立て皿に油を注いだ灯心のランプ生活。井戸は村に1ヶ所のみ。
そのうえ、敗戦の年の1945年7月までに、開拓団の男性が次々に兵隊にとられていったのでした。現地応召者は、180人にもなったのです。8月9日のソ連軍侵攻時点で、開拓団880人のうち、頼られる男性は80人のみ。若い男たちは、ほとんど兵隊にとられていた。そして、集団自決で300人もの人々が麻畑で死んでいった。
敗戦の8月15日まで、日本の敗北を予想していた開拓民は一人もいなかった。これまた恐ろしいことですね。肝心な情報がまったく伝わっていなかったわけです。
「王道楽土建設」という大義を合言葉にしていた時代だった。他人の国へ土足で踏み込むという罪の意識をもっていた日本人は皆無だった。現実には、それまで農作していた農民を追い出して日本人家族を住ませていた。
軍人はもとより、官吏も民間人も、日本人の誰もが、神国日本への過信と、現地中国人に対する優越意識におぼれていた。それだけに、日本敗北による在留日本人の屈辱は大きかった。8月15日が過ぎても、日本の敗戦を信じなかった日本人が満州には大勢いた。
中国人は日本人の子どもは優秀だからというので、子どもをさらっていったり、困っている日本人家族から子どもをもらおうとする中国人が大勢いて、子どもを死なせるよりはましだと食料をもらう代わりに子どもを手放す親も少なくなかった。
これは、本当に誰にとっても悲劇ですよね。
人間の死体が野ざらしで山積みにされていた。着ていたものはみんなはがされて、丸裸にされた状態だった。死体はカチカチに凍っていて、材木置場みたいになっていた。
満州の冬は、氷点下30度、40度にもなる。寒風のなかでの水汲みはきつい。用便するときは、山のようになって凍りついた人糞を金槌のようなもので突き崩す必要があり、これは若い女性にはこたえた。
開拓団員は、誰もが皇国の関東軍に絶対の信頼を寄せていた。「軍が必ず助けてくれる」と言いあっていた。ところが、いざとなったとき、関東軍の主力部隊はいなくて、まっ先に逃げ出してしまっていた。威張りちらしていた軍人たちは、いったいどこへ姿をくらませたのか...。怒りと不安のなかで逃亡生活がはじまった。
いやはや、国の政策に踊らされた開拓団の悲惨な末路に接し、寒気がしてなりませんでした。目をそむけたくなる論述のオンパレードなのですが、唯一の救いは、置き去りにされて40数年たっている、紹介された顔写真の誇らしげな表情です。
集英社から1984年に出版されていた本のリニューアル版です。
(2021年1月刊。2400円+税)

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