弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年12月 8日

民衆暴力

人間・社会


(霧山昴)
著者 藤野 裕子 、 出版 中公新書

思わず居ずまいを正してしまうほど大変勉強になりました。
まず第一に江戸の一揆。江戸時代の一揆の大半は暴力的なものではなかった。村には火縄銃がたくさんあったが、一揆勢の百姓たちが銃を代官所に目がけて撃つことは決してなかった。それは、まっとうな仁政を願う立場での統制のとれた行動をしていたから。
一揆が当局側と、殺し殺される暴力的なものだったのは、島原・天草の大一揆と幕末のころに限定される。島原・天草一揆が暴力的だったのは、宗教を背景としていることと、江戸幕府の支配体制が始まったばかりの時期だったから。これは仁政の回復を求める行動ではなかった。
19世紀の幕末のころの一揆は、貧富の格差が拡大するなかで、幕藩領主が有効な政策をうち出さず、飢饉などによって仁政イデオロギーが機能不全に陥っていたことによる。人々は、かつてのような蓑笠を着用せず、刀や長脇差しを身につけていた。もはや、百姓身分をアピールして仁政を求めるということではなかった。
次に、新政反対一揆。香川県で明治6年(1873年)に起きた名東県の一揆というのを初めて知りました。130村で放火があり、戸長や吏の家宅200戸、小学校48ヶ所などが放火された。この一揆の参加者として1万7千人が処罰された。
同年の筑前竹槍一揆は、参加者6万4千人で、このとき被差別部落1534戸が被害にあった。民衆は権力に対して暴力を振るっただけでなく、差別されていた民衆に対しても暴力を振るった。
そして秩父事件は明治17年(1884年)に起きている。国会開設と憲法制定を求める自由民権運動に物足りなさを覚えた人々の受け皿となっていた。一揆の要求としては、具体的かつ経済的な負担の軽減を求めている。
自由党は徴兵制度や学校を廃止してくれ、租税を軽減し、借金をなかったことにしてくれると思って、農民たちの多くは自由党を支持した。この秩父事件についての官憲による処罰者は4千人をこえた。
次に、関東大震災直後の朝鮮人虐殺です。1923年9月1日、マグニチュード7.9の大地震だった。このとき、震災直後から、警察は朝鮮人に関する流言・誤認情報を流した。
つまり、震災当初から政府や警察は流言と否定するどころか、むしろ広めていた。公権力の手によって、デマが流布していた。そして、軍関係者が民衆に暴力行使を許可したことが多くの朝鮮人の虐殺につながった。このときの犠牲者が正確に判明しないのは、警察と軍隊によって意図的に遺体が隠蔽(いんぺい)されたからだ。日本国政府は、この虐殺事件について、事実関係を認めず、謝罪や補償もしてこなかった。
虐殺行為をはたらいた日本人男性は40代までを中心としていて、朝鮮人に仕事を奪われているという感覚があった。そして、国家権力がその暴力を直接的、間接的に許可したことには大変大きな意味があった。
民衆が暴力に訴えたとき、被差別部落を襲撃した人々の考えはどういうものだったのかが解明されていて、大変興味深いものがありました。そのミニミニ版が他県ナンバー乗り入れに目くじらをたてるというものでしょうね。一揆などの民衆の暴力を歴史的に鋭く解明してある新書なので、最後まで一気呵成に読みとおしました。
(2020年8月刊。820円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー