弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年7月17日

茅花流しの診療所

明治

(霧山昴)
著者  若倉 雅登 、 出版  青志社

 茅花は「つばな」と読みます。四国は大洲、内子町で油屋の娘としてマサノは生まれた。明治38年、マサノは尋常高等小学校を卒業して上京した。13歳のときである。寄宿舎に入って医学の勉強をはじめた。
 四国の親は月15円を仕送りしてくれたが、生活にまったく余裕はない。それでも、小学校の教師の初任給は10円から15円の時代なので、仕送り15円は大金だった。
 東京女医学校は、医師試験の合格者を輩出するようになった。明治43年にはマサノをはじめとして12人もの女医が誕生した。このときマサノは19歳、最年少だった。
 「東京日日新聞」がマサノについて「未成年の女医者」として報道した。
東京で医師として修業したあと、郷里での開業をせっつく親の願いを断り切れず、大正2年、内子に戻って開業することになった。ところが患者が来ない。ヒマをもてあましていると鉱山事務所が鉱山病院へ招いた。
鉱山病院で医師として診察活動をしていると、鉱山の毒によるのではないかと疑われる症例に直面するようになった。
鉱山病院をやめ、地元に戻り、研修のため上京した。やがて、結婚し、出産したあとマサノは腸チフスにかかってしまった。
マサノの最期の言葉は、「もはや1時間なり」だった。予言どおり、1時間に永眠した。45歳だった。
「大丈夫、心配するな、なんとかなる」、そう言い続けて、マサノは患者に寄り添い続けた。これは、記録には残らない功績である。
四国の片田舎からわずか13歳のときに上京して医学をおさめ、19歳で女医となったあと、田舎に戻って患者に寄り添う医師として活動していた事績がこまやかな筆致で描き出されていて、深く心に残りました。
著者は、私と同世代の現役の眼科医です。素晴らしい本でした。ありがとうございます。
(2016年2月刊。1400円+税)

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