弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年6月17日

民衆の教育経験

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 大門 正克 、 出版 岩波現代文庫

戦前の日本の子どもたちと学校との関わりが明らかにされています。
「生活極めて困難故に本人を要す」
これは戦前の小学校の内部書類にくり返し出てくる文章だというのですが、私はとっさに何のことやら分かりませんでした。要するに、生活が大変なので、子どもを学校にやれない、不就業を認めてほしいという申請書にある文章なのです。
その理由は、さまざまです。小さい弟妹がいる、病人がいる、一家多人数、年寄りがいる...。ところが、「戸主54歳」とか「戸主人力車夫」というのもあり、いったいこれは何なのか...。
ともかく、生活するに子どもが必要なので、学校にはやれないという申請書を出して、それが認められていたのです。これは、東京都下の田無(たなし)町の小学校のことで、ときは日清(1894年)、日露(1904年)戦争のころのことです。
長野県の五加村では、日清・日露戦争のころ、女子の未就学が減少し、男子だけでなく、女子も6歳になると小学校に通うようになった。ところが、日露戦争のころには、家計補助や子守を理由とした女子の中途退学者が膨大に出現し、女子の多くは卒業を待たずに尋常小学校をやめていた。
初等教育の定着は、むしろ農村で先行して、大都市では遅れた。
明治期の小学校では、日ごろ、教室で、「国家有為の人物」になる必要性をくり返し説かれていた。
山形県豊田村では、1931年ころ、白米を食べる農家が一般的であり、副食物は自家栽培の野菜で、肉類や魚が食卓にのぼることはまれだった。食事は銘々膳を用いる農家が多く、飯台(ちゃぶ台)を使うのは非農家の俸給生活者くらいだった。
日光や灯火が少なく、暗い室内で作業したり本を読み、家の中には煙が立ちこめているため、子どもをふくめて一家全員がトラホームにかかっている例が少なくなかった。
東京市内の農家の女性は農家に嫁ぐことを嫌い、農家の青年が結婚しようとすれば、遠方の農村から相手を探さなければならなかった。農家の親のなかにも、娘を農家に嫁入りさせたくないというのもいた。
下層農家の女子まで、農家に嫁ぐことを好まず、女中や女工として都市にはたらきに出ることが増えた。
東京の中野駅近くにあった桃園第二尋常小学校では、1931年9月の柳条湖事件に始まる満州事変のあと、子どもたちは、「らんぼうな支那」、「我が(日本軍)兵士は、実に正義のために今、寒い満州で意地の悪い支那人と戦っている」と書いた。「らんぼうな中国」に対する、「正義の日本」という対比です。学校は満州事変のころの民衆動員の有力な場となっていた。
戦前、戦中の子どもたちの実像を知ることのできる貴重な文庫本です。
(2019年9月刊。1420円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー