弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年6月22日

西郷隆盛と明治維新

日本史(明治)

著者  坂野 潤治 、 出版  講談社現代新書

西郷隆盛について、再認識すべきだと考えさせられる本でした。
 イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末の西郷隆盛について次のように回顧した。
 「西郷は、現在の大君(タイクーン)政府の代わりに国民議会を役立たすべきだと大いに論じた。これは私には狂気じみた考えのように思われた」
 ええーっ、西郷が国民議会を提唱していたなんて、聞いたことがありませんでした。
 西郷隆盛は、「攘夷」論にあまり関心をもたず、「国民議会」論者であった。
 西郷隆盛は「征韓論者」として有名だが、明治8年(1875年)の江華島事件については、「相手を弱国と侮って、長年の両国間の交流を無視した卑怯な挑発」だと非難した。
 ええっ、そうなんですか。ちょっと、これまでのイメージに合いませんよね。
西郷隆盛は薩摩藩によって2度も流刑(島流し)させられている。1度目は1859年、2度目は1862年。このころの西郷隆盛の主張は「合従連衡」。つまり、朝廷と幕府と有力諸大名とその有力家臣による挙国一致体制の樹立だった。その最大の障害となる開国と攘夷の対立を封印することが前提となっている。
 1869年(明治2年)から70年(明治2年)にかけて全国230の藩代表を集めて開かれた公議所、集議院の意向は、驚くほど保守的で身分制的なものだった。たとえば「四民平等」や「文明開化」のための施策はほとんど否決された。
 明治3年(1870年)12月末、天皇側は薩長士三藩に対して藩兵の一部を「官軍」として差し出すよう命じた。ところが、島津久光は激しく抵抗した。
 西郷隆盛は、廃藩置県を自らの一貫した「尊王倒幕」の実践の到達点として位置づけていた。
 明治4年(1871年)7月、西郷、木戸、板垣、大隈重信の4人が参議に任命され、政府の実権を握った。そして西郷隆盛は7000人の御親兵を握っており、参議筆頭として明治政府の最高権力者と言えた。ところが、西郷には統治経験が欠如していた。
 征韓論の急先鋒は、旧土佐藩兵を率いる板垣退助であった。
 西郷の腹心というべき黒田清隆や桐野利秋は「征韓論」に反対していた。西郷は「征韓」を唱えたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自分が全権使節として訪韓して「暴殺」されたら「征韓」の口実ができると西郷が主張したのは、本当の「征韓」論者だった土佐出身の参議、板垣退助を説得するためだった。
 西郷隆盛は「征韓論者」ではなかったという本です。本当に、そうなんでしょうか・・・。
(2013年4月刊。740円+税)

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