弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年10月27日

宮本常一、伝書鳩のように

社会


(霧山昴)
著者 宮本 常一 、 出版  平凡社

戦後日本の全国各地を歩いて、その風俗を詳しく記録した偉大な民族学者である宮本常一の著書が復刻されました。
昔の食事は、1回1回の食事はみなちがっているが、1回ごとに一つのものを食べる。
サトイモを食べるときはサトイモだけ、アズキを食べるときはアズキだけ・・・。
ええっ、信じられない食べ方です。
高知県の山中にはシレエモチという食べ物がある(あった)。シレエというのは曼珠沙華(彼岸花)のこと。飢饉の年には、ヒガンバナの根を掘ってとり、ゆでて川でよくさらす。根には有毒素があり、そのまま食べると血を吐いて死んでしまう。そこで、ゆでたものを一週間も流水の中にさらしておくと毒が抜ける。それを臼(うす)に入れてついて餅(モチ)にする。決してうまいものではないが、飢えをしのげる。うひゃあ、す、すごいですね。
副食物をともなわない食事は、山間部だけでなく、畑作地帯には多かった。ソバにしてもウドンにしてもヒヤムギにしても、それを食べるだけで事足りた。
日本人の多くは、米を主食とせず、雑食によっていた。海岸にすむ漁民には、穀物の乏しいときには魚だけで食いつないでいた。
山口県の大島には、サツマのあばれ食いというのがあった。メバルを七輪の炭火で焼き、頭や尻尾、骨を取り去って焼けた皮と白身だけにして擂鉢(すりばち)に入れ、炭火であぶったミソと一緒にすりこぎでよくすりつぶす。十分にすりつぶすと、茶を濃くわかしたものを擂鉢にそそぎこみ、すりつぶしたものをかきまわし、どろどろの汁にする。この汁をたきたての御飯にかけて食べる。これがサツマ。御飯も汁も、冷めないうちに食べる。競争で食べると10杯以上は食べられる。
昔の人は、ごはん(お米です)をたくさん食べていたようですね。2時間かけて、1人で1升2合も食べたといいますから、肥満が気になる私には、まったく信じられません。
四国を歩くときには、宿に困ることはなかった。どこにでも、気安く泊めてくれる善根(ぜんこん)宿(やど)があった。
昔は、若い娘たちはよく逃げだした。父親が何も知らないうちに、母親としめしあわせて、すでに旅に出ている朋輩を頼って出ていく。旅に出て、旅の文化を身につけてきて、島の人にひけらかすのが、女たちにとっては、一つの誇りになっていた。つまり、娘たちにとって、旅は見習いの場でもあった。村に戻ったら、村の言葉を使わないといけないが、一方では場所言葉も十分心得ていて、出るところへ出たら、ちゃんとした物言いの出来ることが、甲斐性のある女となる条件だった。
大正の初めのころまで、「奥さま」とか「お嬢さま」という言葉はほとんど通用していなかった。身分の高い武士階級の妻は「オウラカタ」、庄屋・神主・下級武士は「オカタサマ」、村の財産家の妻なら「オゴウサマ」だった。そして、その娘は「ゴウサマ」と呼ばれた。
宮本常一の書いたものを読むと、日本の村々は、性的な開放度がすごく高かったことに驚かされます。若衆宿とか夜這(よば)いとか、あたりまえの世界です。処女を大切にするなんて、カケラもありません。日本人にとっては、昔から不倫・浮気はあたりまえだったのです。この「良き」伝統は、もちろん現代日本の今も生きていると弁護士生活45年の私は実感しています。
(2019年6月刊。1400円+税)

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