弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年9月21日

橘 諸兄

日本史(奈良)


(霧山昴)
著者 中村 順昭 、 出版  吉川弘文館

たちばなのもろえ、と読みます。
橘諸兄は、天平のころ(727年から756年ころまで)、20年近く、右大臣そして、左大臣として太政官(だじょうかん)のトップの座にあった。
奈良時代、8世紀、政権トップにあったのは、藤原不比等(ふひと)、長屋王(ながやおう)、藤原武智麻呂(むちまろ)、橘諸兄、藤原仲麻呂(なかまろ)、道鏡そして藤原永手(ながて)。
橘諸兄は、もと葛城王(かずらきおう)と称する皇親である。母は、県犬養(あがたいぬかい)の橘三千代で、光明皇后と父は異なるが、母は同じ兄妹でもあった。
橘は、諸兄に始まる新興氏族であり、子の奈良麻呂がクーデターを計画したときには、大伴氏や佐伯氏などの伝統的豪族を同士とした。
橘諸兄が政権中枢にあったとき、聖武天皇は、恭仁宮(くにのみや)、難波宮(なにわのみや)、紫香楽宮(しがらきのみや)と転々と都を遷し、そのなかで東大寺大仏の造営という大事業が始められた。また、郷里制の廃止、国分寺の造営、公廨稲(くがいとう)の設置、墾田永年私財法の発布など、律令制の根幹に関わる施策も実行された。
長屋王の変は、聖武天皇がたくらんだ政変のようです。
長屋王は左大臣。父は高市皇子(天武天皇の子)、母は御名部皇女(天智天皇の娘)で、妻の吉備内親王は天明天皇の娘だった。
長屋王が謀反が企てていたという密告があり、長屋王は滅ぼされてしまった。これは聖武天皇や藤原氏による陰謀だった。つまり、皇族内部の対立である。聖武天皇のほうは、長屋王の変という事件の前から百姓を徴発して軍事的にも準備していた。
諸兄(もろえ)というのは変な名前だなと前から気になっていたのですが、この本を読んで、やっと謎が解けました。聖武天皇からして兄に相当する存在であり、2人の新王が相次いで亡くなったあとの天皇の後見役を期待して「諸兄」と名づけられたのでした。
奈良時代にも、トップの人事をめぐって血で血を洗う抗争が起きていたのですね。こればかりは、いつの世も変わらないようです。
(2019年7月刊。2100円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー